可愛い人
イルカは可愛い。
口に出していうと、眉を顰められるし、ともすれば拳骨をくらうかもしれない。それでも、カカシにとってイルカは可愛い人だった。
なにがそんなに可愛いかといって、たくさんある。ありすぎて困るほどだ。けれどもその可愛い、のなかに実は容姿はあまり入っていない。
よく「可愛い」などというと容姿のことを指しているのかと誤解するものだが、カカシがイルカに対していうときは、その意味を持たない。むしろ、「可愛い」を「好き」に言い換えたほうが、通りが良いかもしれない。
イルカのどこが好きか。
そう訊かれてひとつ目に答えるなら、まず言動、と答えるだろうか。
分かりにくいだろうか、先日、こんなことがあった。
アカデミーの昼下がり。
ヒマをみつけてはイルカのもとへ顔をみせにくる上忍に、もう慣れたもので、イルカも教員準備室の自分の机に座りながら「隣の席、開いてますよ」と勧めたのだった。
二人して椅子に座って、さてイルカが何をしているかと覗き込めば、手元にはなにやら簡易救急箱のような木造の箱。色づけはないが、彫刻が施されて、ニスを塗られているその箱は、イルカの手の中でひっくり返されていた。
「なんですか? それ」
「オルゴールらしいですよ」
問えばあっさり教えてくれたが、イルカは熱心に箱を弄くり回していて、カカシのほうはちらりとも見ない。そうした仕草が、心安さからくるものだとは分かっているが、やっぱりちょっと寂しいと、カカシは思う。が、顔には出さない。
「修理…ですか?」
さっきから、なにをひっくり返したり、また直したり、横にしたりしているのかと不思議で、また訊いてみた。イルカの机のうえには、小ぶりのドライバーが散らばっていて、訊くまでもなく修理だとは分かっていたが、オルゴールが上下左右に振って直るものだとはきいたことがなかった。
「そうですよ、ヒマだろって頼まれちゃったんですよ」
言う間にもイルカの掌が、箱を上下に少し振った。それのせいだろう、内部からカチャカチャ、と小さな音がした。イルカが嬉しそうに笑った。
「やっぱ、ネジが外れて、掛け金に引っかかってたんですよね!」
良くは分からずただ見るだけのカカシに、横向きの笑顔で説明して、イルカは細身のドライバーを手に取った。そして、僅かにだけ隙間をつくるオルゴールの蓋のあいだから、そ〜っと伺うように目をこらして、ドライバーを差し込んでゆく。
ドライバーを、掛け金の外れる方向へひっかけておいて、イルカは箱を揺らした。一度、二度と揺すると、先ほどと同じ金属音が聞こえたが、何度も繰り返すと、やや大きめの音を立てて、それきりなにも聞こえなくなった。どうやらひっかかっていた部分から落ちてくれたようだった。
「開いたらこっちのもんなんですよね。中からじゃないと、オルゴールの本体も取り出せないし修理しようがないし」
嬉しげにカカシへ笑った。カカシもやっとこっちを向いてくれたと嬉しくて、つられて笑顔になってしまう。
「良かったですねぇ」
「ええ、無理やり開けようかとも思ったんですが、壊したら怖いし…―――」
いいつつ、そっと蓋を持ち上げれば、なんの引っかかりもなく蓋は持ち上がった。やはりネジが引っかかって…と言いかけて、イルカの指が滑って、蓋が降りてしまった。木造でしっかりした造りだったらしく、バタンとやや大きな音でしまったのがカカシにも分かった。
イルカがもう一度、蓋の上部を持ち上げてみた。が、今度は開く様子が無い。むしろ先ほどのように、ほんの少しの隙間をみせるだけだ。
ん〜!とイルカが力で開けようとしても無駄だった。どうやらまたネジとやらが引っかかってしまったようで。
ゴト、とイルカが机にオルゴールを置く。
情けなさそうに、呟いた。
「――――――しまった…」
その後、数秒の静寂ののち、カカシの大爆笑が教員準備室に響き渡り、その気もなかったイルカに真っ赤になって拳骨をもらった。
それでも、そのときの空気を思い出すと、カカシはいまでも笑いの発作がおきそうになる。それぐらい可笑しかった。いや、可愛かった。
あのオルゴールは無事に直って持ち主のもとへ帰っていったが、小さな木箱のまえで、眉を下げて困った顔でいるイルカは、どうしようもなく可愛かったし、そのあとも、それはそれで、カカシがイルカといて退屈しない理由だ。天然、とはいうが、イルカのボケもある種天然なのだろう。
それでいて、時に厳しい顔もする。なにか考え事があるとき、思案に沈む横顔が好きだ。
部屋に二人でいるとき、言葉もなくイルカはただ横顔だけをカカシに晒す。その、かすかに苦しげな眉間から鼻梁へとくだり、薄くもなく厚くもない唇からすっきりした顎の線が、どうしようもなくイルカという人間を思わせて、ただ見ているだけで好きだと感じる。笑顔でいるときのイルカももちろん可愛いと思うが、不機嫌であったり無表情でいるイルカと共にいることは、反対にイルカの心根をつかのま見ているような気になる。そしてそれが、「可愛い」と思う。
またなに悩んでんのかな、と伺いつつ、横顔が凛々しくて好きだね、と思うのと同じだ。そんなときのイルカに、それはいえないので、いつも黙って共に居るだけだが。
そういえば、今まで一番、イルカが可愛いとおもったときがあった。
つい最近だったような気がする。
雨の日。
夜半も過ぎ、その日の日中から振り続けていた雨は、真夜中になっても降り続けていた。多くの明かりは消え、響くのは雨の滴る音がせいぜいな夜。
そのなかでイルカの部屋の明かりは煌々とついていた。
「ほら、ちゃんと拭くまで動かないで下さいっていったでしょう!」
「そんなこといっても疲れてるんですよー」
「あ、ちょっ…、冷た…っ」
二三日の里外の任務。帰ってきたカカシが、濡れ鼠でイルカの扉をたたいのはついさっきだった。イルカも、帰里がもしかすれば夜中になるときいてはいたので、寝ずには待ってはいたが、カカシが雨にうたれているうえに、忍服が血だらけという帰還に、眉根をよせるしかなかった。
玄関先で、タオルで拭くから動くなと言い指し、そして傷でもないかと心配するイルカに、カカシは好機とばかり覆い被さってくる。疲れていると口にはするが、チャクラの乱れもなく、顔をみれば遊び盛りの子供のようだ。
「―――…よし、傷はないですね?」
「ええ、もちろん。イルカ先生、相変わらず心配性〜」
「っるさいです、風呂わかしてますから入ってください。服はちゃんと始末すること!」
口うるさく、青筋までたてそうな口調だが、頬が赤い。カカシの忍服のしたに手を差し入れて、傷を確認しているさいに、カカシがニヤニヤと笑っていたせいだ。憎まれ口のひとつでも叩かないと、頭に血が上りすぎて困る。
カカシは言われたとおりに風呂に向った。返り血にそまった忍服は、ナイロンの袋にでもつめて明日燃やしてしまおう。カカシの処理してきた任務を思うと、忍びの因業さに気が塞ぎそうになるが、イルカは頭をひとつ振って思いをはらった。それでなくてもカカシに甘いといわれているのに。
イルカは、風呂場までのいくつかの水滴とカカシの足跡を、乾雑巾でふきとったあと、台所にたった。冷蔵庫にろくなものはない。けれど何か腹にいれたほうが良い、それも軽めのものを。そうおもったが、本当に何もなく、あるのは冷や飯と塩と卵とネギ。こうくれば、卵雑炊ぐらいしか、イルカには思いつかない。焼き飯、もあるがそれはちょっと重いだろう。
ザー、と風呂場から、雨音とは違う水音がきこえる。
それを聞くともなしに聞きながら、イルカは鍋をコンロにかける。冷や飯がひたるぐらいの水をいれて、火をつけた。しばらくそれを眺めてから、だしのもとは無かったかと探して、棚の奥から発見して少し入れる。ついでに塩も入れる。醤油もいれるんだったかなと考えたが、止めておいた。
自分のつくる食事はあまり美味しくない自覚があるが、もしカカシも食えないほど不味かったら、半分は食べようとイルカは思った。料理は圧倒的にカカシのほうが上手い。
バタンという音でカカシが風呂から上がったのと、鍋のなかが沸々と茹だったのは同時だった。イルカは器に卵を割ってから、ネギを刻んでなかったと気が付いた。
「いいお湯でした、ありがとうございました」
「いいえ、良かったです」
「あれ? …もしかして俺のメシです?」
部屋の暖かな匂いに気づいたカカシの声が、嬉しさと、ほんの僅か心配げに聞こえたのをイルカは聞き逃さなかった。
「ちゃんと全部、可食物を使いましたよ! 卵も干からびてなかったし」
この間、うっかり醤油に蜘蛛の巣を張らせてしまったことや、冷蔵庫のなかを全滅させてしまったことをカカシにみられてしまい、それからカカシはイルカが料理をすると、不安そうにする。そりゃあれはイルカが悪かったが。一人暮らしで忙しくしていると、たいてい誰だって一回は全滅させてしまうものじゃないか。
「―――いえいえ、それならいいんです。…でも、イルカ先生、包丁もつの苦手でしょ? 大丈夫ですか?」
またしても気遣わしげにカカシが言ってきて、イルカはカチンとくる。たしかに包丁づかいも、なぜかカカシのほうが上手いが、イルカも人並みにはできる。ネギを刻むぐらいなら。
そこで、ふと思いつく。
ネギをゆっくりと刻む手を、ほんの少しずらして。包丁もそれらしく。
「――――――!…ッてー…」
「…イルカ先生っ?」
うっかり切った、という風に身をすくめれば、里きっての上忍が心配そうにかけつけてきた。湯上りの、水の匂いがした。
イルカの押さえている手元を、見せてください!と真剣な表情でカカシがいう。さっきまで、死地をくぐりぬけて、返り血を浴びて、それでいてイルカの心配も笑い飛ばす男が。
――――――ぷ、とイルカが噴出して。
「え?」
「―――だまされました?」
「え! ―――あ、酷いじゃないですか! いまマジで心配したのに!」
その抗議に、ただイルカは笑うだけで。
噴出した顔が、昔の悪戯小僧のように笑っていたことは、カカシだけが知っていた。
あれは可愛かったよなぁ、とカカシは感慨深くおもう。
昔は悪戯ばかりしていたという幼年時代をおもいおこして、さぞかし可愛かっただろうともおもう。アルバムなどはみせてもらったことはないが、軽犯罪法にひっかかるのも気が引けるので、見せてくださいと強請るのは、もう少し先にしようと思っている。
他にもいろいろ可愛いなぁと、しみじみおもうことはあるが、あの可愛さはやっぱり犯罪的だ。これは譲れない。
うん、とひとり頷いたところで、はたと我に返った。
どうしてこんなに考え込んでるんだっけ?
自分に問えば、目の前に愛くるしいイルカの目覚し時計。ここは木の葉デパートで、いまも夕刻の買い物に、忙しなく里人がデパートを出入りしている。そのなかの一角。
明日のイルカ先生の誕生日プレゼントを買いにきたのだった。
それでもなかなか決まらずに、けっきょくこうして、意味もなく愛くるしいイルカ型の目覚ましをみつめていると、思考は「可愛い」イルカ先生にいってしまったわけだ。
気がつくと、売り場の店員がこちらをちらちらと伺っている。やべ、と心で呟いてカカシはその場を離れた。買う気もないのに、どれほどあそこでぼーっとしていたのだろうと、ちょっと恥ずかしくなった。
それでも、イルカへの贈り物は難しい。
はぁ…と溜息をついて、カカシはデパートを後にした。
日の入りはすでに遠く、通りは明かりで賑わしい。
イルカを喜ばすことは存外に難しい。いっそこの身が子供だったなら、新しい術ができるようになったとか、ケーキを作ったとか、花を摘んできたとか、「おめでとう」の一言など、そんな些細なことでも充分なのだろうが、大人の自分にはそれは少し辛い。もっと、喜ばせてやりたいから。
けれど、いざ心からイルカを喜ばせてみようとすると、さっぱり分からない。
物につられる人でないことは分かっているので、よけいに難しい。
やはり手堅くケーキと花だろうか。
鉢植え、でもいいかもしれない。うっきー君とお揃いとか…、でもなぁ。
いっこうに纏まらない思考に、不意に声がかけられた。
「――――――カカシ先生! なにされてるんですか?」
「あ、イルカ先生」
「晩飯の買い物ですか?」
言うイルカは、手に晩飯とみえる惣菜を下げていて、一見して仕事帰りだと分かる。
「いえ、…ちょっと…イルカ先生はもう帰るんですか?」
「ええ、やっぱり月末はちょっと厳しいですからね」
照れたように、イルカは頬の傷をかいた。
「カカシ先生は晩飯は? 良かったら一緒にどうですか?」
「いいんですか?」
「…この前、カカシ先生が買ってきてくださったキャベツが、あれからほとんど残ってるんです。俺、生で食べるのしか知らなくて」
「ああ、焼きソバつくったときのですね」
カカシは笑う。生で食べる方法しか知らないと、なにか拗ねたようにイルカがいうから可笑しかった。意地悪く蒸し返してみる。
「でもあれって、二人で買いに行ったときに、残るけど食べるから良いってイルカ先生が…」
「考えたら生キャベツは好きじゃありませんでした」
む、と口をへの字に曲げての言。よけいに可笑しくなった。
カカシはイルカの手から、買い物袋をそっと取り上げた。
「じゃあお邪魔しましょうか。キャベツのために」
くつくつと笑いがもれて、イルカが頬を膨らませる。
「そうしてください」
「ええ、喜んで」
取り上げた買い物袋を持ち替えて、カカシはこっそり、空いた手でイルカの掌を取った。ぴくりと、反応をかえす掌。けれどそれ以上の抵抗らしい抵抗もなく、並んだ二人の間、手を繋いだ。
こうやって言葉もなくあらわれるイルカの好意に、どれだけカカシが嬉しくなるかきっとイルカは知らない。イルカが、ここに居てくれて良かったと。イルカが自分とここに存在してる「奇蹟」を、ふいに実感することがあると、カカシが感じていることを知らない。
それを、伝えたいんだけどな。
繋いだ掌の温もりをおもいながら、ぽつりと考える。
どうしようかな。
明日までに時間がもうない。頭のなかでキャベツと誕生日がまわる。
「…ね、イルカ先生」
「なんですか?」
「―――いま、なにか欲しいものってあります?」
きょとん、とイルカが小首をかしげた。
「どうしたんですか、いきなり。晩飯の話ですか?」
「いえ、そうじゃなくて…、なにかあります?」
「ええ? うーん…、欲しいもの? あ」
「なんですか」
「食器に使える漂白剤ほしいなぁ…最近まな板カビちゃって」
がく、とカカシの頭が項垂れた。
いやそうじゃなくて、と笑う。
「違うんですか? ぇえと…じゃあ…うーん…」
「ありません?」
「とくにないですねぇ…、どうしたんですか、カカシ先生。いきなり」
「いえ、別に…」
本人に欲しいものを訊くのってそういえばルール違反だっけ?
困ってしまって、埒もなくそんなことまで考えた。
イルカを喜ばせようとするのは、本当に難しい。
そのとき、不意にイルカが笑った。
なんだろうと顔をあげると、イルカが嬉しげにしている。
「どうしたんですか?」
「―――カカシ先生って、可愛いですよね」
「え」
唐突に言われて、なんのことか分からずに戸惑った。
「可愛いです」
「…どういうところが…?」
「困ってるところが」
また戸惑うようなことを言われて、カカシは黙るしかなかった。しかもイルカは機嫌よさげに笑っている。こういう表情をしているときは、楽しいとき。アカデミーで子供と遊んでいるときも、こんな顔をしているときがある。子供っぽい顔。
そんな顔を嫌いというわけでは、まったくないけど、やっぱり分からないことは気になる。可愛い、といわれても、カカシにとって可愛いのはイルカなのだし。
「そうですか?」
「はい、カカシ先生はときどき、本当に可愛いですね」
…そうかなぁ、と困って呟いた。
するとイルカがいった。このあいだの雨の夜のように、悪戯好きの子供を思わせる笑みで。
「俺の欲しいもの聞いてきた人、カカシ先生で五人目です」
「ありゃ、―――バレてましたか…ていうか、五人ですかっ? …なんか悔しいですね」
誰ですか、と訊くとアカデミーの同僚たちだと答えた。
「なんか嬉しいような、恥ずかしいような気分になりますね、こういうとき」
「で」
「で?」
「そいつらにはなんて答えたんですか?」
ああ、とイルカは笑った。
「明日には、金タワシと防虫剤とビニールテープと朱肉の補充インクと木の葉銘菓堂の塩見饅頭がもらえるはずです」
「―――……」
ふ、とカカシの視線が道端に落ちた。
なんともいえない気分になった。
まさか、まな板の漂白剤というのは冗談じゃなかったのだろうか。贈り物というのは相手の欲しがるものを贈るのが一番良いように思うし、ここはひとつ、イルカのいうように用意するべきなのだろうか。いや、でも、と思考をめぐらせていると、明るい声がそれを遮った。
「でも、カカシ先生からはなんにもいりません」
「…? どうして。俺からもなにか祝わせてくださいよ」
悔しい。
素直にそう思う。
イルカと自分の間に、他人の存在があるようで、悔しい。
すこし眉をしかめてそれを意思表示してみれば、イルカが照れたようにいった。
「カカシ先生、こうやって一緒に居てくれるでしょう?」
気のせいだろうか、掌の熱が高くなった気がした。
イルカかそれともカカシか。
「それ以上してもらったら、心臓止まりそうですから」
嬉しくて。
鼻の傷を、人差し指でひっかきながらイルカがいった。それは照れたときの癖。
困ったように眉をしかめて、それでも幸せそうに笑って、そうやってカカシにいうから、何もいえずにイルカの掌をぎゅっと握った。言葉にできないような言葉がでてきそうで、口はつぐんだ。
ただやっぱり、イルカは「可愛い人」だなと思った。
好き。
「…じゃあ、今日の晩飯は俺が腕を奮いますよ」
「え、ホントですか? 嬉しいです、カカシ先生のメシ、美味いですよね!」
掌の熱を意識して、反対の掌に力をいれると、持っていた買い物袋がガサリと音をたてた。
2003.5.25