あっさりと、

「どこ置いたの。持ってきたやつ、しまっとくから」

 といわれて安堵したことは確かだ。
 てっきり、鬱陶しそうに眉根を寄せられ、厭味まがいの小言をいわれるものだと思っていた。だが、カカシはしょうがないなあ、とでもいう風に微笑っていた。

 言われる小言を想像しながら風呂に入ったせいで、少しのぼせていて、さらにカカシに伝えるべきことがあるために、顔に血が上っていた。
 だから、多少、顔が赤くなっていたと思う。

 我ながら情けないが、この年になっても緊張したり興奮するとすぐに血が上って、顔色に出たり鼻血になったりする。二十数年間生きてきて、いまだに直らないのだからしょうがない。教え子にもからかわれる始末だ。カカシのような冷静沈着さが身につくのは、いつのことやら。

 カカシも、そんな自分の落ち着かなさがものめずらしかったのかどうか、物音もなく椅子から立ち上がったかとおもうと、ふらりとイルカの傍までやってきた。

 実際、なにを思っていたのかは分からない。
 呆れていたのかもしれない。

 くだらないことで顔を紅くしていることや、近くまできたカカシが、なぜか自分を抱きしめようとしている気がして一歩あとずさったイルカに、呆れて、笑ったのかもしれない。

 それでも、間近でみたカカシの笑い顔は、イルカの目を奪った。
 目の下にみえた微かな笑い皺と、薄い色素の睫と、柔らかい空気。
 一瞬で消えてしまったそれは、イルカの心拍数を一気に上げた。
 なぜかはすぐに分からなかった。

「? …?」

 顔の赤みも引かず、息苦しいほど鼓動が跳ねている。
 不調かと思ったが、体温はつま先までいきわたっていて、ほかほかしている。湯上りのためだけでなく、全身が温かい。

 なんだろうと首を傾げていると、カカシに訝しげな顔をされた。
 そして、「熱、あるんじゃない?」などと手を伸ばされる。
 咄嗟に首を振っていた。

 顔がいまだに火照っていたが、それよりもカカシの手のひらに触られることに抵抗を感じたからだった。
 促されて布団に入り、目を瞑ると心臓がまだ跳ねていた。
 その鼓動を数えているうちに、イルカは寝入っていて、朝の気配に起きたときには、カカシの腕のなかだった。





 数日後、夕刻の騒がしい受付にカカシが居た。
 書類棚の間から垣間見えた彼は、いささかくたびれた風で、いま任務から帰ってきたのだろうと思わせた。

 カウンター奥での作業をしているイルカには気づいていない様子だ。
 じんわりと鈍く痛い目の裏をほぐすために、頬骨あたりを指で指圧しながら、ぼんやりとカカシを眺めた。

 にこりとも笑わない。
 もっと愛想良くすればいいのに、と思う。

 書類棚の隙間からみえていた姿は、すぐにイルカの視界から消えてしまった。眺めていたあいだは、ほんの瞬き数回の間か。
 なんとなくそれを残念に思いながら、視線を下に落とす。
 仕事はまだ終わっていない。

 受付が書類不備のまま受理してしまった報告書を補完していく作業だが、忙しいときには後回しにされてしまう部分でもあった。ときに本人に確認を取りにいくこともあるが、そんなものは受付で適当にしておけといわれ、怒鳴られることもある面倒な仕事だ。

 だれに指示されたわけではないが、イルカはよくこの補完作業をしている。不備書類をためておく場所が、以前にイルカがやり終えたところから減っていないことも多々あり、むしろ増えていく一方だから、ここ最近では時間をフルに仕事へとつぎ込んでいるイルカがもっぱら処理していることは確かだった。

 文字列を追いながら、ふと、この書類作業ではカカシの名前をあまりみていないことに気づく。
 任務を数多くこなし、書類も不備なしとはご苦労なことだ。
 イルカに気づかず行ってしまったカカシの横顔が思考を横切る。
 書類に不備があれば、口実になって良いのに。

「……」

 仕事と並行しながらの、ぼんやりとした思考が出した結論に、イルカは書類を見つめながら固まってしまった。
 なに考えてるんだ、とこめかみがじんわりと熱くなる。

 有難迷惑だと考えたこともあるくせに、この間からどうも自分は変だ。カカシのことを考える時間が、圧倒的に増えた。ときおり、あの瞬間にみた笑い顔が思い浮かび、心拍数が少し上がる。そして、もう一度見たいなとまで思うときがある。

 まるで可笑しい。
 カカシのことを考えるとき自分は冷静でない、と自己分析できるほど、イルカのなかの何かが傾いで、よくわからない揺らぎが言葉となって出そうになる。

 今朝も、宿直室の洗面所で顔を洗っているときに、ふっと恥ずかしさが思い出されて「違うって!」と意味不明の否定を叫んでしまった。
 誰もいなかったから良かったようなものの、他人からみたら、本当に可笑しい行動だ。

 だから、固まるぐらいはよく出来た反応だといえた。立ち上がって奇声をあげずにすんでよかった。
 ふぅ、と小さく息をはく。
 この書類が終わったら、便所にでも行って顔を洗おう、と思ったところへ声をかけられた。

「おーい、ちょっといいか」

 顔を上げると、受付をしていた同僚が椅子に座ったまま、紙片をひらつかせていた。書類に囲まれた席から出て受けとると、そこにはカカシの名と『上忍待機室で』とメモが書かれている。

「お前に、ってさっき聞いたんだよ。たぶん居るんだろうから、伝言頼むって。仕事が終わった後でいいから、って仰ってたぞ」
「……」

 報告書受理の合間をぬって、早口でいわれた。同僚はそのまま「申し訳ありません、こちらの箇所に記入をお願いします」などと受理対応をしていたが、無言で紙片を見下ろしているイルカに、再び早口で、今度は声を低めて言った。

「あんまお待たせすんなよ! 落ち着いてたっけど気配、超ピリってたし、疲れてるっぽいからさ、お前もあんまはたけ上忍、困らせんなよ」

 そんな言葉が心配そうに言われるものだから、イルカは苦笑して頷いてしまった。カカシに酷いことをされているわけではないが、人前でのカカシのイルカへの当たりがややきついこともあって、不安に思ってくれたのだろう。

 ありがとう、と言って席に戻った。
 定刻どおりの仕事終了時刻まで、時計の針が一回りするほどあったが、この夕方はその進みがやけに遅く感じられてしかたがなかった。




 やや早足になって、待機所へと向かう。
 時刻は定時を少しすぎたころあいだ。
 本当は、まだ仕事をしていたはずだった。

 だが、定刻まで書類に向かっていようとするイルカを、メモを受け取った同僚が急かしたてたのだ。
 曰く、「はたけ上忍が気の毒だろ」と。
 さらに、イルカの顔を指差して「そのクマ、いつもよりマシだけどさ、やっぱ酷ぇよ。イルカがちょこちょこ残ってる仕事やってくれっからさ、俺たちもすげえ助かってっけど、お前のこと、やっぱ考えてなかった。だから、さ、はたけ上忍って凄ぇなって思ってんだ。有難い、っていうか。応援、してるしさ。つまり、早く行けってことなんだけどさ」
 照れたように笑っていた。

 同僚の話はいまいち要領をえなかったが、押し出されるように、定時少し前だというのに受付所から出ることになった。
 廊下を歩きながら、少しふらつく。

 待機所はこの階でよかっただろうか。
 ここ数日は、最近に比べれば眠れたほうだと思っている。昨日も、宿直室の薄っぺらい座布団を腹かけにして、手枕で休んだが、身体を休めることができたように思う。

 だから、このふらつきは栄養不足と寝不足が続いて、身体が弱ってきているのだろうと分かる。呼吸も、深く吸うと胸の奥のほうで苦しくなる。
 あきらかに身体が鈍っていた。
 こんなことでは、書類仕事はともかく、急な任務がはいってきたときに役立てない。

 わかってはいたが、以前とは違う理由で、なかなか寝付けなくなっていた。寝ようとすると、今までカカシに対してやらかしたことの数々や、あの間近でみたカカシの笑みが瞼裏に浮かんで、落ち着かないのだ。

 それでも身体は疲れているから、横になりながら、背中にカカシの腕が回されたときの暖かさや、心地よさを思い出せば、うとうとと浅い眠りを取ることができた。
 ぐっすりと眠るには、カカシが必要なのだろうか。

 一休みのつもりで壁にもたれ、イルカは頬を緩めた。
 そうだとしたら、ずいぶんと贅沢な睡眠導入剤だ。

 確かに布団はいいけれど、一人用の布団だし、ベッドも一人用だし、狭いし、そこに大の男二人だ。なのに、心地いい。
 それで、笑ってくれたら、もっと、良いのに。

 眩暈が酷く、イルカはしばらくのつもりで瞼を閉じた。
 まっすぐ歩けなければ、またカカシに怒られる。
 少しだけ、眩暈が止まるまで。

 すぐに治まるだろう。
 早めに出れたおかげで、それぐらいの時間の猶予はあるはずだ。
 身体が鉛をつけたようで、抵抗できずに廊下に座り込む。

 人通りのすくない廊下だ。
 たぶん、この先の渡り廊下の先に待機所があるはず。

 少しだけ。


 瞼をとじるだけで。





「―――…イルカ!」


「…ッ」

 急激な覚醒。
 目を開けたすぐ先に、険しい表情の紅が居た。
 すぐに状況がつかめず、その顔を見ていれば、紅がふぅと息をついて後ろを振り返る。

「…カカシに知らせてやって。見つかったって。とくに何かに巻き込まれたようでもなさそうよ、せいぜいゆっくり行って焦らせてやればいいわ」

 それに答えたのは見知らぬ忍服の女性で、ちょっと肩を竦めて、

「あとで私がカカシ先輩に叱られますよ。では、疾く知らせて参ります」

 姿が消える寸前、興味深そうな視線がイルカを撫でていった。
 惚けたように居なくなったあとを見ていると、ぱちん、と頬を挟まれた。
 強い視線が、イルカの視界を奪った。

「死ぬよ、アンタ」
「え」
「こんな状態で、里も、安全じゃない。なのに、そんな自己管理で、ふらついてれば任務にでなくても死ぬ。わかってるの」

 揺るぎなく、来るべき結果をいう強さに、射竦められた。

「は、…い…」

 そう返事をすることが精一杯だった。
 恥ずかしさがドッと襲ってくる。

 紅がいったのはもっともだ。
 寂しいだの恋しいだのと甘いことを言っている場合でなく、一人でたつことも出来なくなっている己をもっと恥ずべきだった。こんなところでへたり込んでいる場合でなく。
 唇をかみ締め、ぎくしゃくした四肢に力をいれ、立ち上がる。

「…っ、ちょっと、いきなりは無理よ。しばらくじっとしていなさい」
「いえ…申し訳ありませんでした、こんな…」

 こんな姿を見せてしまった。
 それでなくても、カカシとの仲を邪魔しているのに。
 早く立ち上がらなくては。

 気がはやって壁に縋り立ったはいいが、身体が壁面を滑った。
 視界がチカチカと明滅している。そのまま、廊下へと倒れこむかと思ったが、支えたのは紅だった。弾力のある感触がしっかりとイルカを抱え、鼻先にほのかな花のような香りを感じた気がした。

 はぁ、と仕方なさそうなため息がイルカの耳元でした。

「急に立つのは無理だといったでしょう。カカシの言うことは素直にきいてるくせに、私のいうことは聞けないのかしら」
「すい、ません…」

 イルカが、というよりは紅に抱きしめられている形でもたれてしまっている。体勢を変えようにも力を入れたはずの四肢はまともに動いてくれない。
 とはいえ脱力するのも憚られ、だるいながらも全身が自然に強張った。それに紅が気づかないわけはなく、耳元で小さく笑われた。

「病人相手に、触るなんてどういうつもり、なんてこといわないわよ私は。ちゃんと支えられるから、安心して寄りかかりなさいな」
「い、いえ、あの」
「なあに? あぁ、カカシに遠慮でもしてるの」

 可笑しそうな声にぎくりとした。
 脳裏に紅とカカシが抱き締めあっている姿が浮かんだ。

「ああ、もうほら、いっそのこと抱き上げて医務室に連れて行きましょうか」

 冗談めかした言葉はあながちそれだけでもなかったようで、イルカの返事も聞かずに、たおやかな腕がイルカの脇を抱えあげようと密着して、力をいれてきた。当然、慌てるのはイルカだけで、動かない身体を離そうと腕を持ち上げる。

「く、紅さん…!」

 誓って、抱きつこうとしたわけではない。
 けれど、たぶん、この場面からイルカと紅をみた人物には、きっと、二人が―――というよりもイルカが紅に圧し掛かっているように見えただろう。
 だから、カカシも怒ったのだ。

「――――――ぅ、わ…!?」

 突如、引っ張られた襟首。
 首がガクンと前につんのめり、身体は後ろに吹き飛ばされる勢いで引っ張られた。

 一瞬、息が止まった。
 ドンッ、と背中に衝撃。

 両脇から腕がにゅっと出てきて、抗う間もなくイルカを拘束した。
 見えた手のひらは手甲をしていた。

「…ぇ、あ、カカシ、さん…!?」

 イルカをがっしりと、後ろから抱きしめているようにして、カカシがイルカを捕らえていた。
 はっきりとカカシを見ようにも、腕の力が強すぎて振り返ることもできないほど。
 腕の中は暖かく、なぜか嬉しかった。
 既に腕三本分は離れてしまった紅が、呆気にとられた表情から、苦笑へと唇を変えるのを見た。

「貸し、ひとつよ」




2010.06.29