月とナイフ
知っている。
イルカが自分の言葉を疑っていることなど、はじめから知っている。
それに気づかないふりをしているのは、そうしたほうがイルカが安心するからだ。
疑っているでしょう、と詰め寄り、耳を塞ぎたくなるほどの愛の言葉を注いでもいい。
けれど、それをしないのは、イルカが、己の隣で笑っていてほしいから。
「ああ、こういうのもいいかも」
小さなイルカの声がした。
先ほどからイルカはベッドの上で、行儀悪く他愛も無い雑誌をみていた。
独身の男性なら一度はみるだろう、水着の女や笑顔の女の写真が溢れている内容の雑誌だ。
夏本番の今号では、特集でビキニ美人となっていた。
仕事帰りを待ち合わせての帰り道、ふと通りの本屋の店先、カカシの目にその雑誌が目に止まったのは、表紙の白ビキニの女が、イルカのように黒髪を高く結い上げていたからだった。
なんでもない一瞬だったはずだったが、それをイルカが気づいた。
そして、話の続きのように、その雑誌をイルカは買っていたのだった。
「イルカさん、お茶、飲みますか」
「はい、お願いします」
壁向こうから聞こえる返事に、カカシはグラスを二つ、用意する。
冷蔵庫には冷えた麦茶。イルカがたいてい朝に冷やしているから、夜のこの時分になるともうずいぶんと冷えていた。
風呂から上がったばかりで、カカシは喉の渇きを覚え、持っていく前に一口飲む。きん、と冷えた液体が喉を滑り落ちていった。
グラスに注ぐと、すぐにガラスの表面はうっすらと汗をかいた。
「なにが、いいんですか?」
グラス二つを手に、寝室へ入る。
こちらを振り返りもしない寝そべったイルカの上へ、覆い被さるようにして、ぴたりと背中へくっ付いた。イルカの首筋から、匂いもしないはずの水の香りがして、カカシは慕わしく目を細める。
イルカが見ていたのは、いかにも妖艶な紅い唇の、赤の水玉ビキニの女。胸は大きく、腰はくびれているのに不自然なほど尻がむっちりとしていて、それが女をより淫猥にみせていた。女もそれを知っているのか、しなを作った格好で写っている。
「こんなのが好みなんですか」
返事のないイルカへ、重ねて言った。
別に不快とも思わないが、イルカも男だったのだと確認する。こんなのが好みなら、カカシが変化して楽しませるのも手かも、とさえ思う。イルカに関しては、百歩譲っても、まだ譲る余地があるほど、カカシは、自分がイルカに甘いことを自覚している。
イルカは、頭の後ろから差し出された格好のグラスを、カカシの手のひらから受け取ると一口、無言で含む。
雑誌のページはめくられる気配はない。
背中へと密着している格好となっている体勢で、イルカの心音が聞こえてきた。
いつもより、気のせいか、ほんのわずかに早い。
カカシよりもとうに風呂から上がっているイルカの肌は、室温に冷えはしているが、しばらく触れていると、汗ばむほどに熱く感じる。
このまま、その寝着をたくしあげ、胸の突起を探り、この目の前の首筋に唇を寄せたいと思う。
きっと無理ではないだろう。
カカシがその意図を見せれば、よほどのことがなければイルカは応じてくれる。
だが、それもいいが、今はまだイルカの返事が気になった。
「ね、イルカさん」
返事がないことへ焦れて、カカシは腕を伸ばし、イルカの後ろからその雑誌をめくった。ぱらぱらとめくるうち、表紙の女もいた。女、というよりもまだ少女の分類にはいる年齢で、焼けた素肌と健康そうな笑顔、黒い髪は長く、イルカと同じような硬い手触りを思わせて輝いていた。
やっぱりイルカさんに似ている、とページをめくる手はそこで止まる。
すると、ひそりと声がした。
「やっぱり、こういうのが好みですか?」
「イルカさん?」
聞き逃すには、少しどころか、かなり不穏な気配が漂っていた。
それはカカシが聞こうとして感じ取れた声音だったのかもしれない。イルカは、常に、そういったカカシに対する感情を隠そうとするために。
「違いますよ、ほら、よく見て」
見えるのはイルカのまだしっとりとした黒髪と、その下の雑誌の少女。
カカシの指が、その少女の顔へあてられる。
「顔、笑顔がいいですね、あなたみたいに無邪気だ」
つぎに、と穏やかに続ける。
「肌が健康そうで、子供と遊んだり叱ったりするあなたを思い出す」
ちゅ、とカカシは我慢できずに、目の前のイルカの耳朶に、口付けた。
「髪、黒くて硬そうで、触ったらサラサラして気持ちいいあなたの髪みたいだ」
イルカの体がわずかに反応したのに気づかないふりで、カカシは唇をさらに首筋に埋めた。水気を含んだ髪から、ほんのかすかに、洗髪料の無機質な匂いがした。実験室でろ過水をつくり、飲んだような、綺麗な匂い。
「ね、信じて」
言っても詮無いことだとはわかっている。
けれど言わないよりは、と思って言う。
イルカに信じてもらえないことは予想できるし、実際、そうなのだろうけど、もしイルカが信じてくれるのなら、この胸を裂いてもいいのにとさえ、思うのに。
指が少女から別のページへと変え、やがてそれも止み、唇の動きに合わせるように、ゆっくりと寝着の隙間から忍び込んだ。
ん、と詰めたイルカの吐息がカカシの耳朶に心地よい。
カカシはゆったりと、その熱い体に自分の体を合わせながら、イルカに囁く。
「信じて、良いんだよ」
それから先は、睦言は吐息に混じっていった。
言葉が、イルカの中へ棘のように刺さり、そしてずっと抜けなければいいのに、と思いながら。
2003.8.1