黄金の月
ある晩。
カカシがイルカを訪れたとき、その部屋の窓が暗かった。
任務帰りで多少人恋しく、残念に思ったが月も高く上り夜半もすぎたころ。
さすがに自分の我侭でイルカの健やかな眠りを邪魔するのは気が引ける。
今夜は疲れにまかせて寝てしまおうか、と踵をかえしたカカシの耳にかすかな音がきこえた。
苦しげな咳。
普段なら気に留めないそれはカカシの足を止め、視線がイルカの部屋の窓へと流れる。
咳はくぐもった音ではあったが確かにイルカの部屋あたりから聞こえた。足音もなく、部屋の扉のまえへと移動した。
耳をすますとよりはっきりと分かった。イルカが咳き込んでいるようだ。
声をかけようか躊躇った。
つらそうな声をきくと足元がなにやら落ち着かなく胸がざわつくが、かといって声をかければイルカが起きてしまう。
もしかすると、あれだけ咳き込んでいるのだから寝ていられずに起きているかもしれないが、それであればそれで、自分が声をかけることでイルカの休む時間が減ってしまうだろう。
カカシのポーチのなかには咳止めにもなる丸薬がある。暗部の特製のものだから、酷い咳でもよく効くはずだ。それを渡せればいいのだが。
けれど寝ているところを薬だと渡すのは気が引ける。
こっそり置いていくという手も有るが、さすがに怪しい。
手紙を書いて置き去りにするには、近隣の目が気になるし、いつイルカの手に渡るか知れない。
だからダメだ。
とはいえ自分からだといって渡すのには、最終的にイルカを起こさなければいけない。
それはダメだ。
かといって薬を渡さずに帰るなど、気になって自分が眠れなくなってしまう。
「…………」
扉のまえで考えて考えて、そのうちイルカに薬を渡したいというのがたんに思いやりなのか、ただ自分の気がかりを解消したいという欲求であるのか判別しがたいほど、思考がこんがらがってきた。
イルカのことが気になる。
顔をみて、薬を渡し、できるなら具合をきいて帰りたいとおもった。
だがそうしたいとおもっても、実際として目の前にある扉はきっと鍵がかかっているだろうし、開けてもらうにはイルカに出てきてもらわなければならない。
それはいけない。
本末転倒だ。
イルカの具合を悪くしてしまう。
けれどけれど、と考えて。
けっきょく、彷徨ったといってもいい思考の末、カカシがとった行動は、扉のまえに丸薬のはいった薬瓶をおいていく、という情けないものだった。朝、イルカが扉をあければ気づくように、注意深く置いた。
イルカも起こさず、自分の気がかりも宥める方法が、これぐらいしかおもいつかなかった。
この際、翌朝の近隣の目やそれ以外の差し障りに、目を瞑るしかない。
気遣いひとつうまくいかないと自分をほとほと情けなくおもいながらも、扉から離れようとしたとき、なんの前触れもなく扉が内側からわずかに開いた。
驚いて、中からイルカが顔をだすかと思えば、しばらく待ってもその気配はなく、どうやら鍵のかかっていなかった扉の錠が勝手にはずれ、風の加減で開いたらしかった。
考えてみればイルカの気配もなく、咳はかわらずに奥からくぐもって聞こえているのだから、イルカが起きてきたわけがない。
カカシはしばらく迷い、イルカが起きてこないことを言い訳にして、室内へと滑り入った。
部屋のなかは暗く、外と同じように空気が乾燥していた。
イルカはベッドで寝ているようだ。
そっと枕元に佇んで、まるまって布団の端から顔をだしているイルカを見下ろす。気配を消しているのが常であるカカシだが、イルカはカカシの気配に敏い。いつもなら気づくだろう距離にたっても、イルカが起きる気配はなかった。
見ているあいだも、小さく、大きく咳を繰り返している。
そのたび、妙な具合に浮き足立つ自分を自覚したが、どうすることもできない。
きっと、イルカの咳が止まるなら、この動悸も治まるのだろうが。
カカシはポーチから薬瓶を取り出し、窓辺に置いた。
この薬で少しは楽になればいい。
イルカの顔もみたし、薬もおいた。
だからイルカが本当に目覚めないうちに立ち去ろうとしたとき、微かな声がきこえた。
咳ではない、言葉。
振り返って見下ろした。
「イルカさん?」
囁いたが返事は無い。
夜目では判別がつき難かったが、なんとなくイルカがこちらをみている気がした。
「…病院、行かないの?」
愚にもつかない言葉が、唇からこぼれた。
イルカの頼りなげな気配が、心をざわつかせたからだろうか。
「びょう、いん…きらいです」
「嫌いでも行かないと。俺なんてしょっちゅう行ってるよ」
「うん…」
普段と違うイルカの様子に、本当に具合が悪いのだとおもった。
「薬、置いておくからね。飲んでね」
「うん…」
「俺もう帰るよ。邪魔してごめんね」
「うん…、な、んだろ、い…い夢だな…」
掠れた声でのその言葉に、苦笑が漏れた。
イルカが夢うつつであるなら、それも良いと思った。
朝になって薬だけ置いてある状況に驚くだろうか。夢でなく現で、カカシからの薬であると分かるのなら嬉しいのだが。それよりも、また朝に具合をみにきてやったほうが良いだろうか。
その状況を思い浮かべると、すこし可笑しく、疲れた身体が和らいだ。
「じゃあね、おやすみ」
「おや、すみなさ…」
眠りに消えた語尾と、ささやかな忍び笑いが混ざり合い、すぐに寝室は静寂を取り戻した。
翌日はあいにくと朝早くから召集されたが、任務を挟んでの数日後、カカシは夜になってイルカの家を訪ねた。
道から見える窓は明かりがついていた。
我ながら不思議なほど軽い気持ちになって、扉を叩いた。
なかから、イルカの歯切れ良い「はい」という声と、元気そうな顔がカカシを出迎える。
自然と顔が綻んだ。
「イルカさん、こんばんは」
そして入った室内のテーブルの上。
あの夜に窓辺に置いた薬瓶があって、その中身が減っていた。
ちらりとイルカを伺うと、少しだけ染まった頬と、僅かに怒りがちに上がった眉。
その表情が可笑しくて、そして怒ったような顔をしつつも「ありがとうございました」というイルカがもっと可笑しくて、カカシはひとしきり笑って、それからイルカにキスをした。
イルカが、寝込みを見られるより無理に起こされるほうがまだ良い、と悔し紛れのような文句を言えたのは、夜も更けた、ずっとずっと後になってからだった。
2003.6.11(2007.10.30書足)