カカシがイルカを見つけたのは、陽が沈みかけたアカデミーの屋上でだった。
受付でおおよその所在地をきいていたものの、普段イルカが居るはずのない場所だったために、探すのに手間取ってしまった。
屋上には屋外灯がすでに点り、いくつかのベンチが置いてあったが、それに座ってなぜか項垂れて頭を抱えているようだ。
陽が暮れかけ、まだ風は冷たい。
話しをきこうと捜していたが、常にない様子が気になる。
ひとまず屋内に連れ入ったほうがいいかもしれない。
「―――具合、悪いの?」
近くまで行き声をかけた。
途端に、ビクリとイルカの肩が跳ねた。別段、気配を消していたわけではないが、声をかけるまでカカシに気づいてなかったようだった。
そろりと顔があがる。
外灯の光りはぼんやりとしていて、イルカの顔色が悪いかどうかは分からなかった。だが、カカシと視線が合い、しっかりと見つめてきたから、具合が悪くて座り込んでいるようではないと安堵した。
だが、イルカの視線はしばらくカカシを見ていたかとおもうと、またゆっくりと降りてしまった。そして、手のひらで顔を覆う。はぁ、ともあぁ、ともつかない長いため息が聞こえた。
どうやら、体調不良でなく落ち込んでいるだけのようだが、いつまでもこんなところにいては風邪をひいてしまう。
「あのさあ、何があったか知りませんけど、とりあえず中で考えることにしちゃどう? こんなとこ居て、身体が冷えるでしょうが」
「……」
イルカは動かず、返事もなかった。無視されたようだ。
思ったより深刻らしい。
カカシもため息をつき、仕方がなくイルカの左隣に座った。イルカが避けるように尻をずらして間を空けたから、並んで座っても暖かくもなんともないが、立ったままよりはマシだろう。風除けにもなれる。
そもそも、イルカを探していたのは話しがあったからだ。
先日、酷い失態をカカシはおかした。思い出すのも、未だに舌を噛み切りたいほど腹立たしく、情けない一件だった。あのときはイルカの具合も悪く、間抜けな死に方も、思い余っての強姦犯になることも避けられた。
だが、その夜からイルカの様子がおかしくなった。
今までなら、布団に押し込んでおけば三数える間に寝ていたというのに、寝ないどころか、やっぱり帰りますとふらつきながら玄関に向かう。きつく押し留めて寝かせると、今度は寝付こうとしない。あげくに、寝付けないためかトイレに立ったあと、半刻たっても帰ってこないから見に行けば、トイレの扉を開けたまま床で寝こけていた。眠気が我慢の限界なら布団で素直に寝ればいい。
結局、その夜は寝こけていたイルカを起こさないよう抱き上げ、布団に入れて、やっとカカシも寝ることができた。トイレが入浴中でなかっただけ、まだ良かったと思いながら。
朝も様子が変だった。朝飯はカカシの分だけ作り置きされていて、礼のメモを残してイルカは帰っていた。それだけなら、朝早くからの予定があったのかと思うところだが、次の日からあからさまに避けられ続けた。
いつまでもずるずると、アカデミーや受付に根を生やしているのが最近の常だったくせに、ここ一週間ほどは「あ、少し前に仕事が終わって帰宅しました」や「イルカですか? あぁ今夜から夜勤が二日続いてますね、呼んできましょうか? …え? いいんですか?」とやらで、顔もみていなかった。
一度などは、受付の奥で書類整理をしていたから呼ぼうとすれば、慌てた様子で棚の向こう側へ隠れた上に、同僚らしき若い女性が出てきて「その…いまちょっと、どうしても、手が離せなくて、朝の勤務交代時間までずっと席から離れられないのですいません、とのことです」と酷く申し訳なさそうに言われた。
そのときの、本当に心苦しそうな女の顔を思い出して、はぁ、とカカシは軽くため息をつき、膝を支えにして頬杖をついた。先ほどイルカの行き先をきいたときと同じ人物だったような気がしていて、いまさら自分がみっともないな、と思えてきた。
しかも結果的に、イルカの子どもを育てて、イルカには仲の良い家族に囲まれ幸福で穏やかな老衰死によって寿命をまっとうしてもらうという、カカシの夢が遠のいている気がする。
イルカが元気なら、カカシとしてはそれで構わない。
構わないのだが、様子が変だから理由だけははっきりさせておきたかった。
先日の一件もあり、世話を焼きすぎて嫌気を覚えられた、という可能性は大きい。自覚は大いにある。
だから、話しの流れによっては、今日でイルカと話すのも最後になるかもしれないな、とまで考えていた。
イルカにしても、嫌いな人物にまとわりつかれるのは、心身ともに疲れるだろうし―――。
「―――…さっき、…知り合いと、話してたんですけど」
黙りこくっていたイルカが、ぽつりと話し始めた。
はぁ、と気のない返答をすると、同じように気の抜けたような声で続ける。
左から来ている風は身体を冷やすが、まだ大丈夫だ。
「俺に、紹介しろっていうんです」
「はぁ」
「女性を」
「女を?」
イルカの友人関係に、紹介するに至る懇意な関係の女性はいただろうか。
いればカカシがこんなにもしゃしゃり出ることはないのだが。
だが、イルカが「あなたに」と、水滴が落ちるように言葉を付けたしたから、話しが繋がった。イルカが、ではなく、イルカを介してということだったらしい。あぁ、と納得して相槌を打った。
「それで、そういう話しには縁がないのに、断りきれなくて受けちゃって、で憂鬱になってんですか、あんた?」
呆れたが、そういう事情なら面倒臭いが会って断っても良いと思う。イルカの人間関係が壊れないようにするためなら、労力を払う根拠がある。
イルカが独りで頭を抱えるほどのことでもない。
「どうせ断るけど、それでもいいんなら―――」
「もう、断りました」
カカシは横に座るイルカを見た。
まだ頭は項垂れたままだ。
「そう」
「でもそいつがしつこくて、色々言われるしで、つい、頭にきて…聞いちゃいけねぇ人が居るってわかってたんですけど、なんか…怒鳴ってしまって…」
「今さら怒鳴ったこと、後悔してんの」
まあ上った血が冷めれば、イルカの性格なら頭を抱えるかもしれないな、と思ったが、それも違ったらしい。
「―――…いえ、怒鳴ったこともそうですけど、もっと他の」
「なに」
「…そいつに言ったんです。紹介してほしいって、人を頼るなって。本当に好き…なら、相手が居ても届かなくても、自分で言え、って……言い逃げしてきました」
言って、ますます深くイルカは項垂れてしまった。
話しはそれで終わりらしい。
ふぅん、とカカシは相槌を打ったが、最後まで聞いたが話しが分からなかった。イルカが言うにもっともなことを述べただけのように思えたが。
「それ、どこが問題なの。断り方が荒っぽかったにしても、あんたが言ったことはまともだよ、いいんじゃない」
「……でも、それ、俺が言っていいことじゃなかったんです。自分ができてないくせに、人に偉そうに…八つ当たりでした。だから、俺は最低です」
「は? できないって、なにが」
しばらく迷ったような間をおいて、言い辛そうに
「―――好きな人に言う、ってとこです」
前後の文脈を考えていて、一瞬の間があった。
理解したとたん、は!? とカカシは声をあげてしまった。
「あんた、好きな人、居たの!? 誰ッ」
返事はなかった。
当たり前だ。
よほど懇意な仲でも、こんな不躾で直接的な質問の仕方では答えられないだろう。
あんまりに驚きの事実に、カカシも冷静さを失っていたようだ。
気がはやって、一足飛びに誰だと訊いてしまった。
仄かな殺意は芽生えるかもしれないが、氏名を特定したからといって、闇討ちをしにいくつもりはない。
「―――里の人? 中忍、それとも上忍なの?」
「……上忍、です」
「ふぅん…」
上忍か。
カカシの知っている忍びだろうか。
「歳は」
「多分、俺より…いくつか上だと…」
ではイルカと同じぐらいの年齢か。
「いまどこに居るの」
「…里、ですね。いまは」
カカシの脳内で、いくつかの顔が上がり消える。
外地任務で帰ってきていない部隊や、暗部ではないらしい。
イルカは受付も兼任しているから、受付を利用する忍びなら、誰とでも知り合える機会があるといっていい。受付に就いていて、たまに任務にでる上忍も居る。そのなかで、特にイルカと親しい女は誰だろうと考える。
「どんな人」
「え? え、ぇと、…あんまり愛想はないほうでしょうか…多分、優しい方じゃないかと思うんですが」
項垂れていたイルカが顔を上げて、なぜか遠慮がちに言った。
「多分、とか思うとか、なに、アンタ相手のことあんまり知らないってこと?」
「…ええ、はい」
なんだ、それほど親しくはないらしい。
想いを伝えられないということだったから、遠くから見ているだけ、ということか。
驚いたときに外してしまった頬杖をつきなおして、カカシは息を吐いた。
ショックなのかガッカリなのか安堵なのか、自分でも分からない。それとも全部だろうか。イルカに恋しく想う相手が居た、ということが単純に悲しく憎らしい。だがその相手と上手くいってくれれば、イルカが望むであろう家庭が、夢でなくなる。それはカカシにとって、喜ばしいことだ。
―――喜ばしいことの、はずだ。
「…それで、アンタはこの吹きっ晒しの屋上のベンチで、身の程しらずのこと言い逃げしたからって、頭抱えて唸ってたってわけ? それならもうちょっと冷えないとこでしなさいよ。また具合が―――」
お決まりになってきた小言をいおうとして、カカシは口を噤んだ。
これはいい機会になるんじゃないのか。
イルカに想う相手がいるのなら、カカシがこうやって構いつけているのは、絶対によくない。受付で感じたように、カカシがイルカへあれこれ口を出し関わっていることが周知になるのは、イルカのためによくない。
カカシが関わることをやめる機会は、いまこのときなのかもしれなかった。
「―――いや、もうあんまり言うのは」
言葉の区切りに、いろんな感情が喉につまった。
想いと反対のことをするのは、慣れているはずだ。心を無視して行動するのも慣れている。下半身でさえ、イルカに構っているあいだ、そうとう苦心したがなんとかなった。
だから簡単な言葉で、もうアンタに会うことはないだろう、と言えばいいだけだ。
個人的な接触をすることを止め、触れることも無い。
なまじ、同衾までしてしまったから、カカシも自分が気づかないところで、欲が出てしまったのだろう。
一瞬だけ、言葉に詰まった。
それでも続けた。
「…アンタも、好きな相手に心配してもらえるようになりなさいよ。俺はもう、構うのはよすから。今まで悪かったね」
「カカシ…さん?」
「アンタがあんまり死にそうだったから、ついメシ食べろとか寝ろとか、仕事も邪魔しちゃったけど、それももう止めるからさ、安心して。もう見かけても声、かけないし。俺があれこれ口だしてちゃ、アンタの好きな奴も誤解するかもしれないでしょ?…ホント、そういうことは早く言っといてよ、完全に俺、邪魔者じゃない」
無理に目を笑ったように細めて、ぽかんとした表情のイルカを見る。
あんなにしつこかったのに、いきなりあっさりと干渉をやめると言い出したから、呆れているのだろう。
だが、カカシの行動がカカシの夢の邪魔をしているのがはっきりした今、しょうがない。
イルカにとっても願ったり叶ったりの話しだろうし。
言いながら立ち上がる。
「じゃあ、俺は口出すのやめるけど、あんまり仕事根詰めすぎないようにして、ちゃんとメシも睡眠も…―――」
「カカシさん…!?」
遮った声は鋭かった。
く、と右腕が重くなり、見下ろすとイルカが呆然とした表情で袖を引いていた。
「え…あの、その…止めるんですか…?」
「そりゃあまあ、ね。好きな相手がいるんでしょうが、誤解されちゃあ大変でしょ」
「じゃあ…、じゃあ、もう…」
「俺もアンタの世話焼きすぎたね。アンタも口うるさくて厭き厭きだったでしょ? だからもう―――」
それにここ数日は、あからさまに避けられていたことも、今さら思い出した。
ちょうどいいでしょ、と見下ろすと、イルカの顔がのろのろと下を向く。袖は引かれたままだ。
「どうしたの。…あぁ、俺はアンタと一緒に寝てたとか誰にも言ってないし、いまならまだ、変な噂立ってても、俺が離れれば消えるでしょ。アンタの狙ってる女がどうだか知らないけど、まだ大丈夫だと」
思うよ、と言い掛けたカカシの言葉は、「男です」のイルカのぽつりと落とされた呟きで途切れた。
「…は?」
「男の人、です。好きな人」
はあぁぁぁぁっ? と思わず盛大に奇妙な声をあげてしまった。
それはない。
そんなことは想像外だ。
酷い。
自分の夢が。
「え、ちょっと、勘違いじゃないの。アンタ、女、好きでしょうっ?」
ナルトの話しでは、女体変化で鼻血を吹いたと聞いた。それはつまり、女で興奮するということだ。男も恋愛対象だなんて、聞いたことが無い。
イルカは顔を上げず、袖も掴んだまま、ぼそぼそと答えた。
「男の人を好きになったのは初めてです」
「勘違いじゃなくて」
「違うみたいです」
答える声は溌剌としたものではなかったが、はっきりとした意思が感じられた。誰かに流されて、ではないようだ。
呆然とイルカの俯いた頭を見ていると、あと―――、と言葉が続いた。
「俺の気持ちには、全く気づいていらっしゃいませんし、もうその方にはお相手の女性がいらっしゃるようです」
「……そう」
上手くいかないものだ。
思いがけないイルカの告白にカカシも絶望したところだが、イルカも叶う可能性がない想いを抱えているらしい。
「…諦める気は?」
我ながら酷い質問だと思ったが、訊かずにはいられなかった。
できれば諦めて欲しい。そうすれば、見知らぬ男と共に歩くイルカを、いつの日が見る恐れはなくなる。それに、女ならまだ許せる。だから、諦めて欲しい。
だが、イルカは力なく、
「分かりません」
と答えた。イルカ自身も途方にくれているようでもある。
カカシはため息をつき、頼りなげに摘まれているままの袖を見下ろした。
「…それで? 俺に何かあるの。…その上忍を紹介してくれ、っていうんなら、俺が話しつけれそうな奴だったら、なんとかなると思うけど」
「―――いえ、そうじゃ…そうじゃなくて。その、俺は、こういう気持ちが、たぶん、そう、だとは思うんですが」
俯いたまま、かなり言い辛そうだ。カカシを直視して、にこやかに言われても、カカシとしても腹立たしくなるだろうから、良いのだが。
「だから?」
「今まで男の人相手に、その…恋愛感情を抱いたことがなくて、それで」
「…あのさ、アンタのいう恋愛感情って、ちなみにどこまで」
「え…どこ、とは」
無性に苛立って、質問の形式をとりつつ、その実はイルカのしどろもどろな他人への告白を遮るために、カカシは声をはさんだ。
イルカの顔が上がって、カカシを見る。
「だから、寝る…いや、肉体関係を持ちたいかどうか、ってことだよ」
「え、えぇぇっ? いやその…だから、…はい、触られたい、というか…すいませんっ」
「…俺に謝られてもね」
げんなりした。
訊くんじゃなかった。
頬を染めて他人に触れられたい、と目の前で言われるダメージは予想以上だった。
だが、イルカはまだ言い足りないらしい。
顔は上げたまま、朱色に耳朶まで染めて、それで、と続ける。
「あの、図々しいお願いであることは分かってるんです。一回でいいんです、一回で。この気持ちを確かめるというか、男相手は初めてなんで、実地をお願いしたいというかっ」
「実地? なんの」
「ね、寝て下さいっ、俺と!!」
今度も、話の脈絡を読み取る間が、一秒あいた。
イルカの綺麗に染まった首筋と耳朶。
しかめられた眉。
寝てくださいと叫んだ唇。
ひゅ、と息を吸い込む音が、自分の喉から聞こえた気がした。
「―――…はああぁぁぁぁ…!?」
二度目の、頓狂な叫び。
寝る?
誰が。誰と。
どういう理由で。
混乱する視界の端には、まだしっかりと袖を掴んだままの、イルカの指が見えていた。
2010.08.29