再びカカシの姿をみたのは、一ヶ月もたったころだったろうか。
 同じように、深夜の受付所で出会った。

 受付員以外の姿がない静かな受付所で、なぜかベンチに座って文庫本など眺めている。
 紅と同様かそれ以上に任務をこなしているのだろうから、疲れているはずだ。
 こんなところで好んでする行為でも、する場合でもないだろう。

「…なにしてるの?」

 だから、紅が呆れ気味にそう声をかけたのは、けしてみたままのことを指してではなかったのだが、問われた相手は、本から目を上げようともせず、あっさりと返事をした。

「本みてる」
「……」

 一瞬、男の座っている簡素なベンチを、下から蹴り上げてやりたくなったが、この男はきっと即座に避けるだろうから止めておいた。
 代わりにより具体的に訊いてみた。

「誰を待ってるの」

 今度はちらりと目が紅に向けられ、すぐに本に戻った。
 なんとなく頭に浮かんだのは、あの寒い夜にコンビニへと慌てて走っていっていた男の顔だ。
 アカデミーの教師でもあるが、受付員もかねているから、この場所に縁は深い。

 返答はなかった。
 その態度で、私的な用事なのだと分かる。仕事ならもっとそれらしい態度をとるはずだ。
 思い出した面影は、そういえばあれからどうなったのだろう。

「ねぇ、イルカは元気にしてる?」

 別段カカシが様子を知っていると思っていったわけではなかった。
 カカシのことだから、知らないけど元気じゃないの? とでも返事があると思っての雑談だ。

 だが、ちらっと紅をみたカカシは視線をまた本に戻しつつも、ぼそりと、元気じゃない、と返してきた。
 おや? と面白さに眉が上がる。
 様子を知っているらしい。

「ふぅん? このあいだ見たときは、ずいぶん顔が白かったけど」
「……なんでそんな気にすんの」
「あら、同じ里の、しかもヒナタたちの元先生よ、気になるじゃない」

 言いながら、紅は声を立てて笑ってしまわないように我慢するのが大変だった。
 訝しげに紅へと、どうして気にするのかと問い返してきたカカシの視線が、可笑しくて仕方が無い。
 まるで嫉妬のようだ。

 妬くほど仲が進んでいるのだろうか?
 ここのところ忙しさに忙殺されて、たわいない色恋の噂は耳にしていない。
 残念ながら、カカシの色めいた話しなども聞こえてきていない。

「元気じゃないのなら心配ね。今度食事にでも誘おうかしら」

 あえて挑発するようにいってみた。
 座っている気配が一瞬だけ揺らいだことが分かったが、ややあって返された言葉は、勝手にすれば、だった。
 けど、と続く。

「食ってるあいだに、あの人寝ちゃうかもね」
「寝る?」
「寝不足なんだよ、基本的に、あの人」
「……」

 紅は、なんと返して良いか分からなくなった。
 ずいぶんと知り合った友人になったのねおめでとう、だろうか。
 それとも、ご丁寧にどうも心配してくださってありがとう、だろうか。
 そもそも、カカシはこんなことで他人を心配げに語る人格だったろうか。
 読んでいるふりの本の影で、眉間にシワがよっていることが紅からも見て取れるほどだ。

「そう…じゃあ、寝ちゃったら部屋にお持ち帰りしちゃおうかしら」

 今度の返答もしばらくかかった。
 やがて、本の向こう側から平坦な声で「勝手にすれば」ときこえたちょうどそのとき、受付入り口に話題の主が現れた。

 手荷物をもっているから、帰るところなのかもしれない。
 紅からみても顔色は悪く、注意力も散漫なようで入り口をくぐってきてから、カカシと紅に気づいたようだった。
 慌てた様子で会釈をするから、手をふって応えてから近づいてくるまで待つ。
 目の下のクマが酷い。

 確かにこれならば、イルカのことが心配で堪らない人間からすると、放っておけない状態なのだろう。
 ふいに、本を閉じたカカシが言った。

「イルカ先生、紅がメシの途中で寝こけても、ちゃんとベッドまで持って帰ってくれるらしいから、行ってきたら?」

 は? と呆気にとられた紅が返すまえに、

「えええぇ!? いやいやいやいや、そんな」

 イルカの首がもげるかと思うほど横に振られ、なぜか雫が数滴散る。
 頬がわずかに色付いた。
 そして、紅くなったまま、

「お二人とも、人をからかって遊んじゃダメですよ」

 とたしなめてくる。
 慌てているのだろうに、教師の顔でちょっと可笑しかった。

 紅としては、イルカと共に食事にいくのもやぶさかではなく、からかってなんかないわよ、と言ってもよかったのだが、その場合、本をたたんだままどこか遠くを見ている風の男がどうなるのか気にかかる。
 きっと、紅とイルカが連れ立って食事にいっても自分にとってはどうでもいい、という顔を保って、なんにもいわないのだろうけれど。

「そうね、ごめんなさい。…ところで、待ち合わせでもしていたのかしら」

 微笑みながらイルカへ話しをむけると、その視線がカカシへと向かう。
 そうだろうとは思っていたが、やはりカカシはイルカを待っていたらしい。

「えぇ、はい。カカシさん、お待たせして申し訳ありませんでした」
「大して待っちゃいないよ。それより、適当に拭きすぎじゃないの?」

 立ち上がったカカシがすっと腕を伸ばす。
 イルカの右のこめかみから耳朶にかけて、手のひらでなぞった。
 イルカの顔が気まずそうに引きつる。

「す、すいません」

 言いながら袖で拭こうとするイルカを、

「そうやって拭くからでしょうが。ちょっとじっとしてなさい」
「…はい」

 イルカには見えないから分からないだろうが、紅からみればたしかに水滴が髪の生え際にしっかりと残っているような具合で、拭かなければそのうち雫が落ちてきそうではあった。
 顔でも洗って、いま見たように袖で拭いてきたのだろう。
 先ほど散った雫の理由がわかった。

 それにしたって、カカシが手甲でぬぐってやる必要があるのだろうか。
 内実を分かったような気がしているので、どうしても穿ってみてしまう。
 触りたかっただけじゃないの? と。

 表面だけをみていれば、不機嫌と不愉快を足したが如く渋い顔をしているカカシからは、そんな色めいた浮つく様子はみられない。
 当然のように、イルカもまったく気づいた様子が無い。
 気まずそうにしているだけだ。
 報われないな、と思う。

「申し訳ありません」

 ふいにイルカが謝罪して、紅は苦笑した。
 紅としてはカカシの下心を分かったつもりでいるから、あれこれ見せ付けてくれるカカシにたいして一言いいたくはあるが、イルカにはなにもない。
 まさか、目の前でイチャついてすいません、という意味ではないだろうし。
 そもそも、完全に紅を蚊帳の外におくカカシの態度からわかるように、お邪魔物は紅なのだ。

「いいのよ。それより、二人で待ち合わせなんて、どこか食事かしら? 寝ないように気をつけないと、カカシなんて、ぺろりとあなたのことなんて食べちゃうかもしれないわよ」
「ぇ…いえ、あの…」
「紅。そろそろ帰ったら」

 むしろ、バカなことを言っていないでさっさと帰れ、の命令形の副音声が聞こえてきそうなカカシの声だ。
 紅は肩をすくめた。

 ただ少し疑問だっただけだ。
 基本寝不足の男と、待ち合わせをして行く私用とはなんだろう、と。

 花街や賭博に連れ出すとは思えない。まさかホテルというわけでもないだろう。
 墓参りだろうか。
 なにもこんな真夜中に連れ立っていくものではない。
 修行というにはイルカは疲れすぎている。

 あと思いつくところといえば、食事に行く、というぐらいだが、カカシ自身が言っていたようにいくつかの問題があるだろうに。
 だが、先日みた光景が思い出された。
 イルカから返されていた鍵や、礼の言葉の数々。

「……」

 ひょっとすると、紅が思うよりもずっと、二人は近しくなっているのかもしれない。
 いま確かめることはできないが。
 紅は、頬がわずかに引きつるのを自覚しながら、イルカに微笑んだ。

「そうするわ。ねえ、今度時間があえば、一緒に食事にいきましょう、イルカ。これ、約束よ」

 ほんの一瞬、尖った気配をカカシから向けられ、少しだけ溜飲をさげてから、じゃあねと紅は二人に背をむけた。




2010.06.24