そらとうたえば
窓から見えていた空は五月すぎの青をめいっぱいに貼り付けて、きらきらしく晴れわたっていた。
「それでは失礼します」
頭をひとつ下げて、イルカは火影の執務室から辞した。去り際の、三代目の「頼むぞ」という満足げな励ましがふわふわと後頭部に漂っているような気分で、廊下を歩く。
これから教務課へ行って、火影に呼ばれるまえにしていたやりかけの仕事を片付けて、それから明日のアカデミーの演習の打ち合わせをしなければ。
考えながら廊下の窓からのぞいた校庭には、大勢の子どもたちが声をあげて走り回っていた。
正午もだいぶ過ぎて、イルカはアカデミーをでて慰霊碑へと向かった。
遅くなった昼飯をあとで買って帰ろうとおもいながら通りを過ぎる。先客はおらず、イルカは気兼ねなく石碑のまえにたたずんだ。とくに面影に残る名前を探すでもなく、ぼんやりと眺める。
周囲の木立から、鳥が飛び立ち、チチチと可愛らしげな声がする。
空は午前中から変わらずに気持ちよく晴れ、ところどころにもったりと浮かぶ雲が、青い色を優しくさせていた。
あのさ、とイルカは口を開いた。
「じっちゃん…三代目は俺を信じているって言って下さったんだ。それが嬉しくてさ、なんか泣きそうだったよ。堪えたけどさ」
執務室で、熱くなった胸のうちが思い出されて、イルカはまた目の奥が熱くなるのを感じた。自分で自分をごまかすために、足元の土を意味なくサンダルで蹴ってみる。
「でさ、そのあとに思ったんだ。父ちゃんと母ちゃんは、…喜んでくれるのかなってさ。でも、そう思ったことを、今度は恥ずかしくなってさ」
ごめんなさい、と足元をみながらイルカは言った。
「俺はほんとに子どもだったから、実際、どうかなんて分からないけど、俺は、…俺は同じように喜んでくれるって思った。あんまり覚えてないけどさ、俺が嬉しく思ったことを、父ちゃんと母ちゃんも、喜んでくれるって思ったんだ。…これって、信じてる、ってことなのかな」
慰霊碑への一人ごとに照れくさくなって、イルカはひとりで笑う。
鼻傷をかいて、ためいきをひとつ。
「でさ、考えてみりゃ、―――アイツには、信じれる思い出とか、自分だとか、自分を認めてくれる、信じてくれる人っているのかなって…そう思ってさ」
里の大人の冷たい視線にさらされていることは以前から知っていた。校庭で遊ぶにしても、いつも決まった顔ぶれで遊び、他の子どものなかには、露骨にその少年に対して、冷たく当たっているものもいるようだった。
そんな状況はいけないことは分かっていた。
けれど踏み出せずに、これまで来た。
自分などがどうにかできるのか、という怠慢もあった。だがそれよりも、イルカの言葉にならない胸の内側を占めたのは、自分が関わっていいのか、という躊躇だった。
九尾によって、両親を失った自分が。
イルカは自嘲を漏らした。
まったく、五月の晴れ渡った空には似つかわしくない。
「…俺さ、信じてみるよ。三代目は、俺のこんな情けないところもご存知だろうし、その上で俺にあの子を任せるっておっしゃって下さったんだ。…来期から、俺が担任になるよ。すごいだろ?」
信じてみよう、三代目を。
プロフェッサーと呼ばれた老人が何もかもを見透かしたうえで、イルカにかの子どもを任せてくれるのであれば、イルカは彼を信じ、逝った若き四代目火影の遺志を信じ、そして自分自身を信じよう。
「俺にどんなことができるかわからないけど、できる限りのことを、やってみようと思うよ。まあ、担任の先生、なんて初めてだからホント、なにができるか分かんないけどね」
情けない弱音を、応えることのない石にだけ漏らして、イルカは顔をあげた。
「そうそう、こっちは元気だよ。変なトチ狂った人が居てさ、ちょっと大変だったけど、まあひと段落したかな? あとはいつもどおり」
いつもどおり、カカシに焦がれる幸せで切ない片思いの日々だ。かがり火に飛び込みたくて堪らない羽虫が、いじましく身を焦がし続けているような。
自分をそう評して、まったく可笑しくなって、肩を竦めた。
「じゃあ、そろそろ行くよ。また来るね」
何が変わったというわけではないが、誰に聞かれることのない心の中を吐き出して、なにかしらすっきりした気分で踵を返した。ふわふわと漂っていた高揚感のようなものが、しっかりと肩に降りてきた気がする。
実際に担任をもつのは来期からだから、まだ随分と先の話なのだが、心構えができると、イルカは反対に楽しみになってきた。今までサポート的に生徒にかかわっていたから、担任を持つことへのやりがいもある。
静かな高揚を感じながら、しばらくいくと、向こうからよく知った人影が来た。
銀色の髪に、すこし猫背ぎみの、イルカの焦がれ人。
「―――あれ、イルカさん、こんなところで偶然ですね」
イルカが嬉しくてぼんやりとカカシをみていたから、カカシの方が先に声をかけてきた。
「ええ、本当に。カカシさんもですか」
「なんとなく、ね。イルカさんはこれからまだ?」
「いま昼休みなんです。これからアカデミーに戻ります」
「そっか。こんないい天気だから、イルカさんとデートでもしたいのにね」
珍しいカカシの軽口に、イルカはくすぐったく笑ってやり過ごし、空を見上げた。
やはり、空が気持ちがいいと、心のほうもつられるものだろうか。
「そうですね、ほんとうにいい天気です」
太陽の光が心地よく降り注ぐ日の下、広く青をいっぱいに映す穏やかな空を、示し合わすわけでなく、二人で見上げた。
「いい空だね」
「ええ、いい空ですね」
それから、軽く手を上げて二人は分かれた。
夜、カカシに昼間の火影の話をしてみた。
風呂に入って生乾きの髪を拭いながら、あくまで拘りがないように聞こえることを気をつけながら話した。
台所で何かしていたカカシが、へえ、と声をあげる。
カカシの背中をベッドに腰掛けて眺める。何をしているのだろうと見ていると、手に青色のグラスをひとつ持って、寝室のほうへ戻ってきた。
「そっか、イルカさん、あの子の担任になるんだね」
「はい、三代目が俺なら大丈夫だろうとおっしゃって」
内心、ちらりと不安に思わなかったわけではない。カカシは幼少のころから才を発揮して、忍として活躍していたときく。ならばあの災厄の日には、もう実践部隊として動いていただろう。
自分とは違う立場からみるなら、また違う意見があるだろう。
「そう。あ、イルカさん、寝る前にこれ、飲んでみて。きっとよく寝れるよ」
イルカの横に、同じように腰掛けたカカシから、青色のグラスを渡されて、反射的に受け取った。人差し指と親指だけでささげ持つような小さなグラスで、中には酒の匂いのする液体が入っていた。グラスの大きさからすると、一口か二口分だ。
それよりも、イルカはグラスのほうに注意を奪われた。
細やかな細工が幾何学模様のように入った、美しい、値の張りそうなグラスだった。
「カカシさん、これ…」
「今日買っちゃった。ごめんね。イルカさんに似合いそうだなー、って思って」
「俺に、ってそんなことあるわけないじゃないですか」
意図せずにだろうがカカシが嬉しがらせるようなことをいうから、注意するところをつい間違えてしまった。
「そう? 似合ってるよ。あと中身も忘れないでね。ここんとこぐっすり寝れてないんじゃない?」
「……」
「これね、俺も飲んだことあるから大丈夫。不眠症とか、寝つきが悪いときに飲むと、ちょっと寝やすくなる程度なんだけど、強すぎないし、寝酒のようものなんだ」
確かに、先日の苛立たしい一件があってから、眠りが浅くなっていたのは事実だ。寝るぞ、と努力しなければ寝にくくなっていたのも事実。だが、それをカカシに相談したことはなかったから、イルカは申し訳なくて顔が下がった。
狭いベッドで一緒に寝ているのだから、イルカの目が覚めれば、カカシもそれは眠りが浅くなって当然だ。
カカシの安眠を邪魔していたことを、いまさら気づかされて、情けなくなった。
「すいません、カカシさん…俺、迷惑を…」
すると、カカシがあせったように
「え、違うよ。違うって、イルカさん、顔、上げて? 迷惑じゃなくて、寝つきが悪いならこれ飲んでぐっすり寝ようってだけだから、ね?」
イルカは情けなさで紅潮した顔を上げて、無理にカカシに笑ってみせた。
「すいません…ありがとうございます」
「うん、どういたしまして」
カカシは、ほっとしたように目を細めて、微笑んだ。
手元のグラスを、イルカは一気に干した。甘いとろりとした液体が、咽を落ちていく。
果実酒のような味のそれは胃のあたりを暖める。
「ごちそうさまでした」
「よかった。じゃあ、寝ようか」
「…? カカシさんはもしかしてこのあと任務ですか」
風呂に入ったのはイルカ一人だ。このあとカカシも入るかと思っていたから、少し驚いて不躾な質問をしてしまった。それを咎めるでなく、カカシは頷いて、イルカの手元からグラスを取り上げて、ベッドの頭側、カーテンのかかる窓際に置いた。
「うん、だからもう帰るけど、イルカさんが寝ちゃうの見てから帰ろうと思ってね」
「そう…ですか」
なんとなく、在るだろうと思っていたものが無くなると、寂しい。カカシが居ない夜など数え切れないぐらいあるのだが、最初から居ないのとでは全然別なのだな、とイルカは静かに考えた。
「じゃあ、俺はもう寝ます。おかげでちょっと眠くなってきました」
嘘ではなく、本当にゆっくりとした眠気を感じていた。手足の指先から温度が伝わるようなじんわりとしたものが瞼を重くする。久しぶりに、気持ちよく眠れそうな気がする。
「うん、電気消そうか」
カカシが電気をひとつ、またひとつと消していき、部屋は暗闇に落ちた。
「カカシさん?」
「ここにいるよ。寝るまで居るから」
「はい」
カカシの重みが、ベッドの脇にかかって、腰掛けたことがわかる。安息の吐息をついて、イルカはカカシの居るほうへ寝返りをうつ。闇のなかから手のひらが伸びてきて、イルカの髪を梳いていった。
「ね、さっきの三代目の話だけどね」
「はい」
「やっぱり、三代目って人を見る目がありますね。イルカさんなら、大丈夫。うん、イルカさんのまっすぐなところが、あの子に伝わるといいね」
はい、と返事ができなかった。嬉しすぎて。
眠りに落ちるまえの少しの思考の欠片が、幸せの悲鳴を上げて、今夜の夢の行方を決めた。
「…おやすみなさい。お気をつけて」
美しい色に彩られた夢へ引きずられる手前、くぐもった声でなんとか言った言葉。
「うん、行ってきます。おやすみなさい」
最後まで、カカシの声は、穏やかで優しかった。まるで、昼間にみた空のように、心地よく穏やかな声だった。
そして、深い眠りから覚めた翌朝、窓際のグラスが朝日を透かして、きらきらと蒼色に輝いていて、イルカは嬉しくて照れくさくて、寝ぼけた眼をこすったのだった。
2007.2.4