キス




 イルカ先生は優しい。
 とっても優しい。
 それは俺が風呂の湯をぼこぼこに煮えたぎらせても青筋をたてないとか、どうしても秋刀魚が食べたいから朝晩三日間秋刀魚を食卓に上らせても笑ってたりとか、そういう日常のこまやかな事柄に始まって、たとえば怪我した任務帰りのくせに風呂に入ったときとか、このクナイを右目に入れてみたらどうなるのかなぁなどということを想像しながらクナイを眼前で弄んでいたときも、怒りはしなかった。

 あれ、なんだか可笑しいな。
 イルカ先生の反応が可笑しいんじゃなくて、俺の言い方が。
 確かに怒りはしなかったけど、イルカ先生はただじっと俺を見てた。
 ときに悲しそうだったり、射殺すような目をしていた。

 だから、イルカ先生が俺を愛してない、ってことはないと思う。
 俺はもちろんイルカ先生を愛してるから、イルカ先生がして欲しくないって思うことには、ぜんぶ降参だ。クナイを目に入れたりしないし、これからは怪我してるときは風呂には入りません、って両手あげて、もちろん誓ったよ。

 だけど、イルカ先生が優しい、って俺がいうのはそういうことじゃない。
 子供の面倒をみるように俺に接してくれるから、俺を愛してるっていうんじゃない。
 そういうあったかさも、あの人の魅力だっていうのは否定しない。俺は子どもの自分のころに、落としてきたものがたくさんあって、イルカ先生がくれるそういう暖かさが、俺の欠けた何かを満たすことをしっている。

 でも、俺が俺自身の欲求としてあの人を欲するのは、そういった物理的な充足を得たいためじゃない。
 もっと精神的なものだ。
 もっと、強く硬いものだ。
 そう、たとえば話の続きでいうならば、彼は俺を悲しそうに、あるいはきつい眼差しで見たあとに、たいていこう言う。

 まぁあなたのご自由ですけど。

 俺はその言葉でとても充足する。
 分かる?
 腹が満たされるよりも、知識を得るよりも、俺はその言葉で、彼に充たされる。
 俺は俺を失わない。
 自由は俺をどんなときにも手放しはしないし、彼にはそれが見えている。
 自由は俺にとって、俺であるために必要なものであるし、それは特別俺にかぎってのことではなく、人という動物にとってはたいてい必要なものだ。
 俺が俺であるための、必要な自由を、彼はけっして奪わない。
 そして俺は謝罪する。

 自由だからって、何してもいいわけじゃないけどね。

 この言葉は紛れもなく、俺にとって謝罪の言葉だ。
 ごめんなさいと子どもが泣き喚くよりも、ずっと深く許しを請う言葉だ。  彼は俺がこう言うと、泣きそうに笑う。仕方ない人だ、と笑う。

 それが分かっているのに、仕方ない人ですね。

 イルカ先生が笑うから、俺もゆっくりと笑って、そして一緒に寝る。
 キスもする。
 柔らかいキス。
 溶け合って溶け合って、上唇の柔らかさが美味しくて舌で嘗め回して、唾液の味を寝室の空気といっしょに飲みこむ。
 舌のざらつき同士を擦り合わせてキスすると、吐き出す息も混ざり合って凄くいい気持ちになる。
 あぁ。
 イルカ先生の優しさも、俺のなかの自由と混ざり合って、柔らかな何かになればいいのに。
 俺のなかの自由も、イルカ先生の優しさと溶け合って、暖かな包み込む何かになればいいのに。
 ぼんやりと俺はそう思った。


 俺と彼のあいだの自由という名の孤独を埋めてくれる、柔らかな、何かを。



2004.10.20