イルカは目を瞬いた。
 目の前にカカシがいる。
 それも恐ろしく不機嫌そうな顔だ。

 場所は日暮れを間近に控えた、薄暗い廊下の端。
 授業で使う備品のチェックを終えて、校庭から階段を上ってきたさきに、不意にカカシが現れたのだ。

 先ほどまで体育倉庫にいたから、埃まみれでしかも汗臭い。先日にそんなことはないといわれはしたものの、あれは閨でのリップサービスのようなものだと、いまになると分かる。だからイルカはしばらく惚けたあと、無意識に身体を起こして一歩あとずさった。その後ろが階段だったことを失念して。

 当たり前のようにバランスが崩れ、予想できていたようなスムーズさでカカシに腕を掴まれて身体を引き戻され、落ちる心配のない壁際まで引っ張られた。

「す、すいません」
「いえ、いきなりだったから驚いたんでしょ、悪かったね」

 それはそうだが、仇を見るような目で凝視しつつ平坦な声音で謝られても、背中に変な汗が流れそうだ。まだ厭味を言われたほうが胃に優しい。

 左手に伸びる廊下の先では、先ほどまで一緒に作業をしていた同僚たちが、心配そうな様子でカカシとイルカを振り返っていたから、手で先に行ってくれと合図する。
 けれど、カカシに向き直ってみたものの、当のカカシは何も話さずにイルカを見てくるだけだ。眉間にシワをよせたまま。カカシの冷たい態度になれているといっても、やっぱりきついことを言われればそのたびに心臓のあたりがヒヤリとするし、睨まれれば心当たりを探して悲しくなる。

 あの件が終わったからもうカカシに話しかけられることはないと思っていた。だからこうやって目の前にカカシがいることは、嬉しいといえば嬉しい。そのほのかな嬉しさを打ち消すほどの眼差しだ。

 しばらくは、カカシの言葉を待ってはみた。まるで悪戯をしかけて、それがバレたときに怒られるアカデミーの生徒のようだと思う。小さいころはよく怒られたものだが、今は叱る側だ。自分が先生なら、無言のときは生徒に反省を促している場面のはずなのだが。

 ただイルカには悪戯をした覚えがない。
 カカシによく怒られていた体調不良のほうは、覚束ないながらも、今日はマシだ。倒れる寸前でもなければ、昏倒しているわけでもない。
 なにをいったい、それほど憤慨しているようなのかがイルカにはさっぱり分からなかった。

「…あの、カカシさん、なにか御用でしょうか?」

 とうとう、無言の圧力に耐え切れずに、イルカは言った。ずっと無言のまま睨みつけられ続けるのは悲しい。しかも今は仕事中だ。ずっとここで睨めっこをしつづけているわけにもいかないだろう。
 それでもしばらく待てば、恨みがましい声で、カカシが言った。

「…アンタのせいで俺は看板につまづいて、電柱にぶつかってコブつくるハメになったんだけど、質問に答えてくれるかな」
「は?」
「アンタの好きな相手のことなんだけど」

 どうしたんだろう。今さらそんな質問をされるとは思ってもいなかった。怪訝な顔をして見返すと、ますますカカシの眉間のシワが深くなっていく。
 その顔を見ながら、無理そうです、と心のなかで紅に反論する。

 先日、アカデミーで紅と出会った。
 受付を兼任させてもらっているから、職権乱用と思いつつも、カカシと共に任務に就いていることは知っていた。その紅がわざわざアカデミーに現れ、去り際にイルカの恋を応援すると言い残していったのだ。

 意図は分からない。少しばかり言葉の裏に、カカシを困らせてやれという声が聞こえた気もしたが、とにかく応援してくれるらしかった。
 紅が去ったあと、それなりに考えてもみた。

 あの無茶な願いをカカシに聞き届けてもらい、諦めなければと改めて決意したあの朝。苦笑しつつ、呆れたような口調でカカシは言った。相手が紅ではなく、しかも男性だったと。
 そのことに猛烈な恥ずかしさがこみ上げた朝だったが、だからこそ余計に、カカシを諦めなければと思った。もちろん、諦めたくない気持ちもあるし、なによりカカシに惹かれる気持ちはどうしようもないのだけれど、叶うわけがない。

 応援すると言ってもらっていて何だが、叶う気が全くしないのだ。
 とくに、射殺しそうな目で見られている今は、どんなに楽観的に考えたとしても、これが終わったらもう顔も見たくないレベルの関係性しか望めそうもない。

 しかも、なぜか好きな相手のことについて、当の本人から詰問されている状況だ。
 困惑顔で見返していると、カカシは舌打ちをしてから、

「…アンタ、このあいだのときは、その好きな相手のことを諦めるきっかけになればとか言ってたけど、結局、諦める気になったの」

 むしろ諦める気になっているだろう、と言わんばかりの口調だった。
 たしかにイルカの内心は諦める方向に傾いていた。けれど、その抑えつけるような言い方にムッとする。そんな風にいわなくてもいいじゃないか。それに、どうしてカカシにそんなことを言わなければいけないのか。言質を取られるようで嫌だ。第一好きな相手は、知らないだろうけど、カカシなのに。
 イルカは無愛想な声になったのを自覚しつつ、言い返した。

「まだ分かりません。そんなにすぐに決められるようなものじゃありませんから。どうしてそんなことを訊かれるんですか」
「……」

 目つきは鋭いままで変わらない。
 あの朝は、失笑気味だったが、まあ頑張れとまでいってくれたのに。

「気持ちは伝えたの」
「…いえ、まだ」
「どうせ気持ちを伝えないとすっきりしないとか、気持ちの整理が付かないとかで、アンタはずるずるするんです。さっさと伝えて、さっさとフラれなさい。そしたら諦めもつくでしょ」
「な…ッ」

 あんまりな意見に、口があんぐりと開いてしまった。
 酷い。
 よりによって本人がいうことはないじゃないか。
 悔しさと悲しさが湧き上がって、目頭が熱くなった。憤りで声が上擦ったが、空転しかける頭で必死に反論した。

「お、俺がいつ告白しようが、いつ諦めようがいいじゃないですか」
「よくない。婚期が遅れる」
「はぁ!?」

 耳を疑ったが、眼前のカカシは真剣そのものだ。
 どうしてそんなことまで言われなければいけないのか。

「俺がいつ結婚しようが俺の勝手です! 俺よりカカシさんのほうが年上なんですし、独身で、俺より先にご結婚すべきじゃないんですかっ?」
「俺はいいの」

 よくないだろう。
 むしろイルカよりカカシのほうが周囲に望まれているはずだ。
 言い返そうとしたイルカに、なおもカカシが言葉をかぶせてくる。

「俺はアンタに心配してもらわなくてもいいの。それよりも、いったん関わった身として、アンタがいつまでもぐずぐずしてちゃ、俺の気分が悪い。だから、さっさと」

 ―――諦めなさい。

 まるで、死刑宣告のように言い渡された。
 想いを寄せる相手本人に。
 呆然と立ちすくむ。

 頭のなかで、諦めろというカカシの言葉と、それと追いかけっこをするように紅の応援するわという言葉がぐるぐると回りだす。無理だ。何をおもっていきなりカカシが、こんな酷いことを面と向かって言ってくるのかはしらないが、まるでカカシがイルカの気持ちを知っていて拒否しているように聞こえる。

 じわりと、堪えることができないものが、涙になって滲んだ。情けないと慌てて目を瞬くが、一度溢れた水分は体内に戻ってはくれず、イルカは袖口で目元を強く擦った。
 カカシが嫌そうな顔をして、その腕を掴んで止める。

「なんで泣いてんの。あぁ、泣き落としの練習?」

 見下したような口調で言われた。

「そういえばアンタの好きな相手ってのは優しいって話だったね。なに、それで落とすつもりってこと? くだらない。だいたい頼まれたからって関係持つような奴が、優しいわけがないじゃない。自分の都合が良いだけの話しだよ。夢みてるだけだよ、アンタ。さっさと目を覚まして、相手がどんなに自己中で思いやりもない人間かって―――」

 聞いていられなかった。
 身体が怒りに任せて、考えなどなく動いていた。カカシに掴まれた腕をふりほどき、拳を握る。腕を引いた反動を、拳の先に乗せた。
 カカシの顔にむけて、勢いにまかせて振り下ろし―――。
 頬に当たる寸前で、拳を止めた。

「…どうして避けないんです」

 カカシの身体は少しも動かなかった。視線はイルカに向いたままだ。動作で、拳が飛んでくることなど分かっていただろうに、避けるそぶりさえなかった。
 カカシはなんでもないように、

「殴られても良かったから」

 といった。カカシの意図が分からない。
 内に湧き上がった荒い衝動を逃したくて、イルカは大きく息を吐いた。頭に血が上ったままだが、少しだけ落ち着くことができた気がする。
 カカシを、好きな相手を殴るなんてできるわけがない。

「…嫌いになりそうです、カカシさんが」

 憤りが喉の下のあたりで留まっていて、吐き出すこともできず、漏れた言葉は力なく情けないものだった。握った拳をゆるゆると下ろす。項垂れた。カカシにとって、イルカが自分を好きか嫌いかなど大した意味がないのに、バカなことを口走ったと余計に自分が惨めに思えた。
 けれど、

「あぁ、そう」

 とカカシが返してきた相槌に、イルカは顔を上げた。
 気のせいだろうか。
 どうでもいいと言いたげな声音に、ホッとしたような気持ちが見えた気がしたのは。
 どうして、と反覆した自分への問いに、答えは驚くほどあっさりと出た。

「―――まさ、か…」

 その答えは残酷で信じがたく、一歩をつめて目を覗き込む。片目でも表情が分かった。訝しげに顰められ、そして気まずげに逸らされた。カカシの身体がわずかに後ろへ引いた。

 呆然とする。
 カカシは自分がその相手だと分かったうえで、諦めろといっているのだ。

 足元が覚束ない。
 相反して散らかった考えはまとまることはなく、全ての理屈を飛び越して、イルカは放心したまま愚かな問いを口にしていた。

「…カカシさんは、俺が、嫌いですか…?」




2011.2.12