合鍵
雨の夜に寝るのは好きだ。
しょうしょう、ぴたぴた、するする、さあさあ。
言い表しきれない、音。音。
水の音。
イルカの耳に忍んで、留まって、渦まき、流れる。
あとからあとから、途切れることなく、流れる。
以前、カカシは水中に浸ることが癖になっていたと言っていた。
そのときは曖昧に頷いていたが、内心、共感を抱いていた。
きっとイルカも切っ掛けさえあれば、同じようなことをしていただろうと自分で思った。ただイルカには一人で水辺に佇めるような心の余裕も、場所の心当たりも、時間の都合さえつかないような生活ぶりだったので、そんな自省を促すような「癖」を身に付けるのは、やはり困難だったかもしれないけれど。
寝具にひとり、横たわって、寝るまでのほんの少し、耳を外へ預ける。
かわらず音は流れ続ける。
ちりちり、すうすう、ちょろちょろ、ひたひた。
数え切れはしない無数の楽器が奏でるような、夜中の水音。
色んな音色は重なり合い、交じり合い、どの音色がどのあたりで聞こえたかなどは判別しようもなく。
だが、耳を澄ませ遠くをみるように意識を飛ばせば、合奏の重低音のような控えめさで、辺りに滴る雨水の音色が間断なく降り注いでいるのがわかる。
まるで水中に沈んでいくかのような心地だと、ゆるゆると寝入りながらイルカは思った。
ふ、とその合奏のなかに、ひとつの不協音。
ぱしゃん。
イルカの意識が、なだらかな眠りへ落ちていく間際。
けして何かから滑り落ちたのではない水の音が、イルカをぼんやりと引きとめる。
窓の外。
下。
イルカのアパートから出て、階段を降り、そしてその角辺りでの、遠い音。
けれどけして自然ではなかった水音は、イルカの注意を引いた。
ぱしゃ、ぱしゃり。
軽い足取り。
怪我はないようだ。
意識下で真っ先にそう思った。
傘は差していないのだろうな、と思いもした。
跳ねる水音は明らかに近づいていて、やがてカツカツとアパートの階段を上ってきた。
真夜中なのに迷惑な話だ、階段は鉄製だから音が響くのに。
わざとなのかな。
目を瞑って、かわらず横たわったまま、イルカはその音を聞く。
ひた。
足音は、イルカの玄関先でやはり留まる。
暫し考え込む間。
もう大分意識がはっきりとしてきているイルカは、じわりと苛立った。
逡巡、躊躇い。
そんなのはどうでもいいが、そんなに足音をはっきりとさせておいて、今更、遠慮もないものだ。
傘など差している様子もなく、夏とはいえ、濡れたままでは風邪も引く。
そこで立ち止まっているのが趣味というのなら止めもしないが、そうでないなら、即刻自分の風呂に入る算段を始めるか、さもなくば先日イルカが渡したものを使って、さっさと入ってきて欲しいものだった。
がちゃり。
イルカが思ったことが伝わったのではなかっただろうが、カカシは鍵のかかった玄関を開け、室内に入ってきた。律儀に「お邪魔します」と囁き声が聞こえた。
それから扉を閉めて内側から鍵をかけなおす音もした。
台所のほうの明かりがパッとつく。
広くもないイルカの住まいでは、寝室の入り口へとその明かりも十分届いて、暗い寝室を仄かに明るくするので、すぐに分かる。
冷蔵庫が開け閉めされて、多分カカシは飲み物を取り出した。
かた、―――ちゃり。
テーブルに、置かれた様子の飲み物の瓶と、それから鍵。
イルカの家の、合鍵だ。
この間、寝ているとお邪魔できませんと子供のように残念がっていたから、必要ないだろうと言いつつ渡したもの。
実際、鍵なんて開けようと思えばどうにもできるのだ、忍びなら。
けれど「お邪魔できません」とあの秀麗な男が眉を下げていうのには、たぶん、違う意味があって。
イルカはカカシが言葉にしない意味を、おそらく正確に読んで、だから鍵をつくって渡した。
カカシが欲しいのは、たぶん、許可なのだ。
イルカの家に入るための。
いちいち来る度に扉を開けさせ、イルカに「どうぞ」と言わせる上忍が考えそうなことで。
だから。
イルカは必要ないでしょうけど、と言いつつ渡したのだった。
ひた、ひた、ぱたり。
音もなく明かりが消え、代わりに風呂場の扉が開閉されたようだった。
外は相変わらずの、本降り。
夏には珍しいほどの冷たい雨で、確かに体が冷えただろう。
聞こえ始めた風呂場からの水音に、体を少しでも暖めてから寝て欲しいと思った。
疲れも、きっとあの人はけろりとしているだろうけど、少しは溜まっているはずだから、シャワーの熱がそれを僅かでも流していってくれればいいのに。
意外と、疲れを溜める人だから。
イルカは寝返りをうってベッドの端によった。
雨のおかげで室温も低く、肌に触れたシーツはひんやりとしていて、心地よかった。
片耳がベッドで塞がれてイルカの耳には、まるで窓の外、上を向いている耳から音が滴り降り注いできたようにも聞こえた。
微かに、風呂場の方からも聞こえる。
水。
流れる、水。
渦巻き、留まらず、通り過ぎる水。
イルカの片耳の上から、それらが降り注ぐ。
微かに。
途切れることはなく。
ぱたん、ひた、かさり。
カカシは随分と、寝ているイルカに気を使っている。
物音は酷く慎重だ。
いかにもあの人らしいと、また寝入りそうな頭の裏で、すこし可笑しくなる。
気配で、起きていないはずはないのに。
カカシの気配がしているのに、寝たままであるなんて、そんなはずないのに。
ほんとうに、律儀な人だと思う。
お邪魔しますと囁く声や、欲しがる鉄製の証や、気にして潜める物音や。
ひた、ひた。
家中の電気が消えて。
世界が雨音と、これ以上ないほど潜ませた足音だけになって。
イルカはベッドの端を開けたまま、背中を向けていた。
室内の空気が揺らいで、気配のない熱量が、背中の向こうにもぐりこんできて。
暖かい腕が、寝返りをうったままのイルカの肩を抱きこんで、そして首筋にもぴたりと温もりが張り付いてきた。
濡れたままの頭髪が、イルカの首筋を滴で垂らす。
おやすみなさい。
降り注ぐ雨音よりもずっと近く、イルカの耳朶にそれは響いた。
眠たげな、いましも寝入りそうな声。
けれど安堵が混じって、緩んだ声。
このままきっと寝付いてしまうのが分かるそれに、イルカは返事をしなかった。
やがて聞こえてきた規則正しい寝息。
まだ降り続いている雨。
背中に張り付く温もり。
おやすみなさい。
温もりに引きずられるように眠りに入りながら、イルカはそれだけを思った。
雨は明け方まで降り続いたようだった。
朝、起きてもカカシはまだ穏やかに眠っていた。
2003.8.16