好き嫌い
俺って、じつはあんまり事務は好きじゃないんですよ。
この間だったか、イルカが苦笑気味にいっていた。
酒を飲み交わしながらの雑談のひとつで、イルカは本当は外で身体を動かしたり、子供とともに居るほうが、自分としては性に会っていると思うんですがといっていた。それは確かにそうだろうなと、カカシも頷きを返したが、そのあとすぐにイルカ自身が、かといって仕事を選り好みなんてできませんしね、と笑った。
人一倍の責任感、とでもいえばいいのか、はなからイルカには仕事の「選り好み」などする気はないのだろう。仕事は仕事、割り切っているのだろうとは思うが、酒の席のこと。ちょっとした愚痴を零したのだった。
けれどすぐに転じてカカシに、でもあなたが机に向かっているよりはずっと良いでしょうし、とからかいを交えて楽しげに笑った。その表情にカカシも笑って楽しくなって、こう思った。
俺もイルカ先生が、たとえば受付に座ってくれてたら、嬉しいなぁ。
と。
そんなことを思い出しながら、カカシは向かい合わせに座っているイルカを、なんとはなしにみやった。
イルカはカカシの視線になどは一切気づくようすもなく、ただただ一心に小さなラベルに文字を書きこんでは、四角い厚紙の端にペタリと折り曲げては貼っていく、という作業をしていた。
カカシが目をぐるりと180度動かせば、見えるのは窓からの夕空。
終業の時間まではもう少し。
けれど、イルカの作業に終わりはみえない。
「イルカ先生…」
「もうちょっとです!」
間髪いれずに返ってきた声。焦った様子は語尾の切れ具合でよく分かった。
カカシは暇つぶしに読んでいた忍術書をぱたりと閉じて、頬杖をついた。
ここは資料準備室。扉は一つで、それは隣の資料室に通じている。この準備室の部屋は大きいようで、乱雑に積み上げられた資料の箱で、実際の活動可能領域は少ない。そう、いまカカシとイルカが座っている四人がけの長机ひとつで、その空間が狭く感じるほど。そして部屋には二人しかいない。カカシとイルカだけ。
部屋の唯一の換気手段、部屋の圧迫感からすれば大きい窓は、ゆるゆると日の落ちる空を映しだしていた。
あーあ、とカカシは小さく呟く。
それはイルカを責めるものではなく、単に、イルカの責任感の在り所を呆れるものだった。つまり、そんな必死になって片付けてしまわなくても、明日、また誰かに頼めばいいだろうというのがカカシの思いだった。だから溜息のように呟いたのだったが、それを聞きとがめたのか、目の前の事務作業に必死な青年が面をあげた。そして抗議の色を浮かべて、カカシをきっと睨みつけた。
「カカシ先生…!」
「はいはい、分かってますよ。黙ってみてます、手伝わないけど邪魔もしません」
分かってれば良いんです、といいたげにイルカが、ひん曲げた口元のままひとつ頷いた。
それに、心中で溜息をついて、カカシは閉じた忍術書をまた開いたのだった。
もともと、イルカが今の作業を始めたのが午後も遅く。
悪いんだが、という聞きなれた言葉から頼まれた雑用だった。いわく、やりかけている資料整理のための仕切り板づくりの続きをしてほしい、というものだった。そして、古くなった仕切り板にラベル名が書いてあるので、それを写して貼っていって欲しいとのことだった。
聞く次第では大して気構える難事でもなく、イルカは承諾したのだったが、資料準備室におもむいて、それを後悔することになった。
仕切り板のラベル名が、そのまま写したのでは不適切だったのだ。理由は、古い仕切り板のラベル名の示す範囲が、現在の目安にされるべき範囲とは違うから。簡単に言えばそういうことだ。
しかも、その範囲をいちいち確かめてつくっていくのであれば、どうやら想像以上に時間がかかること。今日中には終わらないだろうと想像できてしまった。
そして乱雑で埃っぽい準備室でひとり、仕事を安易に人任せにする前任者の無責任さに腹を立てながら作業を始めたイルカに、訪れたカカシ。
挨拶のように「一緒に帰りましょう」と誘ったカカシに、眉を下げてイルカが現状を説明すれば、そうすればカカシが呆れた。そんなのは出来る時間内にできる範囲ですればいいんです、というのだ。
イルカとカカシは違う人間。
考え方も違う。
だから、このとき、呆れたようにいったカカシに腹を立てたのはイルカで、意固地に「責任を持って」というイルカに「じゃあ待ってます」と返したのはカカシ。
そうして二人向かい合って、黙々と時間が過ぎていたのだった。
べつに、好きじゃないというのなら、とさえカカシなどは思うのだ。
事務作業を軽視するつもりはない。自分たちのような、固有の能力を必要とされる作業もしくは仕事でさえ、事後の処理にはかならず事務的な能力が必要とされる。遂行した任務の内容が書類になれば、そのあとはいうに及ばず、事務能力に優れた職員が必要で、彼らまたは彼女らの能力がなければ里は回らなくなるだろう。
カカシは己が事務処理能力には長けていないと自覚している。ようは慣れていない。
だからこそ、事務処理を担当する職員には敬意を払う。己には己に必要とされる能力があり評価がある。彼らにもそうあるべきだからだ。
けれども、一方で事務作業、という仕事の内容から、引継ぎさえしっかりとすればたいていの人間が、たとえかかる時間はまちまちであっても、こなせる仕事が多いと考えていた。
例をあげるなら、いまイルカのしている作業などもそう。
別にイルカが奮闘しなくてもいいのに、と思うのだ。
イルカ一人が負担するべき仕事ではない。
だからイルカの無闇な責任感には呆れを感じたし、しなくてもいいと思ったが、それを口にだせば怒られた。
どうにか、時間がくれば終わるという約束をとりつけて、見守ることにしたが、やっぱりイルカの考え方は、イルカ自身を窮屈にしていると思ってしまった。
それでもたまに盗み見るイルカの真剣な面は、見ていて損をしたとは思わなかったし。
そんな窮屈なイルカも、嫌いではないし。
べつに、好きじゃないけど、といささか拗ねたようにさえイルカは思う。
カカシに言われなくても、こんな仕事、メモを残して誰かに引き継げばいい話だ。こんなに必死に、時間内に終わらせようと必死になることはない。こんなにペンを握る人差し指が痛くなるほど、小さなラベルに字を書く苦痛を我慢して、いちいち一つ前の仕切り板のラベル位置からひとつ分、ラベルをずらして貼っていく煩雑な作業を、焦ってすることはないのだ。そんなこと、自分で分かっている。
だいいち、自分はもっと適当な人間なのだ。
家では砂糖や塩は買ってきた袋のままで使ってるから、密閉もなにもなくて、砂糖は暖かい季節は二日で胡麻塩みたいになってしまうし、以前つきあっていた女性が買ってきた砂糖や塩の小瓶は、なかに埃がつもっている。食卓に置く醤油注しにはソースが入っていて、ラー油注しにはなぜか醤油を入れてしまった。おかげで醤油はいつも、少ししか出てきてくれなくて、とても使い難い。
他には、もらってきた傘たては大きさがちょうどいいと巻物入れにしてしまったし、落ちない汚れがついたら漂白すればいいと聞いて試したら、柄物シャツが真っ白なシャツになった。けれども、それらどれも、べつにいいかと支障は感じていない。
あまり小さなことを気にするたちではないと思っている。
けれど、その反動のように、人のことには神経質になってしまうようだ。
いまだって、この仕事をやりかけで放ってしまうと、あとの人間が困らないだろうか、ちゃんとしてくれるだろうか、自分に頼んだ人間はどうするだろうか、と色んなことを思ってしまう。
そんなことは自分の知ったことではないと考える反面、いったん自分に課せられた仕事はきちんとしたい、と思うのだ。後に使う人間のことを考えて、ちゃんとしよう、と思う。それに引継ぎするのも面倒だ、自分でしてしまえ、とも。
きっとカカシのような合理的な人間からみれば、苛々するような鈍臭さなのだろう。
無用な労力だとも。
きっと呆れられている。
そう想像できて、自己嫌悪さえ感じるが、だからこそカカシが見ているだけで手伝ってこないのは救いだった。これでカカシが手伝ってきたりなどしたら、よけいに自己嫌悪が募っただろう。
けれど同時に、絶対に時間通りに帰りますよ、とカカシが宣言したからイルカは急いでいる。きっと全部はし終えないので、引継ぎのメモを書く時間も考えて、今急いでいる。
事務作業は誰でもできることだが、大切な作業だ。けっしていい加減にしていいことではなく、もちろんその事務作業の引継ぎも、誰が見てもわかるように書かなければいけない。そうでなければ意味が無いのだ。
誰でもできる、誰がみてもわかる、それが重要だとイルカは思っている。
だからこそ、今回のラベリングの範囲間違いなど、もし気づかなかったらどうするつもりだったんだと、前任者にたいして怒りを覚えるのだが、同じ轍を自分も踏んでは立つ瀬がない。だからこそメモを残す。
事務作業は余り好きではないが、こうやって情報を共有すれば、だれでも同じ仕事をできるところは、なかなかに気に入っている。
こうやってたまに、カカシと共に過ごせたり。
でもやっぱり、外で身体を動かすほうが好きではあるけれど。
ぱたん、と本の閉じられた音がした。
カカシが読んでいた本を机に置いた音だった。
「さーて、時間ですよ。イルカ先生」
「ちょ、ちょっとだけ待ってください」
あと何か引き継ぐことはなかったっけ?
焦って、書きだしたメモの項目を見直せば、バチッと部屋の明かりが消えた。いつのまにか扉まで移動したカカシが電源を切ったらしく、イルカは怒った。外はもうとっぷりと暗く、手元のメモは明かりがないと読めやしない。
「カカシ先生!」
「はいはい。ちょっとイタズラしただけじゃないですか。そんな怒んなくても…」
「いいからつけてください、明かり!」
「はーい」
そうしてパチッと付いた電灯。読み直せば、書き足すことはないようだった。
「そうだ、カカシ先生」
「なんですか?」
メモを、仕切り板を積み上げた横に、未記入のラベルと共に添える。
こうすれば明日、新しく作業を始めるにしても正確に伝わるだろう。
「黙って見ていて下さって、ありがとうございました」
「いえ、手伝わなくて良かったんですね、やっぱり」
「ええ。俺の仕事ですから」
「だと思って」
イルカはその返答に小さく笑った。
こういうとき、無性にカカシの存在が嬉しくなる。
自分という中身を、正しく見ていてくれているような、そんな安心と心地よさをも感じる。カカシは聞きたくないと思うぐらいに、正しいことや納得できることをいうが、イルカがイルカの正しいと思うことを通そうとするとき、それを非難することはしない。応じてアドバイスや、ときには止め立てすることもあったが、いったんイルカが決めればそれに応じた。
イルカという人間を見ている、人の多様性を受け入れられる人なのだと、イルカは嬉しくなるのだ。
「でもお待たせしてしまいましたね。すいません」
「俺が勝手に待ってるだけですよ。イルカ先生が気にすることじゃありません」
「…たまには俺がカカシ先生を待ってみたいですけどね」
すこし悔しいように思って、苦笑ぎみにいえば、カカシが笑う。
窓から見える里には、白や橙の明かりが灯っている。再び電灯がおちれば、いっそう遠く、明るくみえた。それを横目に流しながら、カカシが開けた扉をくぐり、二人して資料室をでる。
「あなたが待ってるんだったら、俺はきっと仕事、サボっちゃいますね」
「やめてくださいよ」
「そう、そしてあなたに怒られる」
楽しげにカカシがいう。
仄暗い廊下、生真面目に眉を寄せるイルカを笑ってもいる。
「でも俺はイルカ先生を待つのは好きですよ」
「どうしてですか」
「一緒に居る時間だから」
嬉しげにさえいったカカシに、イルカが先刻より酷く眉を顰めてみせた。
いっそ機嫌を損ねた、とでも言えるような。
「あれ、どうしたんですか、イルカ先生」
「…あなたはどうしてそういうことを言うんですか」
「なにがですか?」
「そういう…」
まるで己に好意を寄せているような、とイルカは言いかけて口を噤んだ。
代わりにこういった。
「言い方を工夫したほうがいいですよ、俺はともかく他の方に誤解されても知りませんよ」
カカシの好意は、イルカへの友情。
けしてカカシの拙い言い方に惑わされてはいけない、とイルカは自制する。
誤解しないように。
けっして。
「そうですか?」
「ええ」
疑わしげなカカシへ頷きを返して、イルカは眉間の皺を解く。
「俺はなんとか分かりますけど」
「そう、かなぁ…」
「そうですよ、分かってますよ」
「そうかなぁ」
しきりに首を捻ったカカシへ、もう一度。
「そうですよ、騙されませんよ」
言ってイルカは笑った。
2003.3.30