満蒙開拓団青少年義勇軍内原訓練所と航空自衛隊百里基地を訪ねて(2001/11/03)


満蒙開拓団青少年義勇軍内原訓練所(茨城県東茨城郡内原町内原)

 満蒙開拓の歴史については、満蒙開拓団の悲惨な結末はよく知られている。しかし、1937年の日中戦争後、38年に満蒙開拓団青少年義勇軍の募集が始まり、戦争末期にはこの義勇軍が移民の主力となったことはあまり知られていない。結局、15歳から19歳までの満蒙開拓団青少年義勇軍86、530人の内24、200人の犠牲者を出した。開拓民27万人は78、500人が戦死・自決・餓死・凍死・病死でなくなった。
 開拓団及び満蒙開拓団青少年義勇軍の入植地は、関東軍の前線よりさらに前にあり、開拓団そのものが屯田兵的な色彩をおびていた。入植民は、絶えず軍事訓練を受けた。入植地は関東軍が無住地帯に設定した場所で、中国人が耕作していた土地である。中国人から安価に強制収容した土地だった。つまり、開拓民は満州の治安維持と対ソ戦備の一手段であり、日本軍国主義の手先となってしまった。ここが、ブラジルなどへの移民と異なっている。
 満蒙開拓団の悲惨な結末は多くの日本人の心を痛ませる。日ソ中立条約を破棄し1945年8月9日、ソ連軍が満州に進入、入植民に略奪・暴行した。入植民は、難民化し、朝鮮半島方面に南下した。その時、置き去りにされた中国残留孤児の肉親探しも深い同情を呼んでいる。しかし、満蒙開拓青少年義勇軍による周辺の中国人に対する暴行などもおこった。
 満蒙開拓団青少年義勇軍の訓練期間は3年で、2〜3か月内地訓練を受けた後満州に送り出され、現地訓練所でさらに3年の訓練を受けた。内原訓練所は、全国唯一の内地訓練所であった。
 「内原訓練所記念館」は、来年町の予算で、2年計画で建て替えられる。

      
内原訓練所配置図      内原訓練所説明看板    記念館全景(当時の宿舎を少し縮小したもの)

      
各府県各隊の石碑      内原訓練所石碑        内原訓練所記念館内部

   
満蒙我生命線の看板     お櫃(60人分)としゃもじ(一棟60人収容)など

航空自衛隊百里基地

 百里基地裁判は、とても有名である。百里基地裁判の結果、百里基地の内部に反対農民の土地が飛び地として残り、現在平和公園となっている。そのため、誘導路は、くの字形にまがっている。飛び地は、かつて入会地であり、その土地まで自衛隊がフエンスで囲った道を付けている。
 平和公園内には、平和稲荷と日本山の石塔がある。

 

航空自衛隊百里基地とは
 百里基地は茨城県の東南部、霞ヶ浦のすぐ北側ににあり、2700mの滑走路を有して、第7航空団と偵察航空隊が配備されています。第7航空団はF15Jイーグル戦闘機(1機108億円)2飛行隊40機を擁し、首都防衛の任務に当たっている実戦部隊です。偵察航空隊(RF4E偵察機28機)は自衛隊唯一の偵察部隊として全国どこへでも飛んで偵察任務を行っています。百里基地は1990年に日米共同使用基地とされ、日米共同訓練も行われてきました。
 またその訓練は主に鹿島灘沖で行われていますが、1日の離発着回数が150回にも達するなど、かなり激しい訓練が行われ、周辺地域にひどい騒音をまき散らしています。毎年、基地機能の強化が進められており、最近も新しいレーダーが建設されました。

基地反対運動の歩み
 百里基地のある平坦な台地はかつては百里ヶ原と呼ばれる不毛の土地でしたが、明治以来開墾が進められていました。そこに1937年、海軍の飛行場が強引に建設されました。戦後は満州などからの引揚者や地元の土地のない人々の開拓地となりましたが、開拓が一段落した1956年に突如基地建設計画が持ち上がりました。
 様々な圧力の中で多くの開拓民は土地を売り渡しましたが、1956年8月には百里基地反対期成同盟、12月には愛町同志会が相次いで結成され、反対運動が小川町全体のものとなっていきました。翌4月には反対派の山西きよ氏が町長選挙に勝って、全国初の女性町長となり、反対運動は大いに高揚しました。このような中、防衛庁は既成事実づくりのために基地建設を開始し、建設機材の搬入を巡って地元農民と警官隊が衝突するという事件も起こりました。防衛庁は金や脅しでは動かない農民達に対して巧妙な懐柔工作を行い、その結果1964年には滑走路予定地の土地はすべて買収され、「百里基地反対期成同盟」も解散しました。
 しかし、すぐに「百里基地反対同盟」が再建され、あらたな闘いが始まりました。滑走路に平行して飛行機の移動用に作られ、非常時には滑走路にもなるべき誘導路を「くの字」に曲げることになった基地内に残った土地を、全国の人々に一坪ずつもってもらうという画期的な一坪運動で反対闘争を全国的なものに発展させました。1965年には百里基地懇談会が結成され、百里裁判が闘われる中、1978年には百里基地反対連絡協議会が発足して、現在も党派をこえた統一組織として存在しています。1978年には平和農園づくりがはじまり、1979年からは旧射撃場山を対象として新一坪運動が取り組まれ、1989年には基地のど真ん中の一坪運動地を平和公園として整備しました。

百里基地訴訟(百里裁判)
 百里裁判は激しい基地反対闘争の中で、防衛庁の土地横取り事件として起こったものです。管制塔の真正面に位置する約2ヘクタールの土地の所有権をめぐって、基地反対派の農民と国が争ったものですが、農民側は、国が航空自衛隊百里基地用地のために農民から土地を買収することは、戦争放棄、戦力不保持を定めた憲法9条に照らし憲法違反であり無効である、という主張を展開しました。第一審の水戸地裁は、自衛のためにあらかじめ防衛措置を講ずること、つまり軍隊を持つことを憲法は禁止していないが、今の自衛隊が憲法9条に違反しているかどうかは高度に政治的だから、国会や政府にその判断を任せて、裁判所は判断しないという自民党政府に完全に迎合した判決を出しました(1977年2月)。
 第二審の東京高裁は、現在の自衛隊につき、その土地買収行為は民法第90条のいう「公の秩序、善良な風俗」に反しないから、無効とは言えないという判断を示し、憲法9条の解釈と適用は避けてしまいました(1981年7月)。
 1989年6月、最高裁は国側の主張を支持し農民側の請求を退ける判決を下しました。最高裁の考えは「国が自衛隊の基地のために農民から土地を購入するのは、市民の間の通常の土地売買と同じことだから、憲法は関係ない」というもので、自衛隊の憲法判断を避けました。自衛隊を公式に認めることができなかったわけです。
 百里裁判は「長沼」や「恵庭」と並ぶ自衛隊の憲法違反を問う裁判であり、戦争放棄、戦力不保持による恒久平和の実現を目指す日本国民や人類の理想を実現させるための裁判でした。

百里平和公園
 基地の真ん中に百里平和公園があります。広さは約5,000平方メートル、基地に反対する地元の人達が、防衛庁に売り渡すことを拒み、この土地が残りました。自衛隊から見れば、ほんとうに邪魔な存在でしょう。10年ほど前にこの土地を平和公園として整備し、広く反対運動のために使用しています。
 平和公園内の土地の一部は、およそ30年前に、全国の基地に反対する人々に一坪ずつ所有してもらいました。(いわゆる一坪運動です。今、新たに平和地主運動を行っています。
 平和公園の園長は、公園の入り口に住む川井弘喜さんです。平和公園に入りたい場合は、川井さんに連絡して下さい。

民間共用化問題
 1992年9月、民間共用化問題が持ち上がりました。茨城県にも民間空港があればという県の意向もある中で、地元小川町から共用化の声があがったかのようなかたちで計画が進められてきましたが、地域住民の声はほとんど反映されないまま一方的に進行しました。県が熱心に運輸省と防衛庁に働きかけた結果、国の第7次空港整備計画の中に「百里飛行場の共用化について引き続き関係者と調整を行うこととし、結論を得た上で所要の整備を図る」と盛り込まれた後、茨城県と運輸省は防衛庁と協議し、基地西側に新滑走路を建設するという案が作られました。基地を自由に使えなくなると難色を示していた防衛庁が、新滑走路を造り、それを自衛隊が管理するのであれば、自由に使える滑走路が増えることになり、基地の拡大につながると考えたわけです。茨城県の担当者もこの事実を認めています。
 軍用機と民間機が共用する飛行場の危険性は那覇空港などで大きな問題になっていることでもわかるとおりです。百里では80機もの戦闘機や偵察機が実戦のための訓練を日夜繰り返しています。危険性と騒音の増加は火を見るより明らかです.
 また地方空港が次々と作られている中で、乗客の確保が難しいという状況になっています。百里に実際に乗客が集まるのでしょうか。無駄な公共事業になるだけではないでしょうか。

 「百里基地反対運動のページ」(http://www.cam.hi-ho.ne.jp/kuri777/index.htmより、航空自衛隊百里基地の文章と配置図を作成。

              
百里基地正門(テロ以後門が閉まっている)   平和公園入口     基地を拒み続ける意志

   
百里基地反対闘争案内図  基地内部(前方のやぶ中に「自衛隊は憲法違反」の大看板」がある)


浅草弾左衛門の旧住居跡を訪ねて2001/11/3


 2001年10月25日、浅草弾左衛門の居宅跡を訪ねた。
 「第13代弾左衛門直樹は、摂津国菟原郡灘住吉村中ノ町に生まれ、天保12年(1841年)に18歳で穢多頭となった。当時、穢多頭は、囲内二百三十二軒、猿飼四十六軒、江戸非人小屋七百三十四軒、当地外非人小屋千二百六十一軒の支配をまかされた。総計で七千七百二十軒になる。」
「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より
 私は、「摂津国菟原郡灘住吉村中ノ町」のあたりに、震災の頃に住んでいたことがある。それで、東京に行った折りに、弾左衛門の居宅跡を訪ねたいと思っていた。今回、「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)と「太陽コレクション古地図散歩、江戸・東海道」(平凡社)を頼りに歩いてみた。

 「藪之内を右に折れ、随身門【いまの仁天門】から浅草寺の境内へ入った。輪堂、層塔が雁行して並び建ち、あいもかわらず、人びとが肩摩轂撃肩と肩をぶつから】している。楊枝歯薬を売る店が並び、厚化粧の女が客を招く。その雑踏にまぎれ、たとえひと時であろうと、我を忘れることで、おのれをとりもどしたい。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より

雷門

 「本堂で参詣をすませた者どもが、言い合せでもしたように、奥山へとむかっている。そこには、茶屋、矢場をはじめ、独楽を廻して薬を売る者、太鼓や角笛にあわせて梯子の天辺で逆立ちする者がいる。右手に赤い扇、左手に蛇目傘を持って綱を渡る者がいる。腰蓑だけの裸で謡を唱う願人坊主がいる。独り相撲、蛇遣い、辻祭文、阿呆陀羅経も、人を黒山に集めている。ここでは一年じゅうが祭であった。
 これら大方の者は、乞胸【合棟】と呼ばれている。浅草菊屋橋に住む仁太夫を親方にし、両国や下谷の棟割長屋からここへ通ってきた。仁太夫は、非人頭に月額三十貫文【五両弱】を冥加金として納める習わしで、また弾左衛門が非人頭より徴税しているからには、拍手とともにぱらぱらと投げられる鳥目【銭】のいくらかは彼の屋敷にも運びこまれているわけで。大道芸人の隆盛は慶賀すべきことであった。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より

仲見世中門本堂

 「屋根の先に金龍山浅草寺の五重塔が黒くつきだしている。追い抜いていく駕籠が三つ、四つとあり、粋な形の遊客がふえた。春の宵を楽しむ風情がある。こんもりと緑にかこまれた聖天山(待乳山)をすぎて橋に出た。橋の下は幅六軒(十一メートル)ほどの堀で、右手すぐ近くの大川から猪牙船が幾艘も入り込んできている。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より

五重塔

 「これが山谷堀よ。こっちの土手が日本堤で吉原に行く道。この橋が今戸橋。堀の向こうの板塀がござろう、あれが新町でござる。」
 「山谷堀に一部分を接して、いかめしくどこまでもつづく板塀が見えていた。それが新町という。小さい門があり、石段が塀にむけておりている。そこへ船を着けてそのまま中へはいれる寸法で。今戸橋を渡った左手は寺で慶養寺と読めた。そこをすぎて左へおれると、さきの板塀につづく瓦屋根の長屋が現れた。その中央が武家屋敷のような長屋門であった。正面の大戸も、左右の潜戸も開かれ、サルかだれかが到着を告げたのだろう、迎えに駆けつけてくる下人たちがあわただしかった。門の両側には、箱根のお関所の大門と同じく、六尺棒を持った男が立っていた。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より

今戸橋今戸橋から台東商業高校を望む。山谷堀は埋め立てられて公園・道になっている

 「源壽寺、浄運寺、宝蔵院、念仏寺など、三十いくつもの寺が、堀や堀の外を埋めている。いずれも囲内に尻をむけていた。新町を守るように見えて、実は町人や遊客の目から隠そうとするようで。囲内の多くの場所から、塀ごしにのぞいた卒塔婆や本堂の屋根瓦が見えた。生まれたときから目にしている人は慣れっこであろうが、彼にとっては、しばらく異様であった。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より

江戸時代の新町「太陽コレクション古地図散歩、江戸・東海道」(平凡社)より

 「瓢箪池を包むように、松や榎や槐の大木が鬱蒼と茂り、葉陰に夏の終わりの木疎さが忍びこんでくる。鶴岡ならぬ亀岡八幡社の屋根瓦が、右手の庭の隅で光った。」
  「彦一の追いつくのを待って、裏門を抜けた。七百四十坪(二四四二平方メートル)の屋敷の外は、一万四千四十二坪(四万六千00平方メートル)の囲内である。屋敷を中心にして十数軒の旅籠があり、牢があり、金方役所があり、皮革や燈心を納める土蔵七棟もある。家老職の屋敷、上役や下役の手代の大小の家が取りまいている。行きたいのは、山谷堀のほうではなかった。細長い囲内を断てに割っている広い通りを、北へくだる。そこは竈数二百数十の長屋で埋まっている。髪結床もあれば、湯屋も質屋も太物店(綿や麻の織物を扱う呉服店)もある。粗末な形の老若男女が密集し、むんむんとする体臭を放っている。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より

今戸神社(明治時代に建立)、大門あたり?

   
都立台東商業高校テニスコートの辺りが居宅跡、東京解放会館の人の話では、校内に「居宅跡の碑」があるようだ。

 「長昌寺の門前町を抜けて、川岸に出た。瓦師が竈を築いている。瓦を焼く煙が細く立ち上り、焼き場を連想してか、ふと不吉さを覚えた。人ひとりをのみこんだとは思えぬほど、川面はとろりと火に焙られている。春と秋には都鳥が数多く集まってくる場所であった。対岸は向島(墨田区のもと景勝地)で、土手に桜並木がある。」「浅草弾左衛門」(塩見鮮一郎)より

本龍寺(弾家の菩提寺、弾左衛門直樹の墓がある)

神戸市の専念寺(とてもモダンな建物。弾左衛門直樹のゆかりの寺、分骨された)

弾左衛門住居跡近くの隅田川公園
 昭和20年3月10日の東京大空襲では、10万人近くが亡くなった。言問橋上でも大勢の市民が焼け死んだ。現在、隅田川公園に付け替えた言問橋の一部が記念碑として使われている。この碑の一帯は、それら市民を仮埋葬した場所である。

  
戦災により亡くなられた方々の碑。碑の説明文(台東区)


「奥飛騨キャンプと西穂山荘登山の案内記」


2000年8月4日(金)〜9日(水)まで、家族4人(子供小4と小1)でオートキャンプと登山を楽しんだ。「奥飛騨オートキャンプ場」と「乗鞍岳」及び「新穂高ロープウエイ」から「西穂山荘」を経て「上高地」への登山を紹介したい。

[奥飛騨オートキャンプ場]

 朝、7:00に出発、名神高速が大津まで渋滞。たいした渋滞ではなかったが、もう1時間早く6:00に出発しておけば良かったと悔やむ。名神の「一宮」で「東海北陸自動車道」に入り、「荘川IC」で下りる(もうすぐ「清見」まで開通する)。国道「158号線」を「高山」に向かう。途中、高山市内を迂回して158号線に戻り、平湯温泉を経て、15:30、「奥飛騨オートキャンプ場」に到着した。高山から神岡町を回るルートもあるが、時間的にこのルートが一番早い。

 このキャンプ場は、設備が整っている。無料の露天風呂・子供用露天風呂プール、200円で8分の温水シャワー(100円でも実際は動いた)、洗濯機(200円)、乾燥機(100円40分)、売店があり、目の前に道の駅「上宝」がある。また、近所にはAコープなどがあり買い物も便利である。掃除もきちっとできておりとても清潔である。サイトT、U、Vがあり、料金はサイトTが1泊4、500円、サイトUが4、000円、Vが3、500円である。サイトTには、AC電源がある。私は、サイトUに泊まったがすぐ横を、国道471号線が通っておりうるさくて寝られなかった。また、陽当たりが良く(1日中陽が当たる)、ロケーションも悪かった。サイトTかサイトVがお薦めである。サイトTは、メインのサイトで道路から離れており、松林の中の日陰で、「焼岳」を臨むとてもいい環境である。サイトVは、河原で陽当たりが良いのが欠点だがロケーションは良く道路から離れていて料金も安い。奥飛騨は、夜、特に朝方、寒い位なので、シラフあるいは毛布は、必要です。シラフが3つしかなかったので、私は、小さい毛布2枚と薄手の長ズボンと半袖のポロシャツで寝たのだが寒すぎて眠れなかった。

[乗鞍登山]

 8月6日(日)乗鞍へ行く。朝早く行くようにとアドバイスを貰っていたが、8:00の出発になってしまった。キャンプ場から「乗鞍スカイライン」(片道1、570円)を通り「乗鞍畳平駐車場」(無料)まで約1時間で到着。しかし、日曜日で、時間も遅くなってしまったので結局、駐車場が満杯で1時間待った。平湯温泉側から上ってくる車と松本側からあがってくる車とが「畳平」で出会い駐車場に入らない車も通過できないため渋滞に並ぶことになる。乗鞍スカイラインは非常に景色がいいドライブコースである。しかし、昼間を避けて、早朝か夕方にドライブする方がいいと思う。定期バスも着出発がかなり遅れていた。もっと混んでいるときは、途中に「展望駐車場」があるので、そこに車を止めて、徒歩で畳平までいくのがいいと思う。松本側も上から見るとスキーをしている大雪渓の下あたりから車が連なっていたので、そこの駐車場に車を止めて歩いた方がいいかもしれない。

10時ごろ乗鞍の山頂に向かって出発。「お花畑」の横を通り、「不消ヶ池」を見て、「位ヶ原大雪渓」手前の雪渓に下りて子供と遊ぶ。雪渓で遊んでいると監視員が通りかかり「雪渓に下りないでくれ。地震の時対処できないから」と注意される。その後、下ってきた同じ位の子供を連れた夫婦に頂上まで行けるかどうか尋ねると、「子供が高山病になり途中で引き返してきた」ということだった。片道40分のコースだが、「肩の小屋」に11時30分頃着く。山頂まで行くのは無理かなと思いつつ小屋で休憩する。小屋から山頂までは、50分だが、子供連れなので1時間30分ぐらいかかるなと思っていると急に霧が空を覆い雨が降ってきた。出発を見合わせ様子を見ることにする。雨がいよいよ激しくなり雷も鳴ってきた。稜線沿いの登山道は危険なので、雨が小降りになるのを待って、下山することにする。12時半頃下山。畳平の村営食堂で昼食をとる。お便所は有料で、100円だった。外の公衆便所も有料なのだが、レストランの中も有料とは思わなかった。簡易郵便局で記念切手を買い、おみやげ物屋で子供がおみやげを買ってキャンプ場へ戻る。

[西穂山荘経由上高地]

 8月8日(火)5:00起床。ここ何日かの奥飛騨の天候から午前中は比較的天候が安定していると思われるので、できるだけ早くに起床する(5:00より早くは未だ外は暗く作業できない。また、周りのキャンパーに迷惑になる)。テントを畳むのに時間がかかり結局6:00にキャンプ場を出発(前日からタープなどたたみ出発の準備をしていた)。6:20頃に「新穂高ロープーウエイ」乗り場の駐車場に着く。有料で一日おくと2、500円かかる。我々は、2日置くことになるので、その辺りで聞くと、少し離れているが「深山荘」というところに「村営の無料駐車場」があるということを教えてもらった。車をそこに駐車し7:15発のロープウエイに乗った(片道大人1、500円、JAFや日本石油などの各種割引があるので持っていくといい。また、自衛隊や林野庁などの会社なども割引がある)。ロープウエーを2本乗り継いで終点の「西穂高口」に着く(2本目は2階建てのロープウエー)。ロープウエーからは、「笠ヶ岳」「槍ヶ岳」「北穂高岳」「奥穂高岳」など北アルプスの山並みが一望できる。終点駅の食堂で軽く朝食をとり8:00に出発。ここのおみやげ物屋は良心的。登山地図では、「西穂山荘」まで1時間ということだが子供の足なので 9:40に山荘に着く。1時間40分かかった。ロープウエイから西穂山荘までは、緩やかな登りで、観光客も簡単に行くことができる。山荘では、大勢の登山者(ツアーの登山客、多くが中高年者)が、外で休憩していた。我々は子供がジュースを飲みたいというので山荘に入り休憩し、10:00に出発する。上高地までの下山道は、赤い標識が出ていてとても分かり易かった。高山植物を観ながら調子よく、水場の「宝水」という所まで下りる。子供にもトレッキングシューズをはかせていたのが正解だった。13:00頃、もう少し歩いたら上高地に出られる、食事をしようと思っていると急に天候が悪化し、豪雨となる。靴はいい靴を用意していたのだが、雨具は、ヤッケだけだったので、ずぶ濡れになる(雨が降ったら平湯に車をおいて上高地にはいるつもりだったので、十分な雨具を用意していなかった)。ゴミ袋をリュックに被せたのだが激しい雨のため、内部に雨水が進入した。雨具もいい物を上下用意するとともに、リュックのカバーも必要だ。小さい子連れの4人家族を追い越したが、4〜5歳の下の女の子が激しい雨のためか泣いていて、立ち往生していた。天候が急変することがあるので、登山届は出しておく必要があると思った。この辺りの下山道には、案内板がほとんどなく、道も急で雨の通り道になり、視界も悪く方向が分からなくなってしまった。ほとんど沢に迷い込んだと思った所もあったが、今まで歩いて来た所にはこの道しかなかったため確信して下山する。前を歩いていた女性2人は、途中立ち止まって道を確認していたため、私たちの方が前を歩くことになった。全身ずぶ濡れで何とか下りてきた。1時間豪雨の中を歩き、14:10登山口の「穂高橋」に到着。「大正池ホテル」へは、右の道を行けば良かったのだが、バスに乗ろうと直進し帝国ホテル前のバス停でバスを待つ。夏の繁忙期、しかも午後の混雑する時期は途中のバス停では乗車するのは難しいことは知っていた(上高地バスターミナルから沢渡行きは整理券がいる。平湯行きはいらない、先着順。満員時は帝国ホテル前・大正池ホテル前も素通りする)が、全身濡れ鼠で疲労し歩くことができなかった。14:40ごろ沢渡行きのバスに運良く乗車できる。大正池ホテルに14:50ごろ到着し、チェックインする。

 「大正池ホテル」は、インターネットの空室情報を検索していて空いていたので予約した。大人15、500円・子供は70%という料金だった。こじんまりした小綺麗なホテルで、乾燥室と乾燥機があり助かった。夕食もおいしくて及第点だった。

[上高地]

 翌9日(水)、大正池でボートに乗る(30分800円)。湖面から見る景色は絶景である。8:50チェックアウト。「河童橋」を目指し出発。「田代池」を経て1時間ほどで穂高橋に着く。ここより梓川右岸に出て、ウエストン碑から河童橋に着き休憩。「明神池」に行きたかったのだが、時間の関係があり断念する。ビジターセンターを訪問し、12時頃になったので、バスターミナルに行き2Fの村営食堂で昼食(カレー800円、カツカレー900円は、高くて不味い)。上高地は観光化されているので、できれば平湯に戻り、食事をする方が良かったと反省する(平湯までは、30分で着くし、早く上高地を出発する方がシャトルバスも空いている)。平湯まで大人1、050円、12:40のバスは満員で乗れず、20分並び13:00のバスに乗る。13:30平湯着。平湯では、13:25の新穂高行きのバスが遅れておりそのバスに乗ることができた。新穂高バスターミナルまで860円の乗車券を買ったが、一つ手前の「深山荘」で下車、790円だったので少し損をした。14:30帰路に就く。



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