射光。







 担いで帰るのはけっこう骨が折れた。
 なんせ重くてさ。
 意識を失った人体ってのは予想外に重いもんで、しかもあの人って細いってわけじゃないし。しっかりしてんだよね、骨格から。なもんだから、あの人を俺んちのベッドへおろしたとき、ふ〜やれやれ、って溜息がでちゃったよ。
 といっても、まぁ、それも悪くない労働だったけどさ。
 ほんと。
 俺のパジャマなんか着せてあげながら、誰かのために手を動かすのってけっこう楽しいもんだなって思ったよ。
 ほんとだよ。








 「や……」

 俺は、ほんの一瞬、目を疑った。
 朝が近くなってやっと意識をとりもどしたあの人は、具合が悪そうで。黒い目は潤んだままで、頬は赤いし、熱でもでたかなって思ったよ。だから熱を測ろうとおもって、触ろうとしたんだけど。
 その途端。
 掠れて、弱々しい声があがって。
 しかもベッドのなかで逃げようとして、縮こまった体。
 目をぎゅっと閉じて、俺の掌を怖がるようにしていた。
 ぷるぷる震えてるように見えるのはたぶん、見間違いじゃない。
 体を竦めて、全身で、震えてる。
 そう。



 イルカさん、俺を怖がってるんだ。



 ―――ゾクゾクッて、背筋に走った、快感。
 良い。すっげ、良い。
 涙でそう。
 震えてるイルカさんを前に、俺は熱に浮かされたようになった。
 目眩さえ、するような。
 まるで、酩酊に似て。
 このまま彼を、ベッドから引き摺り出して、服を剥いで、思う様嬲ってやったらどうなるんだろう。
 もっと怯えるだろうか。目から大粒を流して懇願するだろうか。それとも狂気を帯びて俺から逃げようとするだろうか。あなたが怖いと、震える指で、俺へと―――触れるのだろうか。
 それを俺は――――――。

 けど、じっさいのところ、これ以上無茶をできないことは承知していたんだけど。
 今のイルカさんに休養が必要なこと、俺はいちおう、ちゃんと分かってた。
 だから残念だけど(本当に残念だよね!)無難に熱をはかってから、俺は用意していた水を差しだした。昨日からなんにも食ってないはずだし、何か食うにしてもそのまえに水は飲みたいはずだ。
 これでも人体の最低ラインは熟知してる。
 そう思ってだしたグラスを、でも、イルカさんは取らなかった。
 布団のなかから、ぼんやりとグラスを見つめるだけで。その様子がまた。俺を煽ってくるし。無意識かなぁ。無意識だろうなぁ。わざとやるような芸当、できるわけないし。この人に。
 薄く開いた唇とか、寝間着の襟からみえる鎖骨とか、布団のあいだからみえてるんだけど。
 見えにくいけど、俺はどうしても見てしまうし。目がいっちゃう。
 あー。もう、頼むよ。
 腹上死、なんてイルカさん、嫌でしょ?

「飲んで」

 だから俺は手っ取り早く飲まそうとして、彼を布団から引っぱり上げた。
 さすがに病人みたいに添えてやれば飲めるだろう、なんて考えたんだ。でもよく考えりゃ、俺って誰かを看護したことなんていっかいもなかった。なんで、彼が水を飲みきれずに、むせたのは当たり前といえば当たり前だった。
 けどそれがまずかった。
 誰に、って。

 俺にとっても、彼にとっても。

 むせる彼が俺にもたれて、体を丸くしたり。苦しそうに、息継ぎしたり。喉が鳴って。唇が水に濡れて、てらりと見えて。胸元が暗く、染みが広がって。彼の赤い舌が、途切れそうな呼吸の合間、俺を―――誘った。

 気がついたらキスをしていて、そして馬鹿馬鹿しい言い分だけど、彼が心底くるしげに喉を鳴らしたとき、やっと俺は唇を離さなきゃいけないことに気がついた。
 で、そのまま首筋に舌を這わせた。離れがたくて、嘗めた。肌をもっと嘗めて、喘がせて、虐めたかった。
 さっき自制したことが、もうはじけてどっかに行ってた。

 あぁ、ごめんなさい。

 貪るように体をまさぐって、俺は心で彼に約束する。
 俺がしたこと以上、俺に返していいから。
 殴らせろってんなら、あとでいくらでも殴られるし。
 だからお願い。

 あなたを俺に、食べさせて。








   *** *** ***








 次に目が覚めたときは、なぜか目の前に美顔がどアップで迫っていた。しかも寝顔。うわ、とびっくりして俺は声がでないことに気づく。
 それから天井がやたらオレンジ色だとおもう。あれ、前の記憶は、木の色。ということは。
 夕方。

 って、俺、仕事…!

 咄嗟に起き上がろうとして、でも、できなかった。
 俺の体は一瞬だけベッドから離れようとしたものの、腕が、思うように動いてくれなかった。力が入らなくて、ぐしゃりと崩れて、俺はベッドに逆戻り。しかも体勢をくずして、ベッドの頭のほうにある壁に、ごつんて頭をぶつけちまった。痛い。
 ていうか、体中が痛い。
 あぁぁ。
 消えろ、記憶。
 とか思う。
 昨日の夜からの記憶よ、飛んでけ。
 俺の知らない俺も、消えろ。
 あんなの。
 いつも仕事してる場所で、作業したことのある机のうえに腹出してよがってひぃひぃ言ってたり。目が覚めて体中嫌な痛さでいっぱいだってのに、抱いてってしまいにゃ泣くようなやつ。俺じゃなくて。そんなやつ。
 どっか、別のやつで。
 けどそういえば思い出した。
 一発、殴ってやったっけ。ガツンて。
 ざまーみろ、って吹っ飛んだの見て思って、んで暗転した。それっきゃ覚えてない。うわ、情けな。くっそー、なんだこの安らかに寝ちゃってんのは。あんた仮にも上忍だろ。呑気に寝てんなよ。一緒にベッドで寝てるってどういうことだよ。どんな状況だってんだ。恋人同士かよ。
 馬鹿らしくて欠伸が出るぜ。
 夕焼けの色に染まっていく部屋のなかで、俺はほんとうにひとつ、大きな欠伸をした。といって顔さえ痛むから、そんな大きくなかったけど。
 でも欠伸をして俺は、目を瞑った。
 こうなりゃ現実的にいくしかないってもんだろう?
 とりあえず話はこの男が起きなきゃできないんだし。腹は減ってるけど起き上がれないときてる。それに仕事だって、この時間だったら、無断欠勤だろうが明日行ってもおんなじだ。慌てても仕方ない。  俺にできるのは、寝ることだけだろ。
 まぁ、すとんと落ちるように寝入っていく俺の頭んなか。
 気になってたのは、あの資料室でのこと、誰か気づいちまったかも、ってことだった。
 けどそれさえも、確かめようが無くて。
 俺は、べたつく体のまま、眠りにおちていった。
 次に目覚めるときは、この男も起きていますように。
 そう、思いながら。











2004/03/30