こんばんは、のあとにいきなり、また酷い顔だね、といわれた。
 一昨日は、メシ食べる金ないの? と苦笑された。
 さらにそのまえは、若い女性じゃないんだから痩せても誰も喜ばないよ、と言ってから、ああアンタの場合は痩せたっていうか、やつれた、だよねと失笑された。

 今日に至って、とうとう、出会いがしらの『酷い顔だね』発言に、疲れも寝不足もイルカの張り詰めた心も、どっと外にあふれ出てしまった。

「ええ、どうせ酷い顔ですよ」

 額宛をしていない方の、カカシの目が丸くなった。
 いままで曖昧な笑みで従っていた中忍が、いきなり険しい表情でつんけんすれば、たしかにそうなるだろう、という顔だ。
 親切な人だろうがなんだろうが、もう関係がないほどに見境がなくなっていた。

「けどそれがどうかしましたか。あなたにどうにかしてくれって言ってないでしょう。どうせ俺の顔は元から酷いんですから、いちいち言われなくても分かっています。カカシさんからみれば、俺なんてそこらの紙くずみたいな、とっ散らかったような顔面でしょうから、ええ、悪かったですね」
「…ちょっと、そこまで言ってないでしょ。ていうか、そういう意味じゃないけど」

「そりゃあメシ食わせてもらったり泊まらせてもらって申し訳なかったです。けどなんですか、会えば人の顔みて、臭いだとか貧乏だとか頬がこけて老けただとか目の下垂れてるだとか、俺はどうせ酷い顔ですよ! そんなこたあ自分が一番知ってんです! 寝れないんだからしょうがないじゃないですか!!」
「ちょ、ちょっと」

 どうしても寝れない。
 一人で布団に入って、暗い部屋で、目を瞑っていても記憶が眠ってくれない。
 思い出が次々と頭を巡り、占領する。

 穏やかで厳しかった。
 ときに不真面目に、ときに寛大に、ときに頑固に。
 孤児になった自分にとって、親代わりともなってくれた人だった。

 里の長として見事に散ったからといって、存在の消失は癒えない。
 だが、悲しんでばかりいては反対にどやされてしまうだろうと、仕事に励んだ。寝ていても心が安らがないのなら、起きて仕事をしていたほうが気も休まると、無理にでも仕事を引き受けていたのだ。

 青白い顔でクマをつくって頬がこけているなどと、言われなくても自分が分かっている。
 最初は好きにさせてくれていた同僚たちも、カカシが顔をみせるたびにイルカへ小言をいうから、心配げに様子を伺い、家に帰るよう促すほどになってきていた。
 うるさいうるさいうるさい。

「俺だって、俺だって寝れるもんなら寝たいですよっ」
「……」
「仕事してたっていいでしょうが! どうせ寝れねぇんだから!」

 吐き捨てていた。
 上忍だとか、世話になっている相手だとか、そういうことは疲れに麻痺した頭から抜けていた。
 しかも、暴言に血の気がひいたためでなく、怒鳴ったせいで、頭がふらついた。

 視界が端のほうから、黒い薄幕をかぶせたように暗くなる。
 不調に陥るのは急速だった。
 ぐるんと回った視界を支えたのは、おそらくカカシの腕。

「…大丈夫?」

 落ち着いた声音が、耳の傍で聞こえた。
 まともな返事は到底できなかった。

 気分が悪い。
 胃のあたりが重く、手足の末端が酷く冷え切っているのが自分でも分かった。

 そして冷えた身体を温めるだけの体力と蓄えが、身体のどこからも沸いてこないことに、自分で納得する。そりゃあ、ろくに食べていないし寝ていないのだから、当然だろう。

 支えてくれているらしいカカシを見ようと目を開いても、まるで映らないテレビ画面越しに、なにかを見ているかのような具合だ。見えているものを判断することも難しい。視界の端が暗い。
 肌が粟立ち、冷たい汗が額を伝っていったが、イルカは気力を振り絞り、力の入らない足を踏ん張った。

「だい、じょうぶです。すいません、大丈夫、です」

 声が掠れた。

「まったく大丈夫には見えませんけど」
「ただの、貧血、ですから、しばらくすれば、治ります」
「そう」

 言ったきり、カカシは何も言わず、イルカを支えてくれていたようだった。やんわりとした動作で、背を撫でられた。縋っていた相手はカカシだったのだから、他の誰もいないはずで、イルカは嘔吐しそうな気分の悪さのなか、その柔らかさを不思議に感じた。
 霞んだ視界には、カカシのベストらしきものが見えている。
 近い。

「…くさい、ですけど、俺」
「はあ? なんのこと」
「この、あいだ」

 長くは言葉を続けられなかった。
 けれどカカシは分かったようで、ああ、などと返事をした。

 先日、別れ際にあっさりといわれた「臭うよ」という言葉は、意外とイルカの心に刺さっていた。風呂好きとしての沽券に関わるし、どんなにくたびれていても涼しい顔をしているカカシに言われたから、余計にだ。

 一応風呂には毎日入っていたし衣類もかえていたのに、そんなことを言われたものだから、最近は特に努めて体臭を消すようにしていた。
 だが、そんな努力も上忍であるカカシのまえでは無駄だったようだ。

「…まあ、俺には分かるけどね、アンタのにおい」
「……」
「でも、ま、気にしないでいいと思うよ。俺ぐらいしか分からないだろうし。むしろアンタから良い匂いがするとか言ってるヤツがいたら、ぜひ教えて欲しいね」

 とにかくイルカは臭いということらしい。
 確かに、生まれたての赤ん坊のような心浮き立つ匂いが、己からするとは言えない。
 もう臭いということでいいや、と諦めた。

「ところで大丈夫? 動ける?」

 イルカがようやく明滅するような意識の不良から脱し、のろのろと顔を上げれば、至近でカカシの表情が見えていた。
 なぜか、視界も思考もまだ明瞭でないというのに、カカシが心配そうにしていることだけが分かった気がした。可笑しい。妄想だろう。臭いというのだから、離れなければ。

 息を浅く吐きながら、近くの壁にもたれた。まだしっかりと立つことはできず、そのまま壁に寄りかかったまま目を瞑って眉をしかめる。
 こめかみと、首筋に冷たい汗が伝うのが分かったが、手を上げることも辛く、流れるままの雫を皮膚で感じていれば、それを拭う感触を感じた。

 薄目を開くと、カカシが手甲の布地で、イルカの肌を押さえていた。
 礼もいわずただ眺めていれば、視線に気づいたカカシが、苦笑したようだった。

「…んな目で見ないでよ」

 虚ろな、ということだろうか。
 調子が悪い人間に無茶を言う。

 他にもカカシは無茶ばかりを言う。仕事を減らせだとか、夜には寝ろだとか、風呂に入れだとか、食事をちゃんと摂れだとか。いまもどうせ、そんなことを思っているのだろう。具合が悪いのも、自業自得だと。
 イルカは目を閉じた。

 ―――どうせ、言われるのは小言だ。

 けれど、観念したような心地のイルカに聞こえたのは、苦笑したままの言葉。

「…でもさ、アンタ、俺がつれて帰ったとき、よく寝てたでしょ? どうして寝れないの」

 言われてあの朝のことを思い出した。
 確かに、あのときの自分は正体をなくして眠りこけ、さらに朝までぐっすりだった。おそらくカカシは、自宅なのだからいろんな雑事をしていただろうに、そんなことも構わずに自分は寝ていたのだろう。

「…さあ」

 吐息のような、返事のような曖昧な音が漏れた。
 実際、分からない。

 あのとき、腹が減っているという感覚はとうに無くなっていて、ぼんやりと味噌汁を啜ってから、あぁ自分は腹ぺこだったんだと気づいた。それから目の前に出されたものを、砂のように感じながら食べていると、なぜかとても腹の中が暖かくなってきて、目の前の器が全て無くなったときには、意識がなかった。
 食べ終わったとき、寝ても良い、と感じた気もする。

 隣にカカシが居ることを知っていたが、腹が満腹になり、あとはどうにかなる、と思った。
 どこかに、安心があった。

「さぁ、って。俺、アンタを担いで帰ったけど、一回も目、覚まさなかったじゃない。ベッドに転がしたときも。あんなに寝つきよくて大丈夫? って思ったよ」
「……」
「他人がいてもあれだけ寝れるんだから、何か原因でもあるんじゃないの。単に、仕事しすぎで寝れないだけじゃない?」

 何日も連続で、単発の里外任務を受けている男にいわれたくはない。
 重い瞼を上げれば、カカシが見える。
 情けなくも貧血を起こした体調不良の中忍なんて、面倒だとさっさと去ればいいのに、留まってくれている。そして、尽きぬ小言だ。

 ふと、あの深い眠りのあいだ、寒くなかったことを思い出す。
 ずっと暖かく、目覚めたときも布団にくるまれていた。

「さぁ…あなたの布団が、良い布団だからじゃ、ないですか」

 半分なげやりだ。
 良い人だし今もかろうじて親切だと思うが、この悪態まがいの小言はどうにかならないのだろうか。
 行動をみずに言葉だけをきいていれば、蛇蝎のごとく嫌われているかと誤解しそうだ。

「俺の? 布団?」
「たぶん」

 もうそういうことにしとこう。
 仕事も途中なのに、ここまでカカシに引っ張ってこられたから、同僚ももう自分が帰ったと思っているだろう。むしろ今から取って返しても、追い返されるに違いない。

 早く帰ろう。
 そして冷たい布団にもぐりこもう。

「どうせ貧乏な俺の布団なんて、薄っぺらいし寒いし、ロクなもんじゃありませんから」

 言葉もスルスルとでるようになってきた。
 口中も乾いて糊のようになっているが、話せる。

 足も力が入らないが、震えはおさまってきているから、休める場所までは歩けるだろう。ちょうど都合のいいことに、こうやって争っている場所は、アカデミーの宿直室の前だ。もしかすると、カカシと顔を合わせた場所から最も近い休めそうな部屋がここだったから、はじめからカカシはここにイルカを押し込めるために、引き連れてきたのかもしれない。

 身体をずらして、なんとか扉を開ける。
 ここまで言い争っていて誰も出てこないのだから、誰もいないだろうと思っていたが、やはり人気はなかった。古ぼけた小部屋は寒々としているが、畳敷きの和室になっているのが今は有難かった。そのまま寝転んで回復を待てる。

「―――もう、行ってください。俺はここで休んでから、帰りますから」
「ここで休む? ここの布団だって薄っぺらいもんでしょう」

 その言い分にちょっと頬が緩んだ。

「ここで寝るんじゃありません。ちょっと、休んでいくだけです」
「……」

 そもそも、この宿直室に布団など置いていない。あるのはせいぜい煎餅のような座布団ぐらいだ。
 二つに折って枕にするぐらいが関の山だろうが、それでも冷え込む廊下で冷たい壁によりかかっているよりは楽だろう。

 それでは…、とダルさで上手く動かない身体を、扉の向こうへずらそうとしたとき、腕がつかまれた。
 まだ何か、とカカシをみれば、渋そうな顔でイルカを見ている。

「なんですか…」
「なんですかじゃないよ。まだ雪が降りそうなぐらい夜は寒いってのに、こんなとこで布団もないのに休んだら、アンタ、絶対風邪ひきますよ、分かってんの?」
「はぁ…」

 だから、それがどうした、とこの際カカシに言いたい。
 風邪を引いて困るのはイルカだ。

 だが、カカシの言い分は違うらしい。
 ああもう、と苛立たしげにカカシは髪をかきむしって、おもむろにイルカを担ぎ上げた。
 視界がぐるん! と回った。

「へ!?」
「ほんとにアンタにはイライラする。ここでハイソウデスカってアンタ置いていったら、俺の寝覚めが悪すぎんですよ。んなとこで休むぐらいなら、俺の布団、使いなさい」

 ぴしゃっ、と扉がカカシによって閉められた。イルカが休むべき部屋は、あわれ扉の向こうに。

「え、いや、だって、」
「今からアンタんちの布団を、高級羽毛布団に買い換えるってんなら、降ろしてあげますけど」
「……」

 それは無理だ。もう布団屋は店じまいしている。
 いや、問題はそこじゃない。

「だって俺、くさ」
「下んないこと気にするなら、ちょっとは自分の身体に気をつかって。ああ、そうだ、これでも食べてて。着くまで」

 またしても視界がぐるりと回り、先ほどまでの眩暈まで加わって惚けていると、口に何かが放り込まれ、またすぐに担ぎ上げられた。まるでゴミ袋か俵のようだ。
 口のなかに、甘い味が広がった。
 リンゴ味だった。

「しゃべんないでね、舌噛むよ」

 そして高速で移動し始めた景色に、イルカはさらに目を白黒させたのだった。




2010.05.01