麦茶




 じんわりと沁みこんでくるように響く痛みに、イルカは背筋をわずかに伸ばした。
 台所の小さい窓からは、夜もふけたまっくろな空がみえるだけで、曇っているかどうかはよくわからない。けれど漂ってくる空気の香りがしめっぽく、やがてくる雨粒を教えてくれる。
 鍋に沸かしたいっぱいの湯のなかに、麦茶のパックをひとつ、いれた。

 背後からはテレビの音がきこえていて、カカシがぼんやりとそれを見ている。
 カカシもまた、古傷が痛んで雨を知るのだろうか。
 思ったが口にだして訊くことでもない気がして、イルカは鍋のなかでぽこぽこと踊る茶色いパックをみる。ゆっくりと茶色が透明な泡とともに広がっていき、夜の香りを消すように麦茶の香りが漂いはじめる。
 湿気た夜風と、香ばしい茶の匂いが混じる。
 その香りがあたりに漂い、鼻先をくすぐるのを感じながら、どうじに背中の疼きも感じていた。
 背中だけではない。
 これまでに受けた傷の浅いものから深いものまでが、かすかな不快感を運ぶ。
 匂う夏の香りと、昔を思わせる痛みと。
 背後にはぼんやりとテレビをみているカカシと。
 それら全てをイルカもまたぼんやりと認識して、そういえばこの時間はまた明日、また来年と確かに来ることもなく、ただこの瞬間だけで過ぎていってしまうものなのだと、ぼんやりと確認する。
 カカシと共にいる、この痛みに背筋をのばす夜を。


「どうしたの、お茶、濃くなるよ」


 いつのまに傍らに立ったのか、カカシがコンロの火を止めた。気配はなかった。テレビの音はかわらずに続いている。
鍋の泡は、時間差で沸きあがってくることをやめ、茶色くなった鍋の中身からは、湯気が立ち上った。気づけば、イルカの額にはうっすらと汗が滲んでいた。


「カカシさん、こっちの瓶に移して、冷やすんです」
「うん、パックは取る?」
「取ります。苦くなりますから。カカシさん、苦いの嫌いでしょう」
「子どもみたいにいわないでよ。嫌いじゃないよ、普通は取るの」


 むくれたようなカカシは、器用に湯気がたつ鍋から、パックをつまみあげた。茶色い湯面からちょこんと見えていたパックの端っこを上手に捕らえて。ゴミ箱にそれを捨てた。
 イルカは水切りカゴから、耐熱製のガラス瓶をとって、立てて置く。カカシが両手で鍋をもって、瓶にまだ熱湯である麦茶をいれてくれた。それをじっと見ている。
 すべて入れ終わると、カカシは「あちち」といまさら言いながら、流しに鍋を放り出した。イルカは水切りカゴから瓶のふたをとって、閉めずに上にのせた。


「水、溜めるんでしょ?」
「そうそう、カカシさん、けっこう庶民的になってきましたね」
「ちがーうよ、イルカ先生んち仕様になってきたの」


 カカシが流しにおいた先ほどの鍋に、水を溜めてくれたから、イルカはそれに瓶を入れた。これで、しばらく蛇口の水をすこしだけ流して、鍋のなかの水を入れ替えながら冷やす。
 ある程度冷えてから、冷蔵庫に移すのだ。熱いままでは、冷蔵庫の電力をたいへん消費する、と聞いてからこうしている。ただ、水代と比較してどれほど得なのかは知らない。
 ふ、とイルカはため息をついた。
 そろそろ寝ようかな、と考えて隣をみようと顔をあげたとき、背中にカカシの手のひらがふれた。
 よしよし、と背中を撫ぜる手。

 ぼんやりとカカシをみると、カカシはイルカのほうをみていなくて、ただ手だけがイルカを慰めるように触れていた。
 たぶんカカシには当たり前のように分かっているのだろう。
 イルカの背が痛むこと。
 もしかすると他のことも。

 湿気た夜に、こうやって二人台所に並んで、麦茶を作ることや、夏の匂いを感じながら、二人が揃って軽口を叩けること。
 それらのことが、今しか在りえず、二度来ることはなく、訪れたとしても似たような幸福でしかなく、今は今でしかないこと。
 今この瞬間が、とても貴重な瞬間に思えたこと。


「カカシさん」
「ん、なーに?」
「俺、カカシさんのことが凄く好きです」
「知ってるよ。俺がイルカ先生のこと、すごい好きだって、イルカ先生知ってた?」


 知っていたか、と質問したくせに、カカシはイルカが返事をしようとする間もあたえずに、イルカの腰を抱きこんでキスをしかけてきた。
 嫌なわけではなく、大人なしく舌を絡めあって、しばらくして息を乱しながら唇を離すと、カカシはうっすらと笑っていた。
 見透かすような笑いで、腹立たしくイルカは返事をしてやらないことにした。
 そして、返事は? とねだるカカシへ、こんどはイルカからキスをしたのだった。




2005.07.03