たとえばこんな一日のために




 夕方の受付で、カカシが今晩、里に帰ってくる予定であることを知った。


 時間は日付をまわったころと記してあったが、カカシのことだ。
 余裕をみての時間だろうから、少しばかり早く帰着するだろう。
 もしかすると今日中に会えるかもしれないな。

 そう思って、イルカは帰り道、いくつかの食材を買って帰った。
 独りの夕食を済ませ、風呂にも入り、いくつかの雑用をこなしての就寝前。
 扉がかすかに叩かれた。
 耳をすませていたから、すぐにわかった。

「はい、いま開けます」

 部屋の明かりを煌々とつけていたから、イルカが起きていることは分かっているだろうに、その深夜に似合いの控えめな音が、いまにも帰ってしまいそうで焦って返事をした。
 カギもかけていなかった扉を開くと、そこには僅かばかりくたびれた様子のカカシが佇んでいた。
 血臭もなく変わった様子はない。
 目が細くなり、「ただいま」という。

「おかえりなさい。お疲れ様です」

 自然と、こだわりなく「おかえりなさい」といえるようになったのはいつだろう。
 はっきりと覚えていない。
 長く共にいることで、鮮明な記憶もところどころ薄れていく。
 けれど、それでいいのかもしれない。
 こうして、迎えの言葉をいいながら、自然と微笑むことができるようになったのだから。

「うん、疲れました。帰ってくると、ホッとするね」

 扉を後ろ手に締めながらの、カカシの言葉。
 めずらしいな、と思いながらタオルと常備している着替えをとりだした。

「もしよかったら風呂、入ってください。今日はすこし冷えていますから」
「うん、そうしようかな。ありがとう」
「メシは食べますか? ありますよ」

 脚半を解いて上がってきたカカシへ、風呂の一式を渡しながらの質問。
 言ってから、なんだかまるで、かいがいしい妻のようなセリフだと、自分で恥ずかしくなった。
 急いで、「いえ、腹が減ってれば、なんですが」と言い訳のように付け足す。

 カカシがイルカの、うっすら赤くなっているだろう顔を見ているのも恥ずかしかった。
 照れくさく、カカシの顔が見れずに俯くと、すっと身を屈めてカカシが口端にキスをくれた。

「食べます。イルカさんの顔見たら、腹減ってたこと思い出しちゃった。ありがとう」

 耳朶近くで囁かれたこともあって、束の間動きを止めてしまったイルカの横を、カカシは通りすぎていった。
 その姿が風呂場へ消えたあとに、思う存分、イルカは顔を赤くして、しばらく一人でじたばたしたのだった。



 カカシに用意した夕飯は、焼き秋刀魚の大根おろし添え、茄子の味噌汁と焼き茄子、大根葉の漬物だった。
 秋刀魚を焼きつつ皿を並べたテーブルをみて、すこし考える。
 ちょっと、やりすぎだろうか。

 長年のリサーチの上、カカシの好物が分かってるとはいえ、こうも並べられると嫌になったりしないだろうか不安になる。そうでなくても、毎年、この日は同じメニューであることが多いのに。
 気づかれないかという不安もある。

 無意識に腕組みをして考え込んでいると、いつのまに風呂から上がったのか、脱衣所の扉がガラッと開いた。
 古いアパートだから、たてつけも相当悪くなっている。
 音に顔をあげて、カカシが頭を拭きながら出てくる姿をみて、焼いている秋刀魚を思い出した。

 あわててコンロに向き直る。
 みれば少し焼きすぎなほどで、急いで火を消した。

「良いお湯でした。気持ちよかった」
「温くなってるかと思ったんですが、良かったです…、って、ッつー…」

 カカシを見やりながらの会話のせいで、手元がおろそかになっていた。
 手元のコンロへ指が当たってしまい、すぐに離したものの、軽い火傷で肌が赤くなっている。

「イルカさん? 大丈夫?」
「ええ、なんでもありません」

 カカシからはイルカの体が壁になって、火傷したところは見えなかったのだろう。
 ひりつく右手の人差し指の、側面をぺろりと舐めて気休めにする。
 どうせこんな軽いものなら二三日で治るだろう。

 皿をとって、秋刀魚をのせて、カカシの前に置こうとしたその掌を、ふとカカシが捕った。
 落としそうになった皿は、カカシの手でテーブルに置かれる。
 視線がまじまじとイルカの右手をみてから、カカシがおもむろに人差し指を口に含んだ。
 正確には、うっすらと赤くなった部分を、唇で啄ばんでいた。

 驚いてイルカは声も出ない。
 やっと下がった血が、また項まで染めそうだ。

「カ、カシ、さん、あの」
「ん? あ、そうか。ご飯だよね。つい」
「つい、じゃないです…」

 力なくも、抗議が漏れるというものだ。
 いきなりすぎて、カカシの顔になれた今でも、心臓が五月蝿い。
 イルカの指を離す際も、カカシの指が皮膚の柔らかい筋をなぞって離れていくから、タチが悪い。

「美味しそうだね、いただきます」

 赤くなったイルカを笑うでもなく、カカシが食事を始める。
 テーブル対面の椅子に、お茶を入れて座り、それを眺めた。
 カカシは普段の生活でも音をあまり立てないが、食事でもそうだ。
 静かに物を食む。
 それを見るのも嫌いではなく、なんとなく眺めていると、カカシがふと言った。

「イルカさん、今日、どんな日だった?」

 意味をとりかねてイルカは瞬きをした。

「どんな、…ですか?」
「うん、なんでもいいから。なんか……、話し、してて」

 イルカを見るでもなく、秋刀魚を箸先でほぐしながらの言葉。
 内心、首を傾げながらも、なんでもない今日一日を思い出した。

「そうですね…今日は朝、すこし涼しくて、布団から出してた足が冷たいぐらいで驚きました」
「へぇ…」
「水道の水も冷たくて、味噌汁つくろうとおもって水を沸かすと、時間がかかって、あ〜もう秋なんだなと思いました」

 カカシの様子は聞いているのか、聞いていないのか分からない。
 けれど、もういい、と止められたわけでもないから、そのまま話し続ける。

「午前中はアカデミーで演習を監督していました。子どもたちは元気で、涼しくなってきたからか、動きも素早くなって、野外でも頭が回るようになってきました」
「暑いと頭、回らないんだ」
「ええ、いま見ているのは新入生で、まだまだ子どもですから。体内の熱もすぐ上がるから、夏場はよく見ていないといけないんですが、いまごろの季節はほんとうに良いですね。もうすぐ演習大会もあるのでみんな張り切っています」
「演習大会?」
「クラス対抗で、いろんな競技をして点数を競って、一番のクラスを決めるんです。遊びみたいなものですが、意外と成果があがるんですよ」

 ふぅん、とカカシの相槌。
 幼くして上忍になったカカシには覚えのないことなのかもしれない。
 少し話をずらす。

「昼飯は店でパンを買っていたのでそれを食べました。最近、新商品が出て、かぼちゃの蒸しパン、っていうのが食べたくなって。あとヤキソバパンと玉子ハムサンドを食べました。かぼちゃの蒸しパンが意外と腹持ちよくて、なかなか腹が減らなくて良かったです」
「うん」
「でも昼から動きが鈍くなってしまいました。夕方から受付だったので、書類を片付けておこうと職員室で、事務仕事をしてたんですが、眠くて、もういっそのことちょっと寝てすっきりするか、って思って、隣の机をみたら、同僚の奴が同じようにこっくりこっくり船を漕いでたんです」

 はは、とカカシが笑った。
 凪のように静かだったカカシの気配が、わずかに浮き立って、嬉しくなった。

「なんでか腹が立って、そぅっと立って、後ろから椅子を蹴ってやりました。そしたら、ほぅわッ、とかって変な声あげて起きるもんだから、もう可笑しくて職員室全員で爆笑でした」
「ちょっと可哀想だね」
「おかげで俺は目が覚めてよかったです。後で缶コーヒーおごらされたんですけど」

 カカシの気配が緩まっていく。
 顔には出さないが、安堵が胸の中で広がる。
 こんなにカカシへ話しをするのは始めてだが、こんな他愛無い話でカカシの張り詰めた気配を緩められるなら、いくらでも唇を湿らせて話そうと思う。

「受付は無事に終りました。珍しく苦情もなくて、むしろお礼を言いにいらした方もいらっしゃいました。といっても、任務を依頼するために里へくる途中のことらしいんですが、賊に襲われそうになったけれど、木の葉の額宛をしている方に助けられました、と仰っていました」
「…へぇ」
「黒髪で支給服のベストだってことぐらいしかわからなくて、結局、受付ではわからなかったんですが、その方は丁重にお礼を仰って、任務報酬も気前良く上げて下さったので、事務方は嬉しそうでしたね」

 そのときのことを思い出して、イルカは苦笑してしまった。
 いやいやそんなけっこうですよ木の葉の忍びとして当然ですから、といいつつ顔はニヤけていたから、事務方の内心が手に取るようにわかったイルカには、苦笑するしかなかったのだ。
 カカシも、気持ちが移ったのか、片頬を上げてちらりと笑っている。

「あとは…そうだな、少しだけ残業をしました。それから帰り道で買い物をして帰りました。道端で、もう虫が鳴いているし、秋だと思いましたね。あぁ、夕空が綺麗でした。まるで水の底…、いや、海の底みたいに透き通っていて、とても綺麗でしたよ」
「―――そう」

 見ればカカシの手はとまっていて、食事は終っていたから、椅子から立ってカカシの分の暖かいお茶を入れる。
 ありがとう、と受け取ったカカシの指は温かく、安心した。

「ごちそうさま、おいしかったです」
「お粗末様でした」

 そのまま片付けて立とうとするカカシを制して、汚れた皿を取った。

「俺、洗いますよ。全部してもらうなんて」
「お疲れでしょう。そういうときは俺にやらせてください。カカシさんは、…歯を磨いて下さい」

 本当は、そこまで言うつもりではなかった。
 妻を通り越してまるで、過保護な口やかましい母親だ。
 けれどカカシは気分を害するでもなく、くすぐったそうに肩を竦めて「はぁい」と返事をした。
 それから、ありがとう、と。
 不思議と耳に残ったその言葉に、ふとカカシをみたが、すでに歯を磨きに洗面台のある風呂場のほうへと消えていた。

 今夜のカカシは、いつもよりも他人行儀で、いつもより人恋しそうにしていると思う。
 イルカに何か話しをしていてほしいなど、言ったことがなかったのに。
 他ならぬカカシの願いなら、いつでもいくらでも叶えたいと思っているイルカには、話しをするなど容易いことだが、そう願うカカシの心中が気がかりだ。
 気鬱になっているのなら、少しでも晴らしたいと思うが、器用でないと自覚のあるイルカには難しいことだった。
 あなたが今日、ここに生まれ生きていることが嬉しい、ということさえ言えない臆病なイルカには。

 考え事をしながらの洗い物を終え、ベッドへと移って読みかけの教本をめくる。
 カカシは歯磨きのあと、任務で使った武具の手入れを、簡単にしていたようだった。
 やがて寝ようかと巻物を片付けたとき、するりとカカシが隣にもぐりこんできた。

 イルカの傍らに収まるよう、腕をイルカの腰に巻きつけて、抱きついてくる。
 その力に、イルカも半ば無理やり寝台に横たわることになった。
 なにかをいうでもなく抱きしめてくるから、面食らってしまったが、電気を消してきます、というと腕が緩まった。
 そして、電気を消してベッドに戻ると、また巻きついてくる腕。

 任務で何かあったのかな、と推測することは簡単だ。
 けれど、カカシが何を思い、何に負担を感じているかは分からない。
 イルカにできることといえば、ただ、カカシに抱きしめられるまま眠ること。

 強さでなく、カカシの弱さのひとつを預けてもらえることに、独占欲に似た充足を感じた。
 ゆるやかな眠りが瞼を重くする。
 どうかカカシの眠りが穏やかなものであるようにと願う。

 意識が暖かな暗闇に落ちるころ、「ありがとう、イルカさん」とだけ聴こえた。
 いいのに、そんなの。
 言う代わりに、身体に添わせていた腕を動かして、カカシの背中を手のひらで撫でた。

 二度、三度と撫でていると、カカシの身体から力が抜け、寝入ったようだった。
 それを確認して、イルカもまた、眠りに落ちる。
 最後に、カカシが生まれここに居る今日に、感謝を捧げながら。







2008.09.15