雨上がり。






 見つけた、と呆然としたような表情でいわれ、イルカはおもわず自分の周囲をみわたした。
 だが受付に座る自分のうしろには壁しかなく、隣にすわる受付員は、腕一本ほどはなれている。
 見ても考えても、この場には自分しかいないと確かめて、やはりイルカには分からなかった。
 目の前の男とは面識がない。
 名前ならしっている。
 はたけカカシという。名の知れている忍びで、顔も良く、稼ぎも良いとくれば、人の口端に上らぬことのほうが難しい。
 そして男はさらにイルカに言った。

「あんた、誰ですか?」

 と。






 はたけカカシとの奇妙な、友人づきあいはそれから始まった。
 こちらは中忍で、あちらは上忍。それも里の外にまで名前がでまわるような相手なのだから、友人づきあい、という括り方は乱暴だが、カカシはごく真面目にイルカにたいして敬語をつかい、遠慮した風に呑みに誘う。上司と部下との親睦を深めるための誘い、というわけではない誘い。それが強いて言えば「友人のような」という括りになり、それではイルカの座りがどうにも悪いので「奇妙な」が付くのだ。

 カカシは、名から想像するよりも、低姿勢で自分の価値をしらない人間のようだった。
 里にでまわる噂というのは、噂の常で、たいがいが誇張されているものだが、そのなかでもカカシの噂は憧れや妬みが素晴らしくゴテゴテと付いて回るたぐいのもので、イルカもいくつかは耳にした。
 彼自身をしらないころのことであったので、イルカは感心したり眉をひそめたりしたものだったが、こうやって、二人で居酒屋のカウンターで酒を飲んでいる姿をみれば、あの噂とカカシとのギャップが大きい。
 まるで噂が一人歩きをしている。
 そう思えるほどに、カカシはイルカにたいして威張り散らすこともなく、ごく自然な動作でイルカに酒をすすめさえするのだ。
 イルカは杯をとりあげて、両手でその酌をうける。

「すいません、ご返杯を―――」
「いや、俺はもうこれぐらいにしておきます。イルカ先生はもっと呑んでね」

 カカシは杯を空いた小皿にさかさまにして置いてしまい、イルカは内心困る。
 呑んでといわれて、はいそうですかと頷けるものではない。カカシがすすめるからよけいに悪い。これが気に食わない上司のオゴリ酒なら、言われるまでもなく心置きなく呑むが、カカシとの酒はそういったものではないから。
 度数の高い酒をゆっくりと呑むカカシにあわせていると、そんなには呑んでいなくても、ほろ酔いのようになる。
 ほろ酔いのここちは気持ちよい。
 それを急くように呑んで壊したくない、という気持ちも働くのだ。

「カカシさんはもういいんですか? 銚子にまだ半分も残っていますよ」
「それはイルカ先生が呑んでくださいよ。俺は烏龍茶にします」
「俺ひとりで呑んでも気が引けるって、この間もいいましたよ」
「そうでした?」
「はい」

 そりゃごめんなさい、とカカシはいったが、悪びれない言い方だった。
 さっさと店員に烏龍茶を頼んでしまい、イルカはちびりと酒盃をすすり、肴をつつく。
 変な間柄だ。
 友人のように遠慮なく振舞えるわけでもないが、あいだにある空気は悪くない。
 ただの知り合いにしては近すぎ、仕事仲間というには力に差がありすぎる。

「もっと度数の低い酒を呑めばいいのではないですか? もしかして俺に合わせています?」
「いーえ? そうですねぇ、それもいいけど、それだとイルカ先生についであげられないでしょ」
「いいじゃないですか」
「良くないです。俺がついであげたいのに」

 目の前のふろふき大根のカラシは手付かずで、カカシは八分の一に切った大根を口に運ぶ。
 薄い色の唇は容もよく、美形であることがはっきりする。

「どうしてつぎたいんですか、もしかして酌奉行ですか」
「? なんですか? しゃくしょうぐん?」
「ほら、鍋料理とかでつきっきりで仕切る人を鍋奉行っていうでしょう? だから」
「シャク…あー、酌! 酌奉行、あーなるほど」

 唇がすこしだけしなった。

「でも酌奉行って言います? 聞かないなぁ」
「あといらっしゃる奉行さまはカニ奉行さまですよ」
「カニ? カニってあの赤いやつですか。何するんです」
「カニの身を下手くそに取ったら、代わりに取ってくれるんです」
「その奉行さまは良いなぁ、俺もお願いしたいな」
「カカシさんの奉行さまもけっこう良いですよ」

 言うと、唇のあいだから歯がすこし見えるぐらいに、カカシが笑う。

「でも俺には奉行になってくださらなくてもいいので、カカシさんが楽しいように呑んでくださっていいんですよ」
「そういう話?」
「カカシさんが気を使ってくださるのはとても光栄なんですが」

 ふと言葉を切った。
 店員が背の高いグラスをカカシのまえに置いて去る。
 カカシはそれに口をつけて、イルカを見た。

「気を使ってるんじゃなくて、俺がイルカ先生につぎたいだけなんですけど、―――迷惑?」
「そういう意味ではなくて―――確か前も似たような話をしませんでしたか」
「しましたねぇ」

 イルカから視線をはずし、気持ちよさそうにカカシは烏龍茶を飲む。
 その美味しそうに上下する喉のあたりをみていると、ほんとうはカカシは酒が苦手なのではないかと思ってしまう。イルカを酒に誘うのはいつもカカシであるというのに。

「それを覚えてるなら、俺がいったことも覚えてます?」
「覚えていますが良く分からなかったので、覚えているだけですよ」
「うーん」

 カカシはあのとき、俺からイルカ先生に渡るものがあるって凄いと感じるんですよ、といった。
 残念ながらイルカには意味が分からない。
 カカシから感じる、なにかの音にならない言葉の一端のような、それであると感じるのに。
 その言葉の意味が分かるなら、カカシがイルカを誘う理由も分かりそうであるのに、イルカには意味を解することができない。
 イルカは、まるでそれが、カカシの背中を見ているばかりであるようで、悔しいのだった。




2005.05.15