咄嗟に瞬身を使って、アカデミーの保健室に入ったのはまったくの偶然だった。
一週間ほどまえからやけに女性に声をかけられるようになり、食事の予定を一方的に決められそうになり、たまらず言葉を濁して逃げていれば、ついには追いかけられるようになってしまった。
そもそもこんなことをしている場合ではないはずだ。
先の災禍からまだ里は立ち直っていない。三代目が身を挺して守った里は、まだ以前のとおりとはいかないのだ。だから木の葉の忍びは、総力をかけて里の威信を保つために日夜走り回っている。
カカシにしても今日の昼に護衛の任務から帰ってきて、少し里で休んでから、また夕刻から任務にでることになっていた。
だからこそ余計に、顔を見知っている程度の女性に、血眼になって探されている場合ではないのに。
なんだかなあ、とため息もでる。
仕事の話なら聞くと伝えても、最終的には秋波まじりの個人的な話になるのだから、疲れてくるというものだ。
幸いにして保健室には、ベッドに誰かが寝ている以外に人気はなかった。
ついでだし休ませてもらおうかと、もうひとつの開いたベッドの傍らまで行って初めて、カカシはそこに寝ている人物に気づいた。
アカデミー教師のうみのイルカが、静かに寝ていた。
カカシの気配にも起きるようすはなく、むしろ本当に寝ているのかと心配になるほどの静けさだった。寝息も聞こえず、普段のイルカならばまるで太陽のように賑やかな気配がしているのに、いまの彼は、凪いだ湖よりもひっそりとしていた。
手のひらを鼻先にもっていけば、かすかに吐息が指先を掠めるから、息はしているようだと安堵する。
以前にみたときより、やつれているようだ。
目の下にクマがくっきりと浮き出ている。寝ているにしても、安らかなものでなく、前後不覚になって意識を飛ばしているかのような寝入り方のように感じる。
ひとつ結わいの髪も解かずにいる姿に、手のひらが無意識のうちに動き、その唇の隆起を触れるかどうかの上辺をかすめ、顎のラインを辿り、首筋に指が降りていく。
物音ひとつ気配ひとつ無い室内で、鋭敏になった指先は、確かにイルカの鼓動を感じていた。
しばらくの間、カカシはただじっと、拍動を数えていた。
その夜遅く、受付でイルカを見た。
カカシの任務は無事に終わり、くたびれた身体を引きずって帰ってきたところだった。
夜半のために人気も少なく、受付員も昼間よりは少なく二人しかいない。そのうちの一人がイルカだった。
内心驚き、瞬きを三度繰り返したが、見える姿は変わらない。
寸時、入り口で立ち止まってしまったが、気を取り直して机へ近づけば、くすんだ蛍光灯の光でいっそう顔色を無くしているイルカが、にこりと笑った。
「お疲れ様です、報告書お預かりいたします」
カカシは自分がいささかくたびれていることは知っていた。立て続けに任務をこなしているのだ。忍びだとて人間だから、疲れるのも当然だ。だから、カカシは自分が疲れていることを自覚していたが、それを、よりいっそう疲れ果てている顔の人間に言われることに、少々驚いていた。
はぁ、と曖昧な返事とともに差し出せば、イルカはいつもどおりに報告書を処理し始める。
必要な事項を確認し記入漏れをチェックする。
「なにか依頼書と違う点はありませんでしたか?」
「いいえ、全て順調に終わりましたよ」
「そうですか、良かったです」
声も記憶しているものよりも、ずっと不安定でかすれ気味だ。いつもはもっと張りがあって、耳に心地よいはず。
さらにいくつかの事項を確認したイルカが顔を上げる。
目の下のクマはいっこうに薄くなっていなかった。
「はい、けっこうです。お疲れ様でした、ゆっくりお休みください」
酷いクマをつくっていながらも、イルカの労わり言葉と笑顔はいつもどおりで、カカシはだからこそ、はぁ、とため息をつくことになった。
「いつ、終わりですか?」
「は?」
丸くなった目をみて、再度カカシは言った。
「いつまでですか、夜勤」
突然のカカシの質問に、驚いた表情のまま、イルカが口ごもる。そのままじっと見ていれば、困惑した顔で「夜勤は明朝の九時までです」と答えた。
カカシは表情として見えているだろう唯一の右眉を潜めて思案する。
明日の九時までには、六時間以上もあった。それまで、この顔色の悪い人間が、ずっと受付を続けるのだろうか。人を労わるまえに、イルカ自身が労わられるべきだと思えた。
「…あの、カカシさん?」
視線を受付奥に流せば、もう一人の受付員の姿が見える。
イルカと同じ年頃の男のようだが、こちらはまだ健全な顔色をしていて、傍らにつまれた座高ほどもある書類の山と格闘しているようだった。
この忙しい時期だ。平時なら人の少なくなる夜間は一人で回すものだが、仕事が溜まっているのだろう。一人は受付、もう一人は事務処理というのは頷ける話しだ。けれど、こんな人間を働かせるほど受付の人員は逼迫しているのか。
「ちょっと」
声を奥へとかければ、男はすぐに顔をあげた。カカシには気づいていたのだろう。なにかあったのかという表情で、席をたって表へでてくる男へ、イルカを指差しながらカカシは言った。
「この人、顔色が悪すぎじゃない? 見てらんないんですけど」
言ったとたん、座ってカカシを見上げているイルカがぽかんとしたのが分かった。
「代わりの人は居ないの。そんなに人が足りてないなら、俺が―――」
「カ、カカシさんっ、いえ、はたけ上忍、俺は大丈夫ですっ」
椅子をならして立ち上がったイルカが顔を赤くして言ってきたが、カカシはかまわずに、こちらも呆気にとられている男へと続けた。
「あんたたちが倒れちゃ、俺たちも安心して任務いけないよ。帰ってきたときに、今にも死にそうな人にお疲れ様っていわれても、よけいに疲れるけどね、俺は」
「……」
イルカが眉を下げて黙った。あからさまな皮肉で傷つけたことはわかっていたが、事実だからしょうがない。だからさ、といいかけ、カカシは口を閉じた。
イルカ、と男が気遣わしげな顔で呼びかけたからだ。
「…はたけ上忍もこう仰って下さってるんだ、帰れよ、お前。ほんとにここは大丈夫だからさ」
「……でも、まだやんなきゃいけねえこと、残ってるだろ」
「残ってっけど、もともとそれが俺の仕事だし、さ。お前がいてくれたおかげで、もうだいぶん片付いたしなんとかなる。だからさ、お前の今の仕事は、帰って寝ることだよ。十日分、な」
話しのなりゆきに、カカシは僅かばかり目を瞠った。もしかすると、自分は思い違いをしていたのだろうか。
男が、さぁ、と促してイルカがしぶしぶといった態で席から立ち上がった。
「…でも、朝までなら―――」
「なにいってんだ。…や、お前に甘えてた俺たちが悪いか。頼むよ、休んでくれ」
俯いたイルカの視線がカカシの報告書へと向かう。
「でも、報告書が…」
「いつもだって夜勤じゃ一人で受付してたんだ。いいから! 明日は絶対に夕方まで出てくんなよ。ほら、荷物もって。心配すんなって。助かったよ、ありがとう。ゆっくり休めよ、じゃあな!」
言う間に、ぐいぐいとイルカの背を押し受付からだした男は、戸惑うイルカの肩に鞄をかけ、そのまま出口へと向かわせる。そして、呆気にとられたカカシへ、
「すいませんでした! 過分のお言葉、ありがとうございました!」
と頭を下げてくる。どうも思っていなかった成り行きに、カカシは心地悪く後頭部を掻いた。
「いや…俺も差し出がましいこといったね。ごめんね」
「…! いえ、そんな!」
顔を上げた男は感動したような顔をしてカカシをみたが、やはり座りが悪い心地がした。別に受付業務の心配をして言ったわけではなかったから。
首を巡らせば、イルカがまだ追いやられた出口の手前で、情けなさそうな顔をして、カカシと男を見ていた。
手をあげて男との会話を切り上げ、カカシはイルカへと歩み寄る。
近くでみればいっそう、顔色の酷さが不安をそそった。
無意識に頬へと伸びそうになる手を自制し、イルカの腕をとって促した。
「え?」
「行きますよ」
そのまま大通りへと連れ出る。
二の腕を掴んだままで、イルカは歩きにくそうだったが、振り払うことはせずに付いてきていた。ただ、戸惑う気配は濃厚だ。
それはそうだろうと、カカシは内心で笑ってしまう。
イルカとの交流など皆無に等しい。
教え子を通しての引継ぎの挨拶に、中忍試験時の諍いと、忍犬を託しての任務。そんなものだ。個人的なつながりなどないし、親しげに話したことも無い。
イルカからしてみれば、ただのいけすかない上忍だろう。
夜も更け、大通りには人通りはほぼなかった。
いつ予定を調べているのか、カカシが里に戻る時間を見計らって、どこからともなく現れるくの一たちも、さすがに寝ているのか気配はなくホッとする。
心持ちゆっくりと歩き、通りにみえる数少ない提灯のひとつで立ち止まった。
「メシは?」
咄嗟の返事は無く、言うべきかまよった気配だけがカカシに伝わり、ため息をついてそのまま店に引き入れた。店内は閑散として小さく、カウンター席だけの古ぼけた居酒屋のようだ。店主は時のとまったような翁で、突然に入ってきた真夜中の客にも反応することなく、カウンター内でぼんやりと新聞を読んでいた。
「飯と味噌汁と、それからなにか野菜の煮物と、あと魚とかあったら頂戴」
だが、カカシが声をかければ、起動した機械のように動き出したから、意識はあるようだった。
イルカを座らせ、自分も座る。
驚いたことに、座ったとたんに注文したものが次々と置かれた。イルカと会話する間もなかったことに安堵した。
イルカはまだ戸惑った気配のままで、湯気のたつ飯椀とカカシとのあいだで視線をさ迷わせている。食べて、とカカシは言った。
「俺もメシ、まだなの。悪いけど付き合って。これぐらいなら入るでしょ」
置かれた椀のなかには注文どおりの飯に味噌汁、それから白菜の揚げびたしにほうれん草の胡麻和え、そしてカレイの煮付け。イルカにかまわずさっさと箸をとり、口にいれてみればどれも美味く、店の見栄えに反して、相当のアタリを引いたと一人嬉しくなった。
カカシが食べ始めると、イルカもそろりと箸を取り、食べ始める。
二人とも忍者ゆえか、里の人間なら味わう間もないほど早く食事が終わり、食べ終わったと同時に出てきた暖かい茶を啜る。
横など見ないまま間に飯を食んでいたが、どうやら全部食べ終わったようだと、カカシはちらりと横目でイルカをみた。そして目を少しだけ見開いた。
茶を持ったまま、イルカがカウンターに突っ伏して寝ていた。
「…ちょっと」
声をかけ、肩を揺すってみるが、起きる気配はない。
耳をすませば聞こえる程度の寝息だけで、こと切れたようにイルカは寝ていた。
喋らず無駄な動きもしなかった店主が、カカシをじっと見ている。はぁ、と隠す気もないため息をついて、支払いをする。もともとイルカに代金を払わせるつもりなどなかったが、連れ帰るはめになるとは思わなかった。
「ごちそうさま」
呆れたことに、背中に担いでも、イルカは起きることはなく、静かなままだ。
昏倒するように寝入ったのか。
背中にある温もりをわずかな湯たんぽ代わりにして、カカシは家路を辿ったのだった。
2010.02.14