珈琲





「あ」

 おもわず言ってしまったときにはもう遅い。
 インスタントのコーヒーは、勢いよく、少しだけ開けた瓶の口から盛大に出てしまっていた。どこに。もちろん、マグカップのなかに。
 カカシはひとつ溜息をつく。
 あーあー、という感じ。
 もうすぐ寝ようかと思って、ベッドで寝るまで本でも眺めようかと思っていた。何回も読んでしまっていたが、やっぱり飽きないイチャイチャパラダイスとか。それで、そのお供というわけでもないが、コーヒーを入れようとおもって。
 なにがいけなかったのかって、風呂上りの雫たれる頭をがしがし、掻いているのか拭っているのかわからない乱暴さで、タオルごと動かしながら、もう片方の手で瓶を傾けたのがいけなかったのかもしれない。
 そのまま、どばっと出てしまった。
 あー、と呟いてどうしようかとちょっと悩む。
 2秒後に、まあいいやと湯を注いだ。
 細かいことは気にしない。イルカ先生に見習おう。大らか、おーらか。
 けれどそんな楽観も、口をつけた途端に、回れ右をした。

「―――……なんだこれ」

 眉をしかめて、それっきり。
 カカシの台所のシンクに、マグカップが置き去りにされてしまった。
 とんでもなく苦いだけの黒い液体が。






「あれ?」

 カカシの家に入って、ふと目についたのが、流しの横にぽつねんと置きっぱなしになっているようなマグカップ。見た目よりよほど几帳面なカカシは、流しにモノを置きっぱなしにはしない。今まで、数回しか訪れたことはないが、記憶にはなかった。だから目についたのだろう。

「イルカ先生、やっぱり卵焼きと親子丼にしましょうか」
「ああ、いいですよ。作ってもらえるなら」
「任せてください」

 カカシはといえば、家に着いてすぐに始めたのは冷蔵庫の中身チェック。今日はひさしぶりに手料理をご馳走します、と誘われたのはいいが色々あって、今夜は卵尽くしになるだろう。その様子が想像すると可笑しくて、イルカの頬が緩んだ。
 それはそうと、興味は戻って、その問題物に近づいて覗き込んでみると、なかには黒い液体…だとおもう。カカシの冷蔵庫をしめる振動に、ちょっと液面が波紋をつくったから。

「?」

 コーヒー…かな。でも表面に、白っぽい膜がかかっている。これは知っている。コーヒー、とくにインスタントコーヒーを長い間放置していると、こうなる。少なくとも三日は経っているようだ、とイルカは判断しつつ、まだじっとその膜のかかった黒い表面をみつめていた。

「ああ、卵焼きは砂糖ですか? だし巻きにしますか」
「えぇと、だし巻きが食べたいです」
「オッケーです」

 カカシが風呂場に併設の洗面台に手を洗いにいった。あ、大根買えば良かった、という独り言が手をあらう水音に紛れてきこえてきた。
 それにしても、どうしてこんなトコに放りっぱなしなんだろう。
 イルカはささやかながら小首をかしげた。
 常のカカシらしくもない。
 もしかして何かの薬なのかな。
 マグカップの様子があんまり日常的でおもいつかなかったが、そういえばここは上忍の家なのだから、秘密の薬の一つや二つ、転がっていても不思議では…んなわけないか。バカバカしい考えは捨てる。カカシの性格を考えれば、放りっぱなしの秘薬が台所においてあるよりも、入れっぱなしのインスタントコーヒーがおいてあるほうが、まだ妥当だ。

「親子丼はどうしようかなぁ、作ったことないんですよねぇ」
「そうなんですか?」
「ええ、内容物は分かるんですけど、作る手順がなぁ…」

 えらく適当で怖いことを言いながら、カカシが台所に戻ってきた。額宛と口布を外して、ベストも脱ぎ捨てていた。すると、整いすぎている気さえする容貌が目に付いて、イルカは余計にマグカップから目が離せなくなった。
 いきおい思考が、なんでこんなに顔が良いのに俺なんかとつるんでるんだろ、といういつもの自問自答モードに入るからで、やっぱり自問自答は自宅で一人のときにしたい。だからなるべく、顔は見ないように、見ないように。

「牛丼とかはわかるんですか?」
「それがそれも知らないんですよー。外で食ったことしかないし」
「そうですねぇ…じゃあそれは俺がつくりましょうか。何にもしないのも悪いし…」
「いいですよ、教えてもらえれば。いっつも俺がイルカ先生の家にいってタカってるのに、たまのときぐらい申し訳ないです」

 ほんとうに上忍か、といいたくなるような腰の低さというか、フェア精神というか。それでもそんな、イルカと目線を合わせてくれようとするのが酷く嬉しく感じてしまうのだから、自分も相当、だと思う。なにが、相当、なのかはよく分からないが。

「ところで、イルカ先生」
「はい」
「なにさっきから見てるんですか? 面白い?」

 いえ別に、と心のなかでだけ答える。実際は無言。
 そういえばさっきからここの前から動いてなかった、と気づく。俺も手を洗ってこよう、とかは思うのだが。

「カカシ先生、これなんですか?」
「それ、インスタントコーヒーです、おとといいれた」

 凄い、日数までちゃんと当ててしまった。心のなかで一人喝采。…はしてても虚しいので、さらに質問する。

「飲まないんですか?」
「今はもう飲めないですよー。腹こわします」
「いや、それはそうですけど」
「なんか勿体なくて捨てられなかったんですよ」

 イルカの横に、ふわりと空気の軽さでカカシの気配が立った。銀色の猫、無意識に思い浮かんでいると、その腕がにゅっと伸びてマグカップを掴んだ。そしてそのまま、半分腐乱コーヒーになっていた黒い液体は、やけに粘りのある様子でシンクに流されていった。
 茶色い、というより黒い筋が銀色の流しに小さな川を作っている。カカシの掌にあるマグは、粘りのある流れが頷ける、汚れぐあいだった。さっきまで液体がはいっていたラインまで、くっきりと線が入っていて、しかも二重三重になっている。きっと気化した分のラインで、一番上のラインがほかほか湯気の立っていたときの分量だったに違いない。
 カカシの指が、流しのコックを捻って、次の瞬間、勢いよく水道水が流れ出た。
 容のよい指先が、マグカップのなかのラインを綺麗に消してゆく。

「インスタント、入れすぎちゃってね、凄かったんですよ、コップの三分の一ほどはあったんですよ。瓶に戻すのも面倒で湯、入れちゃったらこうなってね。勿体ないことしました」

 そうですね、とイルカはカカシの指先を見ながら返事をした。
 コップひとつにそんなに時間がかかるはずもなく、すぐにカカシは洗い終えてしまい、指先と気配は食器棚のほうへ去ってしまった。ちょっと困ったな、見るものがなくなってしまった。
 冷蔵庫の開く音。
 カカシが醤油や砂糖を取り出している音。
 律儀なカカシは調味料もたいてい冷蔵庫だ。調味料をぜんぶ出してしまったら、冷蔵庫は空同然になるという向きもある。
 また音もなくカカシがイルカの横に立った。カカシの腕が、イルカの前に醤油や砂糖の袋、みりん、それから卵をおいていく。それらをただじーっとみていると、楽しげなカカシの声。

「イルカ先生?」
「はい」
「なんで俺のほう、見ないんですか?」

 やっぱ気づかれてたか、と諦める気持ちよりは、やっぱり気づかれてたかー! と恥ずかしい気持ちのほうが強い。それはカカシの面白がるような声音にも責任はあるとおもう。

「…べつに、意味はないですけど」
「そう?」

 ふいにイルカの顎がつよい力で横にひっばられた。ビックリする間もなく、さらに息が止まるようなカカシの整った面がイルカを覗き込んでいた。その端正な顔が急に近づいて、軽い接触のあと、間近で笑った。

「イルカ先生、まるで俺があのコーヒー飲んだときみたいな顔してますね」

 どんな顔ですか、と言い返せれば年齢相応の、物慣れた風の反応だったのだけれど、あいにくイルカにはムリで。これまでの人生経験からも学ぶ機会は、カカシより圧倒的に少なかった。だから、たださっきまでと同じように、黒い液体を見るのと同じ情熱をもって、カカシの見れなかった端正な顔をみていた。カカシの目が笑った。

「にがそうな顔」

 何も言えずに黙っていると、二度目のキスをもらった。


 そんなに、にがくない。



2003.5.16