風邪




 酷い咳が止まらなかった。
 昼ごろから熱が上がって、喉のあたりも痛いと思っていたら、あんのじょう夜になって咳き込むようになった。
 これは典型的な風邪の症状だと思って、いつものように家にやってきたカカシに、断りをいれた。

「大丈夫ですか?」

 いつもイルカに優しさをふりまく男は、やはりこんなときも優しい。
 追い返すイルカにたいして嫌な顔をすることなく、反対に気遣ってくれる。
 イルカはただの風邪です、といって笑って頷いた。
 一晩寝れば直ります、と心配性な恋人にいう。

「でも、今年の風邪はあとを引くらしいですよ」
「よくご存知ですね」
「ゲンマがさいきん、楊枝をくわえてないから訊いたんです」

 つまり、咳で楊枝がくわえられないから、ということらしかったが、イルカは笑いの発作と同時に軽く咳き込んでしまう。喉がむず痒い。

「じゃあ俺は帰ります。イルカ先生、ゆっくり寝てね」
「はい。すいません、本当に…」
「いいよ、ごめんね、休んでるところに着ちゃって」

 そういって、カカシは目じりだけにキスをして帰っていった。
 それが一週間前の話。






「―――ゴッホ、ゴッ、ゴ…ッ、ゴホッ、ゴホ…ッ」

 咳は悪化していた。
 今日もカカシを追い返してしまい、夜中にひとり、イルカは背中をまるめてベッドにもぐる。
 すぐに咳の発作がきて、腹筋が痛くなるほどの咳が何度も喉をついた。

「ぅ〜」

 電気をけして、目をつぶれば脳裏に浮かぶのは、不機嫌そうなカカシの顔。
 イルカに帰れといわれたのが不愉快だと、顔にでかでかと書いたような表情だった。
 でも、感染っては悪い。
 そうおもって、帰ってくださいといっているのに、カカシは聞かずに家に上がろうとするから、押し問答になる。これでもう四度ほど繰り返されている。そろそろカカシを押しとどめるのも限界かもしれない。
 カカシはイルカを看病する、という。
 けれど、この人手不足の折。カカシだって疲れているのだ。
 イルカも咳などで休んではいられないと日々仕事に追われているし、お互い忙しい。
 それなのに咳ごときで看病する、などといわれては面映い。
 とはいえ、咳ごとき、といっても辛いのだが。

「…ッ、ゴ…ッ、ゴッ、ゴホッ、ッ」

 まず、咳のためになかなか寝付けない。
 寝付けないので、治りが遅い。
 そして腹が痛い。
 腕を切られたり腹を切られたりなどというような怪我とは比べ物にならない些細なことだが、それでもけっこう辛い。寝れないのが、忙しさに疲れている体には一番こたえた。

「…寝たいよ…ゴホ…ッ」

 あんまり咳が苦しく、咳のせいで汗ばんできた額を手の甲で冷やす。先ほど飲んだ咳止め薬もぜんぜん効いていない。トローチなど舐め飽きた。
 どうするかと、なおも咳き込んでいると、ひっそりとイルカの頭上の窓が開いた。
 驚きに目を開くイルカがみたのは、初夏の月に照らされた銀色の髪。
 なんでわざわざ窓から、ていうか来るなって言ったのに、とめまぐるしく言葉が浮かんだが、喉の痛さもあってとっさに何もいえない。
 そのすきにカカシはやすやすと窓をすりぬけて、サンダルをぬいで、イルカのベッドの脇にたった。

 こんばんわー、カカシでーす。

 潜めた声は、ちょっと不機嫌そうだ。
 まだ通算四回追い返されたのを根に持っているらしい。あれから四時間も経っているのに。
 イルカは返事もなく、ベッドに寝転んだまま見上げていると、カカシはベストの胸の収納から筒をひとつ取り出して、イルカの枕元へと置いた。

 …カカシ先生? どうして…

 俺特製の咳止め薬。早く治してください。

 え、でも…

 それじゃ、おやすみなさい。



 そして消えた気配と姿。一瞬だった。
 もし開いたままの窓のカーテンが揺れていなければ、夢かと思ったほど。
 けれど枕もとには、たしかに先ほどまでなかったものが残っていた。
 イルカはそれを手にとり、苦笑した。
 ごめんなさい。
 呟いて、筒の中にはいっていた丸薬を飲むために取り出した。













 後日。


「ていうか、咳してたらキスさせてくれないじゃない、あの人!」


 そういうわけらしかった。




2007