熱病





「…ぁあ、すいません」
「どういたしまして」

 明かりのついていない暗い玄関。ふらついたイルカをカカシが支えた。
 先刻までの大勢が集まる飲み会の帰り、示し合わせたわけでもないのに、カカシと帰りが一緒になった。それで話すうちに、イルカが不調を訴え始めたのだ。曰く、頭が痛いと。
 今朝から喉の奥が枯れたようになっていたから、風邪の初期症状かと思っていたが、酒が入って酷くなったようだった。
 頭が痛いだけだから大事無いと笑ったイルカに、カカシは家までついてきた。
 心配性ですね、とイルカに笑われながら。

「ここまででけっこうですよ、ありがとうございました」

 そしてまた笑ったイルカに、カカシは心配げな顔をする。だが、本人がけっこうですといっているのに、それ以上はできそうになかった。無理やり家に上がりこむような真似をすれば、反対にイルカの気分を害することになるだろうと、想像できた。
 だからカカシは溜息ひとつで、小言ひとつ言うに留める。

「いいですか? さっさと寝てくださいよ? このまま、布団へ入って朝まで寝てください、そしたら治るでしょうから。いいですか?」

 酔いの回った思考のためか、にこにこと笑顔のまま聞くイルカに、カカシの不安は否が応にも高まるが、そこはそれ、もう良い大人なんだし。と、自分を宥める。

「俺はこれで帰ります………、…いいですか? 早く寝るんですよ?」
「はーい」

 にこにこと笑って手を小さくふるイルカに、カカシは釈然としないまま、家の扉を閉じた。おやすみなさいー、と扉の向こうでイルカの声がした。
 はぁ。とまた溜息ひとつ。
 こうやって他人の体の心配など自分らしくないとは思うが、だが、イルカのこととなると別口らしく、溜息と心配はどんなに堰きとめても、止められるものではないようだった。たとえそれが些細な流行風邪でも、イルカが熱でアカデミーに出てこなければ、家で一人寝ているかと心配し、それに付いてやれない自分に落ち着かない。
 だからこうやってイルカの身体を心配するのは、つまり自分のためなのだといい訳もしてみる。どうぜ、暫くすれば、なんの裏も無しにイルカの心配をしている自分がいるのだけれど。
 さて、帰ろう。
 いまだ暗く冷たい自分のベッドへ。
 カカシは癖になりそうな溜息をまたついて、家路を辿り始めた。




 翌日、アカデミーに寄れば、イルカの姿がなかった。アカデミー配置表をみても、イルカの名前はなく、手近の者を捕まえて訊いてみれば、病欠とのこと。
 ち、と舌打ちが出たのは仕方のないことだろうか。




 その夕刻。
 七班での任務を驚くほどの短時間で終了させ、カカシはイルカの家に居た。

「…なにをやってんですか、あなたは」

 それは布団に沈むイルカを、傍らから見下ろしての言。
 イルカはますます布団に沈み、顔を隠した。ちらりと見える肌は、いつもより少し赤みがかっている。

「…て、………の、と………」
「?」

 もごもごと布団のなかで、なにやらイルカがいっている。だがカカシには判別しにくく、首を傾げた。

「布団に潜ったままじゃ聞こえにくいですよ、ほら、出てきて…」

 掛け布団に手をかけて言えば、ちょこんとイルカの額と目がでてきた。その目は熱でか、潤んで赤い。

 うわ。

 一瞬、何もかも忘れてそのままキスを落としそうになった。


「…なに言ってたんです?」

 病人相手、と自分に言い聞かしてカカシが優しく尋ねると、イルカが言い難そうに口を動かした。

「その…、すいません、早く寝ろって言われたのに、風邪、悪くして…」

 言い難そうにするからには、カカシが何がしかの思いをするとは分かっているということで、その点にだけは、カカシは嘆かなくてすみそうだった。
 だが、溜息をひとつ。

「風邪ばかりは仕方ないでしょう、…ゆっくり寝て、治してください」
「……はい」

 見下ろす布団のなか、しゅんとなって伏せた目に、なにか悪いことでもしたかのような思いを味わう。カカシはその額に掌をあて、少し微笑んで見せた。

「腹、減ってませんか? おかゆでも作りましょうか」

 イルカの額は熱く、体温が上がっていることが充分わかった。この分だと、日中は寝ているだけで精一杯だったろう。昼間、任務で付いていなかった分、今からでも傍に居たかった。
 だが、イルカにとっては心配が過ぎるといいたいところだったのだろうか、驚いたように目を瞬かせ、そして起き上がろうとした。
 カカシはそれを押し留める。イルカが甘えを良しとしないのは知っているし、それは特にイルカ自身に強く課せられると知っているが、今はそれは邪魔だった。素直に甘えてくれればいい。なにより、カカシが甘えてくれるのを望んでいるのだから。

「寝てなさい」

 微笑めば、イルカの身体から力がぬけた。もとより、力の入れられない体調の悪さで、我を張ることは難しい。

「……はい」

 消えるような返事に、カカシも微かに頷く。ずり上がった布団を、イルカに掛け直して苦笑した。それは大半が自分自身に向けられたもので。
 どうしてこんなに、無性に大事だと想うのか。
 その答えはわからないが、こうやって具合の悪いイルカの傍に居て、その具合を尋ねるのは自分であって欲しい。そして飯を作り、寝かしつける役目は自分のほかは許せない、とまでおもう。
 イルカの熱は、一時の病から。
 そしてカカシの病は――――――。

「まだ少し眠っていなさい、できたら起しますよ」

 イルカに微笑んだ。





 イルカの台所はどことなく簡素だ。必要な物は揃っているし、使い込まれた風もあるが、丁寧に汚れがふき取られ、元にあったように仕舞われている食器や鍋をみるにつけ、イルカの性格が垣間見えるような気がする。言葉にするなら、執着を物に示すまいとする姿勢、のようなものといえるだろうか。
 少しだけ、そっけない。
 だがそれを今、あれこれと考えても仕方が無く、カカシは手早く用意を始めた。
 煮えた粥と、水と梅干、そして粥を煮るあいだに合わせた薬酒をもって、カカシがイルカの寝室に入ると、イルカの気配が穏やかだった。浅く寝ているようだ。
 傍らに立てば、ふ、とイルカの瞼が開く。黒目がちの目が、カカシに焦点を結ぶ。

「……んせ?」

 掠れた声。それにさえ自省が揺らぎそうな自分がいて、カカシは微笑むしかない。いつも背を張っているイルカが、無防備に名を呼び目をむけ、姿をみせていることに、言い切れない嬉しさと、想いが沸く。キスしたいと、想う。

「…飯、できましたよ。冷えても食えますが、どうしますか?」
「、ま、食べます……」

 今食べます、と言ったのか、イルカがもぞもぞと起き上がろうとする。カカシは粥などをのせた盆を脇に置くと、イルカの背中に手をやってそれを支えた。体温が熱い。まだ熱は下がりきっていない。
 カカシは、椅子などないイルカの寝室ゆえ、そのまま寝台に腰をかけて、自分の膝の上に盆をおいた。

「まだ熱いですからね、ちょっと待ってて下さいね」

 蓋を開ければ、粥の湯気が暖かく、ふわりと立ち上った。レンゲで掬い、カカシが湯気を吹いて冷ましだすと、明かりをつけていない室内に、湯気の白が、柔らかく舞い消える。そんな様子をイルカは黙って見ている。というより、ぼんやりと夢から覚めていないような目で見ていた。

「――――――…、これぐらいでいいかな、はい、イルカ先生、口あけて…」

 大人しいイルカに、不思議を感じていたものの熱のせいだと想っていた。
 だから、きっとこの辺りで「自分でします」と言いだすと思っていたのだが…。
 ぱく。
 とイルカがレンゲに食いついてきたのに、カカシの方が吃驚した。
 レンゲを持つ手が、暫し止まる。
 今、自分の見たものは幻じゃなかったろうかと自問自答までしてしまいそうだった。

「…イ、イルカ先生?」

 もぐもぐと粥を食むイルカが、それを飲み込んで、不意に笑った。

「カカシ先生、今日はなんか優しいですねぇ」

 それがまた本当に裏の無い、子供のような笑顔で。
 思わずレンゲが指から、ぼとりと落ちそうだった。

「……」

 もう一口―、というイルカに、カカシは無言で匙を吹いて冷ましてイルカに運ぶ。
 そしてその頭のなかでは先ほどのイルカの言葉がぐるぐる回っていた。
 今日は、ということは、いつもは優しくないらしい、イルカにとって。
 それは確かに、いつもイルカの表情の変化が楽しくて意地悪な類の言葉をいってはいるが、なにやら全くイルカには良い事をしていないみたいではないか。衝撃的な事実認識だった。
 …ちょっと、熱が下がったら、良い人ぶってみよう。
 良い人を意識する時点で、その基準から逸脱しているのだが、イルカのためなら低いハードルらしい。カカシは、レンゲをせっせと運びながら、決意していた。
 ふ、とイルカの頬をみると、飯粒がついていた。レンゲは確かに食べ難く、付いてしまったのだろう。考えるより早く手が動いて、その頬に触っていた。

「ほら、飯、ついてますよ」

 親指でそれを取って、そのまま食べてしまおうかと思っていると。
 ぱく。
 指の先に、柔らかい感触。
 イルカが食んでいた。


「……」


 絶句したカカシに、イルカが笑った。

「美味しいです、カカシ先生」

 熱で赤い頬に、額に、潤んだ目で。
 食べること意外には、今はなにも考えていない顔で、笑うから。
 カカシは溜息をつくしかなかった。
 匙が今度こそ指からすり抜けて、碗におちる。そして自由になった手を、自分の額にもっていった。そこは普段よりも、ひどく熱かった。
 イルカの熱がうつったかのように。

「…カカシ先生? 熱、ですか?」

 俺の風邪、うつりました? と小首を傾げるイルカに、カカシは笑って見せた。
 己の額に当てた手を、今度はイルカの額に当てた。こちらは変わらず熱い。
 タチの悪い熱病、だろうか――――――?


「いえ、なんでもないですよ。…食べたら、寝ましょうね。早く治さないと」

 そう。早く直さないと。
 心臓が持たない。
 言わなかった言葉まで聞こえたはずはないが、イルカは素直に頷く。

「はい、早く治しますね」

 そしてまた素直に笑うイルカに、カカシも笑う。
 熱い額のまま。
 イルカに浮かされた、熱病に侵されて。
 治しようの無い病。
 ここは一先ずイルカに完治してもらわないと、一時治癒も難しそうだった。




2003.1.3