ありがとう。






 彼の人となりを垣間見たとき、ひどく苛ついたものだった。

 自分はひんぱんに里をでて任務をこなす身であり、依頼のなかには利害によって人を殺せだの、人質を捕って来いだの、おいそれとは口外できないが人体の一部を収集してこいなどというものもあった。
 もちろんそんな任務ばかりでもなく、なかには世界にも稀少な花を摘んでこいといったような、血の流れない任務もあった。

 だが、たいがいの気の重くなるような任務といえば、依頼人たる加害者と殺される被害者の、互いの利害が重なっただけであるという理由で、人が死ぬのだ。
 己の手によって。

 それは酷く気の重くなる事実だった。
 当人同士、勝手にやってくれ、といいたくなる。
 己の生業を考えなければ。

 カカシは自分の役割を知っている。
 どのような依頼にも応じられる、優秀な忍びである、という役割を。
 だから今まで生きてきたし、生き延びてこられた。
 仄暗い世界の陰を見て、しだいにそんな世界の在り様も仕方がないと割り切れるようにもなった。
 だが、彼を見たとき、ひどく苛ついたのだった。

 守りの象徴のような、里の大門のなか。
 長たる火影のもとで教鞭をふるう男。
 その、朗らかな笑みをみたとき、カカシは己でも不思議なほど、胸のなかが焼けるように熱く感じられ、気分が悪くなった。

 きっと曇りのみえない笑みに、心底むかついたのだろうと思う。
 人の中の熱を、光りを、信じることを教える男。
 真直ぐな眸。
 曲がらないことを諭し、健やかにあることを謳う。

 反吐が出そうだった。
 世界はそんなに綺麗なものじゃない。
 人はそんなに信じるに足るものじゃない。
 カカシの実感と大きくかけ離れた、彼の人となりに、本当に酷く、カカシは苛ついていたのだった。









「好きです」
「は?」

 間抜けな呆れ声をイルカがあげたのは、もっともなことだった。
 言ったカカシ自身も、いまだ自分自身にたいして呆れているほどなのだから。
 けれどしょうがない。
 こんな世界であなたが光りにみえたんだから。

「だから、好きですって」
「―――はたけ上忍師、私にはよく分からないのですが、それは私がもっているこのボールペンや任務書についての発言でしょうか。要人護衛がそんなにお好きでいらっしゃったとは存じ上げませんでした」
「あなた阿呆ですか」

 カカシは丁寧に、あほう、と発音した。
 受付所でいきなり始まったこのやりとりに、数えるほどだった受付所の利用者がおもわず足をとめて見ている。
 カカシの前に座っているイルカが、その視線を気にして、眸を左右に揺らしたのが分かった。
 だがカカシにはこの会話を終わらせる気は無かった。

「オレはあなたに言ってるんです」

 気づいたのは唐突だった。
 苛ついて腹立たしくて気分の悪くなるほど嫌悪していると思っていた彼のことを、どうしようもなく好いていることに気づいたのは。
 胸が苦しくなるほどに熱く感じるのは、腹立たしいからでなく、焦がれるから。
 苛ついて見るもの全てがわずらわしく思えたのは、彼が自分を見ていないから。

 光りを熱を体現したかのような男。
 それが憎かった。
 許せなかった。
 だが、唐突に気づいた。
 体現しているのではない。
 人は光りを、熱を持ち得るものだと、信じ、信じることのできるものにしようと、彼は努力しているのだと。

 けして安穏としている忍ではない。
 甘いだけ、口先だけの男ではない。
 それに気づいたとき、もう留めようのないほど彼に惹かれている自分にも気づいた。
 認めてやることが、できた。

「あなたが好きです」
「――――――」

 あんぐりと開いた口。
 間抜けな顔、と思う。
 だが正直で率直で、分かりやすくて好ましい。
 第一、彼のことを見目形で好いたわけじゃない。
 中身が良いから、形さえも文句のないほど好ましいのだ。

「返事は?」
「―――…返事、といわれましても」
「駄目なの」
「いえ、なんというか…その―――」

 もどかしい言葉。
 駄目なら駄目。受け入れられないなら、受け入れられないとはっきりとそう言えばいいのに。
 そうすれば、どんな手を使ってもあなたを手に入れると告げられるのに。

「―――考えたこともないことを仰られたので、…お答えできかねます」
「ふぅん」

 愛想笑いの消えたイルカの顔をみつめ、カカシは頷きを返した。
 妥当な答えだ。
 すくなくとも、受付で種々の依頼人および忍びを相手にしている人間にとって、このうえなく妥当な答えであり、カカシにとってこれ以上なく、意味の無い答えだった。

「で、どうするの」
「どうする、と言われましても…」
「後で答えはくれるの、くれないの。いつになるの。そこらへんを言ってくれないと、オレも困るんだけど」

 分かりかねます、で終われば世は泰平だ。
 実際には、片付けられない問題をどうにか、片のつくように、収まり良いようにしなければならない。
 それが仕事、というものだ。
 人付き合いだって同じようなものだろう。
 答えをもらえないと、次の行動が起こせない。
 するとイルカは、先ほどまでのあやふやな語尾を改め、はっきりと言った。

「では、三日後、お答えいたします」
「そう」

 頷いて、カカシは背を向けた。
 静まり返っていた周囲に、みんな隙なのかね、とぼんやり思いながら。








 もともとイルカとは数えるほどしか話をしていない。
 個人的な話になると皆無だ。
 先ごろ、下忍担当となる際にほんの二言三言を交わしただけ。
 以前からイルカをみていたカカシと違い、イルカにしてみれば初対面と同様で、そんな人間からとつぜん、想いを告げられても戸惑うのは目に見えていた。
 だが分かっていても、我慢ができなかったのだ。
 彼の視界に、自分の姿のないという現状に。

 受付所での一件から半日ほどたったころ。
 真夜中。
 ピュィィ、と窓の外で鳥の声を聞いた。
 やれやれとカカシはベッドの上で溜息をつく。もうすぐ寝ようと思っていたのに、どうしてこんな時間に召集がかかるのか。
 気だるく思いながらも腰をあげ、火影のもとへ向かう。
 夜空には、真冬の月が冴え冴えと浮かんでいた。







「はたけカカシ、御前に」
「うむ」


 音もなく執務室へ入ると、夜中だというのに平素の格好のまま、火影は煙管をふかしていた。
 細い管をとおして、部屋中に紫煙が煙っている。
 カカシは眉を潜めた。
 視界もそうだが、なにより煙草の匂いが充満していて、面布をしていてさえ鼻が詰まりそうだ。
 機嫌でも悪いのだろうか、思って声をまち佇んでいると、紫煙の霞んだ向こう側から、渋い声が聞こえた。

「昼間、面白いことをしでかしたそうじゃの」

 言われてカカシは首を傾げた。
 面白い。
 はてなんのことだろうか、と。
 だが首を傾げても、次の火影の言葉を待っても、返ってくるのは沈黙ばかり。

 仕方がなく、カカシは正午前から夕方前までの時間の行動を、思い返してみた。
 面白いこと。
 した覚えがない。
 まさがガイのように逆立ちで里を練り歩いたわけでもないし。
 アンコのようにわんこそばを真似て一人わんこ汁粉をしたわけでもない。
 それにあれは面白いというより、恥ずかしい。
 さっぱりわからない、と考えこんでいると、とうとう根負けしたかのように、低い重低音が響いた。

「イルカに、なんと言うたか、覚えておるかの?」
「―――、ああ、あれですか」

 ようやく腑に落ちた。
 目の前を膜のように漂う煙を払いながら、カカシはごく当然のように言った。

「あれが面白いんですか、やっぱりみなさん暇なんですねぇ」
「喝―――!!」

 ビリビリ―――ッと、部屋が軋んだ気がするほどの大音声が執務室に響いた。
 こころなしか、火影とカカシの間の薄膜さえ、海割れを起こしたように、淡くなってどこかに逃げていったようだ。
 おかげでカカシから、席についている火影の、ひね曲がった口元がようやく見えた。
 カカシはやれやれと肩を竦める。

「それが、どうか」
「どうかも何もあるか、馬鹿もんが! 受付でやらかしたそうじゃの、イルカの周りのものらが泡をくって駆け込んできおったわい! イルカを守れとな!」
「…ご本人はどうしてたんです、一緒に駆け込んできましたか」

 語尾も荒い火影へ、カカシは落ち着いた視線を投げ、訊いた。
 周囲の人間が駆け込んできたという仔細を疑ったわけではなく、三日後に返事をするといったイルカが、カカシの帰ったあとに慌てふためき誰かに助けを求めた、とは考えられないと思ったからだ。
 そうすれば、火影は渋い口元をさらに渋くして、鼻を鳴らした。

「きとらん! 呼び出して訊いてみたが、一身上の都合と首を振りおった」

 カカシは淡く笑った。
 口布の下でゆるく動いた唇に、気づくはずもない火影がちらりと視線を寄せ、そして皺枯れた指に煙管をもちなおして、ゆっくりと息をついてみせた。
 まるで、獲物を目の前にした禽獣のごとき、威圧漂う仕草。
 冑の縁からひかる眼光が鋭い。

 カカシは内心で舌を出した。
 たしかに受付で話をきりだしたのはまずかったかもしれない。
 イルカがこの老人のお気に入りだということも考慮にいれておくべきだった。

「それなら放っておけばどうですか。本人がいいと言っているんだから」
「そうもいかん。周りが浮き足立っておってな、―――かくいうワシも、ちと困っておる」
「……」

 嫌な予感がした。
 もとよりここに参上したのは召集を受けたからだ。
 火影の性情を考えても、ただ訓戒を垂れるためだけにカカシを呼び出したとは考え難い。
 被り物の奥深く、カカシを見据える眼光は弱まる気配は無い。
 カカシはひとつ、大きく溜息をついた。

「―――ご用命ならどうぞ。命令には逆らえませんから」
「そうかの、お主のことじゃから走りに走って、一月の任務も三日後には終わらせて帰ってきそうじゃのぉ」

 まったく嫌味な爺だ、と不遜な言葉でこっそり詰る。
 若いものの自由恋愛ぐらい許して欲しいものだ。

「それで、任務は」
「なに、簡単なものじゃ。里を出て隠居しておる知り合いがな、久方ぶりに誰ぞ手合わせでもしたいと言ってきておる、ちょっと行って相手をしてやってくれんかの。すこぅし、遠いところに住んどるんじゃがな」

 真っ先に思ったのは、まさかタダ働きではないだろうな、というものだった。
 だが、言葉とともに示された1枚の書類には、終了報酬がかかれており、聞く内容からすれば悪くない額だった。
 しかし、問題はやはりあった。
 任務遂行地、である。

「…すこし、ね」
「お主なら片道半月もかからんじゃろうて」

 このクソ―――、以下はとても口にできないような言葉で、カカシは目の前の老人を心中で罵った。
 いつもはただの好々爺のくせに、まるで陰険舅だ。
 そんなにイルカに近づくのが気に食わないのだろうか。

「では確かに拝命いたしました。明朝、里を発ちます」
「うむ。よろしくな。―――そうそう」
「は」
「お主を信頼しとる」
「はぁ、それはどうも」

 不意に言われても対応に困る。カカシは後頭部をがりがりと掻いた。
 なにせ、話題の流れからして、続く言葉にどうしても不穏なものを感じてしまう。
 さっさとこの部屋を辞したい、と背中を翻したカカシに、火影の低い声が届いた。

「思い余って、などということがないようにの―――」







 思い余って、などと言われなくても。
 はなからイルカにそんな手が通用するとは思っていない。
 頑固な性分であることは既に承知していて、もし無理強いをして身体を組み敷いたとしても、カカシが果てに願う結果にはならない。
 そのことを重々承知しているから、どう想いをもてあましたとしても、たぶん、力を嵩に来てうんぬん、ということにはならないと思う。
 実際、イルカに会ってみるまでは分からないが。

 カカシは切るように冷たい風のなか、民家の屋根をつたって、イルカの家に向かっていた。
 三日後まで会う予定もなかったのだが、火影があんな任務を申し付けてきたから、会わないわけにはいかない。すくなくとも、帰ってくるのが一ヶ月ほど先になるかもしれないと告げなければ。
 だが、うろ覚えだったイルカの家の付近にきたとき、なにか気配にひっかかりを覚えた。
 里のなかでは珍しいことだ。

 いったん足をとめて、カカシはあたりを見回した。
 あの四辻を左に曲がればイルカのアパートが見える。その手前の角で、カカシはぐるりと、夜空をふくめ、木々の枝、民家の路地の隙間、植え込みの陰、地面や道々の塀にいたるまで、ゆっくりと眺め回した。
 そして一言。

「手荒なことはしたくないんだ、―――帰ってくれる?」

 瞬時、放たれた殺気と威圧に、大気が張り詰めた。
 なんの変哲もない里の一角が、まるで戦地を思わせるかのように、緊張に満ちる。
 だがその緊迫も、音も陰もなく気配たちが去っていったことで解ける。

 カカシは肩を竦めた。
 おそらくイルカを守れと火影に言いに行ったものたちだろう。
 気配から中忍ばかりのようにおもえたが、もしかすると受付やアカデミーでの同僚なのかもしれない。
 イルカは人好きのする男だから。

 思いながら、イルカのアパートの階段を上る。
 安普請の作りつけで、カカシの足運びでもかすかに軋んで揺れた。
 そんなところがまたイルカの不器用さと要領の悪さを思い出させて可笑しい。
 狭い通路を進んで、探すまでもなく「うみの」とかかれた表札をみつけた。

 外からみるかぎりでは明かりはついていない。
 もう寝ているのかもしれなかった。
 わずかに躊躇ったが、このさい仕方がないと扉を軽く叩いた。告げずに約束を繰り延べるよりは、真夜中にに訪れるほうがまだましだろう。
 しばらくの間。
 起きてこないかもしれない、と思ったのは、たぶん、白い息を三度ほど吐く間。

 かすかな物音とともに、ぱちりと電灯がつき、扉が開けられた。
 驚いたことに、イルカは寝乱れた様子でもなければ、寝ぼけた顔でもなかった。
 むしろ、ついさきほどまで真剣に仕事に取り組んでいたといったほうがいいような、厳しい面持ちだった。
 意外におもって、扉のまえで何をいうでもなく佇んでいると、イルカが扉をおして、人ひとり分の隙間をあけてくれた。

「どうぞ」

 また驚く。
 まさか招き入れられるとは思っていなかった。
 玄関先で一言、用件のみで終わるだろうと考えていたのに。
 火影に釘をさされたように、イルカもまた同じように考えていると思っていたから余計に、だ。
 その逡巡のあいだがイルカには不思議だったのだろうか、真直ぐな眸が訝しげに揺らいだ。
 だから、カカシは率直に言うことにした。

「あんまり、オレみたいなのを家にあげるもんじゃないでしょう。あなたの家も、あなたに聞かないのにたずねてきたんだ、少しは怪しんでください」
「ああ――――――、そういうことですか」

 呑気なイルカの台詞に、苦笑が漏れた。
 だがさらにイルカは続けた。

「あなたはそういうことをする方と思えません。それに上忍師とはいえ寒いでしょう。こんな夜中に訪ねてこられたのですから、ちょっと寄っただけとも思えませんし、どうぞ中へ」

 これには失笑するしかなかった。
 意外にしたたかというべきか、いや、ただカカシを買い被っているだけだろうか。
 二度勧められたから、とカカシは招かれることにした。
 内側からの明かりが、狭い廊下にカカシとイルカの影をつくりだす。
 扉の内側に足を踏み出せば、イルカの家の匂いがした。
 生活臭のあるところがやけにイルカをイルカらしく思わせて、カカシはまた可笑しくなる。

  「そういえばみんなを帰してくださったんですね、ありがとうございます」

 狭いアパートの部屋だから、入ればすぐに台所兼食卓だ。
 半畳もない三和土でサンダルを脱いでいると言われた。また驚く。イルカを訪れてからなにやら驚いてばかりだ。
 まさか礼をいわれるとは思ってもみなかった。

「…いえ、さすがに聞き耳立てられてると話難いですし」
「みんな、あなたを誤解しているようで。すいません、ご不快だったでしょう」
「はぁ…まぁ、当然のことかなと思いましたけど。あなたのほうが無用心すぎるんじゃないんですか。すすんで俺を阻止しようとした奴らを労ってあげなさいよ、俺だったら面倒で放っておくのに」
「そうですね」

 言って笑った。
 悪戯をしたことを怒られて、喜んでいるような顔。
 どきりとする。
 受付ではみなかった表情だ。

 掌で促がされて、カカシは食卓へ座る。
 一脚しかないテーブルだ。
 いつもこのテーブルでメシ食ってんのかな、とカカシは足を組んで、頬杖をついた。
 木造の天板は、すこし飴色になりかかっていて、よくみると所々、へこんでいる。茶碗やなにかを落としたあとに見える。
 それをなんとなく見ていると、イルカが冷蔵庫をあけてビール缶を二本だしてきた。
 一本をカカシの前へおいて、一本のプルタブをひいてイルカが缶を掲げて見せた。

「すいません、お茶よりもこっちを飲みたくて」
「いえ…どうも俺は驚いてばかりだ。いつもとすこし感じが違うから」
「そうですか」

 ぐっと呷ったさいに、忍服のアンダーの襟から、喉仏が覗いた。
 ふ、と溜息を殺してカカシもならってプルタブをひいた。
 軽い音が、夜中の部屋に響く。

「―――感じが違うから、駄目ですか」

 飲むために口布を下げようとしたとき、無音の隙間を縫うようにイルカが呟いた。
 眸がまっすぐにカカシを見ている。

「さっきまで考えていました。私には、私のどこがあなたの気に障ったのか、気に入られたのかまったく分からないんです。だから感じが違う、といわれてもいったいどの時点での私と違うのか、それも分からない。教えていただけますか、私のどこが気に入らなかったんです、どこが気に障ったのでしょうか」
「―――…寝てなかったんだね」
「ええ、あんなに外で気配がしていれば寝つけませんから」

 拘りなく言い放って、また一口、ビールを呷る。穏やかに微笑む様は、受付で見る愛想笑いと酷似していた。やれやれと思いつつ、カカシは口布をさげた。すると小さな口笛。イルカだ。

「やっぱり、すごいですね」

 まるで揶揄されているようだ、カカシはイルカの言葉を無視してビールを含んだ。水っぽいアルコール分が、鼻につく。

「俺があなたを気に入らなかったって?」
「ええ、私はそう感じていましたし、実際そうだったと今でも確信しています。違ったんですか? はたけ上忍師」
「―――止めて下さい、意外と嫌味ですね」
「そうですね」

 にこ、とイルカは笑った。

「意外と、驚いた、感じが違う。どうもはたけ上忍師は―――」
「カカシ」
「カカシ上忍は―――」
「上忍、はいらない。カカシだけでいいよ、イルカさん」
「……カカシ、さんは、」
「うん」
「どうも私を誤解されているのではないですか? 昼間の言葉、いま撤回されても構いませんよ」

 事も無げに。
 まいった、とカカシは天井を仰ぎたくなった。
 ビールが冷たい筋になって、冬の冷えた身体をさらに凍えさせていく。
 けれど胃の腑にとどけば、ぽうっと温かく感じられた。

「撤回はしませんけどね。してほしいんですか」
「―――あなたは私の質問には答えてくださらないんですか」
「質問?」
「どうして私を気に入らなかったか、という質問です」
「ああ」

 気づかれているとは思わなかった。これでも底意の隠し方は巧いつもりだったのに。面布も額宛もそれに一役かっているし、そうそう簡単に悟られることはしていないつもりだった。
 どうして分かったのかな。

「どうして、って言われてもね。…あなたがあんまり明るくて笑ってて平凡で阿呆だったからかな」

 あほう、と今度も綺麗にカカシは発音した。イルカはそれを表情も変えずに聞いていた。

「それだけですか」
「他にもいろいろあった気はするけど、とりあえずあなたがあなただったから、どうも苛ついて仕方が無かったな」
「やっぱり嫌われていたんですね」
「嫌ってはないでしょう」
「どう違うんです」
「ただ苛ついていただけです、あなたの存在に」
「そうですか」

 シンクにもたれかかり、イルカは手の中のビール缶を見ている。カカシのほうから、その伏せた目元や、液体で濡れてみえる唇が目についた。
 沈黙が降りる。

「――――――…俺の質問には答えてくれないの」
「……」
「俺に好かれて、迷惑? とりあえずそこらへんを聞きたいんだけど」

 だが答えはなかった。
 イルカは変わらずに目を伏せがちにして、手のなかのビール缶をもてあそんで軽く爆ぜるような金属音をさせている。
 どうやら中身を飲み干してしまったらしい。

 カカシもビールを含んだが、冷えの忍ぶ室内で、そうそう干せるものでもない。
 まだ半分ほど残っている。
 舌先に臭みのある酒精がのこって、カカシは眉を潜めた。
 イルカには悪いが飲み干せそうにない。
 缶を遠ざけた。
 つん、と麦芽の醗酵した香りが、舌に残る苦味と酷似して、カカシの鼻を刺激した。

「…答えは三日後にします、と昼にいいました」

 ぽつりと呟かれたイルカの声。
 見るともなしに、ビール缶をみていたカカシはそれで「あ、そうだ」と声をあげた。
 はじめの用件を思い出した。
 なんて間抜けな。

「そう、俺、明日からちょっと任務がはいっちゃって。帰ってくるのは早くても一月後なんですよ。それをね、言いに来たんだけど、ちょっと忘れてた。ごめんね」
「―――……一月、…長いですね」
「まあね」

 長いのは当たり前だ。
 火影が腕によりをかけて、どんな忍びでも長くかかるような任務を選んだのだから。
 任務達成までの時間ではなく、移動の時間で日数を稼いでいるのがその証拠だろう。
 移動時間ばかりはどんなに力を尽くしても、ある一定以上短くなることはない。
 恨むべき皺だらけの顔を思い浮かべ、カカシはまた罵詈雑言を吐き出したくなった。

「だから残念だけどあなたの返事をきくことができなくてね。約束を放りだすのもなんだし、言いにきたんだ」
「…そうですか、―――…難しい任務ですか」
「さぁ、それは着いてみないとわかりませんね。生きて帰ってこれたらいいんだけどね」

 何の気なしに、言ってみた軽口。
 ほんとうは大して危険でもない任務と分かっている。期間が長いだけで、手合わせをしろというからには少しは労苦を強いられるかもしれないが、命の危険はなさそうだ。
 ただ、イルカがどんな反応をするか見てみたくなって言っただけで。
 だから、イルカが、ばっと顔を上げてカカシをみた真剣な面持ちに、カカシのほうが呆気にとられてしまった。
 どうしてそんな顔を、というまえに、怒鳴られた。

「なにをそんな弱気なことを言っているんですか! あなたほどの方が!」

 イルカが手で遊んでいた缶を放りだし、ガランと煩い音がシンクと響き渡った。
 夜中なのにひどい騒音だ。
 だがそれを咎める間もなく、イルカはそのまま寒空のなかへ出て行こうとしていた。

「それは火影様からの任務ですね!?」
「そうですけど、って、え、イルカさん!? どこへ行くの」
「火影様にお会いしてきます! そんな危険で長期の任務に、猶予期間が与えられないなんておかしいでしょう! きっと俺の件が関係してるにきまってます、そんなあなたが一月もでるような任務、最近じゃ受付には回ってきていませんから!」
「ちょ、待って待って、落ち着いて」

 宥めようと腕を引きよせ、向き合った。
 険しい眸がカカシを見る。
 アルコールのせいか、ほんのりと頬に赤味がさしていた。

「なんですか、はたけ上忍師」
「…あぁ、もう、それやめてっていったでしょう、んな言い方」
「失礼しました」
「謝って欲しいわけじゃない、第一、なんでそんな怒るの。俺が帰ってこなくなって嬉しいのはあなたじゃないの。どうして」
「……―――」
「答えて。三日後じゃなくて、今。考えてたんでしょ、昼間は駄目でも今ならもう答え、出たでしょ。教えてよ」
「それは…―――」

 間近での問答に、イルカの視線が外される。
 戸惑ったように流れた眸が、そのままイルカの答えを表わしているようにも思えたが、カカシは食い下がった。

 これ以上ないほどの慇懃無礼さ。
 が、徹頭徹尾と思いきや、出てくるのはビール。
 こだわりなく家に上げたりもする。
 追い返してくれて、と礼を言う。
 任務に出るといえば長いと言い、危険だといえば怒り出す。

 もしかして。
 一貫しないように見えるイルカの態度に、ふと思い至ったこと。
 まさか、と即座に否定したが、捨てきれない。
 反らしたままの視線を睨みながら、カカシは低く言った。

「―――…ねぇ、あなたも俺のこと、嫌いだったでしょ」
「な…」
「俺みたいな人間、暗くて鬱陶しくて嫌味で、反吐がでそうだったでしょう、違いますか」
「…ッ、…反吐までは、出ません…っ、けど嫌味で寂しくて物欲しそうな人だと思って、近づきたくないと思っていました!」
「―――けっこう、言うね。そう、物欲しそうだったの、俺。あなたから見て」


 思わず入った力がイルカの腕を締め付け、イルカの面が苦しげに歪んだ。

「痛い、です。離してください」
「おっと、すいません」

 指を開けばすぐさまイルカが距離を取った。腕一本分の、長くもない、短くもけっして無い、隙間。
 カカシはイルカの温もりを手放してしまったことを、すこしだけ悔やんだ。
 掌がいまさら、冷たく寂しい。

「―――俺はあなたのこと、好きだよ」
「苛ついていたんでしょう、そう仰ったじゃないですか」
「だから、あなたもそうじゃないんですか」
「は?」
「あなたも俺のこと、嫌いだったんでしょう?」

 まさかと思ったことは、言い募るうちに確信に変わりそうだった。
 ぐっと口を噤んでしまったイルカの顔は、まるで「言うもんか」と踏ん張る子供そのままで。

「嫌味で、寂しくて物欲しそうで。俺のこと、見てた? 嫌えるぐらい、俺のこと、気にしてたんじゃないの―――?」
「…自意識過剰ですよ…!」
「どうでも。あなたにとってはそっちの方が俺らしいんじゃないの」
「…ッ、わ、私の知るはたけ上忍師はもっと堂々としていて人のことなんか気にも留めないような人です!」
「なんですかそれ。幻想じゃないの。そんな奴が好きなの、イルカさん」
「い、言うに事欠いてそんなこと言いますか、あなたは!」

 アルコールのせいだとおもっていた頬の赤味が、どんどんと増していく。
 怒鳴る勢いにのせられて、頭に血も上ってきているようだ。
 だがカカシはそんなイルカを、内心面白く眺めていた。嬉しくもある。
 下手なアルコールよりも遥かに心地良い酩酊が、カカシを襲う。

 イルカが、カカシを見ている。
 その視界のなかに納めて、頭のなかをいっぱいにして、頬をそめて怒鳴っている。
 いま、イルカを占めているのは確かに自分なんだ、と思える瞬間。
 強烈な、幸福―――。

「俺が好きなのは堂々としていて、でも寂しそうで独りで居て、それで…それで…」
「それで?」
「……」
「好きなのは? まさかこの期に及んで、俺以外に好きな奴が居ます、なんて言いだすつもりじゃないでしょうね」
「―――…自信過剰ですよ」
「事実でしょ」
「…あなたなんか本当に誰とも一緒に居なくて独りで堂々としててそれが似合っているからまた嫌味で、でもたまに隣が気になる風にしたりして寂しそうで」
「うん」
「そんな人だからもうずっと独りでいるんだろうなと勝手に信じて…」
「うん」
「いきなりあんなことを言うから、俺はもう、どうしていいか分からなくて、三日後とか言っちまうし…全然、俺なんか相手にしてなくて最悪に嫌いだって目で受付でいっつも見てたくせに、いきなり言うし」
「そうだね」
「緊張するから夏からしまいっぱなしのビールも飲んじまったし、目が熱いし、酔うし、なんだよいったい、なんでこんな俺は振り回されなきゃいかんのですか」

 カカシは笑った。
 ゆるゆると抱きしめれば、すんなりと腕のなかに落ちてくる。
 調子にのって腰に手をまわしてぎゅっと抱きしめてみると、抵抗はなかった。むしろ、カカシの肩口にのせられたイルカの重み。思ってもみなくて動悸が始まりそうだった。

「そりゃ、俺のこと、好きだからでしょ」
「―――ちっくしょー…」

 ぎゅぅっとカカシの背中に回された腕。悔しげな呟きが胸の隙間で零れて、暖かさが二人をぴたりとくっつけた。
 まどろみに似た心地良さが指の先まで浸透して、カカシはまた微笑む。

 相容れない人だと思っていた。
 だが違うことに気づき、惹かれて寄り添ったとき、寄り添う自分もまた、以前とは違う自分になり、そして寄り添えることを誇らしくさえ思える。
 この人の隣に、己は居ることができるのだと、実感する。
 それもまた、幸福だと感じた。
 仄暗い闇が、世界の内を漂っていると感じていたころ、考え付きもしなかった幸福。


 光りは、闇にさえ届く。


「もしかして景気付けにビールなんか飲んでたの?」
「……そうです」
「お酒、弱いの?」
「…普通、ですけど、今日は疲れてたんで」
「そっか、色々あったしね」
「…あなたが原因じゃないですか…!」
「あはは、だね。そうだ、キスしていい?」
「……!」

 腕一本分の距離などもう無い。
 手を差し伸べるでなく抱きしめる力さえあれば、相手を感じれる。
 唇も、そう。

 いったん上げていた口布を下げ、真っ赤になって噤んだ唇を啄ばんだ。
 軽く一度だけ。
 けれど離れ難くて、下唇に、口の端に、頬に、鼻傷に、目尻に、額に、耳朶に、落としていく。

 こんなに気持ちのよい体温は、知らない。
 キスをすることがこんなに気持ちのよいことだとは、知らなかった。
 その先は―――どんなだろう?

 名残惜しい気持ちで唇を離し、「好きです」と囁いた。
 心のなかに届いた光に、柔らかくなった闇に、感謝をささげたい。
 腕に掴めるぬくもりを生み出してくれたことに。
 出会えたことに。
 憎めたことに。
 愛している、と思えたことに。
 感謝を。

「――――――…俺も、です」

 悔しそうにイルカが小さく呟くから、余計に嬉しくなって。
 やっと言ってくれた。
 カカシは確かなぬくもりを抱きしめる。

 感謝を、あなたに捧げたい。
 受け取ってくれるだろうか。
 苛ついて仕方がなかったと言った俺からの、裏返しの想いを。
 懸命に生きるあなたを甘いと判じた俺の愚かさを。

 それらを弁解するよりも、ただ一言だけに代えて。
 あなたに捧げよう。



「 ありがとう 」




2004.01.20