「なんだ、元気そうだね」
「はい?」

 頭上から無愛想に声が降ってきて、顔を上げたさきに、カカシが居た。
 場所は受付だ。
 意識せず最初に手を引かれて歩いた夜が思い出された。

 あのときもカカシは受付の向こうにいたし、イルカは受付の手前にいた。時刻も似たような深夜。
 ただ違うのは、あのときほどイルカの体調が悪いというわけではないということだ。
 最近は布団に入ればそのうち眠れるようになったから、なんとかなっている。

「これ、お願い」

 呆気にとられているイルカの目の前に、ひらりと報告書が差し出される。
 みれば里外からの任務が終わったところらしく、カカシの様子も幾分くたびれている。そういえばあのときもそうだった。カカシも任務帰りで疲れていたのに、それより「死にそうな顔をしている」からと、イルカを引っ張っていった。

「お預かりいたします。ご無事でなによりです」

 思い出すとともに、好きな相手を前にして、顔が勝手に綻ぶ。
 それをみてか、カカシの顔が酷く嫌そうに歪んだが、傷ついても表情を改めることはしない。嬉しいものは嬉しいのだ。
 あの日からカカシは任務で頻繁に里を離れていて、顔を見ることができたのはあれから初めてだったから、余計に嬉しい。

「依頼内容との違いはありませんでしたか」
「ないよ」

 端的な返事は億劫そのもので、イルカは少しだけ眉を下げながらも微笑んだ。
 見上げたカカシがいっそう渋面になっていくのを、心臓のあたりが痛いなぁ、と思いながらも、受付は愛想第一。なにより相手はカカシだから、失礼があってはいけない。

 内心の揺らぎに気をとられそうになりながらも、目はしっかりと書面を追っていく。
 任務地の経緯から一日かけて帰路についたことが見てとれた。

「はい、報告書を受理しました。任務、お疲れさまでした」

 そのままカカシが帰ろうと見せた背に、なるべく必死でないように装って声をかけた。そんな下手な取り繕いはカカシにはきっとお見通しだったろうけど。

「良かったら、晩飯、これからどうですか」
「……は?」

 怪訝そうにカカシが振り返り、イルカを見返してきたので、緊張と恥ずかしさと居た堪れなさで変な汗がでそうになった。
 けれど、嫌そうな顔をされて断られるのは予想ずみだったから、なんとか笑った顔が少し引きつったぐらいですんだ。慌てて言い添える。

「いえ、良かったらですので、お気になさらず―――」
「……アンタまだ晩飯食ってないわけ?」

 眉間に寄った深いしわをイルカは見た。

「こんな時間に、まだ、晩飯食ってないのか、って訊いてんの」

 しまった、と思う。
 カカシの顔は先ほどとは比べるべくもないほど、険しくなっていた。

 最初の出会いを思い出してさえいたのに、なんと自分はバカなのだろう。異常な心配性かつ世話焼きであるカカシに、わざわざ極めつけの地雷を差し出してしまったようだ。先ほどとは違う意味で、変な汗がどっと背中に滲む。

 とっさに、食べました、と答えた。
 カカシが完全にイルカに向き直って、昂然としたさまで、

「なにを」

 と聞く。
 イルカは口ごもった。言えばきっと叱られる。
 交代の時間で忙しかったせいもあるし、そもそもあれは夕飯という定義ではなく腹をなだめるために摂取したもので、軽食というべきものだった。
 その自覚があるから、言いにくい。

 それなのに、カカシはイルカの返事を待っている。
 くたびれているくせに。
 叱られる覚悟を作るための数秒間をはさんで、イルカは非常に重々しく言った。

「アンパンとコロッケパンです」
「……へーぇ、アンパンとコロッケパン?」

 復唱されると余計に居た堪れない。
 しかも心底呆れ返ったような言い方で、冷たい視線だ。不調でなくても、いまこの瞬間に胃が縮み上がってしくしくと痛み出しそうなほどの。

 言いたいことはわかっている。カカシにしても、あれほど口を極めて罵られたのに、まだ身についていないのかと思っているだろう。
 以前でも辛かったのに、カカシを好きだと自覚した今、いっそう辛い。
 自然と肩が落ちて、項垂れ気味になる。力なく「すいません」と呟くと、カカシに大きなため息をつかれた。

「別にアンタが好きで食ったもんにケチつけるわけじゃないけどね…で?」

 顔をあげると、カカシが出入り口のほうへと半身を向けつつイルカをみていた。
 ぽかんと見返すと、スッと視線を逸らされたが、すぐに分かった。
 自分は間抜けそのものだ。

「い、行きますっ。行きましょう!」
「受付はいいの」
「休憩時間をもらっているので、飯を食べる時間ぐらいなら大丈夫です」

 意気込んで答えた。実際のところ、休憩時間も好きなときに取れるというわけではなかったのだが、イルカは奥で作業をしている同じ勤務時間の同僚が引き受けてくれると分かっていた。
 それは、以前から引き続きイルカが見過ごせる程度の勤務超過を、少しばかりの気遣いで積極的にしているためでもあり、カカシへの恋慕について、妙に皆が応援してくれているからでもある。

 奥を振り返ると、案の定、同僚が顔をのぞかせて、拳を突き出し親指を立ててニヤついていた。片手で、頼むわ、と合図を送ると今度は人差し指と親指で丸をつくってくれる。
 つかの間、カカシが懐疑的な目でイルカをみていたようだったが、そのやりとりをみてか、ため息をつきつつ財布を持ち出すイルカを待ってくれていた。
 自分を放って行かないでいてくれた、というそれだけでも嬉しく、イルカの顔は綻ぶ。

「お待たせしました、どこに行きましょうか」
「…この時間だからね。アンタと前いったところでいいでしょ」

 カカシの背中を追いかけて受付所を出た。前、というのはきっとあの店だ。一番最初にカカシに連れて行かれ、そのまま寝入ってしまったあの定食屋。それ以外にカカシと一緒に入った飲食店はない。

 通りは夜の深さを思わせる静けさに満ちていた。
 人通りはなく、明かりがぽつり、ぽつりと寂しげにともっている。

 思い出すのは最初の夜だ。カカシに腕をつかまれ、引きずられるようにこの通りを歩いた。当惑していたのを覚えている。
 二度目は愁嘆場に出くわした。あのころはもったいないと思ったものだったが、今なら、カカシに言い募っていた彼女たちの気持ちが分かる気がするし、カカシに抱きつこうとして避けられ地面に四つん這いになってしまった女性にも共感してしまう。
 カカシに抱きつきたいと、好きなら、そりゃあ思うだろう。

 今だって、少し前をカカシが歩いているが、理性と常識を考えなければイルカも遠慮なく抱きしめたい。
 そしてもし、カカシがそれを許してくれるなら、とんでもなく幸せになれるだろう。

 頭に浮かんだ光景が、ただの妄想に過ぎないのに意識がそのことでいっぱいになり、イルカは瞬きを何度か繰り返す。
 そうでもしないと、気持ちが喉から溢れそうだ。

 好きだといいたい。先をゆく男の背中を引き、素っ気無いその口に触れ、好きで堪らないんだと言い募りたい。
 喉で言葉が詰まる。
 ただ好きだと言うだけ。

 この、気持ちが奥のほうからせりあがってきて、堪らなく満たされる気持ちになることを、知ってほしい。
 あなたのことが好きなんだと、ただ。

「―――…好きです」

 前を歩くカカシの歩みがゆっくりと止まった。
 何を突然言い出すかと思っただろう。
 少しだけ、囁くような声から、前をゆくカカシに必ず聞こえる大きさで、言い直した。

「カカシさんのことが、好きです」

 好きな相手に、好きだというだけのことがこんなにも気持ちをいっぱいにし、満たされることだったとは、いまになって初めて知った。
 幸せだ。
 振り返ったカカシが、愕然としたような表情でイルカをみていても、誇らしく幸せだった。

「…いままで黙っていて、すいませんでした」

 自分が微笑んでいることを自覚しつつも、イルカは謝った。
 もうすでにカカシに悟られているようだとは思ってはいたが、実際に言うことはまた別だ。

 カカシもきっと、イルカがはっきりと口にだすとは思っていなかったに違いない。
 驚きが過ぎたあとに憮然となった様子をみれば分かる。
 カカシは身体ごとイルカに向き直り、大きくため息をついた。
 何かを言い辛そうに、後頭部をがりがりと掻いている。
 分かってます、とイルカは制した。

「は?」
「言いたかっただけです。先日カカシさんが仰ったように、フラれることは分かってます。…諦めるのはまだ…その、無理そう、ですが、カカシさんにどうかしてもらいたいと思っていったわけではありませんので、どうかお気になさらないでください」

 いつもより早口になっていることはわかっていたが、カカシを遮るようにして言った。
 カカシは伝えてフラれてしまえと言っていた。
 だから、いまカカシが何かを言うのなら、きっとイルカの気持ちを否定する言葉だ。

 聞きたくは無い。
 今だけでいいから、この暖かで空虚な幸せを味わっていたい。
 分かっていますと繰り返して微笑む。

「その、あまり好かれていないのは分かっています。申し訳ないとも思っています。ただ、ちょっと、気持ちがおさまりつかなくて、言わないと…居られなかったんです」

 身勝手な言い分に我ながら笑ってしまう。
 そんな微笑んだままのイルカに、カカシが大きなため息をつく。

「アンタね、それで俺が気にしないでいられるとでも…いや、そうじゃない。そうじゃないんです。俺は、俺がアンタに望んでいることは」

 カカシは、言葉を区切った。
 相対したまま、カカシは言いあぐねるように首を小さく振った。
 手を伸ばせば触れることができる距離だったから、ため息になりかけたカカシの吐息さえも聞こえてきて、イルカは無意識に一歩、足を引いていた。
 最後通牒なら、とっくにもらっている。
 いままた渡してもらわなくてもいい。

「あ、あの、本当に言ってしまってすいません。とっくにお気づきだと思っていましたし…その、聞き流してもらえれば、都合のいいこといってすみません、でも本当に、言えただけで、幸せで」
「―――あんたの頼みをきいたことを、俺は後悔してます」

 俯いて離れようとしたイルカの身体が硬直した。
 顔が上がる。
 カカシがまっすぐにイルカをみていた。




2011.7.31