恥ずかしそうに、でも少し、泣きそうに。





 カカシが待っている。
 そう思うだけで、掌は不思議と熱をもち、額は汗ばみ、仕事の手は早くなったり、ときおり止まってしまったりもする。
 そういう日に限ってなぜか、余計に仕事を頼まれたりで、けれどそれを翌日回しにするのも、己の個人的都合を優先しているようで気が引けて結局やっつけ仕事でしてしまい、そして大幅にカカシを待たせてしまうことになる。
 けれど、意外とカカシは呑気なほうなのだろうか。

 にこり、と。

 必死に謝るイルカに、カカシは微笑む。
 見える一つ目が確かに笑うので、イルカは怒っていないのだとホッと安心する。
 以前、どうしてそんなに畏まって謝るのか、と訊かれたことがあるが、そのときはかなり焦った。
 畏まるのは当たり前だ。
 イルカの同僚でさえ、どうしてカカシがイルカと一緒に帰り道を辿るのか、不思議がっているのだ。イルカにしてみれば、誘われるたびに幻聴でないかと一度は己を疑っているというのに。
 だから、誘われるのが迷惑というわけではけしてないのだが、カカシの二つ名を知る身であれば畏まらずにはいられない。
 それにイルカ自身の理由もある。
 謎の発汗発熱、という。

 べつに謎でもなんでもないけどさ。

 ただ笑ってイルカの遅れを許し、歩き始めたカカシの背をみて、イルカも歩をゆっくりと踏み出した。
 カカシを見ていると動悸がし、話しているとなぜか焦ってしまうようになったは、実をいうとそんなに最近のことではない。カカシに個人的に話すようになってから、だ。
 七班の担当です、と声を聞いてから。
 帰り道は、夕食時の大通りらしく雑然として、明かりが通りのあちらこちらに灯っている。おいしそうな匂いが店先から漂ってきたり、店のシャッターがしまる音が、遠くに響いていたりする。
 人の声はざわざわと通りに満ちていて、そんななかで、あまり会話の無い二人行きは、気にする者がみればかなり奇異だろう。
 けれどイルカはそれで良いと思う。
 カカシがぽつりと、たまに話し掛けてくる様子が良いと思う。
 そして、ほんの半歩ほど前を歩くカカシの肩のラインを、いつもイルカは見ている。
 とくに意識して半歩遅れているわけではないのだが。

 気後れ、…じゃないよな。

 たんに並んで歩くには通りに人が多いから、という理由もある。
 それ以外の理由も、ある。

「週末は台風らしいですよ、イルカ先生」
「そうなんですか」

 影が、通りの明かりで、できる。
 ふわふわと揺れる明かりが、ゆらりゆらりと流れる影を作り出すのだ、二人分。

「ナルトは台風ってきいて、やたらはしゃいでましたよ」
「夜が賑やかになるから、わくわくするらしいですよ。…まだまだガキですから―――夜があんまり静かだと怖いっつって、忍びの自覚が無いというか」

 ナルトの話はし易い。
 共通の話題だから。
 けれどイルカの意識は、ゆらゆらと揺れる影に向かう。
 ほんのたまに。
 肩先が触れ合うように。

「あなたは?」
「え?」
「台風、好きですか?」

 訊かれたとき、見返ったカカシの腕が、わずかにイルカのほうへ傾いた。
 そんなとき。
 影が。
 肩先が触れ合うように、二人の影が重なるのだ。
 下らないこと。
 けれど、意識してしまうこと。

「俺は…昔はそれなりに楽しみだったときもありましたが、今は…もうそんな年でもありませんし」
「夜、怖くなくなりました?」
「まあ…そういうことなんでしょうか」

 カカシはきっとこんなこと、気づいてもいないだろうに。
 自分が可笑しい。

  「良かったですね」

 ひそりとしたカカシの美声が、イルカに届いた。
 ふいに寂しくなる。
 カカシがイルカを労わるようなことを、なんの理由があってか、思い出したように言うから。イルカは戸惑って。
 何もいえなくなって。
 この帰りの道行きがどんな意味で成っているのかとか、埒も無く考えてしまう。
 カカシはどんなつもりなのか、とか。
 なんのメリットがあるのか、とか。
 答えは知っているような気がするのに、考えるのは生きている間に沁みこんでしまった「常識」や「損得」や「理性」がはじき出した結論ばかりで。

 影が繋がるように、思っていることも。

 繋がればいいのにな、とぼんやり考えてみた。
 そうすればカカシが考えていることが分かるのに。
 イルカが思っていることが、伝わるのに。
 けれどそんな意味のないことを考えていても実現するはずもなく、短い帰りの家路は、すぐに終いが来て。
 イルカはなるたけ平坦に、別れを口にする。
 また誘ってもらえるだろうかと思いながら。


   さようなら。


 言ってしまってから、やっぱり惜しくて、視線だけがカカシを追っていた。
 だから気がついたんだろう。
 カカシが何かをいいたそうに、ふと俯いた。
 夕闇がしのんでくる路地でその仕草が、やけにはっきりと見えて、イルカは引き止められた。
 カカシを見る。
 そうすれば、気配を和らげる温かさで、カカシが笑った。


「また、明日」


 イルカはまた、寂しくなる。
 嬉しくて、寂しくなるなど、今まで知らなかった。
 カカシのせいで。
 この悔しさも伝わればいいのに、思って笑った。


「…ええ、また明日。カカシ先生」



 うまく笑えていたかどうか、心配だ。  



2003.8.28