花の休日
突き刺さる風がようやく緩んでくるころ。
堅い色の桜の枝、その蕾みがやんわり綻んでくれば、なにかと忙しくなる人間がいるものだ。それはたとえば、宴会好きのお調子者だったり、貧乏くじばかりをひく幹事役だったり、友人の多いなにかと人付き合いの良い人間だったりする。
そう、たとえばイルカのような。
だから最近のイルカは、たとえ仕事が早めにおわったとしても、そのまま家に帰宅するなんてことはほぼなかった。毎夜、なにがしかの送別会や歓迎会や懇親会や花見などの宴席に顔を出していた。
それを不承不承の態で見送っているのが、最近のカカシ。
二人の時間が減っていることへの抗議をしたいのは山々ではあったが、あるときなどは、イルカの帰りをイルカ宅で待っていると蒼白な顔色のイルカを迎えたことがあった。飲みすぎだ。ふらつくイルカを支えて、酒の成分を胃から吐き出させながら、カカシは半ば諦めの境地に達したのだ。
二人の時間よりもなによりも、イルカが休むほうが重要だ、と。
受付。
夕刻を少し回ったころあいで、程よく閑散としていた。
いつものようにイルカへと報告書を差し出しながら、カカシはイルカの顔色を注意深く眺めた。昨日は花見の宴へでたと聞いていた。
「イルカ先生、ちゃんとメシ、食べてますか?」
酒だけで生きてないでしょうね。
言外に含めば、イルカが目を上げずに苦笑した。
「昼メシは食べましたよ」
「朝メシは?」
「それはちょっと…腹が減った気がしなくて」
カカシは眉をひそめた。
朝に腹が減っていないということは、また昨晩は遅かったのだろう。
「あ、でもっ、今日と明日は休肝日にしようと思ってるんですよ」
一瞬の間からカカシの表情を察して、イルカが慌てていいついだ。いまに始まったことではないが、カカシは、自分の身体にかんして云々いわれることは厭う傾向があるくせに、やたらとイルカの身体にたいして色々と構ってくる。かいがいしく世話をやいてくるわけではないが、イルカの不精が度を過ぎると、まるで母か父のように、なにくれと無く構う。やれ、酒のあとは水とメシだの、睡眠不足はダメだの、たまには休肝日というものを取れだの。
先日、つい酒を過ごしてカカシに介抱してもらったときなど、あとでずいぶん叱られた。
「明日? 酒、飲まないんですか?」
「ええ」
けれど、世話を焼いてくるカカシが嫌いかといわれれば、けっしてそうではない。むしろ、暖かく思う。素直に聞いてやろうかと、少し贅沢に思うほどで。
「でも明日って…」
カカシが首をかしげた。納得できない様子だ。
それにイルカは笑う。
「ええ、俺、休みの日です。カカシ先生もじゃなかったですか?」
「そうですね、俺も明日、休み入れてました」
カカシの予定は以前から聞いていて知っていて、つまりそれに合わせたのだったが、改めて確かめて、イルカは嬉しげに笑った。
怪訝な顔のカカシに、場所柄もあって小声で、それでも勢い込んでいった。
「ちょうど明日には大川の桜通りが満開だそうですよ、天気も良いそうですし…」
最近、カカシとの時間が少ないことはわかっていた。それをカカシが、溜息をつきながらも文句をいわず、忙しくするイルカを見逃してくれていたこともわかっていた。だから、明日の休みは少し思うところがあった。カカシと過ごすのだと、気負っていた。
だから里を流れる河川のひとつ、大川の土手を考えていた。このところの陽気で、土手沿いの桜がいっせいに花開いたと同僚からも聞いていた。きっと明日はそれを聞きつけた里人でにぎわうだろう、けれどそれにたった二人、増えて悪いわけがない。人ごみに紛れながら、カカシと花見ができれば、と思っていた。悪くない休日の過ごし方だ。
きっとカカシも笑って同意してくれる、そう思っていた。
けれど返ってきたのは、曖昧な返事。
カカシは溜息をひとつついて、後頭部をガリガリとかき回して、それから「あー」とも「うー」ともつかない声をもらした。
「カカシ先生…?」
「…帰り、待ってます。あと一時間ほどでしょ」
「え、えぇ、はい」
「報告書は大丈夫ですか」
言われてイルカは視線を落とした。ざっと必要事項をチェックし、備考の欄も問題ないかをチェックして、頷く。
「はい、確かにお受け取りしました。お疲れ様です」
「じゃあ、またあとで」
ふらりとカカシは背中をみせた。
それにイルカは、先刻のカカシのように小首をかしげて。
自分の案が歓迎されなかったのが、不思議だったのだ。
てっきり、喜んでくれるかと思っていた。
もしかして酒を飲まないで何が花見かと思われたのだろうか。賑やかしい場に引き出されるのが厭わしかったのだろうか。それとも桜自体が好きではなかったのだろうか。
いや、そんな話、聞いたことないしなぁ。
いったい何がいけなかったのかと首をかしげながらの一時間。
終業までもうすぐだった。
んー、と一つ大きく、イルカは背伸びをした。
背後にまだ明かりのついたアカデミー。
ようやく終わったという気がした。なにせ、最近は仕事が終わっても、どこそこに何時に集合だのと一日の大半以上を仕事で費やしていたようなもので。いきおいカカシと帰るのも久しぶりで、イルカには怒涛のような日々が一区切りついたような気がしていた。
首をまわすとゴリゴリと気持ちのよくない音がしたが、心は軽い。嫌な酒を飲むこともない今日明日。しかも、カカシと一緒だと思うと、正直に嬉しかった。
ゆっくりとした歩調で、イルカはアカデミーそばの樹に歩み寄った。日もとっぷりと暮れて、その高くて枝も豊かな樹は、イルカが下から眺めても、そのなかは墨のように見通せなかった。
「カカシ先生、お待たせしました」
そのなかへ向けて、イルカは心持ち軽く声をかけた。疲れていると思われたくなくて。
ふ、と風が動き、次の瞬間にはカカシがイルカのまえに降り立っていた。
示し合わせるでもなく、並んで通りへと向う。
「さっきの話ですけど…」
「ええ、酒を飲まないって話には賛成ですよ、大賛成」
しれっというカカシの横顔を、イルカは伺ってみる。
あれ、もしかして怒っているのだろうか。
「―――…じゃあ、花見の件は?」
「そっちは了承不可です」
反対、ではなく了承不可、ときた。
イルカは意味を取りかねて困ってしまった。どうして可、不可の話になるのだろう。
「…カカシ先生?」
「今日は俺が晩飯つくりますよ。焼き鳥、このあいだ食べたがってましたよね。だからトリ雑炊にしましょう。それを食べて、風呂はいって、一緒に寝て、明日は一日ごろごろしてなさい」
「……」
なにも口を挟めず、イルカは神妙にカカシをみる。
そうすればカカシの目が柔らかく微笑いかけた。
「休みなさい。俺に気をつかって花見にいこう、って言ってくれるのはすごく嬉しいんですが、今のあなたには、なんにも予定のない日が必要ですよ」
でも、といいかけたイルカの手を、するりとカカシがとった。
「俺はイルカ先生と一緒にいるだけでいいですから」
イルカの手を引いたさりげなさで、カカシがそう言って、イルカの頬が染まった。
信じられないようなことを平気で言って、それで平然としているカカシを、とても見て居れずに、染まった頬のまま下を向いた。前を見なくても、手が帰り道を引いてくれる。
「…でも、悪いです。予定もないのに…」
言い訳のように、ぽつりと零した。
イルカからすれば、そういいたいのは自分のほうだ、といいたい。イルカこそ、カカシと一緒に居れるなら、べつに花見など行きたくもない。人ごみに揉まれる必要も無く、花見酒の臭いをかぎたいともおもわない。そんなものはここ二三週間のあいだに、嫌になるほど堪能した。…けれど、どこかに出かけると決めておかなければ、カカシが側にいる必要が無くなる。
何も用事はないのに、側に居て欲しいなどと言えないだろう。
そう考えての、明日の花見の提案だったのに。
「イルカ先生は俺が側にいると邪魔?」
「―――いいえ! そんなことは…っ」
ぱっとイルカの面が上がった。
「じゃあ明日、一日イルカ先生の家でごろごろしてていい?」
「それは…」
「俺は天気が良くても花が咲いてても、家でごろごろするのは得意だから、それをイルカ先生の家でしてもいいですか? もしかしたらそれでイルカ先生が一日、家から出れないで一緒にごろごろするはめになるかもしれないけど―――それで良い?」
「……―――はい」
負けた、とイルカは白旗を心中であげた。
なぜか泣きそうになって、笑った。
幸せ、とは怖くて思えないが、それでもこの胸の暖かさは何なのだろう。
自分が思うよりも、カカシはイルカを思いやり、そしてイルカもカカシを想う。
下手なやりとりでも、確かにそう感じて、イルカは笑った。
「…じゃあ、晩飯は任せてもいいですか?」
「はい」
「明日は昼まで寝てていいですか?」
「ええ、もちろん」
「起きたら、多分良い天気だから、部屋の掃除とかしていいですか?」
「お好きなように」
でも、俺を邪魔とか言わないで下さいね。
ちょっと心配そうにカカシがいった。
それにまたイルカは笑った。
明日一日、花の様子はどうだろうと気に病む前に。
ゆっくり楽しむための、休日を。
なんの予定もない、―――花の、休日を。
2003.4.8