「カカシ先輩、大丈夫でしょうか」

 苦笑するしかない早業でカカシがイルカを連れ去ったあと、後輩が戻ってきて心配そうに言った言葉に、紅はますます笑ってしまった。
 大丈夫なのか、の対象は、もちろんイルカだろう。

 捜す段や駆けつけたときの剣幕をみていれば、心配にもなろうものだが、その手の暴力をカカシが誰かにふるったという話しは聞いたことが無い。
 ましてや不調で苦しむイルカに、手を上げるとは思えなかった。
 去り際の様子では、違う心配をしそうになるが、それは紅が案じることではないだろう。

「お疲れ様。これでカカシに貸しができたから、さあ、なにしてもらおうかしら」
「ふふ。あのカカシ先輩に貸しですか。いいことしちゃったなあ」

 いくつか年下だったはずの後輩は楽しそうだ。
 紅もそうだが、彼女もカカシがいやに切迫した顔で廊下を歩いているところに出くわして、探すことになった口だ。
 そういえば、と後輩が言った。

「凄いんですよ、カカシ先輩。火影岩のところで十人以上かな? の人影があって、それが全部カカシ先輩なんです。影分身の術を使って、国境や演習場に行こうとしてたみたいで。あの人があそこまで動転することってあるんですね」

 たしかに、受付から上忍待機所までの間の廊下で見つからなかったからといって、一気に捜索の手を広げようとするのは気がはやりすぎというものだろう。

 実際、イルカは普段使わない、上忍待機所までの廊下からひとつ上階にずれた廊下で寝こけていた。
 ちょうど柱と防火扉のあいだの窪みに座り込んでいて、廊下を端から一瞥しただけでは見つけにくいところには居たが、通り過ぎればすぐ分かる程度だった。

 そんな初歩的な確認も抜けるほど、あのときのカカシは焦っていたのだ。
 だが、イルカの介抱を短い時間でもしたあとなら、あの焦りも少しは分かった。
 つい、余計な世話と思いながらも言ってしまったが、あんな調子では、いざという事態ではまっさきに死に至るだろう。

 常に死の危険を感じている上忍であればあるほど、イルカの様子は危なっかしく見えるはずだ。
 そして、通常ならば死ぬべくして死ぬのだと、我関せずを貫くだろうカカシをして、あそこまで世話をみるのには、やはり相応の想いがあるのだと改めて分かった夜だった。
 それにしても、と紅は軽く笑う。

「まるで、人攫いじゃない、あれじゃあ」
「なにがですか?」

 カカシが去るよりもあとに追いついた後輩は、カカシが物も言わずにイルカを連れ消えた一幕を見ていない。
 簡潔に、介抱していたらイルカの足が崩れて倒れこみ、支えていたらカカシに引き戻されて瞬身で消えた、と言えば後輩は眉を怪訝そうにしかめた。

「紅先輩はうみのさんを介抱してただけなんですよね? カカシ先輩、なにか誤解してます?」
「違うわよ。それはちゃんと分かってるのに、頭に血が上ってたのよ」
「ああ、見つからなくて」
「じゃなくて、私とくっついてたから」
「えぇ? あれ? ぇ、そこまで?」

 後輩の呆気にとられた顔に、また笑えた。
 まったくその通りだ。

 傍目からみて、カカシのイルカへの構い方は呆気にとられてしまう。
 独占欲の強い世話女房でも敵うまい、と思わせるほどだ。

 そのくせ、将来の夢はイルカの子どもを育てること、などと言っていたから可笑しなものだ。
 イルカへ想いを告げる気はないと言うくせに、イルカの手を引き腕に閉じ込める。
 言っていることとやっていることがちぐはぐだ。
 とはいえ。

「まあ、それが恋心、ってやつなんでしょ」

 カカシ自身、一番ままならないものが自分の心だと、自己嫌悪してそうだ。

「―――ん、ということはですね。私、さっきまでカカシ先輩がうみのさんを怒ってんじゃないかって思ってたんですけど…じつは今頃…!?」

 などと、不意に後輩がキラキラした目で言うから、今度は紅が呆れてしまった。
 何を期待しているのか。

「そんなわけないじゃない」
「でもだって」
「カカシはイルカの世話を焼いてるだけだし、逆もまたそう思ってる。カカシは言うつもりないみたいだし、進展しようがないじゃない」
「ないんですか? あんなに見え見えなのにっ?」

 もっともな指摘に笑ってしまった。
 確かにそうだ。あんなに分かりやすく世話を焼いているのに、当のイルカに恋愛渦中です、といったような色めいた様子がまったくない。

 どうして気づかないんだ、と周りからすれば当然の指摘なわけだが、一度間近でカカシのイルカへの言動をみれば、イルカの誤解もさもありなん、といったところだろう。
 あの冷たさは嫌われているのか、と勘違いするほどだった。
 ただ、それも計算づくなのかもしれない。
 イルカ本人にいうつもりはないのだから。

 どれほど見え見えでも公言しているわけでもなく、紅にしても、はっきりとした言葉できいたわけではない。
 野次馬根性が騒いだ分だけ、勝手に詮索しているだけだ。
 だから、この件に関しての紅のとるべき行動は、ひとつ。

「見え見えでも、首をつっこむ気にはなれないわね。あなた、カカシに蹴飛ばされたい?」

 いえいえ、と後輩が頭を振る。
 少しばかり想像力を働かせてみればいい。
 あれほど執着を見せ付けているイルカに、これこのようにカカシが想いを寄せているのでどうですか、などと話しを持ちかけ、あまつさえ不備が生じたときのことを。

 蹴飛ばされるどころの仕打ちではすまないだろう。
 もっとも、上手くいくことを真実、カカシが望んでいるかどうかは定かではないが。

「じゃあ、黙って見守っててあげましょ。恋愛ごとなんて、本人たちの望むとおりにしかならないんだから」

 それが、先日に受付所で見た一幕から導き出した、紅の結論でもあった。
 見ていて歯痒く、くちばしを突っ込みたいのは物足りない顔の後輩と同様、紅も山々だったが、結局のところ、みているしかないのだと思うようになった。

 カカシが黙っているのなら、それでいいじゃないか。
 幸せな結末を、カカシ本人が望んでいないのなら、なおさら。

「…あのカカシ先輩の、せっかくの恋バナを黙ってるなんて」
「じゃあ誰かに言ってみる?」

 まさか! と不満顔の後輩が即座に打ち消した。
 好奇心より想像力が勝ったらしい。

「それがいいわ」

 唇を形良く吊り上げ、紅は笑った。







 しばらくして、またイルカをみた。

 夕刻にさしかかったころ、建物の傍で同僚らしき男と話しこんでいるようだった。
 階上の廊下の窓から眺める程度だったが、今度はしっかりと二本の足で立ち、ときおり頷く様子もしっかりとしていて、顔色も悪くないようだ。

 あの夜からどうなったのか少しは気にかけていたが、何かがあって見違えるほど健康を取り戻したのだ、と思ったのもつかの間、違和感を感じて紅は足を止めた。
 幸い、同行者は居なかったので、咎めるものも居ない。
 気のせいだろうと、遠目ながらまじまじと見つめてみる。

「…?」

 よく見てみれば、そんなに以前と変わったところはないようだ。
 ひとつ括りの髪型が変わっているわけでもないし、服装もいつもどおり規定の忍服だ。
 劇的に痩せたわけでもなく、太ったわけでもない。顔色は前回よりよくなっているようだ。

 自分の感じた違和感が、再度みなおして、より分からなくなり、紅は考えこんでしまった。
 視線を外して、廊下の壁をみながら考えてみる。

 窓の下では、仕事のやりとりのように見えた二人が、一転して、男がイルカの腕をつかみ頼みごとをしているような様子になり、引け腰になったイルカが後ずさって視線を泳がせる状態になっていた。
 それに気づかず考え事をする紅の姿が、上階の窓に見え、イルカは男を振り切り、館内への扉へと向かう。

 紅が考えから立ち戻ったのは、バタバタと忍びの里らしからぬ足音が聞こえてきてからだった。
 二人分の足音は次第に大きくなり、「待てよ、イルカ!」という声も聞こえてくる。

「だから…っ、断っただろうっ」
「でもお前はそんな気はねぇってさっき言ったじゃないか。だったらいいだろ、カカシさんにウチの妹、紹介してやってくれよ。最近、アイツ、ろくにメシも食わねぇんだ」
「そんなこといっても、俺にいわれても困るって、言ったろ。とにかく、俺は、しないからな」

 珍しい、と思った。
 強い語気で、しない、などと言い放つ人柄だと思っていなかった。
 当たり障りなく、穏便に断りを述べるのだと、イルカのことを思っていたから驚いた。

 途中で二人は立ち止まったらしく、足音が止んでいる。
 気になって足を進めると、声が近くなっていった。

「なんでだよ。お前、カカシさんに最近目ぇかけてもらってるって聞いたから、こうやって頼んでんじゃねぇか。そりゃお前がそういうつもりだったんなら俺も頼まねぇけど、そうじゃねぇんならいいじゃねえか。それともやっぱお前もそのつもりなのか?」
「そのつもり、ってなんだよ。てかなんで俺に頼むんだよ。俺はただの中忍だぞ、暗部あがりの上忍に女の人紹介できるような奴じゃねえんだ、俺は。上忍のツテ探してくれよ」
「だからさあ、そういうんじゃ断られるのが目に見えてんだって、あの人は! イルカ、お前、あの人に特別に目かけてもらってんの分かってんだろ、ちょっとぐらい紹介、してくれよ」
「……だから」
「んだよ、ぐだぐだ言って…やっぱり、お前もカカシさん狙いかよっ」

 聞いているうちに白熱しだしたやりとりは、結局、喧嘩腰になり、相手の男は気分を害したようだった。吐き捨てるような言葉だ。

 紅は気配を消して、壁にもたれて聞いていた。
 すぐ脇から続く階段で、二人は声を荒げている。紅に気づいているのかは分からない。
 イルカは、男の言葉に、つかの間、沈黙していた。

 どんな表情をしているかは、まさか角から顔をだして確認するわけにもいかず、分からない。階段のほうからは、緊迫した雰囲気だけが漂ってくる。
 ふいに、怒鳴り声が響いた。

「―――俺なんかが狙ってたってな、どうしようもねぇんだよ…!!」

 紅の肩が跳ねた。
 それほど、突然の、感情のこもった怒声だった。

「イルカ!?」
「だいたい俺がカカシさんのこと狙ってるだとか、なんでお前の妹さんに関係あるんだよ、そんなの関係ねぇだろうがっ」
「いや、そりゃ、そうかもだけど…」
「俺に断りとか最初いってたけど、それだって俺に言う筋合いじゃねえよ、勝手にしろよ、知らねえよ俺は、相手が…相手が居ようと関係ねぇじゃねぇか、好きなら―――自分で言えよ!!」

 そして、かき消えた気配。
 残された男の唖然とした気配が、伝わってきた。

 紅は額に手を当て、やれやれ、と声に出さずに嘆息する。
 情緒不安定、という言葉あるがまさにそれだ。

 そして、紅が感じた違和感の正体も少しだけ分かってしまった。
 色気、だ。
 正直あのイルカに、その言葉を使うのは躊躇うものがあるが、それでも、以前と今のイルカのどこが変わったか言い表せといわれれば、色めいた、というのが一番しっくりくる。

 以前なら、やつれたかといわれただろう表情さえ、きっと今なら、恋わずらいかと問われそうだと、間近で見直したわけでもなく声を聞いただけなのに、想像してしまった。
 それほど、切ない声だった。

 それにしても、腑に落ちない。
 今になってもまだ、イルカはカカシの気持ちに気づいていないのだろうか。
 足踏みをしたいような焦りが、紅の内に起こる。

 もしイルカがカカシの想いを知っているなら、あんな叫びはあげないだろう。
 知らずに、カカシに想いを伝えたとして冷たく拒まれた場合なら、有り得る。
 もしくは、伝えずに諦める、という選択をしている場合も。

 紅はそっとその場を離れた。
 なにをしているんだろうと自分に軽く自問自答しつつ、紅は足を動かした。
 すぐに、目的地の受付についた。目を動かし、手の空いていそうな受付員を探す。
 偶然、カウンターから出てきた女を、これ幸いと呼び止めた。ちょうど勤務時間の交代のようだ。

「はたけ上忍、ですか?」
「ええ、少し伝えたいことがあるの。できる限り早く。伝言を頼める状態かしら」

 少しお待ちください、といって彼女は受付のなかに戻り、すぐに帰ってきた。
 表情が柔らかい。
 なぜか少し可笑しそうに彼女は言った。

「先ほど里にお戻りになったそうです。他の者がいうには、恐らくこの付近か、アカデミーの職員室かに行かれたのではないかと言っておりました」

 聞いた紅も、彼女同様、微笑むことになってしまった。
 アカデミーの職員室、といえば今のところ思い浮かぶのは一人しかいない。
 受付でも公認になっているのか。

 カカシは、イルカの子どもの面倒を見るんだなどと夢の話しをしていたが、適齢の女性同僚にまで行動のパターンが見透かされている様子では、一番の障害はカカシ自身だろう。

「…分かったわ。じゃあ個人的に捜してみることにするわね。ありがとう」
「いえ、もしはたけ上忍がこちらにいらっしゃいましたら、捜されていたと伝えておきます」

 丁寧な彼女に、もう一度礼をいって受付を出た。
 さて、どうしようか。
 今からカカシが直接イルカに接触するなら、紅はなにもしなくてもよくなるのだ。
 情緒不安定なイルカを放っておくな、とでも言いに行こうと思っていたのだから。

 イルカをあれこれ引っ掻き回している張本人が面倒をみるのなら、部外者がわざわざ口を突っ込まなくてもいい。むしろ、先日そう結論づけたばかりだ。
 あの叫びがあまりに胸に迫って、自分はすこし血迷ったのかもしれない。

 らしくない。
 考え事をしながら進む足はゆっくりで、それでも広くはない屋内だ。
 廊下をすぎ、分岐点に来た。
 片方は屋外へでる廊下、もう一方はアカデミーの職員室へと続く階段。

「……」

 しばらくは迷った。
 好奇心がないといえば嘘になるし、心が揺さぶられる切なさに共感した部分もある。
 けれど、結局のところ、紅が選んだのは屋外へと伸びる廊下だった。

 恋愛は本人たちの望むようにしか、ならない。

 いつかの自分が言った言葉だ。
 望む結果が得られるかの保証など誰もできないが、今のカカシとイルカには相応しい言葉だろう。

 周りがあれこれと口をだしてもしょうがない。
 外にでて、夕暮れに染まりつつあるアカデミーの校舎を遠目に見、紅は家路へと足をむけた。




2010.08.27