真夜中の受付で会ったのは、ちょっとした偶然だった。
互いに上忍として任務に忙しく、中忍試験以来、久しく見ていなかった顔だ。
久しぶりね、と声をかければ、既に報告が終わり出入り口へ向かっていた足が止まり、紅のほうを振り返った。珍しい。
「どうしたの、カカシ。なにか用?」
紅が報告書を出すあいだ、じっと待っているから水をむけてみれば、ややあって、不本意そうに口が開いた。
「悪いんだけどさ、通り歩くあいだ一緒に帰ってくれない?」
「…なにそれ。なにかの遊びかしら」
「違う。とにかく頼む」
意味が分からなかったが、どうせ帰り道であったことと、カカシが存外に真剣な顔だったから、分からないなりに並んで歩くことにした。
大通りは深夜らしく、灯りはまばらで人気はほぼない。春は近いとはいえ、まだ真冬の寒さが身に辛い季節だ。疲れてもいるし、和気藹々と話す相手でもないカカシが同伴だ、早く帰りたい。
カカシもとくに何かを話し出すわけでもなく、黙々と歩いている。
さてそこの角を曲がれば自宅だ。通りを歩くあいだと言っていたから、ここでお別れでいいだろう。
そう思って、じゃあね、といいかけた紅が傍らへ視線を流したとき、意表をつかれて足を止めることになってしまった。歩いてきた背後に、只ならぬ気配と影がいくつも感じられたからだ。
一瞬、里内で私闘か、と気色ばんだが、影はみな、ほっそりとしていた。
そういえば、と思い出す。
今日は、もうすぐ終わりそうではあるが、意中の相手に菓子などの物品を渡し、うまくいけば片思いから両思いになれるかもしれない、恋心が盛り上がる日だったはずだ。
改めて、隣のぼんやりとした男を見る。
腕良し稼ぎ良し、顔もたぶん良し。
難があるのは性格と素行ぐらいだろうか。
危機によって命の危険を感じた忍びや里人は多い。このさい相手にと望まれる可能性は充分にあるだろう。
だが、この男は、紅に大通りを歩くあいだ一緒に帰ってくれと頼んできた。
それだけで、一ヶ月ほど前から盛り上がり始めるこの行事をどう思っているかが、分かろうというものだった。
「あー…、あたしさ、帰ってもいいかしら」
「ダメ」
間髪居れずに返答があった。すぐに、頼む、と付け足してもきた。
そんなに嫌なのだろうか。
考えているうちにも、立ち止まった紅たちへ影はそっと姿を現し、やがて三人の女たちがカカシの前に並んでいた。全員、それぞれに気合の入った顔をして、紅は好ましいと思ったが、カカシのほうは、さしたる感慨も抱いた様子はなく、迷惑そうに両手をズボンに突っ込んだまま、彼女らと対峙していた。
あの、と一人の女が口火を切っても、カカシは返事もしない。
紅も何かをしろと頼まれているわけではなかったから、ただ軽く腕を組んで一方的なやりとりを見ていた。
分かったのは、彼女らからカカシが半月ちかく逃げていたということぐらいだ。人の恋路にあまり興味はない。冷えるわ、と思いながら適当に聞き流していた耳に、はっきりとしたカカシの声が聞こえた。
前後のやりとりはわからない。チョコレートをなぜ受け取ってくれないのかという問いだったのだろうか。
「好きな人からしか、もらわないことに決めてるから」
なんだ、この女たちをすげなくしている裏には、ちゃんと心に決めている相手がいたからなのか。
紅は少しばかり安心した。
よくわからない男とばかり思っていたが、一途なところもあるじゃないか。
いつも持ち歩いているらしい愛読書も夢見がちな内容だそうだから、じつは案外隠された内面は情熱的な男なのかもしれない。
もしかすると、ただの断り文句なのかもしれなかったが。
そんなことを考えていれば、いつのまにか目の前で繰り広げられていた修羅場が終わっていた。「だって好きなんです!」と涙声で言いながらカカシへと突進した女が、あっさりと避けられ、地面に両手足をついて無残な姿を晒していた。
カカシの顔をちらりとみても、無表情のままだ。
他人事ながら、やっぱり冷たい男だ、と思ってしまう。
隠された一面は熱いのかもしれないが、こんな男が親身になったり感情を動かしたりすることはあるのだろうか。
まあ、そんなことは私には関係ないけれどね。
最後の一人が姿を消し、いったい何の役に立ったか分からないが牽制にはなったのかしら、と紅が去ろうとしたとき、目の端にまた人影が見えた。
また女かと目を凝らすと、なんのことはない、アカデミーのうみのイルカだ。気安さも手伝って、気づくと同時に声をかけてしまった。
「あら、イルカ先生じゃない?」
声をあげたとたん、ビクリと人影が飛び跳ねて、その驚き方もやっぱりイルカだと思わせるものだった。滑稽と親しみやすさが同居していて、紅はイルカが嫌いではなかった。
それにしてもアカデミーの先生をやっているイルカが、どうしてこんな時間にこんなところにいるのだろう。
まさかカカシの愁嘆場を見学しにきたというわけでもないだろうし。
近づいてくるイルカへ問いかけたが、隣からの声が、イルカとの会話をぶった切った。
「何してるの、こんなとこで」
冷たい男だとは思っていた。
けれど、イルカへとかけられた声は、先ほどのやりとりをきいていた紅にとっても、酷く冷淡で、叱責のように聞こえて、自分に向けられたわけでもないのに肝が冷えた。
「ちょっと…カカシ?」
紅はイルカを知っている。
人当たりが良く、子どもへの教育姿勢は熱意があり、好感の持てる人物だ。
カカシの態度は唐突で、不可解だった。
「こんな真夜中に、さっきまでどこにいたの、あんた」
明らかに詰問している態度に、イルカも戸惑っていたようで、先ほどのやりとりをうっかり見てしまったがすいませんなどと謝ったが、カカシの気配が和らぐことはなかった。厳しい口調のまま邪険に謝罪を打ち消し、その指がイルカの顎を掴んで顔を上げさせるに至っては、紅は呆気にとられてしまった。
だが、次のカカシの台詞ですこしばかり納得した。
「昨日より酷いクマ、作ってるじゃないですか。顔色もよくなってないし。今日一日、休みだったはずでしょう。そんな格好で、どこに行ってたんですか」
明かりの少ない通りの片隅で、しかも芯から冷える真夜中だ。いくらか顔色が悪くみえるのは仕方がないだろう。けれど、言われて見てみれば、イルカの顔色は蒼白どころか土気色に近いほど、唇にさえ色がなかった。そして格好は一般的な忍び服だ。けして休日の格好ではない。
紅は内心で小首をかしげた。
このカカシの態度は、いったいどう考えればいいのだろう。
あまりにも、先ほどの女性たちへの態度と違いはしないか。
しかも、考えにふける紅の目の前で、イルカの懐からカカシの自宅の鍵が出てきた。加えて、カカシの自宅ベッドを占領して朝飯を作ってもらったという。
恐縮しきって頭を下げるイルカに、カカシは気のない返事をしながら、手元は帰ってきた鍵を嬉しげに弄っているように、紅には見えた。
女たちからどれほど熱心にプレゼントを押し付けられていても、ポケットから出なかった手が、イルカの前ではあっさりと出ていた。
鍵を受け取るのだから当たり前といえばそうだが、指先も冷える夜に、いつまでも小さな金属片を弄繰り回す道理はない。さっさと懐にしまえばいいのに。
まさかね、という思いが強くなるばかりだ。
いまも愚直に、鍵についての弁明をしながら頭を下げるイルカには、色恋の気配などない。カカシにしても、楽しげに笑っている姿は珍しいが、同性を恋人に選んだという噂は訊いたことがない。
気の回しすぎだろう、と紅は小さく苦笑した。
だいたい、カカシにどういう思惑があろうと紅には関係がない。いつまでもこんな冷えるところで突っ立っていないで、さっさと帰ろう。
「―――お菓子の安売りしてるでしょ? あれ、ちょうだい」
ぴた、と紅は動きを止めた。
聞こえてきた言葉が幻聴にしか聞こえず、紅はわが耳を疑ってみる。
だが目の前で、イルカは慌てたように、通り向こうの店先へと小走りに行ってしまった。耳が悪いわけではなさそうだった。
まさか。
「…まさか、冗談よね? カカシ」
「なにが?」
恐る恐る確認してみたが、あっさりと問い返された。
さらに、弄繰り回していた鍵をやっと懐にしまったかとおもうと、しまいこんだ処を、ベストの上から掌で押さえて、なにやら感慨深げだ。にわかには信じられない。
「…ねだってもらっても、もらったっていえるのかしらね?」
確信はやはり持てずに言葉を投げかけてみれば、返ってきたのは「さあ?」といういい加減なものだった。
二人の視線の先で、イルカが店先のワゴンを眺めて、しばし考えている様子が見えている。
きっとどれにしようか、悩んでいるのだろう。
普段の様子のまま、愚直で生真面目で要領悪く、真っ直ぐなイルカはきっと、お礼が売れ残りだなどと気が引けているだろう。
だが、しばらくするといくつかの品物を手に取り、店の中へ入っていった。その足取りがいかにもせわしなく、それもまた、外で待たせているという紅たちを気遣ってのものだろうと思われた。
「言うつもり、ないの?」
独り言のように言ってみたが、隣からの返事はなかった。
まあ、あれほど異性から求愛されている男の片思い相手としては、イルカには悪いが、少々見劣りはする。イルカにしても、迷惑だろう。
どちらにしても人の恋路だ。
やはり帰ろうと踵をかえそうとしたとき、冷えた空気に滑り込むような落ち着いた声が、聞こえた。
「俺ね、あの人の子どもが下忍になったら、俺が面倒みて育てんの、楽しみにしてんだよ。知ってた?」
知るわけが無い。
そう悪態をついてもよかったが、むしろ呆れが先に立った。
「…気の長い話しね」
ちょうど駆け戻ってくるイルカが見えた。
どこからどうみても、真面目で人の良さが第一印象の、間違っても魅了されるような容姿や圧倒されるような気迫をもってはいない、普通の男だ。あと数年もすれば、似合いのこぢんまりとした可愛らしい女性と並び立ち、そのうちに子どもが生まれ、穏やかに、ときに忙しなく家庭を営んでいくのだろうと、容易に想像できる男。
だからだろうか。
カカシが、この男の子どもをいつか育てたいという。
無いものねだりなのか、憧れなのか紅にはとうてい分からなかった。
その想いに名前をつけるには、部外者である自分では荷が重そうだ。
じゃあねとも言わず、今度こそ紅は家路についたのだった。
2010.04.22