暗闇のなか、隣から安らかな寝息が聞こえてきたとき、自分でも驚くほど安堵した。

 あのとき、アカデミーの保健室でまるで死人のように眠るイルカをみて、心が冷えていた。
 だからだろう。
 受付に座っていた彼の顔色に、堪らず口出しをして連れ帰ってしまった。

 飯屋でのいきさつは、完全にカカシの計算外だ。
 あんなにあっさりと寝入ってしまうとは思っていなかった。

 放っておくわけにもいかずに、自宅のベッドへと押し込んだのだが、しばらく忍具の手入れで寝室を離れていれば、やがて聞こえてきたのはかすかな呻き声。
 不審におもってベッドまでいくと、布団の間で身を丸めたイルカがうなされていた。

 こわい、いやだ、さむい。

 不明瞭な声音のなか、聞き取れた言葉。
 死人のように寝入るよりはマシかもしれないが、うなされながら眠るのもいただけない。

 だが、起こそうかとカカシが伸ばした手に触れたイルカの体温は低く、確かめるために額に触れれば、うっすらと汗ばんでいたが肌は冷たかった。
 ぞっとして、手甲の布地で肌を拭い、頬や額を暖めるように触れてみる。

 呻く声が少しだけ止んだ。
 だが、安堵して離れれば、またうなされている様がカカシに聞こえてくる。

 とうとう任務の始末を諦めて、カカシは一緒の布団にくるまり、イルカを抱き寄せた。
 図体のでかい大人の男二人に、カカシのベッドは狭すぎる。

 けれど、身を寄せれば転げ落ちずにすんだ。
 足がはみ出るかと思ったが、イルカが身を屈めるように寝ているから、それもない。
 やがて、寝入っているにしては低すぎるイルカの体温がじわじわと上がり、規則正しい寝息が聞こえてきた。
 呻き声でなく。

 狭苦しい思いをしながら、うとうととしかけていたカカシは、ホッと肩の力が抜けたことを自覚した。
 ちゃんと、息をしてくれている。
 それならばカカシも安心して寝れるというものだ。

 抱きしめた腕の中からは、暖かなイルカの匂いがした。








 それから、たびたび口を出すようになってしまった。
 口だけでなく、連れ帰って布団にも押し込めた。
 そして、すぅすうと寝入るイルカを見て、カカシも安堵して眠るのだった。

 カカシも親切の押し売りをしたいわけではない。
 翌朝のイルカのバツの悪い様子をみれば、イルカ自身も不眠症をみっともないと思っているのだろう。
 けれど、見かけるたびに土気色の顔色のイルカが悪い。
 そうなれば、心の片隅で、やめておけと囁く声がしていても、思いが口から出てしまう。

 イルカにしても、いけすかない上忍に目をつけられたと、辟易しているだろうから、それが嫌なら自己管理をしろ、という意味もこめて小言をいってみたりもしたが、逆にイルカの残り少ない体力を消耗させてしまったようで、とある夜などはついに貧血を起こしていた。

 心配を通り越して、目を離していられない、とまで思ってしまい、自分自身にげんなりした。
 しかも、ふらついて壁にもたれ、唇まで色をなくしているくせに、放って帰れといってくるから始末が悪い。
 霞みがかって、とろんとした上目遣いでカカシを見ながら言うから、本当に始末が悪い。

 いったいいつまで面倒をみるべきなのか。
 そんなことまで、最近は思い始めた。

 イルカの不眠症は治るものなのかどうかも、カカシには分からない。
 独りでベッドに押し込めればうなされ、抱き込んで寝れば安らかに寝始めるのだから、原因は火影への喪失感だけでなく、依るべきものを失った不安や恐れなどがあるのだろうと、素人ながら考えてみる。

 それをカカシは恥ずかしいことだとは思わない。
 人は誰しも弱いところがあり、イルカの柔らかい部分がそれであるなら、カカシはむしろ当然だとさえ思う。
 寂しがりやだからこそ、あの金髪の部下の寂しさに、人一倍心を砕いたのだろうから。

 けれど、カカシではそれは癒せない。
 少し目を離すたびに、元の土気色の顔色に戻ってしまうイルカに我慢できず、つい小姑のように世話を焼いてしまうが、本来なら、そんな役目は将来のイルカの伴侶がすべきことだ。

 いくら腹の奥で、溶けない鉛のようなものが重く熱くわだかまっていても、見ないふりをしてイルカの背を押さなければ。

 イルカを抱きこみ、かすかな肌の香りさえ人に気づかせず腕のなかに閉じ込める。
 そんなことは、カカシがすべきことではなかったのに。











「あ、すいません、寄ってもいいですか」

 カカシの家までにある小さな食料品店の前で、イルカが立ち止まった。
 予想される言葉に自然とカカシの顔が渋くなったが、イルカも引かなかった。

「俺が勝手にすることですから、させてください。申し訳ないんですけど、お先にどうぞ。後から追いかけます」

 これでもう何度目かになるから、イルカのいいたいことは分かる。
 泊めてもらう代金として朝飯を作るから、その材料を買ってカカシ宅へ向かいます、ということだ。

 イルカを泊めるのはカカシが勝手にしていることだから気にしなくて良い、と言えば、では俺も勝手に材料を買います、と返された。
 律儀で生真面目なことは知っているから、本当ならメシも作らなくていいんだと伝えて、歓迎はしないものの受け入れている。
 断固拒否してしまえば、イルカも座りが悪いだろう。
 ため息をついて、店先で別れた。

 暗い自宅へと帰り、電気をつける。
 賃貸の小さな住宅の一室だ。扉から入ってすぐの寝室と、奥にある台所と洗面所の灯りをつければ、もう家中が明るい。

 ついでに、風呂桶を簡単に洗い流してから湯をはった。
 自分ひとりなら面倒でするわけもないが、事務仕事続きだろう風呂好きが利用するのなら、風呂桶も使いがいがある。

 湯が溢れる音を聞きながら、すこし前のことを思い出す。
 こんど食事にでも誘おうかしら、と言っていた。

「―――勝手にすればいい」

 きく相手もいないのに、勝手に返事が口からこぼれた。
 湯の音が語尾をかき消していく。

 紅は悪い相手ではないと思う。
 たしか決まった男が居るはずで、その男はカカシもよく知っている奴のはずだから、遊びでも本気でもないだろう。
 イルカへの言葉は単純な興味本位、というところだと分かる。

 それでも、紅への返事に、一瞬の間が開いてしまった。
 自分の愚かさに辟易する。

 真実、勝手にすればいいと思っているのに、女と二人でイルカが差し向かいで笑っている図を想像しただけで、堪らない気持ちになった。
 ばかばかしい。

 風呂場をでて、イルカのための寝泊り準備をそろえていく。
 タオルに使い捨ての歯ブラシと洗面用具、それから使っていない忍服の上下。
 そろそろ、タオル以外の備蓄がなくなってきた。
 この関係がいつ終わるかわからないが、予備は用意しておくにこしたことはないから、今度補充しておこうと心に留める。

 脱衣所のすみにそれらをまとめて置いて、カカシは台所へ向かう。
 扉を叩く音はまだしない。
 イルカは買い物に悩んでいるのだろうか。

 別に凝ったものを作れといったことはないし、イルカが作るのならたいていのものは食べるのだから、余計な気を使わずさっさと来ればいい。
 カカシのために体力や気力を使うことはない。

 寒さも緩んできたとはいえ、まだ冷えが朝夕と潜んでいる季節だ。
 暖かい飲み物でも用意しようかと、鍋に水を入れてコンロにかけたとき、控えめな力で扉を叩く音がきこえた。
 ため息をついて、扉を開けイルカを迎え入れる。

「―――早く入って。けっこうかかってたみたいだけど体調は?」

 開いた途端の言葉に気圧されたように、イルカはぎこちなく、よくない顔色のまま大丈夫ですと頷いていた。
 それを確認して、動作にもふらつきがないことも確かめたあと、イルカの荷物を横から取り、風呂場のほうへと背中を押した。

「じゃあ風呂、入りなさい。いま湯をはってるところだから、入れるでしょう。着替えは風呂場に用意してあるから。無理しないで、洗えるところだけ洗って、風呂桶んなかで寝る前に出てきなさいよ」
「え、あの、はい」

 反射的に返事をするイルカを風呂場へと押し込めた。
 脱衣所の扉を閉めれば、観念したように、しばらくの後ごそごそと音がし始める。

 ちらりと時計をみて入浴開始時刻をたしかめ、カカシは袋の中を確認して冷蔵庫へ詰めていった。
 概ね、使った食材の補充だったが、独り暮らしの知恵らしく、使いきりで保存のきく調理不要の味噌汁なども買っていた。さすがに乾麺のたぐいはない。

「…それはそれで面白いけどね」

 イルカの好物を思い出して、少し笑ってしまった。
 ただ、いまこのときにラーメンなど買い物袋に入れていれば、口をすっぱくして、一言で収まらない小言がでていただろう。
 イルカもそれは分かっていたようだ。

 風呂場のほうからイルカの入浴する物音が、ちゃんと聞こえ続けていることを意識しながら、備品のチェックをする。
 日々途切れることがない任務で、磨り減った忍具を取替え、欠けたものは修復し、巻物の不備がないか確かめ、薬類の補充をする。
 やがてお湯も沸き、二人分の暖かい茶を入れ、それがやや冷めるころになってイルカが風呂から上がってきた。

「風呂、先にすいませんでした。上がりました」

 そう、と手元から顔も上げずに返事をする。湯気の香りがカカシまで届く。
 磨いている途中のクナイで、テーブルの端に置いているカップを指し示した。

「お茶、飲むなら飲んで。俺はもう少しやってるから、アンタは先に寝ていいよ」

 申し訳なさそうな気配が近づく。
 いつもなら、ためらう少しのあいだこの場に留まったあと、カカシが何も言わないことに気まずくなって、寝室へと向かい、ベッドへ入るなり一瞬で寝てしまうのがイルカの常だった。
 だが、この夜は違ったらしい。

「あの…俺、歯磨きとか、買ってきたんですけど…その、余計なことだとは思ったんですが、やっぱり、自分で用意できる分はと思いまして」

 顔を上げる。
 風呂上りだからというだけでなく、ほんのりと顔全体が赤くなっていた。

 さっき受付でみたような、不自然な一部分の染まり方でなく、やんわりと色付いた肌。
 表情は気難しげにしかめられていて、まるで苦情を言うかのようだったが、目が不安そうにカカシを見つめていた。

 身体が勝手に、椅子から立ち上がった。
 幻術なら即時に破る自信がある。チャクラの発動を感じたなら、反射的に解術を試みただろう。
 だが、そうでない場合には身体は、あんがい正直なのかもしれなかった。
 カカシが頭でなにかを考える前に、ふらりとイルカのほうへと引き寄せられていた。

 イルカの目が、不思議そうにカカシをみている。
 ただ、カカシの目にはいつもの青白い血の気の引いた顔でなく、紅く染まった頬や首筋が見えていて、手足が勝手にそれらに触れたいと動いていただけだ。

 頭には何も無い。
 視界に映っているものがすべてだった。

「カカシ、さん…?」

 あと腕一本、というところまで近づいたとき、さすがに無言で近づいてきたカカシを不気味に思ったか、一歩、後ろへと後ずさった。
 イルカへと伸ばしかけた手が、止まる。

「……」

 視線はイルカへと向いたまま、カカシは自分の行動に気づいた。
 怯えさせてどうする。

 カカシを見るイルカの目は、訝しげに潜められていた。
 まさか自分が何をしようとしたかなど、無意識とはいえ考えたくもない。

 イルカはきっと、想像もしないことだろう。
 表情もなく近づいてきた上忍に、恐ろしさを感じるのがせいぜいだ。

 そう気づくと、少し可笑しく、イルカの顔を見つめたままカカシは少し微笑った。

「どこ、置いたの」
「え?」
「持ってきたやつ。しまっとくから」

 笑みをすぐに消し、イルカが持ってきた備品を、しまってある場所へと足しておくことにした。
 荷物のなかには、寝巻き代わりに忍服をだしてもらっているから、という理由で新品のものもあった。
 律儀なことだ。

 世話になりっぱなしは、どうしても座りが悪かったのか。
 どこまでも生真面目で融通がきかず、人恋しいくせに甘えベタで心温かい男。
 カカシの知るイルカはそういう男であるはずで、バカがつくほどの真面目さただようこの行動も受け入れることにした。

 ここで自分勝手にやっていることだから、と突っぱねてしまうこともできただろうが、顔を紅潮させるほど緊張したままで押し問答するには、相手の体調が気がかりだ。
 第一風呂上りだ。
 さっさと布団に押し込まなければ湯冷めしてしまう。

 しまってしまえば話しは終わったとばかりに、イルカを寝室へと追いやった。
 早く寝かしつけることが、カカシの本来の目的だ。

 なぜか、イルカが未だに耳朶まで赤くしていたが、緊張のためでないのかと発熱を疑って額に触ろうとすると、首を激しく左右に振ってカカシの手を拒み、大丈夫ですと連呼していた。




2010.06.29