朝、式が窓を小突く音でカカシは目が覚めた。
 まだ日が昇る前の、うっすらと暗闇が薄れていくころだ。

 あれから、体力が尽きて半分寝ているくせに風呂に入ると言い張るイルカの身体を拭いてやり、寝かしつけ、カカシもざっとシャワーを浴びて寝付いたところだった。
 正直、休息は足りていない。
 だが無視するわけにもいかず、そっと窓をあけて呼び込み、紙片に戻ったそれを窓の薄明かりで読む。

 内容は昼からの任務に同行願う、というものだった。同行者は紅。
 ひっそりとため息をついて、応と返事を送った。
 先日のイルカの件で手間をかけたし、どちらにせよ一日こうしているわけにはいかないからちょうどいい。

 そういえば、一昨日、イルカとの話しが終わった後、受付で紅が個人的に捜されていましたよ、といわれた。もしかしてこの件だったのだろうか。
 もう一度布団にもぐりこみ、眠りこけているイルカを抱きこむ。
 服を着せていないから、素肌のままだ。

 数刻前はこれに口付けていた。最初は無味でつまらないものだったけれど、やがてイルカの汗の匂いと味がしてきて堪らなかった。
 初めて飲んだあれも、イルカのものだと思えば興味深く、飲み下すのは案外簡単だった。そのあとのイルカの反応が可笑しく、飲んでみてよかったと思ったほどだ。

 イルカはしきりにカカシに触りたがり、舐めるだの奉仕するだのと粘っていたが、誤魔化した。あんな状態でイルカに触れられたりすれば、早漏確定だ。さすがに堪える自信はない。
 思い出して、また変な心地になりそうな下半身を、カカシは精神力で押さえ込んだ。何度もすれば、癖になる。癖になったら、手放せなくなる。

 これは、カカシのものではない。カカシが心のままに口付けたり触れたりしていい対象ではない。
 そう確認しつづけていなければ、堪えきれなくなりそうで怖いほど、腕のなかのイルカが近い。
 カカシが達したあとに、イルカが嬉しそうにいった言葉は、酷かった。もう一度、気を失うまで突っ込んで、避妊具などつけず、穴から精液が垂れ出るほど嬲ってやろうかと思った。

 けれど、思うだけ。
 想像は甘く素晴らしいと感じるが、そんなことは絶対にしない。
 想像して憂さを晴らすだけ。

 これは、イルカに頼まれてやった房閨術指導まがいの、ただの手ほどきだ。
 今も、イルカが布団の外にはみ出て、風邪を引かないために抱きしめているだけだ。けしてそれ以上の意図を感じさせることはしないし、願望を実行しない、と自分に言い聞かせる。
 そうしなければ、イルカが困るだろうから。

 自分の執着じみている恋情など、知らせるわけにはいかない。
 夜が明けて、イルカが目を覚ますまでの短い時間、カカシはただじっと、イルカを抱きしめていた。





「そろそろ起きて」

 昼に近づいたところでイルカを起こした。
 静かに寝入っていたから起こすのはどうにも勿体ないと思ったが、カカシの出る時間にあわせなければ、物事が後を引く。
 目覚めたときにカカシが居なければ、イルカは後始末をどうしよう等、面倒臭いことを考え始めるだろう。
 それはカカシの望むところではなかった。

 イルカは瞼を開けたあと、しばらくぼんやりしていたようだったが、瞬きを何度かして状況を思い出すと同時に、跳ね起きようとした。
 カカシは揺り起こして既に背中を向けて台所のほうへ行こうとしていたから、背後のベッドから、声にならない声で、何かに耐えるような驚くような振動が聞こえて、振り返った。
 ベッドから半分ほど、イルカの上半身がうつぶせの状態で落ちていた。

「…なにやってんの」

 呆れて、脇から持ち上げベッドの上に戻す。
 すいません、とイルカの耳朶が染まっているのを見る。

「なんか…変なところが筋肉痛みたいになっていて、バランスを崩しました。申し訳ありません」
「…いや、別にいいよ。メシ、こっちに運ぼうか」

 イルカが寝ているあいだに朝飯は作り終わっていた。
 いつもは、イルカの生真面目なところを利用しているとわかっていつつも、彼の手でつくられた朝食を強請っていた。

 イルカの朝食は、一人暮らしの男らしく、白飯と味噌汁。
 あとは卵焼きかウィンナーと卵、あとは漬物と、冷蔵庫の余り野菜で作った野菜炒めか茹で野菜。
 取り合わせとしては適当すぎるが、冷蔵庫にあった食材で最善を尽くした感が分かり、それがイルカらしくカカシは好ましかった。

 今朝の飯も、イルカのものと大した違いはない。
 カカシも料理が特別できるというわけでもなく、自分が食べるときに顔をしかめずにいられるレベルの腕だ。
 ただイルカにするとカカシが料理をすることが珍妙だとでもいいたいのか、昨日も、いまも何をいっているんだという表情をしている。

「大したもんじゃないから、要らないなら別にい―――」
「い、いえっ、起きます。大丈夫です。すいません、いただきます、ありがとうございます」

 一転して焦りながらベッドから降りようとしたイルカが、不意に動きをとめる。
 自分が素っ裸だということに今さら思い至ったのだろう。
 カカシは洗面所のほうへ顔を向ける。

「あっち、いつものように用意してあるから。気になるならシャワー使って」

 カカシが台所のほうへと背をみせてから、イルカはベッドをでたようだった。
 昨夜は裸をみせるよりもっと居た堪れないことをしたというのに、律儀なことだ。
 朝になって人並みの羞恥心が働いたのだろう。

 イルカが身支度を整えているあいだに、作っておいた味噌汁に火を入れる。
 弱火にしておいて放置し、傍らで炊飯器から飯を二膳盛る。
 昨日、多めに焚いておいたおかげか、イルカの夕食分を差し引いて、ちょうど無くなった。
 飯椀を並べ、イルカがまだ顔をださないようだと判断して、暖かい茶を入れておく。
 イルカはシャワーを浴びなかったようだ。カカシが茶を入れたあとに、炊飯釜を洗っていると、気まずそうな表情で「お待たせしました」とやってきた。

「そこ、座って。味噌汁も入れるから」
「あ、あの、それぐらいは俺にさせてください。こんな時間まで寝てしまってすいませんでした」

 起こさなかったのはカカシの我侭だ。
 これ以上ないというほどじっくりと眺めさせてもらったし、自己嫌悪にもたっぷりと浸らせてもらった。
 だがそれをイルカにいうつもりなどさらさら無かったし、手伝うというイルカを止めなかったので、勝手知ったるといった手際でイルカが戸棚から汁椀をとりだし、鍋の前に立つのを眺めていた。

 手を伸ばせば届く、真横にイルカが立つ。
 室内の風が動き、味噌の香ばしい匂いがイルカの後を追うように、カカシの鼻をくすぐった。
 シャワーを浴びていなかったようだから、その身体にカカシの匂いも残っているだろうか。わずかに首を巡らせ、朝の光りが傍らに立つ男の横顔を照らしている様子を見る。

 別になんということもない。ただの朝の風景だ。
 それでも、静かな感慨をカカシに与える。もう二度とこんな風景をみることはないと分かっていれば、こんなたわいも無い瞬間が、目に焼きつくこともある。

 無理やり視線を外し、洗い終わった炊飯釜を戻して、先に席についた。
 大して待つこともなく椀が目の前に置かれ、イルカも座るのを待ってから、手を合わせて飯を口に入れる。

 しばらく黙って食事をする。
 お互いに忍びからか、里人の食事時間よりはずいぶんと短かっただろう。
 カカシが先に食べ終わり、間をおいてイルカも箸をおいた。
 無理そうでなく朝食を摂れていることに、内心で安堵する。
 茶を啜る様子も、辛そうなものではない。

「体調は大丈夫そうだね、痛いところはない?」

 不意に訊ねたからだろうか、イルカが茶を喉に詰まらせて、咳き込んだ。
 食事中も黙っていたから、急にカカシが話しかけたから驚いたのかもしれない。

 派手に咳き込むから、机を回って背をさする。
 何度か大きくむせてイルカは顔を上げた。
 少し涙目になっていたから、カカシは苦笑をして背中から手を離した。

「だい、じょうぶです。すいません」
「痛いところも? 腹も大丈夫ってこと?」
「は、はい。問題ありません」
「そう」

 できるだけ気をつけて抱いたつもりだったが、努力は報われたようだ。

「あの、昨夜はその、最後もお手数をおかけしてしまって」
「アンタあのまま風呂入ったら、中で溺れそうだったからね」

 言うと、すいません、とイルカの顔が下がる。
 先ほどから謝ってばかりだ。

 確かに、昨夜の関係はイルカからの申し出で行われたものだったが、カカシにはカカシの思惑があって、本当に嫌なら請われた時点で断っている。
 自分の思惑をイルカに告げることはないが、イルカがことさらに謝ってばかりなのは、自分を省みて恥じ入る点が多いカカシには、わずらわしい。

 いいから、と言った言葉は少し素っ気無くなってしまったのかもしれない。
 イルカの表情が沈み、カカシは話を変えた。

「それで、俺はアンタの役に立てたのかな。相手がどんな奴なのかは知らないけど、怪我はしないように、…まあ、頑張って」

 なにを頑張るというのか。
 自分で言って馬鹿馬鹿しく、おもわず口元が緩んでしまった。

 イルカからの返事はなく、考え込んだようだった。
 先行きを想像しているのかもしれない。

 カカシは食器を重ね、下げる。
 するとイルカが立ち上がって、無言で俯き加減のまま食器を引き受けようとするので、体調を確認したいま異議もないので渡した。洗ってくれるつもりらしい。

 少し離れてシンクに軽くもたれる。
 もう出立の準備はしてあるし、支度の確認も済ませた。
 あとは出るだけだ。
 だから、というわけではないけれど、イルカを眺めていたかった。これが最後だろうから。

 考えに沈んでいるのかぼんやりと手を動かしていたイルカが、やがて二人分の少ない食器をすべて水切りに入れ終え、手を止めた。

「それでいいよ、後でしまっておくから」

 はい、とイルカは返事をしたが、そのまま動こうとしない。
 なにか言いたいことでもあるのだろうかと待ってみたが、俯き加減に視線をうろつかせているだけで無言のままだ。
 カカシにしても、予定がある。
 言いたいことは山ほどあるし、言うべきではないと自制していることは、それより多い。

 イルカもそうなのだろう。
 躊躇っている。
 カカシは肩を竦めた。

「俺さ、任務が入っちゃってね。もうでなくちゃいけないんだよ。悪いけど。忘れ物ないように準備して」

 いつまでもズルズルと居続けたいと願う自分を切り捨てるつもりで、あえてイルカを急かした。
 イルカが言いたいことは、また後日、イルカが言えるようになったときに聞けばいい。
 そんな機会はないだろうけれど。

 いまは、二人きりであることのほうが、カカシにとってぬるま湯のように心地よく、幸福で、だからこそ苛ついた。
 シンクから身体を離し、玄関のほうへと移動する。荷物は玄関口にまとめていたから、カカシはこれでもう出立できる。

 イルカは顔をしかめて苦しそうにカカシをみていたが、カカシが玄関口に立ち、イルカを見返すとやっと動き、着替えた服だけを手にしてカカシの傍へと来た。
 まだ顔は俯き加減のままだ。
 イルカが何を言いたいのかは分からないが、言いづらいことなのは確かだろう。

 もしくは、と思い至る。
 謝ってばかりのイルカの態度から、カカシに対して酷く負い目を感じているのかもしれない。
 申し訳ないと思われたくて、この件を引き受けたわけではなかった。

 イルカが、他の誰かに手ほどきを受けてから本命に迫る、などと馬鹿げたことをいうから、そんなことをされるくらいなら、と頭に血が上った結果だ。カカシの愚かな嫉妬のせいだ。
 イルカはサンダルを履こうと屈んだところで、その背中をみながら、カカシは口を開こうとした。

 その一瞬先、イルカが、あの、と声を出した。
 顔を上げて、黒い瞳がカカシをまっすぐに見る。

「あの、本当にありがとうございました。こんな…、無茶なことをお願いして、きいていただいて、嬉しかったです。…ありがとうございました」

 そういって、イルカは深々と頭を下げた。カカシは座りが悪く、ガリガリと後頭部をかいた。
 そこまで悲壮な顔で感謝されるようなことではない。
 カカシはカカシの利があって、やったことだ。
 あのさ、と苦笑する。

「あんまり気にしないで。俺も…俺にも好きな相手ってのがいてね。同じ…男だから、俺も勉強させてもらったし、お互い様ってことで、さ」
「……ぇ、好きな、相手ですか」
「そう。俺もアンタ使って試させてもらったってこと。だからもう、気にしないで」

 ぽかんとしたイルカの表情。
 直後、顔が見る間に赤く染まった。

 今度はカカシがぽかんとする方だ。
 首元まで赤くなっている。
 あまりに赤くて、卒倒するかと思うほどで、どうしたのと手を伸ばそうとしたとき、勢い良くイルカが腰を折って礼をした。

「す、すいませんでした…! あの、ありがとうございました! 失礼します!」

 そのままイルカは転がるようにして玄関から出て行ってしまった。
 止める間もなかった。
 宙に浮いた手を、後頭部にやる。ふぅ、とため息が出た。

 言わないほうが良かっただろうか。
 赤くなった顔は、屈辱を感じたからだったのか、あまりに素早くイルカが居なくなってしまったために分からない。
 とんでもない相手に頼んでしまったと後悔したのかも。

 純粋に厚意でやったことだと思わせたままのほうが、とも考えたが、それだとイルカは申し訳ないと思い続けるだろうから、それならいっそ屈辱だとカカシに対して敵意を抱いたほうがまだいい。
 好きな相手が男だったと知らせたことは、間違いじゃないはずだ。

 どちらにしても、もうカカシがイルカに関わることはないだろうことは変わりない。
 はぁ、とため息をついて、外へ出る。

 イルカの恋が、惨めで無残に終わればいい。
 そして暖かで優しい女性と出会い、家庭を持つようになればいい。
 そう願う自分が身勝手であることは自覚していて、酷く憂鬱だった。




2011.1.19