静けさに染まる夕暮れに。





 なんとはなく家路を連れだって帰り、夕刻の淡い色彩が空を染めてゆこうかとするころに、家の鍵をあけた。鍵はカカシも持っているが、イルカが居れば、自分の家なのだから当たり前にイルカがあける。
 玄関のきしむ扉をあけると、家のなかは一足先に薄暗く、夕刻がいっそう感じられた。


「お邪魔します」


 イルカのあとから入るカカシが小さく言うのを、背中で聴く。
 手荷物の教材と、夕食の買い物袋を適当に置いていると、カカシが寝室のほうへと足をむけるのが横目にみえて、イルカはふと視線で追いかけた。
 暮れゆく日差しは、秋のような静けさを部屋に落としていて、足音のないカカシの所作は、まるで無声のテレビを見ているようだった。


 カカシは壁でみえない部屋の隅へと姿をかくしてしまったが、イルカはなんとなく、そのまま見ていた。気配も薄く、音もないカカシの存在が、ただ目でだけ確認できることに、感慨のようなものを感じている自分に、すこしぼんやりとしていたのかもしれない。
 浅い日暮れ時刻であるために明かりのついていない部屋は、静かな日常のようでもあり、寂しさの象徴のようにも見えて、イルカは消えてしまった姿が、また壁の向こうから見えてこないかと、じっと視線を動かさなかった。
 そして声が、なんでもないように聞こえた。


「これ、洗ってもいいやつですか? 落ちてましたよ」


 姿はいぜん見えなかったが、声はイルカの茫漠とした不安のようなものを、まるで馬鹿馬鹿しい思い煩いだと吹き飛ばすのに充分な、優しい日常の声であり、言葉だった。
 イルカは「はい」と返事をした。
 思い出せば、朝に忙しくベッドの脇にシャツを脱ぎ捨てて出勤していた。それをカカシが見つけたのだろう。

 動かさない視線のなかに、銀の髪がみえて、淡く夕暮れの薄墨にそまって青灰色のようだった。イルカの視線のなか、部屋を横切って、カカシは洗濯機へとシャツを放り込んで、そしてイルカの居る台所のほうへと戻ってきた。
 そうして、イルカをみて、カカシは小首を傾げる。


「どうかしたの? イルカさん」


 掌がイルカの頬へとのびて、じんわりと温もりが伝わる。
 生きている。
 当たり前のことに、また胸が詰まったように苦しくなった。
 カカシがそこにただ居るだけで、こんなに不安になること、感慨を抱くこと、幸せで幸せで、カカシが好きだと感じることに、泣きそうになること。
 全ては己の胸の内だけで尽きてしまい、晒せないことに苦しくなること。


「どうしたの? そんな顔して」


 優しい人だ。


 けれど答えられず、イルカはただ優しい温もりに頬を摺り寄せたのだった。



2004.9.12