『そうして春がやってくる。』
季節が緩んできた。
ふわりとした土と草の香りが風に隠れ、凍えるだけのようだった冷たさは、なりを潜める。
もうすぐ春だろう。
巡る季節を思わせるころ、木の葉の里に、不思議な日がやってくる。
男も女も、恋と名のつく感情に縁のある年頃なら、誰にでも関係のある日。
バレンタイン・ディだ。
イルカは商店街を帰りながら、しみじみと感心してしまう。
なんとなれば、あんなにたくさんの義理チョコばかり買うなんて、
なんて女の人ってマメなんだろうなぁ、と思うのである。
アカデミーでも当日、なぜか一人にひとつ、薄い板チョコが配られる。
それも朝、出勤したときにぽつんと机の上に置かれているのだ。
ありがたみも何も無い。
聞いたところによると、アカデミー勤務女性、有志のチョコらしい。
なんとも細やかな心配りで恐れ入る。
明日に控えた記念日に、イルカは正直、気の滅入る思いだ。
また一ヵ月後のホワイト・ディとやらに『お返し』を、
教員男性陣と頭をあわせて用意しなければならない。
人当たりは良いものの、個人的にはあっさりと全てを受け流したいとおもうイルカにとっては、
このバレンタインというものは、ありがた迷惑もいいところの日というわけだった。
通りにはきついピンクの幟が吊るされ、
通り過ぎざまに横目で店内をみれば、多くの女性がぎゅうぎゅうと押し合っている。
うぇ。
とても人前ではいえないが、イルカは呆れぎみに嘆息する。
義理義理義理。
世の中には本命チョコ、というものもあるらしいが、
残念、イルカはお目にかかったことがない。
義理だらけだ。
厭気も覚えるというもの。
だいいち、本命チョコを買うなら、
それにはチョコだけじゃなく『告白』というオプションが必ず付いているものだろう。
それならわざわざ、チョコを付けなくてもいいじゃないか、と僻みまじりで思ったりもする。
こんな菓子店に踊らされなくても、普通の日に言えば良いのに。
それを言ったら、『この日は勇気が出るのよ』とか言うんだろうなぁ。
日ごろ、職場で話をあわせているだけあって、職場の女性の言い分がすぐに浮かんだ。
少し怒った風に言うのだろう。
女の子はこの日にかけてるんだから、とでも言うかもしれない。
サクラかいのか、どっちかが言いそうだ。
想像して、頬が緩んだ。
彼女らは良い。
付き合いや建前など、まだ先に繰り延べできる。
純粋にそう思うから口に出す。その屈託のなさが良い。
アカデミーを卒業したその姿、そして現在のアカデミー生の姿を思い浮かべ、
イルカは彼らの将来を思う。
そのうち、思ったままを口にすることは、存外に難しいことだということを知っていくだろう。
世の中は嬉しいことや素晴らしいことが溢れてい、同時に悲しさや遣る瀬無さも在ると知るだろう。
それらを知って、成長してほしい。
そしてできれば、知っていてもなお、その屈託の無さを失わないで欲しいものだと思う。
ときにそれは強さとなるから。
ふと視線を通りの先へなげた。
ゆっくりと空が滲んでいた。
淡い空の蒼は白々と、卵色や茜色に交じり合い、山向こうへと薄くぼやけていた。
あぁ、綺麗だな。
仕事に疲れた身体と心がほっと緩む。
気づけば柔らかな夕日は、通りにイルカの影を長く伸ばしていた。
鼻をくすぐる寒風は、ほんの微かに土の香りがして、
イルカは移る季節を思う。
まだ肩を竦めるほどには冷たいが、確かに。
春が、―――近い。
「イルカ先生」
ふと、呼ばわれた。
イルカは振り返って、顔を綻ばせる。
唐突で少し驚いたが、知っている人だ。
最近、七班を通じて知り合った上忍。
けっこう気さくで、よく話し掛けてくれるし、
ナルトをはじめサスケやサクラも懐いているようだ。
良い人だろう、という印象。
「カカシ先生」
「―――こ、こんばんわ、イルカ先生」
「はい、こんばんわ」
おまけに礼儀正しいし。
たまに喋る言葉が小声すぎて聞こえなかったり、どもっていたり、
突然話の方向が変わったり、赤くなったりするが、おおむね良い人だ。
今はなぜか両手を後ろにまわしての直立不動。
でも顔が少しうつむき加減になっているから、どうもちぐはぐで、
イルカは「面白い人だなぁ」と密かに評してみる。
「こんなところで珍しいですね、あぁ、任務、終わられたんですか。お疲れ様です」
「あ、ど、どうも、その…」
「…? どうかされたんですか」
振り返った半身のままたずねて、ふと夕日色に透けて見えるセロハンがみえた。
綺羅々と色が茜を映して、イルカの目に煌めきが飛び込んできた。
なんだろう、あれ。
カカシの後ろに隠れているもの。
綺麗な、包み紙のような。
なんだろう。
「―――カカシ先生、それ……」
そうして ―――――― 春が、やってくる。
2004.2.13