ずっと抱えていく
諦めるな、と見ていると笑ってしまうよな犬の顔が言う。
俺は泥のなかに顔を突っ込んで、目の端からねっとりとした血が染みだし始めていることを感じながら、それでも笑ってしまうような犬の顔に、やっぱり、ふふ、と笑ってしまった。
けれど俺の疲れ果てた身体は、疲れ果てた神経は、愉快な思いを言葉にしてはくれず、俺の顔面が、ひきつっただけだった。
諦めるな、とパックンがまた言った。
うん、そうだね。
そうだろうね。
けどもう、諦めたいって思うんだけど、どうかな?
俺はずっしりと俺の上に覆いかぶさる土くれたちに、俺の内臓が圧迫され、俺の体温がまるで真夏に溶け出すアイスクリームのようにあっけなく無くなって行くのを感じる。
この状況はどうなんだろう。
俺はこの状況においても、諦めては駄目なのか。
俺は俺のために、足掻くべきなんだろうか。
けれども、俺は俺のために、楽になりたかった。
こんな、生き埋めになった主人なんて、見捨てなよ、パックン。
ああ、雨がまた降り始めた。
まだ働いてくれている俺の優秀な耳が、目の代わりに地を流れる水音を伝えてくる。
絶望的な音を。
ざあざあと流れる音を。
山の土くれを流し岩や樹木までも引きずり流し崩れさせる雨の音を。
諦めるな。
パックンはそれだけを言う。
俺の心をお前に見せてやりたいよ。
暗部なんていいもんじゃないよ。
人を殺して、人で在れなんて酷いことだよ。
苦しいよ。
辛いよ。
俺の人生が俺の辛さで埋め尽くされているその苦痛に、俺はこれからさきも耐えるのか。
耐えなければいけないのか?
それが人生なのか?
俺の絶望が、俺を苦しめ、俺を安らぎへと導く。
土くれのなかに埋もれて安らぎの絶頂へと昇り詰める瞬間へと、俺を導いていく。
手足は冷たくなり、顔は笑みを貼り付け、全身は泥濘に染まった。
ああ、俺は最後の瞬間に望む。
この辛さに満ちた人生を、せめて誰かにねぎらって欲しかったと。
頑張ったね、と言って欲しかった。
こんな冷たい泥土にまみれて迎えるのではなく、温かな掌で、包まれたかった。
俺の人生が俺の辛さで埋め尽くされているという苦痛に耐えてきた、その誰もが耐えているはずの苦痛に埋め尽くされているということに耐えられなかった、弱い俺に、優しくしてほしかった。
寂しい、というのはこういうことなんだろう。
死という優しさに包まれる寸前の生き物に訪れる、後悔の瞬間なんだろう。
ああ、寂しい。
切ない。
寒い。
俺は俺の最後の体温を、手放そうとしていた。
諦めるな、という声が遠い。
遠い。
遠い。
遠いよ、俺がこの苦痛を手放さずに在ることができる世界が。
なにもかもが。
苦痛に満ちた世界を、生きることが。
遠いよ。
最後に望んだ優しさも。
もう、眠りたい。
眠りたい。
「カカシ、起きろ」
身体を暖めるチャクラと毛布。かすかに目を開けた先には、やっぱり笑ってしまうような犬の顔。
やあパックン、俺は掘り返されたのかな。
人の気配が俺の身体の傍らにいる。
チャクラの流れが、俺を苦痛に塗れた世界へと引き戻す。
感謝すべきだろうか。
諦めるな、と意識の飛びそうだった俺に声をかけ続けてくれたパックンに。
土で頭だけを残して埋まっていた俺を掘り返してくれた医療忍に。
俺は結局、何かを発する気力をとりこぼし、吐息を漏らした。
耳がもう一人の気配を知らせる。
歩み来る足音。
「薬湯が出来ました」
やけに発音の良い声音が俺の耳に届く。
チャクラを流している医療忍が、そこに置いてくれと返事をした。
「はい」
俺は瞼を震わせた。
「ああ、目が覚められましたか」
声は俺の頭上に降ってきた。
あまりにはっきりしすぎた声は、俺の静寂の安らぎに向かいかけていた心には強すぎて、俺はさらに睫を振るわせる。
声が。
降ってくる。
「よく、頑張られましたね」
強い声が、俺にはっきりとした光となって、突き刺さった。
目を開けば、日焼けした男の顔。
黒い目と一文字の傷を見、柔らかな微笑を俺は見た。
「よく、生き延びて下さいました」
そのときに流れた涙は、俺の安らぎへの希求をも洗い流し、俺は俺の苦痛を手に掴める気がした。
そして、まだ抱えていける気がした。
頑張ったね、と言い、彼が俺の生を寿いでくれたから。
俺の苦痛を。
俺はずっと抱えていく。
ずっと。
苦痛を抱える手を無くすまで。
ずっと。
ずっと。