任務の同行者にカカシが充てられたことは、紅にとって驚きだった。
ダメ元で言っただけだ。
一番、任務に適任で安全を確保できる人材として名前はあげたが、カカシほどの能力であれば最適なのは当たり前だ。
それに連日の任務で出ているだろうと思っていたから、本当に驚いた。
けれどカカシについてもらえるなら、危険なルートを通って密書を届けることができ、任務遂行日数が大幅に短くなる。
途中で野宿することになるだろうが、ありがたいことだった。
大門で顔合わせをし、よろしくね、と挨拶をするとカカシは不機嫌そうに頷いた。
任務をこなしてくれるなら上機嫌でも不機嫌でもかまわないが、大人気ないことだ。
任務の概要を説明し、街道を外れて険しい山道へ進路をとる。
任務は順調に進んだ。
予想通りの敵襲があり、予定通りに撃退し、目的を遂行した。
そのあいだ、カカシは必要以上の単語を話すことはなかった。紅としてはイルカの件でどうなったかぐらいは気になっていたのだが、話しかけられるような気安い気配などない。
苛ついている様子でもある。
別段、親しいわけでもない。
イルカの件に関してだけ興味をそそられているだけだ。
こういうときは放っておくに限る、とばかりに紅も同じように言葉少なく動き、次の昼には里に戻れるだろうという野宿の夜。カカシが火番となってくれるというので、仮眠をとろうとした紅に、ぽつりとカカシが言った。
「帰ったらさ、あの人に…ちょっと話しきいてみてくれないかな」
唐突で、しかも夜の森の音にまぎれそうな静かな声だったから、すぐにはどういう意味か分からなかった。
だが、カカシの表情から、イルカのことだと分かる。カカシから話しをもちかけてきたことに驚く。
「あの人、って…イルカ? 話しってなんの」
「いや、たぶん悩んだりしてるだろうと思うから…無理にとはいわないけど」
悩んでいるというなら、目の前のカカシのほうがよほど悩ましげな様子だ。
「自分で声かければいいじゃない。いまさらでしょう」
「…俺じゃないほうがいいから。気が向いたらで良い。―――もう寝な」
自分で始めた会話のくせに、一方的に打ち切られた。なにがあったのかも分からない。事情は、と訊いたが、もう返事はなかった。
イルカと話せば分かるのかもしれないが、手間なことだ。
沈黙したカカシはそれ以上なにも話そうとせず、結局、無事に里について解散するまで黙ったままだった。
本当に頼む気があるのかといいたいが、カカシの言うように気が向いたらで良いという程度なのかもしれない。
それにしては深刻そうだったが。
受付にはイルカは居なかった。
強行軍で任務を終えた身体は疲れていて、早く柔らかいベッドで休みたかったが、あんなことを言われれば気になる。
もう陽は暮れていて、アカデミーのほうは授業も終わっているだろう。
受付にいないとすれば、アカデミーの職員室かもしれないと足を向ける。
渡り廊下に差し掛かったとき、廊下の奥に探していた姿をみつけることができた。
資料室から出てきたところなのか、部屋に鍵をかけているところで、声をかけると恐縮したように会釈をしてくる。笑って近づくと、クマの酷いイルカの顔がよく分かった。以前のように行き倒れていないだけマシか。
「こんにちは、イルカ」
「任務お疲れ様でした、紅さん」
おや、任務を知っていたらしい。カカシと一緒だということも知っていただろうか。紅は小首を傾げて、
「カカシもさっき帰ってきたわよ。不機嫌そうだったけど」
そうカマをかけてみた。果たしてイルカの顔色は、土気色から赤くなり、ついで青くなったりと大忙しだ。
言葉も慌てて、ええと、あの、と落ち着かない。慌てすぎて卒倒しそうなほど狼狽しているから、紅は肩をぽんぽんと叩いて宥める。
「はいはい、大丈夫大丈夫。なあに、そんなに慌てて。なにか…あったの?」
目を覗き込むと、困ったように実直そうな眼差しが揺らぐ。
違ったんです、とイルカが呟く。
「なにが?」
「…その、俺、紅さんが」
自分の名前がでてきて、きょとんとする。カカシとの話かと思っていた。
けれど、いいにくそうにするイルカを前に辛抱強く待っていると、搾り出すように「付き合っていると思ってたんです」と言った。
「誰と?」
「…カカシさんと」
「…、はあ?」
「すいません!」
別に謝られることではないが、呆れることではある。
どこをどうしたら、そういう勘違いになるのだろう。
あんなにイルカしか見ていない男と一緒にいて、あれが好きな女に対する態度だとでも思っていたのだろうか。
有り得ない。
「そんなわけないわよ、無い無い」
「すいません…とても気心が知れていらっしゃる様子でしたので」
「気心なんて知れていらっしゃらないわよ、まったく」
仕事では信頼し尊敬しているが、人間として個人的な部分ではまた別だ。
呆れて嘆息する。それにしても、落ち込んでいた理由は紅のことが原因とは思えない。
カカシと付き合っていると思っていた、というのだから、誤解は解けたのだろうし、それを解けるのはカカシだろう。
「カカシと話しをしたの?」
聞くと、イルカは顔を赤らめた。そして非常に言いにくそうに、
「あの…紅さんは、俺がその、カカシさんのことを」
「えぇ、まあ…このあいだアナタが同僚さんかしら、と話してたのを偶然聞いちゃったの。そのときに、ね」
「あああの、このことはカカシさんには…っ」
紅は小首を傾げた。
そして理解する。カカシと同様、イルカも相手に伝える気がないことを。
どちらも面倒臭いことだ。
「はいはい、言わないし言ってないわよ。安心しなさい」
言えば、ホッと肩を落としている。
どちらの気持ちも分かっているつもりの紅としては、そこで安心してどうするのだと呆れる気持ちが大きい。
だが、言ったとして二人が納まりのよいような関係になるかという保証は、どこにもない。
所詮、紅は部外者だ。
だが、力を抜いて苦笑ぎみにイルカがいった言葉に、唖然とした。
「俺、カカシさんに好きな相手がいらっしゃることを知らなかったんです、…つい最近、カカシさんから聞いたんですが、それまでは紅さんがお相手だと思っていたので、驚いて。…恥ずかしいですよね、俺みたいな…こんなのがカカシさんに告白なんてしないでよかったです、ホントに」
「……」
はははは、と空笑いするイルカを、どんな表情をして良いかも分からないまま見つめる。
カカシはなにをやっているんだ。
頭が痛くなってきた。
まったくわけがわからない。
カカシの好きな相手というのが、カカシ本人から聞かされたにも関わらず、イルカ自身だと気づいていないようだ。
いったいどういう会話をすればそんな奇跡的なすれ違いができるのか、むしろ教えてほしいぐらいだ。
気のせいでなく、ズキズキと痛むこめかみに指をあて、しばらく考える。
カカシが言っていた、イルカが悩んでいるという話しは、おそらく違うだろう。
落ち込んでいるの間違いだ。
ただ、カカシが自分でないほうが良いというのは正しい。
好きな相手がどこの誰かだという気のないカカシではどうしようもない。
けれど、本当にイルカを元気付けたいのなら、どうにかできるのはカカシだけだろう。
「……」
もう面倒臭い、この二人。
心のなかで、紅は匙を投げた。
悩んでいるだろうから様子をみてくれといわれても、どうしようもない。
そもそも人の恋路に首を突っ込むのは、ほどほどが楽しいのだ。ここはもう、カカシに文句の一つもいってやらなくては気がすまなくなってきた。
紅はにっこりと、イルカに向かって微笑んだ。
「私、イルカの恋、応援するわ。頑張って」
そしてカカシには文句をいってやる。
「いや俺は、その」
「諦めちゃダメよ、イルカ。応援してるから、押して押して押し倒す勢いでいきなさい、ね?」
そしてカカシを大いに困らせてやるといい。
赤くなって戸惑うイルカに手を振り、にこやかに紅はその場を離れた。
数日後、カカシの姿をみた。
大通りを歩いている背中をみて、少し足を速めて並んだ。夕刻の人も多い通りを歩いているというのに、文庫本を開いて読むふりをしながら歩いている。呆れつつ、声をかければ視線だけ紅に寄こした。
「イルカだけど、悩んでるふうじゃなかったわよ」
「そう」
「元気そうだったけど、倒れるほどじゃないって程度の」
「…そう」
視線を本に戻し、気のない返事だ。聞くだけなら。だが紅はカカシの神経がこちらに集中していることを知っている。どんなに小声で言っても、カカシはイルカのことなら聞き逃さないだろう。
そんなに気になるなら、自分で確かめればいい。
「まあ、あなたの言うように悩んでるふうじゃなかったけど、そうね、どっちかといえば落ち込んでるみたいだったわよ? とっても」
「……」
少し意地悪をしたくて言った言葉には返事がなかった。考えているらしい。落ち込んでいる理由がカカシには想像不可能だろうから、考えても分からないだろうが。ちょっとばかり溜飲を下げる。
「なにがあったか知らないけど、教えてくれないし? だから、あとはカカシが自分で聞きなさい。まあ、そのうち事情を教えてくれると嬉しいわ」
それまではもう巻き込むな、と言葉の裏に力をこめる。
カカシは察しの悪い男ではないから、気づいたろう。
うん、と気のない返事があった。
先日にかけたイルカへの発破も、そのうち効果が現れるかもしれない。
そのときにこの二人がどういう結論を選ぶか興味があったし、それと同じかほんのちょっと多いぐらいで、出来るなら幸せになりましたで終わる物語がいいな、と望む気持ちもある。
けれど、紅が口をだすのはここまでだ。
背中を押してやるような親切をするつもりはなかった。
しても、カカシなら余計なおせっかいだと反対に言ってきそうだ。
自分の恋人のほうにでも世話やいたら、と憎まれ口を叩きそうでもある。
いつまでも本を読むふりを崩さない男へ、じゃあね、と手をひらつかせて、思い出した。
そういえば最初、イルカに誤解されたらしいのは、この大通りでの一件が原因だったのではないだろうかと、あれから考えていた。
あの夜を思い出して苦笑する。
「イルカ、誤解してたらしいわね。あんたと私がつきあってるんじゃないかって。最近になって違うって分かったらしいけど、聞いたときビックリしたわ。そんなわけないのにね」
「ふぅん」
誤解を解いたのは自分だろうに、あくまで素っ気無い。まあ、紅としてもいまさらカカシににこやかに対応してもらいたいとも余り思っていないので、それでいい。
「じゃあね」
「ああ、ありがとね」
最後に感謝の言葉があるだけマシだ。紅は肩をすくめて、先にある角を曲がるためにカカシと別れた。
角を折れ、ほんの数歩も行かなかっただろう、不意に大通りのほうから、ガン! と酷く痛そうな音が聞こえた。
忍びでなくとも聞こえるほど、派手な音だ。
誰かが電柱にでもぶつかったのかもしれないが、その音は盛大に聞こえたし、通りのざわついた様子が聞こえてきて、紅も気になって振り返ってはみたが、通りの人だかりで、誰が何にぶつかったのかは分からずじまいだった。
2011.1.31