嫌われていると思っていた。





 カカシとイルカは知り合って間もない。
 下忍の担当教官になってからだから、本当に私的な付き合いも無く、かすかにあったとすればイルカが里に響くカカシの名を、カカシがナルトの関係者としてイルカの名を、お互いにしっていた程度。
 だから、受付で顔をあわせる機会があっても、そう会話の必要もなく、また糸口さえない。
 お疲れ様です、お願いします、受領いたしました、どうも。
 以上、さようなら。
 もともと私的に付き合う必要もないのだから、それで充分なのかもしれなかったが、それでも日々ナルトと顔をあわせていたイルカからすれば、ナルトの話し振りからカカシの様子が知れ、その人柄にも多少は興味が沸くというもの。

「すいません、もう終わりですか」

 夜も遅く、受付も終わりかというころ、一般の任務受付所に申し訳なさそうな声が響いた。カカシだ。声のとおりに申し訳なさそうな顔で、ひらりと一枚、報告書をたずさえて入り口付近に立っていた。
 さて今日も終いかと、受付夜番であったイルカは、窓を閉める手をとめて、あわてて片付いた受付カウンターへと戻った。

「いいえっ、まだ大丈夫ですよ。遅くまでご苦労様です」
「明日でも良かったんですが、こういうのは早めに出さないとと思って」

 ナルトから聞く話とは大きく違う、ひどく常識人のような言い草。
 素早く報告書に目を通しながら、イルカは心のなかだけで可笑しく思った。

「はい、けっこうです。お疲れ様でした」
「どうも」

 けれど、同時に、ナルトから聞くよりもずいぶん、とっつきにくい人だとも思う。
 なにしろ顔の半分以上が隠れているし、表情もつかみにくい。声から判断しようにも、そもそも会話すらないし、その声自体、まるで猫のようにつかみどころがない。美声だとは最近気づいたが、それでどうということもないし。
 それに最近、イルカは気になっていることがある。
 カカシがイルカを見る目だ。
 どうも嫌われている気がする。

 イルカは受領印を押すと、報告箱、と書かれた使い込んで汚れている報告書受理終了箱へとそれを入れた。
 明日の朝には火影のもとへと届けられる。
 暗部などのよほど重要な依頼報告書でない限り、こうやって翌日に一括して処理されるのが通常だ。
 今回カカシがもってきた報告書も、ランクとしてはそれほど高くなく、翌日回しになるものだった。任務を多くこなしたカカシのこと、それは充分分かっていただろうにわざわざ届けてくれたのだろう。
 仕事には熱心だよな、とイルカは思う。

「それじゃ失礼します、遅くまでイルカ先生もお疲れ様です」

 いつもとは違う挨拶に、イルカは顔をあげてカカシをみた。
 そうすると、一つしかみえない目と、かちりと視線があう。
 硬い、色。
 ―――ああ、とイルカはひそりと、心中で嘆息する。
 この目を見るたび、嫌われているようであると、予感する。
 少なくとも好意を抱かれてはいないようで、イルカはそう感じるたびにひどく寂しい心地になる。嫌われていい気分になるものも少ないだろうが、よく話をきいているカカシからともなれば、いっそうその心地が強くなるのだった。

「ありがとうございます。お気をつけて」
「はい、さようなら」

 それでもそんなことをいちいち顔にだしていては仕事はやっていられない。
 イルカはにこりと、受付で学んだ笑顔で微笑んで、カカシを見送った。
 見送ろうとした。
 カカシが背中を見せるまでは。

「! ―――カカシ先生! その傷………!!」
「え?」

 カカシの背中、木の葉の渦巻きがばっさりと袈裟懸けに抉れていたのだ。
 破れ目からはアンダーの濃色もみえ、さらに奥には赤黒く見える、傷。

「酷い傷じゃないですか…っ、早く手当てをしないと…!」

 報告書には書かれていなかった負傷に、イルカは焦る。
 だがカカシは目を細めて、変わりない声音でいった。

「いえ、見た目ほどには酷くないんですよ、ご心配なく」
「………」

 あっさりといわれて、イルカの二の句が途絶える。
 相手は上忍、アカデミーの子供相手ではない。遠慮もある。
 躊躇っていると、半身を振り返っていたカカシが、再び背中をみせ、出て行こうとした。イルカはそれを戸惑いの目でみていたが、その姿が入り口の影に隠れようとするときになって、意を決したように声をかけた。

「あ、あのっ、もしよろしければ手当てをお手伝いいたしますが…っ。その、背中、は、少し手当てが面倒だと思いますので、…もし、よろしければですが…―――」

 背中の傷など、やろうとおもえばいくらでも手当ての方法はある。術をつかえばそれぐらい造作もないだろう。だが、傷の手当てにわざわざチャクラを消費するのもバカらしい話で、それを思い、さんざん悩んだ末に、イルカは手作業での手当てを申し出たのだった。
 だがそれも、背中という部位のため、断わられるのを覚悟して、だ。
 ほほ確実に断わられることを予想しながら言ってみた。
 それでも、言わないよりはいいだろうと思ってのことだ。
 そして、大いに躊躇いを滲ませてのイルカの言葉に、しばらくカカシは反応をしめさなかった。入り口の影に身体が半分みえないような、そんな去り際の状態で、カカシはじっとイルカをみていた。
 それはきっとほんの少しの間だっただろうが、イルカにはずいぶんと居心地の悪い間だった。
 やはり出すぎたか、と汗が背中を伝う。
 視線が力なく受付の床に落ち、じりじりとカカシの言葉を待っていると、ようやく、といった空白のあと、カカシがゆっくりと言った。

「いいんですか?」
「―――あ、はい! もちろんです、ここも、終わりですし、保健室にいけば…っ」
「すいません、もう仕事も終わりなのに」
「い、いえっ、お気になさらずに…っ」

 といっても、大してお気にした様子もないカカシではあった。平素と変わりなく、淡々としている。
 イルカは手早く窓を締め切り、そして受付の扉のカギを持ってカカシへと走り寄った。入り口のカギを閉めれば、あとはもう終了だったのだ。
 がちり、と頑丈なカギがかかると同時に、簡単な侵入警戒の術をかける。
 すべてを済ませて、傍で黙って佇んでいたカカシへと向きなおった。

「すいません、お待たせしました。…保健室でよろしいですか?」

 訊いたのは、もしなにか要る薬や場所を限定することでもあるかと心配したのだが、里きっての上忍は、こだわりなくひとつ頷いた。
 歩き出したカカシにつられるように、半歩遅れて、廊下を進む。
 その足取りはほんとうにいつもと変わりなく、背中の派手な破れ目と血臭さえなければ、まったく気づかないだろうと思えた。

 だけどやっぱり、無言、なんだよな。

 イルカは先ほどの心地をまた確認する。
 親切を押し付けたような思いも、いまさらながら強く襲ってきて、体が硬くなった。
 廊下は静かで、いうまでもなくイルカとカカシの足音もなく、声もなければ、ただ夜も遅いアカデミーの廊下はひんやりとして、薄暗く静寂が張りついているようだった。
 保健室までの長くはない移動が、やけに長く遠く感じられる。
 階段を降り、歩を進めるが、やがて「やっぱり言わなきゃ良かったかも」と弱気になってきたところに、ぽつりと声がした。
 一瞬、誰の声かがわからず聞き逃したが、二言目に、それがカカシからの声だとわかった。

「もう帰るところだったんでしょう?」
「え、あ、そうですね。あとはこのカギを返すだけですので…」
「そうですか、いつもこんな遅いんですか」
「いつもではありません、受付は交代でやっているんです」
「ああ、ですね。人が入れ替わってるなあと思ってました」
「一般受付は専属が居ないようなものですからね」
「そうなんですか。でもすいません、わざわざ、帰るところに」
「いえ、―――…良かったです」

 なにが、とはイルカは言わなかった。
 カカシが治療の申し出に頷いてくれたことへの感謝、だったのだが、伝わらなくて当然、と思いつつ言った。
 だがそれに、カカシが同じように返してきた。

「そうですね、良かった」

 最初に言ったのは自分であったのに、イルカは驚いた。

「―――何がですか?」
「いえ、イルカ先生には嫌われてると思っていたので、良かったです」

 イルカは半歩前をゆくカカシの姿を見直す。
 カカシがどんな表情でそれをいったのかとても気になった。
 声がいつもと同じで、ほんとうに、どんな意味なのかが気になって。

「不謹慎だけど、怪我の功名っていうんですか、こういうのって。話ができて、良かった」

 驚いて、返事ができなかった。
 カカシでもこんなことを言うのか、と思った。
 いや、カカシでも、というのは違うだろうか。
 カカシがそんなことを言うとは思わなかった、が正しい。
 イルカのほうが、嫌われていると思っていたのに。

「――――――…はい、良かったです、俺も」

 肩の力が抜けて、知らず、イルカは安心したように微笑んでいた。
 カカシと、上手くはいかないまでも会話はできるようになった気がした。
 そして、
 嫌われていないように思って、ひどく嬉しかった。



2003.7.26