あなたと初めて知ること ただいまー、とゆるんだ声がきこえて、イルカは採点していた答案から目をあげた。 ちゃぶ台に座っているイルカの位置からは、玄関から入ってきたカカシの姿はみえなかったが、バタンと古びた扉が閉まる音がして、がさごそとカカシが靴をぬいでいる気配がする。 外はもう闇。 気温はまだまだ寒さが厳しいが、暦のうえでは春になっていることを示すように、日の入りはだんだんと短くなってきてはいるが、もうこの時間では空はとっぷりと闇にそまり、家々ではそろそろ子供たちが就寝する時間だ。 「イルカせんせーい、俺、腹が減りました〜」 「俺は晩飯、昨日カカシ先生がつくってくれた味噌汁と漬物とでメシ食っちゃいましたよ」 「あ〜。じゃあ俺は味噌汁に卵おとして食べようかなぁ」 「すいません、それ、俺がしちゃったんで汁、減ってます」 「え〜っ」 たわいない会話。 それらがいつものように、とくに顔を見合わせることもなく、家のなかで穏やかに流れていく。長い間、一緒にくらしているようなものだし、それもまぁ、二人の付き合いの成果といえるようなものだった。 カカシはイルカの家に帰ってくるし、イルカはカカシが帰ってくるのを当たり前と思う。 夕飯の買い物をするときも、二人分を意識することや、なにか友人との予定をいれるときでも相手をきにすること。それはとても暖かいことだ。 だからイルカは今の生活を与えてくれたカカシにとても感謝している。ふだん、そうとは言わないが、そういった感謝を含めてとてもとてもカカシのことが好きなのだ。 イルカは、手にもっていた赤ペンをぽいと放り出した。 ありふれたボールペンはころころと用紙をころがり、ついには端からちゃぶ台に落ちる。 すると机の端々にほうりっぱなしにされていた、駄菓子の包み紙にかさりと当たった。 「ん〜。じゃあ俺は味を濃くして卵とじにして、味噌汁丼にしようかな〜」 「いつも思うんですけど、それってネコまんまとどう違うんですか」 「違うよイルカ先生。ぜーんぜん違う」 「おんなじに思えるんですけど」 「気分とかかってる手間隙が違うんだよね〜」 「やっぱりおんなじじゃないですか」 足音のしない気配が、柔らかな笑みといっしょに、イルカの前に立った。 ふわりと頬にキスが落ちてくる。 「ただいま」 「おかえりなさい」 外のかさついた冷たい空気が、カカシの髪からかすかに漂ってきて、イルカはカカシの体が冷えていることにいまさら気づく。 「どうしたの、イルカせんせ?」 「なにがですか」 「機嫌、わるそーだね」 一度だけの軽いキスでカカシは離れていき、背中は洗面所へときえた。音がきこえ、水でカカシは顔をあらい、うがいをしたようだった。 イルカはカカシの背中が消えた先をしばらく眺め、それから答案用紙へ目をおとして、次に駄菓子の包み紙をみて、おおきなため息をついた。 ついたひょうしに、包み紙がゆらゆらと揺れて机からおちそうになるぐらいの。 いつもなら、こんな邪魔になるだけの包み紙、さっさとゴミ箱にいれるのだが、今日はすこし考えるところがあって、採点のかたわら、駄菓子をつまみながら包み紙をそのままにしておいた。 箱買いした駄菓子は、まだ全部たべきれずに、ちゃぶ台のしたに残っている。 イルカは、ついたため息が、駄菓子のチョコの匂いになっていて、さらに眉根をよせた。 「べつに、機嫌は悪くないですよ」 「じゃあなにが悪いの?」 「・・・」 洗面所からでてきたカカシが、小首をかしげてイルカのそばに座った。 いつもは、機嫌が悪くても、もっと分かりやすくへそを曲げるイルカだったから不思議に思ったのだろう。 「どうしたの?」 だがイルカは答えられずに、口をつぐんだままにした。 カカシはさらに不思議そうにして、そしてちゃぶ台にふわふわとしている駄菓子の包み紙をつまみあげた。 四角い紙が、こげ茶色と銀色の二枚重なっているもので、ひとつの値段はとても安価だ。 カカシは最近になってこの駄菓子をはじめて食べたが、けっこう甘くて辟易した。 とくに、真ん中にはいっているキャラメル状の甘いものが最凶で、カカシは一個で胸いっぱいというところだ。 その駄菓子の包み紙が、いまは机のうえに、ひぃのふうのみのよ・・・七枚ほどあった。 そんなにイルカ先生、このお菓子好きだったかなぁと、カカシが思って、ふと机のしたを覗いて意表をつかれた。 さらにまだあった。しかもまだ食べてないものが。 「うわ〜。どうしたの、イルカ先生。大人買いなんてしちゃって」 「うるさい。俺が駄菓子を箱買いしようが食おうがいいじゃないですか」 「あれ、本格的に低空飛行? まあそりゃそうだけど、そんなに好きだった?」 「・・・・・・べつに」 「ほ〜ら」 わが意を得たりとばかりに、カカシがイルカの顔をみたとたん、いきなりイルカが机したの駄菓子をがばっとつかみ、カカシに投げつけた。 ぅわ! とカカシが驚くのにもかまわず、イルカは抑え気味の声で癇癪をおこしたのだった。 「九月十五日!」 「へ?」 「九月十五日は何の日ですか!」 あっけにとられたカカシの顔に、またチョコ駄菓子をなげつける。 ぺしっと軽い音をたてて、駄菓子のちいさな四角い塊は、カカシの額宛にあたった。 誕生日。 いつも感謝しているから、よけいに知りたかった。 カカシの生まれたこと、イルカと出会ってくれたことを感謝したかったのに。 「もう半年たとうとしてるじゃないですか! なんで教えてくれなかったんです!」 「あ、あ〜・・・。まぁ、その、言うことじゃないかと」 「言うことでしょう! 俺、今日知ったんですよっ」 「え〜と、・・・誰から?」 「紅さんです!」 イルカの話をきくには、どうも紅だけでなく、いっしょにアンコもいたようだったが、話はバレンタインに関して始まったらしいのだ。 アンコが、例にもれず甘いもの好きとしてはぜひ美味しいチョコレートを男だけがもらうなんてズルイ、ぜひ自分にももらいたいものだと話し、紅が、自分なら酒のほうが良いと言い出した。 そこで二人に挟まれ中忍のイルカとしては、日ごろお世話になっていますし、ここはバレンタインの本来の意味に戻ってお二人にプレゼントしましょうか、と言ったらしい。 そこから話は流れ、カカシの誕生日の話になったらしいのだ。 日ごろ、あんなに仲がいいのだから、バレンタインは大変でしょうね、そういえば誕生日はどうしたの、カカシが祝ってくれってうるさかったんじゃないの、と。 カカシはここまで聞いて、そんなことはしないと後日、紅に言ってやろうと決心した。 イルカが知らないのに、わざわざ言ってねだるようなことはしない。 カカシが望むのは、イルカとの穏やかで小さな幸せに満ちた毎日だ。 「まぁまぁ、いいじゃないですか、イルカ先生。俺は充分、楽しかったし」 「誕生日の日ですか?」 「えぇ、はい。とっても良い日でしたよ」 「…覚えてない! 俺はまったく覚えてないです、その日のこと!」 それはそうだろう、とカカシは心中で頷いた。 イルカはあの日、普段どおりに過ごしていたはずの日だからだ。 カカシが覚えているのは、イルカが夕方近くになってめくった、日めくりカレンダーのおかげといってもいい。 それがなければ、カカシだって自分の誕生日だと気づかなかった。 「いいじゃないですか、べつに。俺は覚えてるし」 「それだと不公平ですよ!」 「うーん、そうかなぁ」 イルカの言い分に首をひねりながら、本当にカカシはべつにどうでも良い気がしてきた。 なにより腹が減っている。 空腹は、たいていのことを水に流す偉大な特性をもっているのだ。 だが、イルカは頬をまっかにして、どうも水に流されてくれそうにない。 どうしたものかとやや困ったカカシの指先に、さっき投げつけられた駄菓子があたった。 四角くて、大半がチョコレートでできた甘い塊。 そういえばこれがあることを始めて教えてくれたのも、イルカだった。 誕生日のあの日、自転車に乗ることを始めて教えてくれ、あんなに気持ちのよいものだということを教えてくれたのも、またイルカで。 そのときの心地を思い出し、カカシの頬がほころぶ。 指先にあたったそれを、カカシは口に入れ、イルカに笑いかけた。 「じゃあイルカ先生、もうすぐバレンタインデーでしょ?」 「え? はい、そうですね、もちろんカカシ先生にもチョコレート、用意してますよ」 「ありがとう。じゃあ、それまでに思い出して」 「え!?」 「チョコレートと一緒に、九月十五日のこと頑張って思い出して、俺に聞かせてね」 「で、でもほんとに俺、忘れてて…っ」 「ふふふー、なんか急にバレンタインデーが楽しみになってきたなー」 話は終わり、とばかりに、カカシは腰をあげて台所へ立った。 口のなかでは、ころころとまだ溶けない塊が、甘さをまきちらしている。 イルカのくれるチョコレートも楽しみだったが思わぬところから楽しみがまいこんできた。 きっと、イルカはバレンタインデーまで、ずっとカカシのことを思い悩んでくれるはずだ。 あの日のことを思い出してくれるかどうかは、じつのところあまり期待していない。 だが、そのぶんだけイルカが悩んでくれるだろうことが、嬉しく、意地の悪いことだが、楽しい。 こんなに楽しみにする二月十四日も、初めてだな〜。 すでに思い悩みはじめているイルカを背にして、コンロに火をつけ、カカシは楽しさにひとり笑ったのだった。 2005.2.12 |