ショックだった。
あまりにも衝撃的で、いままで歩んできた自分の人生のあれこれを問い直したいほどの衝撃で、イルカはしばらく、半身を起こしたまま、ベッドで固まっていた。
傍らには、まだカカシが目を閉じて、心地よさそうに眠っている。
朝の光がカーテン越しに柔らかい。
「……〜っ」
同じベッドで、熟睡できてしまった。
けして広くない面積を、大の男二人で分け合い、狭苦しい思いをしながら寝入ったというのに、気づいたら朝で、さらには向かい合っている状態で目が覚めた。
しかも、イルカは肩までしっかりと布団をかけられた状態で、カカシの腕がイルカをベッド下に落ちないように引き付けてくれていた。
おかげで暖かく、目覚める寸前のまどろみは、本当に久しぶりの幸福感をくれた。
こめかみと眉間にあった、疼くような痛みも無くなっている。
昨日の時点では、無理やり連れ帰られ、体調確認の後てきぱきと指示をされ風呂にも入り、新品だという寝巻き代わりの忍服と下着も渡されて、一見至れり尽くせりのように思えたが、内心はやさぐれていた。
なにが楽しくて、悪心からでないとはいえ口を開けば悪態がでてくるような上官と、同衾しなければいけないのか。
それなら眠れないことを分かっていて、自分の冷たく薄っぺらい布団にもぐりこんでいるほうが、よほど休める。
そう思っていた。
だが。
「…ちょっと、寒いから、出るんなら、出て」
呻きのように聞こえてきた声に、ハッとなる。
慌ててベッドから滑りでて布団をカカシにかけ直した。
出た途端に、寝巻きを通り越して冷気が肌を刺し、身を震わせる。
「…着替えとかタオル、あっち置いてるから、使って」
手だけが布団から出て、洗面所のほうを指した。
本当に至れり尽くせりだ。
洗面所へ入り見てみれば、いつも着ている忍服のアンダー上下と、洗面用具とタオルがまるで宿泊施設のように整えられて、籠の中にあった。
あの朝、おにぎりを見たときと同じような心境になりつつ、イルカは顔を洗い、服を着替えた。
歯ブラシは、昨日の晩に渡されていたものが、コップと共に残されていたのでそれを使った。
とことん、気のつく男だ。
寒さで身を震わせながら急いで着替え、身なりを整えてしまう。
着ていた寝巻きと着替えは洗って返そう。
たたんで持ち帰れるようにして、途端にイルカは手持ち無沙汰になってしまった。
ベッドのほうを見やれば、まだカカシは眠っている。
家主が起きないのに勝手に帰るなど、イルカのなかの筋が通らない。
ベッドに近づいてみたが、布団に半分顔をうずめて、やっぱりカカシは目を閉じている。
どうすべきか、考えていたのはつかの間だったと思う。
布団のなかからくぐもった声がした。
「……、て」
「え、はい?」
「向こう、朝飯、作っといて」
「……」
はい、とイルカは返事をした。
別に逆らうつもりはない。
経緯はどうあれ、泊めてもらったのだから礼はすべきだ。
釈然としないものを感じていても、イルカの身体は律儀に台所へと向かっていた。
途中、机の上に空調のリモコンがあったから、暖房をつける。
冷蔵庫には米といくつかの野菜、卵と味噌があった。
なぜか奥の方に、見覚えのある浮ついた飾り付けの小箱が三つ、見えていた。
きっと値札のあたりには半額というシールがはってあるはずだ。
そのほかには使いさしの野菜や調味料もあり、意外だと思う。
自炊など全くしないと勝手に思っていた。
昨晩は観察する余裕などなかったが、朝の明るさのなかでみれば、ちゃんと炊飯器も鍋もある。
パンの類は見当たらなかったから、これはもう米の朝食だろうとイルカは取り掛かったのだった。
それから、何度か泊まった。
けして泊めてくれと頼んだわけではないが、カカシ曰く「その死にそうな顔色見て、放っといたら気分が悪い」ということらしく、半ば以上無理やりにベッドに押し込められていた。
報酬はとくに必要ないらしい。
むしろ要らないと顔をしかめられる。
ただ、朝食をイルカが作ることは咎めもせず、反対に寝ぼけた声で「…メシ」と言うこともあるから、釣り合いはどうあれ、イルカは朝食を作ることで形ばかりの礼に代えているつもりだった。
いくつか気づいたことがある。
それはカカシ自身も、他人を構っていられるほど、余裕がある生活をしていないということだ。
イルカの顔をみるたびに、習慣のように小言を言っていたし、顔を合わせる回数もそれなりに頻繁だった。一週間をあけることはなかったはずだ。
だから、一時の連続任務は特別で、三日に半日ほどは里の自宅で、身体を休めているのだろうと思っていた。
だが実際は、イルカがカカシに出会っていたときが、そのままカカシが里に居る時間だったようだ。
自宅で就寝できる夜も時間も限られているだろうに、イルカに構い、理由が「アンタ死にそうだから」だ。恐れ多くて涙が出そうだ。
食事の好みは和食中心。
とくに焼き魚が好きらしいが、大して上手くも細やかでもないイルカの手料理に文句をいったことは一度もなく、味の好みはうるさくないようだ。
あとは、甘味はそれほど好きでない、ということぐらいか。
気づきたくなかったことも、いくつか。
あの夜、やはり一緒に眠っていたのだろうということ。
イルカも、試してはみた。
自宅で熟睡できれば、カカシと鉢合わせるたびにしかめ面をされ、見下したような目でみられたあげくに「体調管理は?」と言われなくてもすむようになる。
だが、どうしてもできない。
いつもどおり夜中に頻繁に目が覚め、意識はずっと身体の上を浮いているような浅い眠りばかり。
身体は休めていても、起きれば気疲れしている、といった具合だ。
仕事をして疲れれば気絶するように眠れるから、かろうじて体調は保てたが、一定以上には良くならない。
ためしに湯たんぽを抱えて寝ようとしたがダメだった。
布団の問題でないことは、イルカ自身がよくしっている。
カカシにはああ言ったが、布団が薄っぺらくて寝れないのなら、野宿のさいはどうなるのだ、という話しだ。
これは自分が解決すべき問題なのだろう。
そして、だからこそ、イルカは自身の不調を自業自得とも思って仕事に励んでいたのだが、そんな考えを含めて、カカシに看過されているようだった。
教え子だけでなく、自分まで面倒みてもらって、なにをしているのか。
地面に膝と手をついて項垂れたいほどだ。
人肌で安心しなければ眠れない、などということをカカシは気づかないふりをしてくれているが、それがまたいっそうの情けなさをあおる。
カカシに引っ張られていった翌朝はすっきりとした顔になり、二三日里を留守にすると、とたんに顔色が悪くなりクマができていく。
いっそ顔全体に、カカシのようにマスクでもしたいところだった。
「いつ終わるの」
その夜も、廊下を歩いているとカカシに声をかけられた。
目頭が痛い。
力を入れていないと景色がぼやける。
自然と目元を険しくしながらカカシを見るはめになっていたが、カカシも同様に渋そうな顔でイルカを見ているからお互いさまといったところだろう。
「任務、お疲れ様です。いつ終わるかは分かりません」
「あ、そ。じゃあ今から便所いって顔洗ってから、荷物まとめてきて。受付所のベンチで待ってるから」
「……」
相変わらず話しは通じていない。
受付所は同僚たちの目もあるから嫌だと告げることもできたが、イルカはうっすらとため息をついただけで、踵を返した。
結局、いろいろ考えようとしても、最終的には従ってしまうのだ。
逆らうには体力が要るし、言い返すにしても気力が要る。
そして、カカシの言っていることが無茶のように見えて、実のところ、イルカにとって良いことばかりだということも大きい。
小さな親切大きなお世話、という文句があるが、さしずめ大きな親切大きなお世話、とでもいいたいところだ。
迷惑だが、迷惑ばかりでもないところが、悔しい。
今も、ぼんやりと焦点の合わなかった視界が、冷たい洗面所の水で洗い冷やしたことで、すこしはくっきりとした。
おかげで、便所の鏡にうつる、酷い顔の自分も確認できてしまったが。
「…ひでぇツラだな」
自分で笑ってしまう。
こんな男がカカシと、事情があるとはいえ同衾しているとしれたら、世の女性は悲鳴を上げるんじゃないだろうか。
脳裏に、一月以上前になるだろうか、あの夜の光景が思い出される。
幾人もの女性に、熱心に話しかけられ、贈り物を差し出されていた。
抱きつこうとしていた女性も居た。
偶然みただけでああなのだから、普段はどうなんだろうと想像してみても、これまでの人生で複数の女性に言い寄られる機会など、あいにくと一度もなかったので、さっぱり思い浮かばなかった。
代わりに浮かぶのは、ずっとずっと、腹の底のほうに溜まっている疑問だ。
「考えても分かんねぇけどな」
自嘲する。
形はどうあれ、カカシがイルカへ親切を施す、その理由が分からないのだ。
はじめこそ不可解だったが、結果をみればカカシが良かれと思ってしてくれていることは理解できる。
だが、その行動理由が、イルカにはまったく分からない。
イルカなら、教え子を介しているだけの知り合いに構いつけるより、自分を慕ってくれる女性に意識を向けたい。
いろいろ理由も考えてはみた。
手のかかる部下をみる気持ちで接しているのだろうか、とか、イルカが倒れればナルトたちが心配するから、とか、極度の心配性に世話焼きなのだろうか、等々。
イルカには手持ちの財産も、隠された秘術を会得もしていないので、カカシの厚意に返せるものが何も無い。
ふと、もしかしてカカシに好かれているのだろうか、とも思ったが、どのレベルまで好かれれば現状につりあうのかを計ってみようとしたところで、考えるのをやめた。
それこそ、イルカに分かるわけがなかった。
第一、上忍の心を中忍が読めるわけがない。
「…分かりにくいんだよな、あの人」
イルカ自身、迷惑だとわめきたい気持ちと、まどろみの安らぎを確かに与えてくれる温もりへの感謝と、どっちがより強いかと問われれば迷うように、気持ちに優劣や名前をつけることは難しい。
他人ならなおさらだ。
もし、そんなことができる人物が居るのなら、ため息をつきながらでもカカシに従ってしまうこの気持ちも、名前をつけて引き出しに片付けてくれないものだろうか。
そうすれば、楽なのに。
最後に、もういちど鏡のなかの情けない己の面を睨んだあと、濡れた顔を無造作に袖で拭き、額宛を締めなおして、イルカは便所をでることにした。
カカシが待っている。
躊躇いつつ用意したものと、買ったものが教員室の自机にしまってあるから、忘れず取って行かなければいけない。
それらをカカシがみたとき、どう思うだろうか、と想像しかけてやめた。
嫌な顔をするに決まっている。
それから。
きっと、俺の勝手でやってんだからあんたはそんなことしなくていいんだよ、と迷惑顔で言うだろう。
イルカが困り果てることを分かっていて、なお自分の我侭だと言い通す。
いまのイルカが知っているカカシという男は、おそらくそういう人だった。
2010.06.22