自閉症児の日常生活と薬物療法

−−自閉症新薬の治験をめぐって−−

(京都市児童福祉センター紀要第1号,7−15頁(1992))


宮崎隆太郎*,門 眞一郎**,
 * 枚方市立枚方第2小学校
 ** 京都市児童福祉センター


I.はじめに

 天然型テトラハイドロバイオプテリン(以下R−THBP)は、はたして自閉症の治療に有効なのであろうか。二重盲験では「有意に有効である」という結論が出された 5)

 新薬に関しては、理論的考察や実験過程の検討が 5,7,10),<効くか効かないか>という結果の彼方に霞んでしまいがちである。そして,<効く>ということになれば,医師はとにかく使ってみようとする。薬の影響を子ども自身はどう受け止めているか,薬による行動の変容が子どもの日常生活にどんな意味をもたらすのか−−被験者の側からのこのような考察は,あまりなされない。

 R−THBPについて言えば,子どもの動きを<異常行動>と決めつける研究者自身の意識や立場を自省することもなければ,自閉症の<原因療法>,<治療>,<効果>といった概念も曖昧なままである。

 たとえ<典型的な自閉症>と診断された子どもであっても,それぞれに固有名詞を持ち,その子ならではの日常生活を送っているはずである。また,その子なりの想いや願いがあり,意欲もプライドもある。さらに,人や状況との関係の中で生きている。研究者たちはこんな自明なことにも目を向けない。彼らにとっては,<効くか効かないか>だけが唯一の関心事なのである。

 われわれの問題指摘は,子どもやその生活に対するこのような無見識な姿勢で,R−THBPを自閉症児に投与していいのだろうか,ということである。前論文では 4),R−THBPそのものへの疑問と,その効果判定における問題点を指摘した。本論文では,研究者が言う<異常行動>とは何か,自閉症児の日常生活や行動を関係者はどの様に受け止めていく必要があるのか,という観点から研究者の自閉症児観を考察する。ただし,自閉症児の行動の意味を理解するためには長期観察が必要であり,そのために年長自閉症の事例に基づいて考察していくことを断わっておく。


II.<異常行動>とは何か

(1)


[ケ−ス・エピソ−ド1]
 H.T.(11歳)は,自閉症と診断された男児である。9歳頃まではかなり多動で,物へのこだわりも強かったが,最近はあまり目立たなくなってきている。それでも緊張や不安がある時には,執擁に同じことを問いかけたりする。

 6年生の2学期に,2カ月ばかりの間,学校へ行くことを彼は極度にいやがったことがある。母親が無理にでも行かせようとすると,物を投げつけ,暴力をふるい,大声を出した。毎朝,母親に「学校,行く?」,「学校,行かなあかん?」と不安そうに尋ね,母親が「行くよ」と答えると,とたんに「行かへん!」と大声を出して暴れ出す。夜もイライラして落ち着かず,12時過ぎまで眠ろうとしなかった。「学校,行きたくないです」,「学校,きらいで
す」,「学校,おもしろくないです」が彼の口癖となっていた。

 困り抜いた母親は,思いあまって,ある公立病院の精神科に彼をつれて行った。一応の話を母親から聞いた担当医は,即座にセレネ−ス1mg,イソミタ−ル5mg,アキネトン1mgを処方した。

 セレネ−スは抗精神病薬で,分裂病・躁病に効果がある。しかし,子どもの重症のチックや自閉症児のかんしゃく発作にも有効である。イソミタ−ルは睡眠薬だが,少量だと鎮静剤としての効果がある。アキネトンはセレネ−スの(手がふるえたり,筋肉が硬直するという)副作用を止めるための薬である。母親の話しによると,この薬を服用すると,それまでイライラして荒れていたH.T.が,急に落ち着き安定するそうである。H.T.自身も服薬して落ち着くのがいいのだろう,自分から「薬,のむ」,「しんどいから,薬」と催促するほどであった。もちろん,落ち着く,と言うのは,大声を出したり暴れたりすることがなくなるということであって,積極的に学校に出かけていくという意味ではない。

 しかし,もともと母親は精神科の薬に対しては強い不安感を持っていた。思いあまって病院にかけこんだけれども,薬でH.T.の行動を抑えることのうしろめたさを感じていた。たしかに薬の効果はあった。劇的とも言える変わりようであった。しかし,H.T.のようすを見ていると,たまに服薬しなくても安定していることもあった。それに,「この薬でもいいのよ」とビタミン剤を与えるだけでも落ち着くことがある。だから,調子の良いときにはできるだけ薬を飲まさないようにしよう,と母親は考えた。そのことを担当医に話すと,「続けてもらわないとだめだ。徐々に減らしていくから」という返事だった。また,「ずっと続けて飲まさないと,そんな体にならない」と言うだけで,薬を止める方向では考えてもらえなかった。

 このケースの薬の種類と量は,同じような状態の子どもへの投薬としては決して珍しくはない。しかし,母親は言う。「以前だったら,何を怒ってるんだろうとか,この子も言いたいことがあるんだろうな,といろいろ考えた。でも,手元に薬があると,ちょっとこの子が暴れただけでもすぐに薬を飲ませてしまう。そんな自分が怖い」と。

 ところで,H.T.が学校に行きたがらないのには,それなりの理由があった。教室の中では担任に無視されることが多く,今何をすればいいのかが彼には分からないままに授業が進んで行った。文の拾い読み程度のことはできるのに,座席の順番に本読みをするときでも,彼だけは,指名されなかった。さらに,同級生によくいじめられていた。彼の登校拒否の理由はきわめて単純なことだった。担任や子どもたちにかまってもらえず,一方では抑圧やいじめによって彼は追いつめられていたのである。また,運動会と音楽会が近づいていたことで,その練習のためにずいぶんしんどい思いをしていたのかもしれない,と母親は推測していた。

 2カ月ばかりして,彼が積極的に学校に行き始めるようになったのは,母親の訴えもあって,クラスの席替えが行われてからであった。前学年からH.T.と同じクラスだった女の子が2人,彼の両隣りに座るようになった。この2人は以前からH.T.にかなりよく関わり,彼の気持ちをよく汲み取ってくれる子どもたちであった。この頃から,朝も,「はよ学校行かんと」,「給食の用意して。はよ用意して」と母親に催促するようにもなっていった。

 イライラした気分が薬で鎮まることは確かにあったようだが,彼を学校に積極的に向けさせたのは,クラス集団の中での位置付けであり,授業中の課題の明確化と友だちの支えであった。そのもっとも根本的な問題に対して向かっていく姿勢を,担当医はまったくとらなかった。彼がしたことは,ただ薬の処方箋を書くことだけであった。医師の行う<治療>行為とはいったい何なのだろうか。医師の仕事の中身と自閉症児の生活実態との間には,ずいぶんと大きな落差がある。 


(2)


 自閉症児に特有の行動だと規定されているものがある。<同一性保持の欲
求>,<常同行動>,<言語の異常>,<多動>等のことばでそれらは括られている。

 健常児がそれらとよく似た行動を見せても,たいていそれらは幼児期のうちに消えてしまう。自閉症児の場合は,いつまでも同じ状態が続くために<異常>と考えられている。<異常行動>はそもそも異常なのであって,そこに積極的な,あるいは前進的な意味を見出だすことはできない。常人にはとうてい了解できない代物である。とすれば,なんとかしてそういう行動を変容させ,消去させてしまうだけのことである。そのために薬はきわめて有効な働きをする−−これが異常行動の薬物治療の発想である。

 しかし,次のエピソ−ドに見られるように,自閉症児の行動を<同一性保持の欲求>,<常同行動>,<言語の異常>等のことばで説明するだけでは,とてもひとりの子どもを理解することにはならない。

[ケ−ス・エピソ−ド2]
 K.M.(12歳,女児)は,部屋の入口に脱いであるたくさんの靴を,大小の順にあるいは色によってきちんと並べる行為が目立つ自閉症児であった。また,おもちゃであれ本や置物であれ,種類ごとにきちんと並べ変えることもよくあった。それに,指に唾液をたっぷりつけて,布製の袋や靴をべたべたに濡らしてしまうこともある。その行為に没頭しているときは,いくらそれをやめさせようと周囲から働きかけてもむだであった。とめるとよけいにからだを硬直させて,そのことにいっそうこだわってしまう。
 しつこく何度も同じことを話しかけてくることもあった。それを無視したり注意をすると,さらにしつこく繰り返す。特定の場所へのこだわりも強かった。いつも決まった場所に座り込んでしまうのだが,そこへ行くまでは前屈みで,両耳を指で押さえた姿勢でしか歩かない。特定の場所に座ると,はじめてホッとした表情で,体の力も抜けて落ち着くのである。

 一例を上げるとこんな状態だったから,周囲の人たちには非常に理解しがたい子どもだった。しかし,長いつきあいの中で,母親や筆者には,少しずつ彼女の行動の意味するものが理解できるようになってきたのである。

 たとえば靴を並べる行為や唾液を塗りつけるこだわりは,何の表現であったのか−−それは,緊張の強い状況や,嫌な場面に,K.M.がどうしても入っていかなければならないとき,また,したくないことを無理やりにでもやらされる時に,心の調整を図ろうとして行う行為だったのである。そして,その行為がしばらく続いた後で,チラッチラッと担任の顔を盗み見るようにしたり,鼻歌を歌ったり,「おやす」と言って相手に「み」と答えてもらえば得心する行為(ふたりで「おやすみ」ということばを作る)などは,「心の調整が終わりましたよ」という合図だったのである。

 「近鉄,行こうね」としつこく何度も話しかけてきたのは,実は「近鉄百貨店のモロゾフの喫茶店で,プリンを食べるのが私は好きなの」と相手に伝えたい気持ちの表現であった。「今度,近鉄に行こうね」と答えてあげると,それで彼女の表情はたちまち和らいで,それ以上話しかけてこない。

 親戚の家で,あるいは淀川の河川敷で,彼女がいつも定まった場所にしか座らないのは,こだわりでも何でもなくて,そこが一番風通しがよくて見晴らしもいい,しかも,とっさの場合に身動きがとりやすい,そんな最高の場所だったからである。

 彼女の<異常行動>なるものは,けっして自閉症児特有の無意味な行為ではなかったし,消去すべき性質のものでもなかった。われわれから見て,はじめはこだわりとしか映らなかった彼女の行為の中に,彼女の思いや葛藤,妥協,意欲などがまともに表現されていたのである。

 K.M.の心の中の動きは,他の自閉症児にも共通する部分があるのではないだろうか。そこのところを研究者・医師たちはどこまで理解して,自閉症児に相対しているのだろうか。


(3)


 R−THBPの効果の判定に<小児異常行動調査表>(以下<調査表>と呼ぶ)が使われている。ここで取り上げられている<異常行動> 6)とは何だろうか。

 おおざっぱに言って,自閉症と診断された子どもたちがしばしばよく似た行動をとることを,われわれも否定する気はない。しかし,それを,いかにもその子どもの本質に関わることかのようにあげつらい,治療対象としての<異常行動>ときめつけることが理解できないのである。

 たとえば,<調査表>から項目をいくつか拾い上げてみる。「1.声を出すことが少ない」,「2.自分から話しかけようとしない」,「18.言葉をかけても無視する」,「21.視線が合わない」,「22.表情が乏しい」,「27.ごっこ遊びをしない(ままごと,人形ごっこなど)」,「37.競争心がない(運動会,マラソンなど)」,「45.光の点滅に興味を持つ」,「58.運動神経がにぶい」,「63.横目で見るような,妙な目つきをする」などの項目に疑問をおぼえる。すなわち,なぜこれらの行動が<異常>なのか。なぜわざわざ変容させ,消去しなければならない行動なのか。

 <調査表>に記載されている項目には,自閉症児たちの生活の中身が豊かになり,集団の中でもあたたかく受けとめられ,生活体験を積み,自信や意欲が育っていく過程で,自然に変化していくようなものが多い。いわば生活が生き生きしたものになり,心の緊張がほぐれていくことと無関係ではない。むしろ自閉症児の関係者が心しなければならないことは,彼が生きる日常生活と,その周囲の状況への問題提起ではないのか。「その自閉症児をどうするのか」という視点だけでは,明らかに壁にぶつかってしまうのである。

 確かに,毎日の,家族とともに暮らす生活の中では,自閉症児が,一時期,周囲の人たちを困惑と混乱の渦にまきこんでしまうしんどい行動をとることがある。激しい自傷行為や暴力的なふるまい,極端な偏食,執擁な儀式的行為,大声をはりあげる,多動等がそうである。しかし,多くの場合は,家族とその周辺の人たちの根気強いつきあいの中で,なんとかそのしんどさをくぐり抜けてきている。障害を克服する,というような大仰なことではなく,とにかくくぐり抜けてきている。その子を含んでの生活のありようを手探りしてきているのである。その過程が,その家族にとっては日常の姿なのである。

 自閉症児に限らない,他の重篤な障害児の場合も,それ以外の原因で生じる家庭内のしんどい問題の場合も,みんななんとかがんばって,耐えて,くぐり抜けて行く。その中で,お互いの個性の違いの理解やつながりが深まり,支えあう状況も出てくる。特定の人間を排除したところで家族が成り立つのではないということも,時には実感できるのである。人間の生活の営みとは,多かれ少なかれ,このような側面を持つ。

 ところで,R−THBPの開発の報道(1986年2月13日),および各地で開催された研究者自身による説明会・講演会のもたらしたものは何だったろうか 8)。それは,家族の中のひとりの子どもを<自閉症>という側面のみで浮かび上がらせ,なんとか続いていた日常の生活とは切り離したところで,彼らを<しんどい存在>として家族に意識づけただけであった。


(4)


 ところで,家族や生活との関連については,R−THBPの研究者も触れてはいる。しかし,そのことが逆に,R−THBPの効果に対する疑問をより深める結果になっているようである。そのことについて考えてみよう。

 今回の二重盲験の対象となっている<6歳以下>というのは,周囲の人たちの関わり方や生活体験の仕方によっては,著しい行動変容が認められる時期である。これは保育・療育関係者の間ではよく知られている経験的事実である。

 大阪市立小児保健センター精神科の武貞によれば,「(二重盲験における)偽薬群でも,親が積極的に働きかけをしていた症例で著しい改善を見ている例や,働きかけの弱いものに無効例がみられており」,「いかに働きかけが重要か」10)ということである。周囲の人たちから積極的な働きかけがなされた場合に,特に幼児期の子どもに行動変容が見られるのはごく当り前のことである。このことを<薬効>と判定していいのか。

 また,この<働きかけ>と呼ばれるものの中身も十分に検討されなければなるまい。武貞は,自閉症児を<しつけ>や<訓練>の対象としてしか見ていない。このような自閉症児観,ひいては子ども観は,きわめて問題であるはずなのに,そのことに彼はほとんど気がついていない。およそ子どもの心を見つめる仕事とは裏腹である。武貞は,「しつけの強化に賛成する親であることが大切」,「2,3歳までは徹底的にしごいてむしろ健常児よりも厳しくしないといけない」,「健常児がちょっと動くとピシャリとたたくけれど,...この子どもにも自然にピシャリとやれるような自然な気持ちに立ち戻れ」となんのためらいもなく言う 8)。「規制と受容のバランスかな?」と付け加える武貞だが,彼の語る文脈は<規制>に大きく傾いている。自閉症児とのつきあいを「受容か規制か」というように,周囲の人間の一方的な思惑でみていくとすれば,これは実に貧弱な子ども観である。まして,彼のしつけや規制という力関係だけで子どもの問題はのりこえられるものではない。

 子どもがいけないことをした時には,叱ってでも事の善し悪しを教えなければならない,という基本がわれわれに分からないのではない。問題は,何がいけないことであり,はたしてピシャリと叩かなければならないようなことなのか,ということである。自閉症児はわざと<悪いこと>をしているとは限らない。新しい状況に入りきれなくて極度に緊張してしまい,それが悪ふざけになっているのかも知れない。他人の思いとのすれちがいや,自分の欲求や願いをことばで言い表すことができないために,人を叩いたり,物を投げつける形で表現することなど,一般的にどんな子どもにでも見受けられるような場合もある。自閉症児は何も感じていないのではない。何も分かっていないのでもない。彼なりの思いや感じ方や願いを持っている。それを無視して,しつけ・訓練で彼らの行動を規制することが発達だと考えているとすれば,あまりにも自閉症児を見下しているということにもなろう。 

 武貞は健常児をピシャリと叩く親の姿を,きわめて自然なものとして受け止めている。その前提があるから,自閉症児にもそれを求めるのである。子どもは親の支配下にあるもの,抑制されてしかるべきもの−−こういう感性を持っていれば,薬で自閉症児の行動を変化させることには何の痛痒も感じないことであろう。

 「親が一呼吸置くというひるみの為に...自ら生きていく為の自閉的なカラに閉じ込もって適応していく」9)という武貞の自閉症観の奇妙さはどこにあるか。それは彼が自閉症児を,人に規制され,人にもたれかからないでは生きていけない,卑屈で無力な存在と受け止めているところにある。

 われわれは,「だめ!がまんしなさい!」と抑えつけることでは少しもうまくいかなかった自閉症児たちに,「いちご,ほしいの?」,「ひとりでいたいの?」,「もういい?」とたずねることで,その子の荒れが変化していった事例を何人も知っている。


III.状況の中で生きる子ども

(1)


 専門家はしばしば,自閉症と診断された子どもたちを一括りにして見てしまいがちである。ひとりひとりの子どもにはそれぞれの思いや願いがあるのだ,というレベルの話にはなかなか馴染んでもらえない。<小児異常行動調査表>の作成者にも,「似たような行動をする子どもの心はみな同じだ」という程度の思い込みがあるのではないだろうか。

 「友達関係が持てない」,「視線が合わない」,「表情が乏しい」,「気持ちが通わない」という欄にチェックするおとなの思惑とは違って,ある子どもは十分に友だちを意識しているかもしれない。友だちの動きを目の端でちゃんととらえているかも知れない。心の中で友だちの言動に同調して,笑ったり喜んだりがっかりしているかも知れない。そして,仲間に入りたい,気持ちを通わせたいと願っているのかも知れないのだ。

 知れない,と書くのは,彼ら自身がその思いをことばで語ってくれないからである。しかし,自閉症児と日常的につきあっている人たちから,「この子は他の子のことをよく見てるんですよ」,「よく分かってるんですね」,「ちゃんとこちらの気持ちを感じ取っていますよ」という話を聞かされることがよくあるのは,その人たちにはその子の周囲への関心が実感されるからであろう。

[ケ−ス・エピソ−ド3]
 H.T.(8歳・男児)は同級生が自宅に遊びに来てくれても,ほとんど関心を示さない。もちろん,みんなの遊びにも入れない。その彼が,ときどきみんなの遊んでいる姿をチラッチラッと見ていることに母親は気づき始めた。そのうちには,隣の部屋からスッとやってくると,みんなが遊んでいるおもちゃのひとつを取り上げて,またとなりの部屋に引っ込んでしまうのを見かけるようになった。また,突然みんながトランプで遊んでいる場所に近づくと,床の上に並べられたトランプを足で蹴散らしてしまった。しばらく日数が過ぎると,今度は友だちが帰った後で,それまでみんなが遊んでいたのとまったく同じ遊びをひとりでするようになっていった。

 時間の経過とともに,その子なりに周囲に関心を持ち,その子なりの遊び方や関わり方を作り出していく。こういう微妙で主体的な動きと変化にしっかりと目を向けることなしには,自閉症児を理解することなどおぼつかない。


(2)


[ケ−ス・エピソ−ド4]
 小学校4年生の普通学級で,自閉症児K.H.が突然に泣き始めることがある。何が原因なのかよく分からない。そんな時,周囲の子どもたちは,「Kちゃんも自分でやりたいから泣いてるんや」,「先生が髪の毛を長く描いたから怒ってるのと違うか」,「暑いからと違うかな」などと,いろいろに考えてくれる。

 運動会のリズム体操でも,K.H.は大声を出して泣いた。彼なりにがんばって演技もさまになっていたのに,演技をしながら泣いたり,そばの子を叩いたりするのだった。その様子を見ていたK.H.の母親が,後日の連絡帳に「今までの運動会では泣いたことがなかったのに,4年生にもなって,とても恥ずかしい気持ちでした」と書いてよこした。すると,「そんなの,おかしいよ」という反撥が子どもたちから出てきたのである。「Kちゃんはわけが分からなくて泣いているのとはちがう」,「わがままともちがう」,「自分で一所懸命にやってたけど,なんでか練習の時みたいに上手にできへんかった。そういう自分がくやしくて泣いたんやと思う」,「お母さんが,はずかしい,と言うのは,Kちゃんの気持ちがちっともわかってへんからや」というように。

 わずか10歳になったかならないかという子どもたちであっても,日常的につきあっている自閉症児の思いと彼なりの頑張りを,しっかり受け止めていこうとしているのである。K.H.のことを何も知らない人がみると,彼の行動は異様に見えるだろう。母親は運動会の観覧席で,異様だとして見る人たちと同じ目で彼の行動を見てしまっていた。

 <異常行動>というマイナスのイメ−ジでしか自閉症児の行動を見ることができない人たち,その行動の意味を分かろうとすることよりも,それを消去し変容してしまうことに重点を置く人たちは,子どもの心から最も遠くにいることにならないだろうか。


(3)


 同年齢の子どもにくらべて,自閉症児はできないこと・分からないことがたくさんある。また,集団や規範からはみ出して周囲の人に迷惑をかけることも多い。だから,いろいろな認識や状況判断の力,集中力,忍耐力等を,発達段階に応じてひとつずつ着実に育てていってやることが,教育や訓練の中心課題になってくる。こちらの設定した課題にどこまで反応してくれるかが,彼らの発達の度合であり,教育・訓練・治療の効果ということになる。

 ところが,このような発達観は,自閉症児にとってあまりにも受身的であり,また個別的すぎるものである。実生活の中での彼らはもっと主体的であり,意欲的であり,何よりも周囲の状況との関係の中で,総体的にさまざまな力をわがものにしているのである。

 たとえば,幼稚園でみんなが棒体操をしている時にうろうろしたり,マット運動の時にマットの上で寝ころがっているだけの子どもがいる。しかし,よく観察してみると,うろうろしているその子が,教員が手渡したのでもないのに,棒体操のバトンをもって振り回しながら歩いていることがある。あるいは,寝ころがるマットはどんなマットでもいいのではなくて,いま,みんなが使用しているマットでないとだめだという子どもがいるのである。ということは,周囲に無関心で,集団活動から逸脱しているかのように見えるが,実際には強い関心を持っていて,その子なりのやり方でみんなの活動に参加しているのであろう。ついつられて,みんなのまねをしてしまうということもあるかも知れない。しかし,集団への帰属意識から,また,みんなの活動の流れを自分の中にも取り入れようという主体的な思いから,その子なりの参加をしていることも多いと思う。すなわち,彼らの意欲やプライドが彼らの発達を支えていることも十分に考えておく必要があると思う。

 誰かに教えてもらう,世話をやいてもらう存在としてではなく,あえて責任ある仕事,重要な役割を分担させられることが,その障害児の発達にとって大きな意味を持つのも,他者の目,他者の評価につながる問題である。たとえば,ポ−トボ−ルゲ−ムのゴ−ル役を任せてみること,集団登校の班長役をさせてみることもそのひとつである。集団の中で大事な役割を任せてもらったという自負心と,そんな自分が他者から見られていることに精一杯応えようとする意欲が,彼らをひとまわり大きくする。

 <小児異常行動調査表>の基本的な観点や,R−THBP研究者の子ども認識には,こういう視点からの発達観は欠落してしまっている。おとなにとって都合のよい対応,環境への順応だけがそこには求められている。


(4)


 投薬による問題解決法は,その障害児と家族の抱える問題を,短絡的にその子自身の問題としてしかとらえないのである。はたして,その子をなんとかしなければ,と本人を変える試みだけで,いままでどれほど実際的に問題が解決していったろうか。

 しかし,問題はいつも自閉症児の側にあるとは限らない。むしろ,その子をとりまく周囲の状況の側に問われるべき点がある場合も多いのである。

[ケ−ス・エピソ−ド5]
 ある小学校の卒業式は,多くの学校がそうであるように,卒業生ひとりひとりが名前が呼ばれて壇上に上がり,校長の前でお辞儀をして,それから卒業証書を受け取ることになっていた。自閉症児M.N.(男児)も,はっきり返事をして,儀式通りに証書を受け取ろうとはりきっていた。

 3組に所属する彼は,自分の名前が担任から呼ばれるのを,今か今かと待ち続けていた。当然,名前は1組から呼ばれる。彼はずっと後の方だ。そのことは彼もよく知っている。だが,名前を呼ばれたら「ハイ」と返事をして立ち上がって,ああしてこうして...と心づもりして,緊張の中で自分の番を待ち続けるには,ちょっと時間がかかり過ぎた。はじめは静かにしていた。が,極度の緊張はそんなに長時間持続できるはずがない。とうとう我慢しきれなくなって,大声を出したり,近隣に座っている子どもたちの頭を叩いたり,足で床を鳴らし始めた。教員たちも子どもたちも,彼が大まじめに順番を待って,型通りにきちんとやろうとしているのを十分知っていた。だから,彼が少々荒れても,「もう少しだから,がまんしようね」と,ひたすらM.N.に言い聞かせて,静かにさせようとしたのである。彼も,がまんしなければならないことはよく分かっていたと思う。しかし,障害児にしばしば見受けられるまじめすぎるところが災いして,緊張が高まり,それを長時間持続することがどうしてもできないのである。

 教員たちは,彼を叱りつけることの無意味さをよく知っていた。彼の荒れを,わがままとか,まして<異常>なものとは決して受け止めなかった。彼の,精一杯やろうという意欲と,待つことの限界と,そして,彼にとっても卒業式を厳粛なものにしたいという思いの接点をどこに求めればいいかで,さんざん悩んでいた。最終的に教員たちが到達した結論は,要するにM.N.の名前を早めに読み上げてやればいいのだ,ということであった。そのために,順番通りの1組からではなく,3組から読み上げることにしたのである。卒業式当日は,彼は大きな声で返事をして,堂々と証書を受け取り,式の終わりまで静かに座っていることができた。

 自閉症の対人関係障害は,文字どおり対人関係,対人状況,社会的状況の中でいろんな形で出現する。この状況という概念をもっと広く深く考え,すなわちすぐ目の前の状況だけでなく,歴史的・文化的・社会的・心理的な状況もひっくるめてコンテクスト(文脈・脈絡)という概念で包み,Frith 1)は,自閉症ではコンテクストに適合した認識をしようとする欲動(central drive for coherence)に関して障害があると考えている。健常者の側から言えば,おそらくそういうことになるのであろうが,われわれは問題の責任をすべて自閉症児者の側に押し付けようとは思わない。

 われわれは皆,他者との関係の中で生きており,共同主観性の中で生きてい
                          ベゲ-グネン
る。共同主観性とは自分と他者達とが,相互に主体として出会いつつ単一の世界を共有することである 3)。そういう観点から眺めれば,Frithの言うコンテクストは,自分と他者との間で共有されるコンテクストのことに他ならず,廣松 2)がいう共同主観的な同調性・同型性という構造の重要な要素であると考えられる。われわれは各々個性を持った者として認識・判断を行うだけでなく,間主観的に同調的・同型的な相に共同主観的な自己形成を遂げて(あるいは遂げさせられて)いく。そう考えると,自閉症とは共同主観的な自己形成に関する発達障害ということになりそうだが,事はそのような一面的なものではない。自閉症児は,認識・判断・行動するに当たって,前者(すなわち個性を持った一人の人間としての認識・判断)に大きく比重がかかっており,共同主観的な同調性・同型性という観点から見れば著しく彼(彼女)固有のバイアスがかかっていることになる。とは言え質的にまったく異なる認識判断を行っているのではない。バイアスの相対的な程度の問題にすぎない。判断主観一般(すなわち健常者の側)に同調・同型化しようとする意思が希薄なだけである。逆に判断主観一般の側も,自閉症児の独特な認識・判断を共同主観の中に包み込んでさらに大きく豊かなものにすることが未だ十分にはでききれていないということになろう。すなわち判断主観一般(健常者)の側の共同主観的な自己形成が未発達だという側面も押さえておかなければならないのである。

 事態の反面には目を閉じて,自閉症児の行動を質的に異常なものとしか見ず,むやみに投薬するとすれば,自閉症児にとっては医師の行為こそ<自閉
的>で理解困難な行動化ということになろう。


IV.おわりに

 R−THBPの研究者は,この補酵素が原因療法につながることを,当初から強調してきた。しかし,これを経口投与したことが代謝障害にどのような影響をもたらしたかという実証的報告はどこにもない。もともと代謝異常が原因である自閉症児を対象に実験群を選定したのではないのだから,実証のしようもないはずである。ただ,症状が改善されたかどうかという主観的デ−タしかそこにはない。しかもそれは,判定基準としてはきわめていかがわしい<小児異常行動調査表>によるチェックが決め手となっている。自閉症児の外面にみられる行動の羅列が,子どもの本質を語ることとどれほど疎遠なものであるかは,子どもの身近でよりそっている者ならすぐに思い至るところである。

 本論稿は,精神医学で<異常>と決めつけられやすい自閉症児の行動を,子どもの生活実態を軸に,彼らの心の中に少し分け入って考えてみることの重要性を強調したものである。

文献
1)Frith,U.:Autism:Explaning the enigma. Basil Blackwell, Oxford. 1989.p.179
2)廣松渉:存在と意味.岩波書店,1982.
3)廣松渉,増山眞緒子:共同主観性の現象学.世界書院,1986.
4)門眞一郎,宮崎隆太郎:自閉症新薬天然型テトラハイドロバイオプテリン治験
 の批判的検討児童青年精神医学とその近接領域,32;277-287,1991
5)Naruse,H., Hayashi,T., Takesada,M., Nakane,A., et al.:Therapeutic
 effect of tetrahydrobiopterin in infantile autism. Proc.Japan
 Accad.,63,Ser.B,231-233,1987.
6)小児行動評価研究会:小児行動異常の客観的判定のための評価尺度につい
 て.金子仁(編)Priscription for Brain Diseases and Mental Disorders.
 pp.440-409,1983,世界保健社.
7)成瀬浩:代謝異常による精神発達障害の治療.精神医学,30;6-15,120-129,
 1988.
8)成瀬浩,武貞昌志:話題の小児自閉症の治療新薬をめぐって.国際治療教育研
 究所(講演会資料),1986.
9)小笠原裕子:小児自閉症の治療新薬をめぐって.そよ風のように街に出よ
 う.No.28;56-61,1986.
10)武貞昌志:多動のメカニズム.発達障害研究,9;98-107,1987.


   児童精神科医 門 眞一郎の落書き帳 にもどる