光る眼は獣のそれで。
自宅に帰りついたときには、俺はもう汗びっしょりで、それが本当に汗なのかそれとも冷や汗なのかわからないほど疲労困憊していた。
夜道は明るくて、でも人目につかないようにと早足の俺には暗く思えた。
視界は霞むし、眼球が眼孔のなかで、でんぐりがえりそうで。
震える指でベストからカギをだして玄関を開けるのさえもたついた。
俺は半分以上、扉によりかかりながらそれをして、ドアを開けるのと同時に、どかんと中に倒れこんで床の冷たさを味わってしまう。
でもそれさえ
ひやっこくて気持ち良いよな。
とか思って、このまま寝てしまいたかった。
くらーい安らかな眠りへダイブしちまいたかった。
腰は砕けそうなほど痛いわ軋むわで、膝はがたがただ。使い物にならない。明日の朝にはちゃんと仕事にいけるのさえ怪しい。
最低だ。
最低最低最低。
もし明日休む羽目になったら、有給分、あのクソやろうに請求してやる。
俺は床を這い蹲って進みながら(うう、最近掃除してなかったからチリが頬にざらつくなあ)決心する。玄関扉はカギをかけなおしてないが、この際だ。形だけでも閉まっているから良しとする。だいいち、いざとなったら忍びの里のカギ戸締りなんて。
懐かしくも安らかな自分のベッドにたどり着いて、俺はべたついて嫌なベストを脱いだ。律儀に下履きのポケットにつっこんでた額宛もとりだして、下履きもそのままとっぱらう。明日、朝一番で燃やしてやる。全裸だがもういい。寝る。とにかく寝る。
俺はシーツにくるまり丸くなった。
ベッドのスプリングにあたっている肩やわき腹が痛くて、我慢できるようにもっと丸くなって俺は目を固く閉じる。
朝の光が俺を起こすまで、ほんのひとときだけでも、夢の世界に逃げたって許して欲しい。
怒りと恐怖がどんなに腹のそこで渦巻いてたって。
一時の安らぎがないと、それに立ち向かえないときだってあるんだよ。
ぎゅっと堅くしめた瞼で、俺は眠った。
せめて柔らかな夢が見れることを、かすかに願いながら。
「よーイルカ、おはよーさん! なに端っこ歩いてんだよ!」
―――バン!
って俺の背中が叩かれて、俺は、一瞬天国を見た気がしたよ。
朝、どうにか体をひきずってアカデミーに行こうとしている健気な男だよ俺は! 好きで端っこ歩いてるわけじゃねぇんだよ! 本当は肩で風きって爽やかに歩いていきたいんだよ!
と叫びつつ、俺はぎしぎしと音がしそうな具合で、首をあげた。
朝から元気な同僚が、お、という顔をした。
そうだ、こいつ確か一昨日、腰が痛いとか言ったら、とか笑ってたやつだ。そんでそのあとにあのやろうも来るわで嫌な汗かいたんだった俺は。
俺が連鎖で嫌なことを思いだしてじっとり睨みつけると、そいつは首をひねった。そして呑気な声で訊いてきた。
「なんだ、具合わりぃのか。珍しいな」
「―――…いやちょっと、……………腰とか、痛くてな」
「へー。階段から落ちたのか? ドジだよなぁお前」
おっまえ! たしか一昨日、「腰痛い」とかいったらそーいう話だって言ってなかったか? 俺の記憶違いか? なんでそんな一秒もタイムラグなしに「階段から落ちた」になるんだよ! おかしかないかそれ! 俺のこの憔悴ぶりをみてくれよ! やつれっぷりを!! 酷い目にあったんだよ! そりゃあ酷い目に!!!
と、俺はまた心のなかでだけで叫んで「はははー、まぁなー」と遠い目をすることにした。
ああこうして人は大人になっていくんだなぁ。
人には言えないことをたくさん溜めて、思慮深い人間になるのさー。はははー。
といった具合に俺は、自分の身長のちょっぴり上にある空間にトリップしそうになっていたけど、同僚が「そういえば」って話したことにトリップをやめた。
「昨日お前、任務だったんだよな、それでか。悪ぃ悪ぃ、まっさかお前でも階段からはすっ転んだりしねぇよなぁ。あっはっは」
いや、あっはっは、ってお前。なに言ってんだよ、任務? なんの話だよ。
「え? あぁ守秘義務があるからな、分かってるって。なんせあのカカシさんとだしな、そりゃ任務自体も秘密になるってわけだ。まぁお疲れさん、イルカ。生きて帰ってきて良かったなー、お前ドジぃとこあっから心配だったぜー」
とかいいながらまったく心配した風でもなく同僚は笑いやがった。それより問題は、聞いたことだ。ちょっと待て、昨日、あのクソやろうと「任務」!? なんでそんな話になってんだよ。あの拷問に近い労働が(まったく「労働」だったよ!)任務だったってのかッ?
俺の心のなかはそりゃもう、大荒れにあれまくって、ちょっとの間、固まったあとになんとか出した声は、すげえしわ嗄れてた。
「それ…もしかしてあのヤロ……、…カカシ、さん、が―――?」
「いや? 昨日さ、おまえ朝来なかったろ? 真面目だけがとりえのおまえだからさ、おっかしいなあってみんなで言ってたんだけどさ、お昼ごろだったかな。ほら、上忍の夕日さん! 姉御が来てさ」
上忍の夕日紅さんは、一部の密かなへたれ男どもに、姉御、と隠れ呼称され、崇められている。あの気の強そうなところと美人っぷりが由来らしい。けどなにか。お前らはあの人の子分か、舎弟なのか、とたまーに言いたくなる。姉御になら廊下にマキビシ撒かれてもいい! とか言ってるのを聞いたときとか。踏んだら痛いっつーの。
とかまあ、それは良いよ。別に。今は。姉御とか呼んでも。
んで何だよ。紅さんがどうしたって?
「や、なんかさ、受付でお前探してたんだよ、で、今日は来てないって言ったら、カカシさんが昨日から探していたみたいだったからもしかすると任務が長引いてるのかもね、っつってな。俺たちも、任務なんかあったかなーって見てみたんだけどよ、見当たんなかったし、んじゃ特殊任務かねー、イルカもやるねーって話してたんだけどよ…―――なんだ、違ったのか?」
あんまり俺の形相が凄かったんだろう。
怪訝そうにそいつが訊いてきたから、俺は首をぶんぶんと大きく横に振った。
なんだ、任務扱いになってんなら良いんだ、有給が残ってる! しかもヤツが直に「休みます」とか言ってなきゃかまわないんだ、俺は全然! バレてないなら!!
「いや! んなことねーよ、そうだ、紅さんはちょっと事情を知ってたから、フォローしてくれたのかもな」
「へぇ〜、やっぱ姉御だねぇ」
良かった、誤魔化せた! 同僚は、うんうんと頷いている。紅さんに感謝だ。
俺は独り心のなかで拍手喝采を彼女に贈った。
なんせ無断欠勤になってない(らしい)のも、休みがヤツのせいになってないのも彼女のおかげだ!
そして俺は、同僚にそれ以上、紅さんについて訊くことをしなかった。
たとえば彼女がやけにそわそわとしていたことととか、どうも台詞が棒読みだったようだ、とか、なにか済まなそうな顔をしていた、とかなどは、まったく俺の想像範疇外だったわけで。
そんなことよりも、俺は、不審さいっぱいの彼女の行動に、感謝の拍手を贈るので心がいっぱいだったから。
結局、俺は気づかずじまいだったというわけだ。
で、結局のところ、俺は無難に仕事をしていた。
とりあえず「木の葉苦情受付係」とかには駆け込んでない。
いまのこの青い顔で行きゃ、言い分は信じてもらえるろうけど、それから先をちょっと想像してみて、俺は行くことを止めた。なぜなら、行ったとなればヤツの所業を俺はこと細かく説明しなきゃならないし、ましてや証明しなきゃならない。俺の身体に残ってる、暴行のあとを見せて。
それはかなり嫌だ。
こうやって座って机に向かっていても、腕を机に乗せると腕の内側が傷む。青あざができてるんだろう。椅子に座っていても、人にいえないような患部がじくじく痛んで、腹もきゅぅと締め付けるような痛みが間断なく襲ってくる。
そんな痛みを堪えながら、さらにあれはこうで、この痣はあれで、って説明するのか?
まったくご免だ。
しかも相手は里きっての上忍。名のある忍びだ。
もし裁定の場が設けられても俺に勝ち目があるかどうか。
つらつら考えて、けっきょく俺は逃げずにいた。
あとから考えたらこれが最後のチャンスだったかもしれなかったのに。
俺は、自分から逃げ込む場所を手放してしまった。
愚図ってる場合じゃなかったのに。
あの男が俺に会いに来るまでに、逃げなきゃ駄目だったのに―――。
「けっこう酷いねぇ」
いきなり背後から聞こえてきたそれに、俺の身体は跳ね上がった。
おまけに心臓まで派手に波打ち始める。
この声。
二度と顔も見たくない、ってヤツだ。
「ああ、ここ、手形がついてる。俺の。ごめんね?」
ふふっ、と愉しげな吐息が、俺の首筋を掠めていった。かすかな感触が、俺のむきだしの二の腕をくすぐりはなれる。背筋を這い上がった衝動を、俺は肩を竦めて堪え、そしてやっと背後を振り返った。確認したくないことを確認するために。
ここは医務室の隣の仮眠室。そして俺は、医務室から応急箱を借りて、ちょうど上半身裸になったところだった。痛むところへ湿布を貼ろうとおもって。
ぎ、ぎ、ぎ、と軋む音さえしそうな首をひねって、見たのはやはり、あの顔。
「な、なんで…―――」
「外から見えたからお邪魔しましたー」
指が、小さな個室の窓のそとを指した。たしかにカーテンは半分しか閉めてなかったし、外はアカデミー前の通りだから見えても変じゃないが、変じゃないが―――。
「だからって入ってこないで下さい!」
「いいじゃない、入るな、ともかかってないじゃない」
「ドアはカギをかけてました!」
そう、個室の扉は形ばかりだがカギがかかるようになっている。今は入ってこられたくない、という意思表示のかわりに使えるように。それなのに。
「ドアに? でも窓にはかかってないじゃない。だから無効」
「…! こ、の、口の減らない…ッ」
「それより元気そうで安心したよ、見た目よりそんな酷くないの?」
元凶がなにをいわんや。あまりの台詞に俺はぷるぷると震え始める。
酷いんだよ! 昼にこうやって一人んなって体中湿布貼らねぇと仕事になんねぇぐらい痛いんだよ、体中が!! 一箇所じゃねぇんだよ、全ッ身なんだよ!!!
と俺は盛大に怒鳴ってやりたかった。
もう、後先省みずに。
この個室ばかりか医務室を越えて、アカデミー中に響き渡るほどの大声で!
けど悲しいかな、俺の理性はそこまで磨耗してなかった。俺って偉い。
「―――…酷いんです。だから湿布を貼るんです。頼むからどっか行ってください。顔もみたくない、俺の前から消えてください」
「ありゃー、じゃあお手伝いしましょう」
「…だからどっか行ってください」
「まあそう遠慮しなくても」
…なぁ俺ってなんか悪いことしたかな。今までの人生で。おかしいな。どう見積もっても、話の通じない人と交流を持とうとしたことはなかったんだけどな。どうして俺はこんな人と押し問答しなきゃならないんだろう。
またもや俺は俺のうえ五センチちょっぴり魂が抜けかけてた。
あわや夢の中だ。
けどそれを、目の前の男が邪魔をする。
勝手に「貼ってあげましょー」といいながら俺の背後を取ろうとする!
うわ! ぎゃ! 後ろに立つな!!
「止めてください! 一人でできますから!」
とうとう俺は声を大きくしてしまった。すると、元凶がまたも「し〜」とか指をたてて見せる。このやろう、俺の声がでかくなったのはてめぇのせいじゃねぇかよ!
あんたが俺にかまわなきゃ俺は平穏無事に暮らせるんだ!!
「とりあえずさー、湿布貼ったげるよ。震えながら睨まれても、ねぇ〜」
むっかー!!
俺が震えてんのは肌寒いから! 怒りでプルってんだよ! ぜったい、あんたが怖いってわけじゃねぇ!! ぜったいだ! ぜったいだぞ!!
「はいはい、わかったから。いいかげん大人しくしないと、また力ずくだよ?」
言ったその顔は笑ってた。
けど、目が、まったく笑ってなかった。本気だった。しかも、舌嘗めずりが聞こえそうなほど、一直線に獲物を狙う色に染まってた。肉食の。
ぞっとして、喉がぴたりと閉じた。
息さえ一瞬止まったと思う。
冗談、じゃない。
俺の身体にはあちこち青痣とともに、こいつ自身がいったように、手の跡がある。ひどくきつく握られたことを示す、手形がある。俺の手首には縄のあともあるけれど、それよりもずっと俺の視覚に恐れを伝えるのは、その手形だ。
素手でさえ、力勝負でさえ叶わないことを示す、屈服の証。
「はーい、お利巧さんだね。背中、俺に向けてね」
固まった俺は腕をひっぱられて、狭い部屋のなかで、背中をむけて立たされた。寄り添うほどの近さで後ろに立たれて、俺は緊張した。嫌な汗が、固まった身体からと、目尻の後ろあたりからじわじわと染み出してくるようだ。
俺は逃げ出したい足を、必死にとどまらせる。
背中を張って、伸ばした。
貼ってくれるというのなら、せめて貼りやすいようにしてやろうじゃないか。
そうおもって伸ばした背中に、けれど期待した湿布のひやっとする感覚はやってこなかった。かわりに、触れたのは指。
ちくりとする指先が、俺の背中の痣を押し、肌を滑り線を描く。
刺激で、かってに震えた背中の隆起を、男が笑う気配。
「―――止めて、ください」
「うん。もうちょっと」
答えになっていない。
どういうつもりだ、と問う間もなく、指の次は、たぶん唇。舌かもしれない。生温いそれが、俺の背筋に触れたかとおもうと、濡れた塊が肉を吸ってきた。まるで蛭に付かれたときの感覚に似て、俺は嫌気に身を捩った。
遊ぶつもりなら、俺は付き合う気はない。
「俺は湿布を―――」
「うん? そうだね、そうだね」
不巫戯た返事だ、と俺はむかついた。俺のために湿布を貼ってくれようという仕草を、装う努力さえ捨てるのかよ。もう服を着て便所ででも湿布をはろう、そう思って身体を離そうとした瞬間、痛みが俺を襲った。
舌が、青痣を押したのだ。
「…ッ…! ―――痛い、んですけど…!」
「逃げようとするからね、つい」
この男…!
俺は、一瞬のうちに一昨日からの出来事を、断片的に思い出していた。むりやりに押さえつけられ、資料室で机に乗り上げ、わけのわからない時間を過ごしたこと。暮れようとする夕日が資料室のカーテンをそめていて、俺は霞んで潤んでいた目で、滲む色をみていた。気が付けば、暗い見知らない部屋で、また行為を強いられた。時間もわからず、喉も身体も痛くて。
そして今日、明るい日差しでみた自分の肌は、くっきりと赤黒い手形と痣を残して、俺をへこませた。
それらが本当に一瞬で俺の脳裏を過ぎていって、俺は拳を握る。
ほんッと!!! むかつく!!!!!
「あったりまえだ! 痛ェんだよ、だから湿布貼るんだよ!! バッカじゃねぇのかあんた!!!?」
振り返って怒鳴り散らし、俺は息を切らした。
横腹が痛むほど、腹の底からの声だったから、俺は肩を揺らし、脇腹を押さえて身体をまげた。痛い。どこもかしこも痛かった。もたげた頭の重みで、首の腱さえ痛む。泣きそうだ。
「頼むから、どっか行って下さい、俺にはかまわないで下さいよ…」
「そんなこといわれてもねぇ」
「上忍の遊びなら遊びらしく、同業相手にこんなこと…―――」
ぼろぼろになるまで遊ぶのなんか、いい年した大人がするこっちゃないでしょう。
声に出るか出ないか、俺は疲れはてた気持ちで呟いて、ベッドに座ってしまった。立っているのもつらくて、正直、午後の受付業務を休んでベッドで休んでいたかった。
座ると見上げるようになる、嫌な顔をわざわざ見る気もしなくて、俺は項垂れる。力なく。
上から声が降ってきた。
「行ってっていうなら行くけど、お願い事するなら、もっと他に言い方あるんじゃない?」
「はぁ?」
「気の短いとこも良いけど、怒鳴られっぱなしじゃ俺も気分良くないし」
ますます「はぁ?」という気分だ。
俺はのろのろと顔をあげて、傍らにたっている男の表情をみた。笑っているようで、笑っていない目をして、やっぱり笑っている。面白がっている。全身で俺の反応を楽しんでいるんだ。
「だからね、せっかくしてあげよっていったのに怒鳴られて、俺って可哀相でしょ? せめてお願いごとされるなら、ちゃんとお願いされたいなぁって思って」
なに言ってんだろ、この男。理解不能。
「可愛くお願い、してくれる?」
そしたら俺も考えないことないよ、って言われて、ほんと理解不能だったよ俺。どうしたらいいんだよ。可愛くつったって、そんなもん俺のどこをどう逆さまに振ったら出てくるわけ。それより、お願いってなんだよ、俺がちゃんとお願いしないと出て行ってくれないってことか?
ぼんやり、男の顔を見上げて、俺は半分以上放心していた。
それ以外にしようがないとも言えたけど、俺は俺の常識の範囲外にあきらかに立ってるこの男に、もうぼんやりするしかなくて。
可愛くお願いってどんなのだよ、とおもっている俺へ腕が伸ばされたのは、たぶん待ちつかれたんだ。彼は。俺が我に返るのが待ってられなくて、俺をベッドに押しつけて、そして乗っかってきた。
そして言うんだ。
「しょうがないから、言ってくれるまで頑張ってみることにするよ」
俺はただ、乗っかってきたヤツの目が、きらきら光っていて、まるで獲物を目の前にした獣が期待に胸を弾ませているような、そんな嬉しくて愉しくてたまらないって感じで光っていて。
どうしてか、綺麗だ、なんて思っていた。
肉食の獣だなんて、分かってたのにな。
その色が。
俺はだた、その目の色が綺麗だ、なんて思っていた。
それからあとのことは覚えていたくなんかない。
2004/05/27