「貸し、ひとつよ」
カカシは返答をしなかったように思う。
次の瞬間、身体が振り回されたかのような風圧を感じた。
景色が瞬きをするあいだに変わっていく。
ただ、そのときのイルカが分かったのは、しがない中忍の、それも不調にふらついているイルカなどでは太刀打ちでないほどの力技とすばやさで、自分が抱えられ運ばれているらしい、ということだった。
抵抗など考える暇もない。
当然、風圧と揺れが収まり、そっと柔らかいものに横たえられたとき、イルカは目を回し息も絶え絶えになっていた。
目に見える光景は、薄暗い室内に変わっている。
カカシの寝室のようだった。
おそらく抱えられ運ばれていた時間は、ほんの数十秒ほどだっただろう。
それでも廊下に座り込んで寝入っていたイルカには、充分長く感じられた。
暗い天井が、なぜか近づいてきたり遠ざかったりしているように見える。
ぐったりとしていると、なぜかカカシまでが、横たわるイルカの傍に腰掛けて、俯いていた。
とてつもなく疲れた、といった風情だ。
窓から里の明かりがぼんやりと室内に差し込んで、カカシの姿をうっすらと照らしている。
イルカの眩暈が治まってきても、まだカカシは片手で頭を覆い、項垂れていた。
もしかするとカカシも具合が悪いのだろうか。
ともかく、いつまでもカカシがなにも話さないのなら、こちらから話しかけなければ事態は動かない。
本音を言えば、柔らかいベッドに横たわっている今、そのまま寝入ってしまいたいぐらい心地よかったのだが、そうはいかないだろう。
カカシさん、と呼びかけた声は掠れていた。
気配が揺らいで、呼びかけを聞いてくれたことは分かったが、ただそれだけで返事は無い。
仕方なく、もう一度呼びかけ、起き上がろうと身を捩りながら上半身を起こしたところで、カカシの腕がそれを制した。
顔は相変わらずイルカのほうを見ていないのに、軽くイルカの胸を抑えただけで、イルカはまたベッドへ横たわることになった。
「もうしばらく寝てて。もう少しだけ。もうちょっとだけ、反省したら、アンタの飲むもんとか持ってくるから、もうちょっとだけ、じっとしてて」
「……はい」
早口で言われた。
切羽詰っているようでもあり、怒っているようでもあった。
具合は悪くないようだ。
やがて、吐き捨てるように、
「―――-…なに、やってるんだ、俺は…っ」
静かな室内にその声が響いた。
イルカは、ぼんやりと照らされているカカシの丸まった背中や、腕や、仄かな明かりに透けて光る銀髪の灰色を見ながら、考えていた。
カカシがこんなに、自分を責めるような言葉を吐き出すのは、やはり自分が関係あるのだろう。もっと具体的にいえば、先ほどの紅との一場面のせいだろうとは分かる。
不注意にも、相手が居る女性に抱きついてしまっていたのだ。
そして、よりにもよって、その相手だろうカカシに見られてしまった。
カカシが怒るのはもっともだ。
だから、ごめんなさい、と謝った。
「…は?」
だが、返ってきたのは、呆れた気持ちのたっぷり込められた答えだった。
まるで言ってはいけないことを言ったかのようで、思わず、すいません、と二度目の謝罪が口をついてでた。
カカシはイルカをしばらくじっと見つめたかとおもうと、
「…アンタが謝るようなことなんか、これっぽっちもないし、アンタに関係ない。だから謝んないで。不愉快だ」
吐き捨てられた。
言葉の意味を理解した瞬間、イルカの身体から力が抜けた。
けれど、不意に胸が苦しくなり、喉が締め付けられたようになった。
怒りではなく。
恥ずかしさと悲しさのためだった。
「……はい、分かりました」
喉を苦しくさせたのは、強張った心臓と涙腺のせいだ。
たしかにイルカには関係がない。
紅とカカシの個人的な関係のことに、イルカが関われる余地など、どこにもない。
ましてやカカシに関わることなど。
だるい腕をもちあげて目の上に置いた。
涙はでていないけれど、自分の腕の体温で安心できた。
詰まったように感じる息を、ゆっくりと吐いた。
眩暈はもう治まっている。
辛いところはなにもない。
なにもないと思いたい。
この衝撃をやり過ごしたい。
やり過ごして、なにも傷つかなかったと思いたかった。
「―――…まだ具合、悪いの」
キシ、とベッドが軋んで、カカシの声が近づいた。
腕で顔を覆ったイルカをみて、まだ調子が悪いと思ったらしかった。
大丈夫です、と答えよう。
そして、起き上がって帰ろう。
思って腕を上げれば、すぐそこに、カカシの手のひらがあった。
そのまま、ひたり、と体温がイルカの頬をなぞり、額宛を押しのけておでこを覆った。
熱を確かめるためにしばらく置かれた手は、やがて離れた。
「…まあ、熱はないみたいだけど、飲み物もってくるから。おとなしく寝てて」
「……あの、カカシ、さん」
「なに」
「…いいえ、なにも」
「そう。なら黙って寝てなさい。それ以上具合悪くなられちゃ、迷惑だ」
平坦な声で言い置いて、カカシが立ち上がり、部屋向こうへ去る背中を見送る。
背中が壁に遮られてからすぐに電気がつき、暗い寝室からはやけに眩しく見えた。
それらをぼんやりと見てから、イルカは身体を丸めて眉を寄せ、目を閉じて声を堪えた。
肌に触れられたときに、わかってしまった。
もっと触っていてほしい、と無意識に願っていた。
浅ましい。
それほどに、カカシのことが好きになっていたのだと、気づいてしまった。
冷たく聞こえる声や、はねつけるような言葉がいまさら、身に堪えたのもそのせいで。
なんて、望みの無い恋だろう。
想いに気づいたとたんに、先行きまでわかってしまった。
「……馬鹿だ、俺は」
呟きは、微かな吐き気を伴って、ベッドの上でイルカはいっそう身を小さく、丸く、縮めた。
2010.08.26