三代目火影の統治下、火の里は平和だった。

 だが、いつのときも犯罪を考える人間はいるもので、考えるだけに飽き足らず、衝動のおもむくまま日の下にでることのできない所業を犯してしまうものも、里人に限らず、忍びでも存在するのだった。

 軽微なものならば、里人が商いとして営んでいる自警団があり、深刻なものならば里の治安と警備を高める役目として、木の葉の忍びが任務にあたっていた。
 そして、最近の木の葉里中央警備本部の頭を悩ませているのが、夕刻から深夜にかけて、性別を問わずに頻発する、子どもへの猥褻行為だった。

 とくにアカデミーの下級生が自宅に帰る前に、自己鍛錬という名の寄り道をしている際にそれは起こっている。演習場の隅や、里の端には浅い川や、的にするにはうってつけの木や場所がたくさんある。そこで遊んでいるときに、声をかけられるそうだ。

 この飴、舐めるかい? と。

 声をかけられた子どもたちは一様に、人の良さそうなおじさんだったと言う。だが、人相や体格、声音など誰も同じ人物特徴を挙げた子はいなかった。
 そして飴をうけとり、口にいれた途端、記憶が無くなるという。次に目をあけるのは、警護の忍びが保護したとき、というわけだ。

 幸い、といっていいのか、幼児たちのなかで、痛い思いをしたものはいない。
 ただ、服が乱れている、あるいは『身体がぺたぺたする』という感覚が残るだけ。記憶のないあいだは何をされているのか、分からないだけ幸せなのかもしれない。

 これで犯人が、決定的な証拠を残すなり、画像や動画を取っていて、それを裏に流通させるなりすれば、簡単に捕らえることができるのだが、用心深いのかまったく手がかりがなかった。
 そこで、出番とあいなったのが、捕縛も仕事のうちである木の葉の忍びたちだ。

 最初はアカデミーの教員からの要望で、里長へ放課後の教員見回り許可をだしていたのだが、里長がきをきかせたのか、それとも子どもを持つ親の危機感が色んな方面へ影響したのか、とある秋の日の午後、ふらりとイビキがアカデミー教員控え室へと顔をだしたのだった。

 つかの間、室内がざわついたのは、なにも教員たちの鍛錬が不足しているからではない。拷問のプロとまで呼ばれる人物に接触するには、アカデミーの下級生はまだ幼すぎる。向こうもそれを承知のはずで、あまりこちらには顔を出さないはずなのに、という思いが、ざわめきになってしまった。しかも、イビキの隣にアカデミー教頭が立っていたのだから、戸惑いも大きい。

 その二人が、室内をぐるりと見渡し、やがて一点で視線をとめた。
 イルカ、と呼ぶ。
 生徒の添削に集中していたらしい男は、呼ばれて初めて顔をあげ、びっくりした表情を隠そうともせず、

「ハ、ハイ!」

 と返事をしながら、椅子を蹴って立ち上がったのだった。




***




「これはな、簡単にいうと、変質者に狙われやすくなる薬だ」

 イビキは、手のひらに乗るほどの巾着袋を机に置き、そう言った。
 蝶々に結ばれた組紐を解くと、中には十ほどの半透明の飴が入っていた。うっすらと紅色がかっている。

「変質者、ですか…それは既に犯罪をおかした人に限らず、心に思っていても、ってことですか?」

 そうだ、とイビキは重々しく頷いた。
 その隣に座っている教頭は、臆す様子のないイルカに少しばかりハラハラしているようで、盛んに視線だけでイビキとイルカを交互に見ている。

「これを効果をだしたい時間の半刻ほどまえに舐めておけ。そうすれば飴が体内に吸収されて、お前の周囲・…、…そうだな、建物ひとつ分ぐらいの距離なら効果を発揮する。何かいい匂いがする、何か気になる、引き寄せられる、といった風にだ」
「建物ひとつ分…それはアカデミーの校内の一階から屋上にも有効、と考えてもいいんですか?」
「それはまさに距離次第、だな。縦に近ければ届くが、校舎の端と端ではさすがに無理だろうな。半日もすれば効果は消える」

 そうですか、と相槌を打って、イルカは瓶をみつめた。横から、それでですね、と教頭が話しに入ってきた。

「先日、イルカ先生が仰ったことが本気なら、この役をお願いしようと思うのですが…」
「囮役ですよね、はい、もちろんお受けします。囮になれば一番に、タチの悪い変質者をぶちのめせますからね」

 ニコッと笑ったイルカに、教頭は不安そうに眉を下げたが、なにも言わなかった。なにせ、この囮役は実働時間が日暮れから真夜中と、勤務時間外労働も甚だしいのだ。奇特にもあらかじめ志願していたイルカ以外、アカデミーの教員で自主的にやってやろうというものは残念ながら居ない。

 もちろん、子どもの安全を思う気持ちは一緒だが、自分以外の誰かがやるのならお願いするよ、といった風向きだ。
 教頭としては、イルカに頼むのがいちばん心安い、といえるのだが、問題はやる気に満ちすぎていることだろう。

「イルカ先生、相手はもしかすると上忍かもしれない、とも言われています。囮役なのですから、けして無茶はしないようにお願いしますよ。危ないと思ったら逃げてください」
「ええ、分かってます、教頭先生。精一杯、囮になって変態をひきつけてみます。安心して子どもたちが里で遊べるようになって欲しいですからね!」

 言いながらも、笑顔に滲む好戦的な気配は、限りなく物騒だ。だが、イルカに頼むしかない。
 中間管理職の悲哀を滲ませて、教頭は「無事に帰ってきてくださいよ」と念を押したのだった。




***




 すでに事件が起こった箇所は頭に入れてある。
 初日はそのあたりを重点的に回るつもりだった。

「よっし!」

 イルカは気合を入れて家を出た。
 飴は少し前に口にいれて、もう噛んで飲み込んでしまった。

 昼間にも試す意味で食べてみようとしたのだが、周りに止められたために今夕が初使用だ。どれほどの効果があるのか分からないのは不安だが、驚いたことにあのイビキが、わざわざ持ってきたぐらいだ。確かなものなのだろう。

 秋の日暮れは早く、空は高くもう透明な藍に染まり始めていた。昼間はまだ暑く風も温いが、たまに吹く涼風が心地いい。
 大通りはまだまだ人が多く、人いきれに呑まれそうになりながら、それを突っ切ってイルカは路地のひとつへと入り込む。

 視界が低く、世界が大きい。
 子どもたちがいうには、路地先にある広場で買い食いをしていたときに、声をかけられたことがあるらしい。

「あら、いらっしゃい」

 ふくよかな顔のおばさんが、気安く声をかけてきた。アカデミーの幼年組みにむける笑顔で、イルカは自分の変化の術が上手くいっていることを確認する。
 イルカの今の姿は、少年だった。

「しょうゆの、一個ください」

 はいよ、と返事のすぐあとに、割り箸に半潰しのもち飯をまいたものを焼いて醤油で味付けしたものが手渡される。お金を払って、すぐにかぶりついた。香ばしくて美味しい。
 店先を離れつつ、周囲を観察する。

 いまこの店のあたりにいる子どもは居ない。大人はちらほらと。
 だが怪しそうな人物は見当たらず、食べてしまったあとの割り箸を、店横においてあったゴミ箱に捨てる。

 すると、ちょうどイルカの後に来ていたらしい、若い女性がイルカをみて「あら」と声をあげた。
 そしてイルカがなにも言わないうちに、

「この子にもウィンナーのひとつ、あげて頂戴」

 と言った。
 いきなりすぎて目を瞬いているうちに、また「はいよ」とおばさんが棒をくれた。今度は豪華な、もち飯の内側にウインナーが指してあるボリュームのある棒飯だ。
 注文した女性は、自分が頼んでいたらしい持ち帰りのパックを受けとりながら、イルカをみてニコニコしている。

「それ、美味しいのよ。君にあげる。食べてね」

 と言って去っていった。
 呆気にとられて店のおばさんを見ると、おばさんもイルカを見ながらニコニコしていた。

 遅まきながら、薬の効果を知る。
 こういうことかー。
 礼を言って、おとなしく棒を齧りつつ、店から離れる。

 イビキのしていた説明は少し端的にすぎたのかもしれない。寄ってくるのが変質者ばかりかと思いきや、純粋に好意を示してくれる人もいるようだ。
 事実、店の調理済みのウィンナー入り飯棒は、変な味などしないし、本当に美味しい。

 子どもの胃には二本目は厳しかったが、次の目的地の公園につくころには食べ終わることができた。
 広い公園の端のほうに遊具があり、ここではまだ子どもの姿もあった。暗くなってきているのに、まだ玉蹴りゲームをしていて、勝負が佳境のようだ。

 ベンチに腰掛けて、子どもたちの様子をみつつ周囲を探る。
 みたところ大人の姿は無い。
 次の場所に行ったほうがいいだろうか、と考え始めたとき、不意に後ろから声をかけられた。

「なに、してるの?」

 仮にも忍びなのに、ビクッとまるで子どもそのものの反応をイルカはしてしまった。
 慌てて後ろを振り向くと、ベンチの後ろに広がる薄暗い木々を背にして、里人風の男が立っていた。

 一瞬、目的の男か、と思ったが、スッと男が動いてイルカの隣に腰掛けたときに、やっぱり違うかも、と思い直した。
 だって、男は見事な銀髪で、酷く見目の良い優男風の顔立ちで、それなのに左目の上に縦傷があった。一度見れば、忘れられない顔だ。犯人の特徴と違う。

 男はニコニコとイルカをみていた。
 じり、とベンチに座ったまま、尻を男と反対側にずらす。
 警戒心もあらわで、男は笑ったまま、

「あれ、酷いなあ」

 と言った。

「俺のこと、分かりません? 極秘任務だって聞いてたから一応、忍服は脱いできたんですけど、着てくるべきだったかなあ」

 ぽかんと、イルカの口があく。
 驚いた一瞬がすぎると、思わず男の名を言ってしまいそうになったが、それを男の指が遮った。イルカの唇に、男の大きい人差し指が当てられる。

「しー。分かってもらえればいいです。いえ、俺も任務の邪魔しちゃいけないなあ、とは思ったんだけどね、あんまりアナタがかわい―――、珍しい格好してるから、つい」

 ニコニコと話しかけてくる男は、これでも里屈指の上忍で、はたけカカシという。最近、卒業した生徒つながりで縁があった。

「さすがに元の姿じゃ、囮になりませんからね。お見苦しいでしょうがすいません」
「いえいえいえ」

 きゅんきゅんします、と謎の言葉で意味不明のことをいいつつ、機嫌がいいのか笑みを絶やさずにイルカをみてくるカカシは不思議だったが、それも薬のせいかもしれない。
 少しばかり気まずく思いながらも、カカシはイルカをみているだけなので、そのまま子どもたちの様子見を続けると、点が決まったのか一際大きな子どもの声が公園に響いた。

 悔しがる声と喜ぶ声、それから帰りが遅くなったと焦る声が入り混じって、すぐに子どもたちの影は無くなった。みな、無事に帰るようだ。
 さて、次のポイントに向かおうとベンチから立ち上がると、カカシはひらひらと手のひらを泳がせて、

「無茶、しないようにね」

 労わりの言葉に頭をさげて、イルカは目的地へ足を急がせた。







 見回りが三日ほども続いただろうか。
 そのあいだ、イルカは色んな人物に声をかけられた。

 初日の店先での女性など良心的なものだった。
 チラチラとイルカを見たり、後をつけてくるものは可愛いぐらいで、あからさまに「遊ばないかい」とからかう口調で目が真剣な男女がいたり、「まだまだ暑いねえ」といいながらイルカの頭や肩、身体を触ってくる中年男。おやつをあげるからちょっとついておいで、という女も居た。

 なかには鼻の穴を二倍ほどに膨らませた老人もいて、懐からなにやら紙を差し出してきたが、書面をみると養子縁組届けだった。丁重にお断りした。
 ひときわ酷いのは、いきなりイルカを抱えて走りだし、誘拐まがいのことをしようとした若い男が居たが、偶然にもカカシが通り合わせ、イルカが打ちのめすまえに取り押さえてくれた。

 カカシも不思議な男だ。
 見回りを始めてから、どこかしらで必ず出会う。

 服装こそ一般的な里人の格好をしているのだが、あの綺麗な顔と世慣れした雰囲気で、きっと目立っているに違いないのに、背後から声をかけられるまでイルカは気づかないことが多く、たいていビクッとしてしまう。

 その現れ方も、忍びでなければ不審者かといいたくなるようなもので、イルカはいつも変な汗をかいてしまう。
 それというのも、初日が終わった次の日のことだった。

 薬の効果の報告のために、イビキのもとに訪ねた際だ。何人に声をかけられ何人に物をもらい、などと報告する流れで、カカシにも遭遇したことを話すと、それまでフムフムと口を挟むことなく聞いていたイビキが、ふと考え込み、それはまずいな、といったのだ。

 そして、険しい顔になったかと思うと、重々しく、けっしてカカシに油断するな、と告げた。
 どういう意味か問いかえすイルカに、

「いいか、この捜査のために薬を飲んでいるあいだ、絶対に、いいか、絶対に、奴の前で元の姿に戻ってはいけないぞ」
「元、ですか? 元の年齢の姿、ってことですよね」
「そうだ。そして油断するな。奴に、幼児を性愛対象にする性癖があると聞いたことはないが、用心にこしたことはないからな。いいか、自分の身が可愛ければ、絶対に大人の姿に戻るなよ」

 ハッとした。
 もしかしてカカシは捜査線上にいるのではないだろうか。カカシが犯人だとして、犯行のあった場所で必ず出会うことも納得できる。

 だから、二日目からイルカはカカシに対しても気を引き締めた。姿かたちの特徴がはっきりしない、ということからも、忍びの犯行である可能性は高いのだから、用心して然るべきだ。
 だが、カカシは態度を硬くしたイルカへ、なぜか笑みをいっそう深くして「真面目に働いてるイルカ先生は素敵ですねえ」と言っていた。からかっているのだろう。

 その日も、イルカは仕事を定時にあがり、子どもの姿に化けて大通りにでていた。もちろん薬は飲んでいる。晩飯代わりの棒飯を歩き食いしながら、自分に注がれる視線の元を探る。
 いくつかあるが、声をかけてくる様子は無い。

 ここ数日で、犯行のあった場所は回り終えた。
 どこもカカシ以外、怪しい男は居なかった。
 子どもたちも、事件のことを知って止められているのか、遊んでいる姿は少なく、見回りは案外早くすんでしまう。

 さて、次はどこを見回ろうか。
 鼻息を粗くしているような人影もないことだし、と向かった先は、里から一番近い演習場の端だ。
 事件が起きたことはないが、大人の目が届かない木々の生い茂った場所がある。
 念のためだ、と思いながら歩いていると、道の先からふらりとカカシが現れた。

「おっと、偶然ですね」
「…そうですね」

 偶然も四日以上続けば、偶然ではないだろう。

「その姿も見慣れちゃったなあ。そろそろいつものイルカ先生も見たいもんです」
「…解決が遅れて申し訳ありません」
「やだなあ、そういう意味じゃないですよ」

 変わらず機嫌よさそうにイルカを見下ろしてくるカカシを、睨み上げる。厭味かこのやろう。
 そうするとますます相好を崩すから、舐められているとしか思えない。

 この様子では、アンタを疑っています、と言っても笑って受け流されてしまうだろう。ましてや腕ききで名のある上忍だ。捕らえるなら決定的な証拠を掴まなくては。

「まだ見回りの途中ですか?」
「ええ…まあ」
「この先は演習場ですか。あそこ、木が茂ってるから暗いとこ多いですよねえ。知ってます? 端にある柵、岩にあたってるところが途切れてて、そこから向こう側に出れるらしいんですよ」

 何を言うのか、とカカシを見上げる。

「俺のきいた話じゃ、出た先に登るのに良い感じのでかい木と、ちょっとした木いちごの茂みがあるそうで。子どもたちのあいだじゃ、特別な奴しか出入りできないとこだそうで。センセイの言うことも聞かないようないたずらっ子とか、ね」

 詳しい情報だ。
 イルカにしてみれば、有益な情報だったが、いまの状況からすると、どうしてそんなことまで知ってるんだ、といいたくなる。しかも、満面の笑顔で言ってくるから余計に怪しい。

 だから、顔一杯に「アンタ怪しい」と描くように疑わしい目で見ていると、カカシは苦笑してひょいと肩をすくめ、

「じゃあ俺はこれで。あんまり話してると、犯人に怪しまれちゃうかもしれないしね」

 頑張ってねイルカせんせ、と言い残してカカシは通り過ぎていった。
 怪しいことこの上ない行動なのに、イルカの邪魔をするわけではないようだ。一瞬、そのまま後をつけようかと思ったが、カカシの話にあった演習場の奥へといくことにした。
 わざわざ教えるということは、行ってみて損はないはずだ。無茶はしないように、と教頭は言っていたが、罠にかかるなら本望。イルカは囮役だ。








 演習場に着いたとき、見渡せる場所には人気はなかった。もちろん、子どもの姿もない。
 ぐるりと見回し、柵をたどって木々の奥へと進んでいく。

 果たして、カカシのいうように、大きな岩壁が柵を一部分だけ途切れさせていた。小さな子どもなら通り抜けられるかもしれない、というような隙間が確かにあった。しかも、そこだけ柵の塗装が擦り切れている。頻繁に子どもたちはここを潜り抜けていたらしい。

「…ったく。あとで塞いでもらわねぇとな」

 ぶつぶついいながら、子どもの体格ゆえに、イルカも同じように柵をくぐる。大人なら簡単に乗り越えられるのに。
 土を膝につけながらくぐると、うっすらと草の茂りが浅い部分が、奥のほうへと続いていた。道になっているようだ。

「けっこう出入りしてたのか…? 危ねぇなあ」

 演習場の外には、野犬などの野生の動物の危険が高い。子どもだけでの立ち入りは基本、禁じられている。
 今日の帰りにでも管理局のほうに寄って、と思ったとき、はっきりとした助けを呼ぶ声が聞こえた。

「…ッ、子ども!?」

 甲高い声は、まさしく子どもの声だ。
 聞こえるままに、潅木を掻き分けて奥へと駆け入った。

 見つけたのは、低い位置に太い枝を両側に大きく広げている大木の根元。夜になって顔もよくみえないほどになった暗がりに、少年がひとりで蹲っていた。

「…! おい!」

 血の気が引いて、駆け寄った。イルカの呼びかけに少年は、ゆっくりと顔を上げた。アカデミーの年少組みから年長組みに変わるぐらいの、まだあどけない年頃の少年だった。憔悴している。

「どうした…どうしたの、大丈夫?」

 咄嗟に言い方を子どものように変える。イルカも見た目は、せいぜい年長組みの年頃なのだから。
 少年は、小さな声で、気づいたらここにいたと言った。知らない人に話しかけられ、飴をもらい口にいれた途端に、記憶がなくなったと言う。

 イルカは歯をかみ締めた。これまでの子どもたちの手口とまるで一緒だ。その無用心さを叱ることもできるが、今はとにかく痛ましい。

「どこか、痛いところある? 歩ける?」

 少年は、首を横に振った。イルカはギクリとしたが、項垂れた少年は、足を挫いてると悲しそうに言って、ホッとさせた。
 とにかく、こんなところにいつまでも居てはいけない。話をきくにしても、いったん警備本部まで戻ろう。カカシがここの情報を知っていたことも、今は後回しだ。
 イルカは少年に背を向けてしゃがんだ。

「じゃあほら、俺がおぶってやるよ。乗っかれよ」
「……、…うん」

 おずおずといった様子で、少年がイルカの背に重なる。しっかりと足をもって、イルカは元来た道へと戻った。
 歩き始めて数歩もいかないうちだろうか。
 少年が、

「おなか減ったなあ…」

 と切なそうに呟いた。それもそうだろう。もう陽はすっかり落ちて、子どもでなくても夕飯の時間が終わるころだ。
 なにか小腹を満たすような甘いもの、たとえば飴などの駄菓子を持ち歩いていればよかったな、とイルカが思い浮かべたとき、少年が、「あ」と嬉しそうな声をあげた。

「どうした?」
「ボク、飴ちゃん持ってた。これね、とっても美味しいんだよ。ねぇお兄ちゃん、助けてくれたお礼に一個あげる」

 背中でごそごそと動いたかとおもうと、にゅっとイルカの目の前に、包み紙が両端で絞ってあるアメが差し出された。駄菓子によくあるような代物だ。
 イルカは苦笑した。

「いいって、お前が食べろよ。腹、減ってんだろ」
「うん、でももう一個あるから。ね、これあげる、食べて。ボクもうガマンできないや」

 小さい子どもなりに、お礼の気持ちなのだろう。せがまれると、それ以上厚意を無にするのが申し訳なくなって、イルカはとうとう頷いてしまった。

「しょうがねぇなあ」
「よかったあ。じゃあボクがお口に入れてあげる。はい、お口あーんして」

 そんなことを言われるのは、いったい何十年ぶりだろう。くすぐったく笑いながら、イルカは口をあけた。後ろから伸びた細い子どもの手が、器用に包み紙を開けて、丸いアメをイルカの口へと放り込んだ。
 舌に感じたのは、懐かしい甘さ。


 そして次に、―――痺れ。


「…ッ」

 驚きで、現実が信じがたかった。
 舌の上で溶け出す飴玉を、早く吐き出そうとしたイルカの口を、後ろから手のひらが塞いだ。

「んー…!」
「ダメだよぉ、お兄ちゃん。せっかくボク特製のアメちゃん、吐き出しちゃぁボク泣いちゃうかも。うふふふふ、ねぇ、お兄ちゃん。なんだかお兄ちゃんって良い匂いがするねぇ、ガマンできないよ…」

 イルカの口を塞いでくる手は、イルカが振り払えないほど強い力で、混乱した頭に、背中にあたる硬いものの感触がはっきりと分かった。腰のあたりに、ぐりぐりとこすり付けられる。

「舐めたいなぁ、いい? いいよね? アソコまで綺麗に舐めてあげるね。お兄ちゃんのあのお汁も、こんな良い匂い、ねぇ…するかなあぁあ」

 はぁはぁと耳元で囁かれる声は確かに子どもの甲高さがあるのに、言葉と腰に当たっている硬さは絶対に子どもではない。
 ぞっとしたが、咥内にある甘さはもう、喉まで入ってきてしまっている。それに飲み込んでいないのに、既に舌が痺れている。一刻もはやく、吐き出さなければいけないと分かっているのに、できない。汗がこめかみに流れる。

 こうなれば、変化の術を解いて―――、

「もうガマンできないや、お兄ちゃんにボクのかけるだけじゃガマンできないや、ねぇ入れていい? いいよねぇ、ねぇね――――――」

 ―――ガン…!!

 と顔の真横で音がした気がした。
 実際には、背中に張り付いていた少年、だったらしきものが、後ろに派手に吹っ飛んだときの、殴られた音だった。
 目の前に、カカシがいた。

 笑顔を浮かべている。
 汗が、頬を伝った。
「いいわけないよねえ、イルカせんせ?」

 囁かれた声に、返事はできなかった。
 首元を引き寄せられたかと思うと、唇を塞がれ、酷く大きく感じる太い舌が、イルカの咥内に入り込んできた。

「んッ、んん…!」

 飴玉があっというまに口のなかから消える。

「―――…ふぅん、子ども相手だったらこれぐらいの量でも効くんだね」

 確認のような独り言が囁かれ、もう飴玉はないというのに思う様、痺れた舌を舐られ吸われ擦り合わされた。子どもの姿だからだろう、カカシの口はとても大きく思え、まるで食べられているようだった。あふれた唾液が飲み込めずに、涎のように口端から溢れる。

 ようやく唇が離されたときには、もう目が霞んで何も考えられなかった。体の力も抜けて、カカシに抱きかかえられるままだ。はぁはぁと荒い息をついていると、太い指がイルカの口元を拭っていった。
 ぼんやりと頭の上で交わされる会話を聞く。

「―――いい加減その変化といてくれない? 子ども殴ったみたいで俺が気持ち悪い。三秒以内にとかないと、そのおっ勃ってる汚いチンコ、切り落とすよ、ハイ、いーち、にー」

 ヒィッ、という悲鳴が響いた。
 それ以上は聞こえなかったから、切り落としはしなかったようだ。

「…あぁ、やっぱりアンタでしたか。俺たちにも足掴ませなかったのはさすがだったけど、やりすぎでしたね。だからこそ、目星がついた」

 カカシ先輩、と他の声がした。気配もいくつか。カカシ以外にも誰かいるようだ。だるい首を動かすと、視界に暗部服がみえてビクッとする。
 それに気づいたカカシが、イルカの背中を、子どもがするようによしよしと撫でた。

「大丈夫、大丈夫ですよ。みんないるから、あとはどうにかなります。立派に役目はたしましたよ、お疲れ様」

 抱えられて、撫でられながらそんなことを言われたものだから、不覚にも涙腺が緩みそうになった。そんな風に甘やかされるのは慣れていない。

「じゃあ連れて行って。ああ、そこの二人は自宅のほうに証拠品押収しにいって。そのあと、イビキにイルカ先生が怪我したから、俺が責任もって明後日まで手当てします、って言っといてよ」

 ん? と感じたが、イルカがなにかを言う前に、周囲から声があがった。

「そりゃないっすよ〜。俺たちが怒られるんですよ、それ絶対。イビキさん怖いんですから先輩が直接、式送ってくださいよ〜」
「うっさいね。お前たちだって、腹ペコのときに美味そうな料理が目の前にあったらどうするよ。食うでしょうが。俺だってそうなの。きゅんきゅんしてんの、今、たいへん」
「いや気色悪いですよ、本気で。先輩の売りは冷静沈着じゃなかったでしたっけ」
「あ、俺いま別に売り出し中じゃないから」
「ずっけぇ!」

 非難の声はひとりでなく、合唱のように聞こえた。

「じゃーね。捕り物の協力はしたでしょ、あとの始末は任せるよ。俺は囮の子の介抱しなきゃね」

 介抱、という言葉のわりに心浮き立つような声音にたいして、目的はどうせそれだったんでしょ、とやさぐれた声も聞こえたが、その続きをイルカが聞くことはなかった。
 ぐん、と加重がかかり、痺れ薬の回ったイルカの意識はぷつりと途絶えたのだった。










「じゃあねぇ、痺れ薬の成分を早く出すために、ちょっと、汗とか体液を出していかないと、ね?」

 見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上で、笑顔のカカシが言った言葉が、それ。
 拒否権を行使する間はない。
 イルカが上手く動かない舌を操ろうとするまえに、唇を塞がれた。今度の舌は大きくない。自分の身体が元の大きさに戻っていると気づいた。

「あ、さすがに俺は子ども相手に勃たないからねー。術、解いちゃいました」

 いったん唇を離したカカシがなんでもないことのように言う。

「だまし、ましたね…!?」
「やだなあ。捜査の迅速な解決のために、ってやつですよ。あなたの子ども姿も愛らしかったけど、ミルクの匂いをぷんぷんさせて、ほんと子犬みたいでずっと眺めてたかったけど、本命以外の悪い虫が引っかかっちゃ困るでしょ? ちょっとした噂を流して様子をみただけですよ」

 結局、カカシは捜査側の人間だったのだ。疑ってバカをみた。しかもまんまと囮役の役目をまっとうさせられ、なぜかカカシに組み敷かれている。
 服があっというまに剥ぎ取られ、素肌にカカシの体温が触った。わき腹を撫で上げられる。

「ふふ、体温、高いね」

 言いながらカカシの顔が胸元に降りていき、湿った暖かいものが胸の突起をぐるりとなぞっていく。唇で啄ばまれ、舌先で押されて、先端を穿るように何度も刺激される。
 甘い、と囁きが聞こえた。
 手のひらは背中を下に下りていき、イルカの尻の容を確かめるようになぞってから、前へと移動してきた。

「…ちょっと…ッ、あの…!」
「大丈夫大丈夫、体液出して気持ちよくなろうねえ」

 絶対に嘘だ。
 思うが、組み敷かれた身体は、どうやっても抜け出せそうにない。与えられる刺激で身体が震える。
 カカシの指が無遠慮に動いて、容赦なく柔らかいところを擦りたててくる。

「あ、あぁ…」

 ぷちゅ、と先走りの液体の音が聞こえた気がして、イルカは羞恥に顔を染めた。逃げようとして身体がずり上がる。それをカカシが引きずり戻して、ぎゅぅ、と握られた。

「やめ…っ、あ、あ…、んん…ッ」

 先を爪で弄られ、喉が鳴る。
 三本の指で根元から亀頭までを扱かれて、乳首を舌で弄られ、あっけなくイルカは精液を吐き出した。一瞬張り詰めた身体が、先端からぬめった液が少しずつ湧き出るたびに弛緩していく。
 飲み込んだ息をイルカが吐いたとき、

「精液も甘いのかな」

 酷い呟きが聞こえて、咄嗟に逃げようとした身体はまた腰をつかまれ、戻される。カカシの頭がイルカの下半身に近づいて、怖くて視線をそらせたものの、先ほど力を失ったものが、ぬるりとした暖かいものに包まれて、ざらり、と擦られた。

「ひッ、や、やめて、ください…! そんな、や、ああ、いた、痛い、です…っ」

 ふふふ、と笑った吐息が敏感なところにかかり、イルカは身を竦ませた。
 嘘ばっかり、といわれる。

 舌は、再び硬くなりはじめたそれに巻きつき、咥内のざらつきが先に当たっては、引かれて唇が先を吸う。腰の熱さが増して、熱をもったものが集まって、イルカは喘いだ。やめてほしい。そんなことをしないでほしい。そんなところを舐めないで、吸わないでほしい。啜らないで。

「やめ、てくだ…、あぁ、あ、あ」

 太い指が、イルカの後ろに回った。
 無理やりに肉が開かれ、奥の窄みに指先が触る。遠慮なく周りを押し、粘着質な音を立て始めた前と動きを一緒にして、ゆるゆると指先が入ってくる。苦しくて圧迫感のあるものが、イルカの粘膜を押し広げ、不快感と痛みとともに入ってくる。

 痛いぃ、と堪らず喘げば、可愛い、と囁かれて情けなく涙が滲む。
 前の解放は、高まる寸前にやんわりと押し留められ、後ろの気持ち悪さも手伝ってなかなか来ない。
 圧迫感と快感がいっしょくたになって、よくわからなくなる。イルカの体内を広げていく指は容赦なく、奥へ奥へと捻り込まれていく。

「う…ぁ、や、いや、だ」

 逃げようとしても、急所は咥えられ指が体内で蠢いていて、下半身はいうことをきかない。カカシが粘膜を擦り、奥へと指を進めている目的は、疎いイルカでも分かっていて、なんで自分がこんな目に、と泣けてきた。

 気持ちいいのと、苦しいのと、情けないが一緒くたになって、喉が震える。ずび、と鼻を啜ると、カカシの口が硬くなったものから離れた。ずり上がってきて、イルカと目が合う。

「泣いてるの? 涙も甘いかな?」

 言いながら目尻を舐められる。

「うぅ〜っ」
「あ、本当に泣いてる。どうしたの? イルカせんせ」
「ど、どうしてこんなことするんですかっ、こんな、こんなこと」
「どうして、って」
「俺のこと笑ったり罠にかけたり助けてくれたり任務だけどこんなことしたり…お、俺のことそんなに嫌いなんですか、嫌いなんでしょう!?」

 言っているうちに混乱してきて、自分は裸だしわけが分からないし、カカシも裸でイルカが喋っているあいだも指は動いているしで、最後は声が潤んでいた。
 カカシはそんなイルカをみて、笑った。
 蕩けそうな笑顔で。

「好きですよ」

 ぽかんとしたイルカの片足を、カカシは肩へとかけた。指が、さらに奥へと潜り込む。ちゅぷ、と粘膜に押し出された液体が鳴って、指が根元まで入って、イルカの中をかき回し始めて、イルカは喉を反らせた。
 あ、あ、と反射的に声が鳴る。
 耳朶に囁きが吹き込まれる。

「最初に話したときから、好きでした。あなたが囮役だってきいて、手伝うことを決めたんだよ。いい匂いさせてて、ずっとこうしたくて堪んなかった。好きだよ、好き。イルカ先生、あなたが好きだから、こんなこと、してるんだよ」

 硬いものが、入り口にあてがわれた。ぬる、と先がイルカの中に割り込んでくる。

「あ、あぁ、あ」

 両足を左右に広げられ、カカシがイルカの身体を抱きしめ、腰を押し付けるたびに、窮屈な場所に太すぎるものが、ぐ、ぐ、と入っていく。圧迫される苦しさと言いようのない気持ち悪さがイルカを襲って、抱きしめてくるカカシにしがみついた。

 耳朶に好きだよ、と囁き続ける相手しか、つかまれるものがなかった。
 耳朶がぬめりに包まれて、裏側を舌でなぞられ聞こえる音まで犯される。体内に熱く苦しいものがいっぱいに詰まって、吐き出す息や喉からでる声が喘ぎになり、出し入れされて粘ついた音をたてるイルカの粘膜の奥に、膨れ上がった熱が弾けたとき、イルカの意識は綺麗に飛んだ。










***










「酷いです」

 イビキに会ったときの、イルカの開口一番がそれだった。
 それはそうだろう。
 こんなタチの悪い虫までおびき寄せる薬などと、言ってくれなかった。いや、言っていた気もするが、もうちょっと警告してほしかった。

 薬理研究棟にイビキのための仕事部屋があり、そこに押しかけたわけだが、イビキは驚いた風にしつつもあっさりと反論した。

「いや、したぞ」
「いつですか」
「カカシの前では絶対に、元の姿に戻るなっていったろう。あれだ」
「分かりませんよ! むしろ怪しいって思うじゃないですかっ」
「イルカ先生限定で俺限定、って意味でね」

 言ったのは、イルカの背中にべったりと張り付く、銀髪の胡散臭そうな男だ。ニコニコと、渋い顔のイビキと、大型犬にじゃれつく子犬のようにくってかかっているイルカを見ている。里人の姿をしていれば、女が群がりそうなほど見目がよかったのに、顔半分を隠して、ましてや同じぐらいの身長であるイルカにべったり張り付いていれば、どんなに男前であっても奇怪に映る。

「ちょっと、カカシさん、いい加減に俺の背中から離れてください。遠ざかってください。暑いです、うっとうしいです」
「あとで気のすむまで触らせてくれたら、離れてもいいですよ」
「……」

 今朝、目が覚めたときからこの調子だ。投げやりになって上司とも思わない口をきいても、ニコニコしている。イルカの言葉など、風のそよぎより軽いのだろうか。

「まあとにかく、ご苦労だったな、イルカ」

 とりなすようにイビキが言ったが、その気持ちがあるなら、この背中の上忍をどこかへやってほしい。後ろから頭を撫でるのはいいが、匂いを嗅ぐように耳の後ろに口元を近づけるのはよしてほしい。

「言い訳のしようのないところを押さえたからな、久しぶりに気合の入った拷問ができるかと楽しみにしてたんだが、素直に白状してくれてな。おかげで全面解決しそうだよ」
「それは…良かったですけど。子どもたちも安心して遊べますし」

 元暗部の小隊長でもあった男の犯行だったらしい。そのために下忍はおろか中忍、上忍でも証拠を押さえられず、今に至っていた。だからこそ、誘引剤を使っての囮捜査になったわけだが。

「カカシ、お前さんも…といいたいところだが、お前に限っては報酬のほうが大きかっただろう」
「そーね。ま、もともとあいつらだけで充分だったんだよ、それを楽したいからって俺を引っ張り出そうとしたんだもん。ご褒美がなけりゃ、やってられないよ」
「そういうな。実際、お前さんの情報がなければ、もっと手間取っていただろうよ。言っていたぞ、どうしてそんなに変質者の出るポイントに詳しいのか、気になるけど怖いから訊けません、ってな」
「ふぅん、そんなこと言ってたんだ、あいつら」

 軽く笑った吐息が首筋にかかり、イルカは反射的に肩をすくめた。

「ま、いいけどね。そのおかげで、こんな可愛い人と―――、って、痛い痛い、イルカせんせ、髪引っ張らないでくださいよ」
「う、うるさい! あなただって充分変質者だってこと自覚しろ! ていうか、違います、イビキさん、俺はイビキさんに訊きたいことがあって来たんです!」

 しつこく肩口に居続けるカカシの頭髪を引っ張って引き剥がして、イビキに詰め寄った。

「あの薬、もう抜けてますよね!? 俺もう変な匂いしてないですよね!?」

 ぽかんとしたイビキと、鼻息の荒いイルカ。それをみて、引き剥がされたカカシが腹を抱えて大笑いをした。そして言う。

「イビキ、その人ね、俺が薬で惑わされてんだ、って信じたいんだよ。薬が効いてるから、変なことしたりくっ付いてくるんだって思いたいみたい。ね、可愛いでしょ?」

 イビキは奇妙な顔になった。酢を飲んだ直後の顔のようだった。そして、おもむろにイルカに向き直ったかと思うと、大きな手のひらをイルカの両肩に乗せた。
 重々しく、告げた。

「現実を直視しろ。認識しなければ、問題の解決は遠いぞ」
「い、いーやーだー!」
「はは、ほんと可愛くて面白いなあ」

 絶望的な目で頭を抱えるイルカをみて、嬉しそうに笑うカカシに、イビキはため息をつきつつ一枚の紙を取り出してみせた。

「まったく…真面目な奴をあまり振り回していると、お前の真実も信じてもらえなくなる。楽しむのはほどほどにしておくんだな」

 ふ、とカカシの笑みが消え、分かってるよ、と苦笑が取って代わった。イルカは二人の会話などきくつもりがないようで、しゃがみこんで丸くなり、現実逃避している。時折、ぶつぶつと、「あのとき教頭先生が無茶しないようにって言ったのに…俺ってやつは、自分から不幸になって、俺ってやつは…!」と呟いている。ほほえましい。

「…それで、これなに? 占用契約書?」
「ああ、あの薬はまだ未完成の部分もあるが、もとはお前の案から生まれたようなものだっただろう。思ったより効果も高かった。だから契約、ということにして、こちらで使用を任せてもらいたい。…個人的に使われては危険だ、というむきもあるが」
「ふぅん。まあ俺には用のない薬だからね、それは構わないよ。にしても、―――なに、この名前」

 カカシの視線が、紙面の一点でとまって、呆れ顔になる。いや、口布のしたの口元が微妙につりあがって、笑いを堪えているようでもある。
 イビキが、気づいてくれたか、とでもいうように嬉しげに顔をほころばせた。

「それか! ずいぶん長いこと悩んだんだがな、報告にきた奴が、お前が言っていたという話しをしてくれてな。聞いた途端に、俺は閃いたよ!」
「閃いた、ねえ。ま、いいけど? 使うときに恥ずかしくて使えなくなっちゃうかもしれないけどね」

 言いながら、あっさりとカカシは血判を押して、イビキへと紙面を返した。そしてしゃがみこんでいたままのイルカを、救い上げて担ぎ上げた。

「うわぁ!」
「じゃ、俺が正気だってことが分かったんだし、問題解決だね。お休みもまだ一日あるし、家に帰りましょうか。二人の家に」
「二人じゃねぇ、アンタだけの家だ!」
「まあまあ、今日一日でイルカ先生の家だって思えるぐらい、お互いを知り合いましょうよ」
「いやだー!」
「あんまり手荒にするんじゃないぞ、カカシ」
「誰に言ってるの、俺は紳士だよ」

 どこがだ、ともがきつつ必死で入れたイルカの突っ込みは二人に無視された。
 じゃあね、とカカシがいう。
 イルカを担いだまま扉から出るさい、

「そういえばその飴、口からもいいけど、違うとこから摂取させても反応良かったよ。臨床実験の余地あるんじゃない?」

 あんぐりとイルカの口が開く。愕然とした、というより羞恥のあまり真っ白になった、といった態だ。
 イビキが、一際輝くような笑顔になった。

「よし、後は任せろ! きゅんきゅんキャンディは俺が完成させてやるよ」
「うん、任せたよ」

 忌まわしい薬の名前が、イルカの脳みそに届くまで、何拍かが過ぎ、扉が閉まったとき、ようやく

『いーやーだーあーー!』

 という悲痛な叫びが廊下に響いたのだった。




‐終‐ 2010.09.11