「…カカシさんは、俺が、嫌いですか…?」


 返答はなかった。
 目を逸らされたまま、不機嫌な横顔だけがイルカから見えている。
 悲しさが他の感情を圧倒して、喉が締め付けられた。

 同時に、わかった。
 たとえカカシ本人から諦めろといわれたとしても、恋しいという気持ちが消えない。

 この想いは、諦めろといわれてハイそうですかと消せるように浅くない。
 悲しく、足元が覚束ないほど衝撃を受けているとしても、心はまだカカシを求めている。
 今この瞬間でさえ、カカシのことが好きで堪らなかった。

 諦めたくない。
 諦めるには、未練が多すぎる。
 カカシの時折みせた労わりや、気遣い、指先の温かさ、微笑むときの柔らかい空気、形良くしなる唇、心地よい声音、抱かれたときの汗の匂い。

 全てが恋しい。
 目の前のカカシが冷たくても、今はまだ幻影を追っていたい。

「好きでいちゃ、ダメですか」

 簡単に暖かさを思い出せるうちは、無理だ。

「諦められません、やっぱり、…好きです。身の程知らずでもいいです。いま諦めるなんてとても無理です。俺なんかがって笑われててもいい、自分でも笑い話だって思います。でも、好きなんです」
「…別にアンタのこと、笑い話だなんて、俺は思ってない」

 イルカは首を振った。そんなことで慰めてもらってもしょうがない。
 事実だ。
 こんなつまらないただの男が、カカシのことを好きだなんて、どう考えたって無謀だと笑ってもしかたない。
 カカシに見合う、容貌や才能などひとつもない、平凡な人間だ。

 実際に同僚たちは優しさからくる励ましと一緒に、苦笑していた。
 はっきりと言われたわけではないが、言葉にされなくても分かる。
 自分を美化する気はない。
 見苦しい恋だ。

 だから納得していたのに、カカシはいっそう不機嫌そうになって、わざわざイルカへと向き直り言った。

「身の程知らずとか、そういうこと考えるのはよしなさいよ。別に誰を好きになってもいいじゃない」

 酷い言い草だ。
 売り言葉に買い言葉、というわけではないが、イルカは言い返した。

「じゃあ、俺も好きなままでいて良いんですね」
「……それは別」
「どうしてですか」

 やり込められたかのようにカカシが口を噤んだ。
 また、先ほどの悪い冗談のような、婚期が遅れるなどと言い出すかと思ったが、そうではなかった。
 カカシが黙っていたあいだは、長くなかったと思う。

 けれど、手が届くような近いところに立つカカシの、言葉にならない逡巡がせわしく心中でやりとりされていることがわかって、酷く長く感じた。

「…好きでいたって、いいことないよ。自分勝手だし口は悪いし思いやりはないしずるい奴だ。アンタにとって、いいことなんてひとつもない。だから、やめろって、諦めろっていってる」

 やがて、苦々しく吐き出された言葉は、冷たいのか、思いやり深いのか判別のはっきりしないものだった。イルカの胸が苦しくなる。
 いいです、と苦しさのまま言葉がこぼれた。

「良いことを望んで、好きになったわけじゃありませんから。いつのまにか、好きになっていたんです。どうしても、触れて欲しかった。近くに居たいと思ってしまったんです。…たとえ、カカシさんのいうように自分勝手でも、ずるくても、いいです。好きです。どうしようもないです。目の前にいると、好きだ、ってそれしか思えないんです。…ダメですか、今すぐ諦めないといけませんか? …好きでいては、いけませんか…?」

 言い募るうちに、一歩を踏み出していたのは無意識だ。

 青灰の眼を見つめて、ただ想いを伝えたくて、左手のひらがいつのまにかカカシの腕を掴んでいた。
気持ち悪いと振り払われてもいいはずなのに、カカシは立ちすくんでいるように動かない。

 そのうち、じっと見つめたカカシの顔、布面に隠されていない部分が、いつもよりもずっと赤く染まっていることに気づいた。
 目を瞠ると、ぷいっとまたカカシの顔が横を向く。

「…可愛い嫁さんもらって、家庭をもって、子どもができたらその子の成長をよろこんで暮らしてく。そういうのが…そういうのが幸せでしょ。アンタの。…子どもも結婚もできない奴、好きになってるなんて、時間の無駄だよ」

「カカシさん、結婚することと、子どもを育てることは全然違うことです。子どもを持つために結婚するわけではありませんし…そりゃあ居たほうが楽しいでしょうけど、子どもを持たなければ幸せになれないなんて、俺は考えたことありません」

 場違いな言葉に、腹正しさがこみ上げたほど。
 カカシほどの人がなにを言っているのか。
 子を成さねば無駄などと、バカなことをいうと思っていなかった。女性は子をつくるための道具ではないだろう。

 結婚に対しての希望や目的は様々だし、女性にも言い分は多々あるに違いない。
 けれど、少なくともイルカは、子どもができないからという理由で幸せになれないとは、安易に考えられなかった。
 そもそも結婚の可否や子の如何で、人を選んで好きになれるものか。

 気づいたら、カカシを好きになっていた。それだけだ。

「俺の幸せを、勝手に決め付けないで下さい」

 フラフラで弱りきったイルカを面倒みたのがカカシだった。
 覚束ない雛鳥に刷り込みを行うように寄り添ってくれたのだから、最後まで面倒みてほしいとさえ思う。
 そんなのはイルカの我侭に過ぎないことは百も承知だから、言わないけれど。

 カカシは、視線を逸らしたまま、イルカの言葉をきいているようだった。
 腕も振り払われることはなかった。

 掴んだところからカカシの体温が伝わってくる。
 同様に、手のひらから伝わる自分の体温を、カカシが意識してくれたなら、どれほど幸せかと思う。自分を意識してほしい。想うことを許してほしい。

「…わかった。好きにすればいい」

 願ったことが体温とともに伝わったとは思わない。
 そんなことは夢みていない。
 それでも、苦々しく吐き出されたカカシの言葉は、一瞬惚けるほど嬉しいものだった。

 手を振り払われ、するりとカカシがイルカの傍をすり抜ける。
 そのまま、階段を降りていこうとするから、焦って後姿にむかって声を上げた。

「あ、あの…! これからも、相談、そう、相談とかのっていただきたいんですっ、食事とかお誘いしてもいいですかっ?」

 カカシはつかの間、階段の踊り場で立ち止まった。
 しばらく考えた間があったが、

「…それも、好きにすれば」

 言葉が終わるか否かと同時に、カカシの姿も階段の下へと消えたから、その言葉はとても聞き取りづらかった。
 だが、好きにすればいいと聞こえたのは確かだ。

 あっさりと、まるで逃げるようにカカシが去ってしまった方をしばらく見つめたまま、じわじわと胸に嬉しさがこみ上げてくるのが分かる。
 好きで居ていいと認めてもらえた。
 それが嬉しい。
 しかも、誘うことを許してくれた。

 カカシが誘いに対してどう返事をするかは、このさい問題ではない。
 話しかけ、近づくことを許してもらえたようで、そのことが、ただただ嬉しかった。




2011.7.14