雨上がり。
居酒屋をでて、すこし道なりに歩いた。
カカシのアパートの位置はしらないが、カカシはイルカのアパートの位置を知っているらしく、自然とその方向へ連れ立って帰ることが多い。そして途中で、さようなら、と姿を消すのがいつものことだった。
今日もいつものことで、なんとなく川沿いの道にでて、そのまま歩く。
日はとっくにくれているから、ぽつりぽつりとある街灯が道と川面を照らしていた。
「イルカ先生は、明日はアカデミー?」
「午前中はそうですね。午後からまた受付です」
「そっか。忙しいね」
「カカシさんよりは忙しいと思いませんが」
そうかなぁ、と気を悪くしたふうでもなく、カカシが返事をする。
並んでたどる帰り道の歩調は、カカシとの酒席のように、ゆっくりとしたものだ。
「そうだ、カカシさん―――」
「なに? イルカ先生」
「それ、変じゃないですか」
「それって?」
いまさら言うことでもないかもしれない。
おかしいとおもい気になっていたが、言う機会がなく、先延ばしにしていたら長引いてしまった。
「俺、先生、ってつけられる立場ではありませんよ」
あれえ? とカカシ。
「でも、イルカ先生、学校で先生、してるじゃない」
「アカデミーで教鞭は取らせて頂いていますが、カカシさんはアカデミーの生徒ではありませんので」
「それは残念。じゃあ俺はもうイルカ先生をイルカ先生って呼んじゃ駄目ってことです?」
イルカが思いもしなかったほど、カカシの台詞は困っている様子が滲んでいて、すこし驚いた。
「駄目っていうことではありませんが、…呼び捨てでよろしいと思いますよ」
「うーん、じゃあ傘男で」
「―――じゃあ、って意味が分かりません。もう呼び捨てしてください」
「それはヤだなあ」
話になっていない、とイルカは肩を竦めた。
酒を半分も呑まないのに、銚子をすすめることにしても、この会話にしても、カカシは自分の決めるところがあれば、それを貫きとおす意固地さがある。忍びとしての強さだともとれる堅さは、歳いった職人を相手に話をする感覚にも似ている。こう、と決めたことは譲らない。
「じゃあもうカカシさんのお好きなように。でも俺としては、呼び捨てにしてくださったほうが気が楽ですが」
「そう。じゃあ俺の好きにするね。イルカ先生?」
返事のかわりに、イルカは小さく息をついた。
吐息には、ちびりちびりと呑んだ銚子半分の酒精が、まだ残っていた。
「はい、カカシさんのお好きなように」
けっきょく、ため息だけでは返事にならない気がして、イルカはそういった。
上忍にたいして提案できたことを重畳と思おう。無理強いできるものでも立場でもない。
しばらく考えて口をつぐんだイルカを、カカシは気にするようでもなかったが、次に口をひらいたのはカカシだった。
「たとえばね、いま俺たちが歩いてるのが地面の上でしょ」
いきなり例え話がでてきてイルカは相槌もうたず、カカシをみた。
街灯で淡くなった夜の闇のなかで、カカシの頭髪はぼんやりと白い。闇にまったく染まってしまう自分の頭髪と違い、光に照らされてこそ溶ける色に思えた。
「じゃあ川の底にたってみれば、俺たちはその場所より上にいるでしょ?」
「…まあ、この川は人の背丈ほどあるので、そうなると思いますが」
「川に入れば水に濡れるし、濡れたら体温が下がる。そうしたら気持ち悪いじゃない」
それはそうだろう。当たり前のことであるし、任務などで川に落ちれば、状況と季節によっては手痛い自然の仕打ちをうけることになるのは、イルカも身に覚えがあった。
「でね、濡れてるやつは思うわけですよ。土の上を歩いて服が乾いていて体温の下がらない状態ってどういうもんなんだろう。でも土にあがってもなかなか服は乾かない。反対にべたべたしてて気持ち悪い。やっぱり土の上にいる気持ちは分からない、どういう気持ちなんだろう、どんなことを思うんだろうと疑問に思い続ける」
「―――はあ」
「土の上にいる人はいる人で、水に入ると一瞬で水に入ってる気持ちは分かったけど、ふだんは土の上にいる人だから、服が乾いてしまう。そうすると、体が濡れているときのことは、思い出になってしまう、忘れてしまうかもしれない」
たとえ話、とカカシはいった。
もしかしてこれは、具体的にそういう状況であるという想定ではなく、抽象的な話なのだろうか。
カカシの口調が、まるで思い出語りのようだから、実際に体験した話しかと思ったのだが。
「でも、水に浸かってるほうにすると、忘れてしまうかもしれないという気持ちも分からない。不思議だな、となるわけです」
「はあ。分かるような分からないような」
カカシのかすかに笑った気配が、夜の空気を震わせた。
「そういうわけで、川のなかに立つやつは、どうやったら土の上の人に届くんだろう、と考えたり同じ気持ちになったりできないかなと試行錯誤するというわけです」
「はあ―――、それ、童話ですか?」
ぶは、とカカシが吹き出した。
イルカがみたなかで、いちばん大ウケしたものとみて差し支えない吹き出し方だった。
そのまま腹に腕をからめて、身を追ってくつくつ笑っている。
イルカはちょっと面映くなった。カカシが手放しで笑っているのが、新しい一面をみれて嬉しいような、何を笑われているのか分からない憮然とした気持ちとか混ざっている。
「まあ、まあね、童話みたいなもんかな」
やっと笑いを途切れさせて、まだ笑いの小さな発作のようなものを切れ切れに残しながらカカシが言ったとき、イルカのヘソがもう少しで曲がりそうだった。
けれど曲がってはいなくても曲がりそうではあったヘソは、声に表れる。
「すいませんね、無学なもので」
「ごめんごめん、機嫌、損ねないで? ね」
言って、手をあわせて拝むまねまでしたから、イルカのヘソが、すぐに立ち直る。子ども相手に過ごしているだけあって、そう曲がったままのヘソではいられない。イルカの機嫌は、いつも竹のように曲がったりはね返ったり、素早いのだ。
それに、腰低く謝ってくれる上忍相手にずっと怒れるわけもない。
イルカは苦笑して言った。
「そういう話なら、俺もちょっときいたことがあります」
「へぇ、どんな?」
「おいてけ掘っていうんですけど」
知らないなぁ、とカカシがいうからイルカは先ほどの意趣返しのように、滔々と説明してやった。
堀で釣りをする男が、怪異がおこると噂の堀に釣りにいき、案の定、怪異とであう。それは、釣った魚を置いていけという声がするもので、男は気味が悪くなって帰る。
その途中に、団子屋によるのだが、店主にさきほど恐ろしい目にあったと話すと、なんとその店主がのっぺらぼうとなって、驚きのあまり男は気を失い、魚も失い朝を迎える。
そんなような話だ。
カカシは感心したように、相槌をうちながら話をきいてくれた。
「どうです、似てません?」
「似てますかね」
「ええ、堀のなかから呼びかける声と、釣りをする男とは、水のなかと土の上ですよ」
なかば勢いで言ってみて、たしかに似ているじゃないかとイルカは自分で得心したが、カカシはいま一つ納得できないようで、首をひねっている。闇のなか、ふわふわと銀髪がゆれる。
「でも堀のなかの声は物欲しげに言うだけでしょ? しかも驚かせたりして。タチが悪いなぁ」
「だから怪異なんです。おばけ話。童話と似てるでしょう」
「俺の話はもっと、穏やかな話だと思うんですけど」
それに反論しようと口を開く前に、カカシが「まぁいいや」と言った。
「そろそろ、帰ります。じゃあね、イルカ先生。おやすみなさい」
「―――はい、おやすみなさい」
あっという間に消える姿。
いつもながら、突飛な印象がぬぐえない別れ方だ。話の途中で、別の用事でも思いついたかのように、さようなら、と告げる。
驚きこそすれ、不快ではないのがカカシの人徳というものかもしれなかった。だが、今夜はすこし、別れが気になった。カカシが「もっと、穏やかな話」といった口調が、なぜか気にかかり、カカシの気分を害していたのではないかとおもったのだ。
イルカはしばらくそこで考えていたが、やがて自分の家へと足をむけた。
また次の機会があれば、訊いて見よう。
むやみに拒絶はされないと、いままでの付き合いから期待したかった。
2005.05.16