放漫経営のつけは誰が払うのか

 2003年度予算の財務省原案が発表された。歳出に対する税収の割合は、51.1%と半分しかまかなえない事態になっている。英・米・伊・独などは、税収が予算の80%以上ある。ムーディーズが国債のランキングを2段階おとしたのも正当な評価だったのだ。国債の暴落もあり得るという非常事態のようだ。NHKは「緊縮型」予算といっていたがどこが緊縮型なのだろう。小泉首相もどこが緊縮型ですかと言っていたが。しかし、予算を提出する当事者がそんなことを言っていいのだろうか。朝日新聞の2002/12/20夕刊の記事を少し引用します。
<引用開始>
税収が歳出の半分、危機深刻 03年度予算財務省原案
 政府の03年度予算財務省原案が20日、各省庁に内示された。一般会計は02年度当初比0.7%増の81兆7891億円で、政策的経費である一般歳出は同0.1%増の47兆5922億円。少子高齢化や失業者増で社会保障関係費が伸びるなか、歳出を抑えようとしている。だが、景気低迷や先行減税で、税収は同10.7%減の41兆7860億円。歳出に対する税収の割合は51.1%と、半分しかまかなえない未曽有(みぞう)の事態となり、財政の危機的状況は一層深まった。
 国債の新規発行は36兆4450億円に膨らみ、当初予算では最大。国債依存度は44.6%と、こちらも戦後最悪だ。03年度末の国債残高は約450兆円に上る見込みで、税収の11年分。ほかの主要国と比べても、日本の財政の厳しさはぬきんでている。小泉政権は01、02年度に「国債発行30兆円枠」を掲げ、財政再建に取り組んだが、実際には「借金依存」が再び加速した。
 税収は16年前の87年度当初予算の水準。国税で1.5兆円の先行減税の影響もある。
<引用終わり>
 相続税や贈与税の減税や土地減税・株式売買の減税などこのような財政状況でよくできたものだ。まさか消費税を上げるとかはなしですよ。

外務省は不要!

 毎日新聞(2002/12/22)に在日米軍外務省研修の実態が報道されていた。あまりにもひどいのでその一部【大治朋子さんの署名記事】を引用させていただきます。

<引用開始>
在日米軍:外務省研修の実態は接待<沖縄・少女暴行事件契機の>
 95年9月に起きた米兵3人による沖縄・小学生女児暴行事件をきっかけに、外務省が在日米軍幹部を対象に始めた「研修」の大半が、事実上の観光旅行になっていることが、毎日新聞の情報公開請求で開示された内部文書でわかった。関係者からは「実態は研修ではなく接待であり、意味がない」との指摘も出ている。
 研修は、事故の再発防止対策の一環として、「シンポジウム」などの名称で外務省北米局日米地位協定室が95年12月から始めた。以後年1回、3泊4日の日程で、在日米軍の将校ら幹部20〜25人を招いている。今年で7回目で、参加者1人当たり約13万5000円、総額約270万円の宿泊費や食費を日本側が毎年負担している。
 内部文書によると、プログラムには3回、計4時間半の安全保障や経済に関する講演が組み込まれているが、残りは日光や鎌倉への観光旅行、歌舞伎鑑賞などで、国技館でビールを飲みながらの相撲観戦もあった。自由時間には「夕食代」として1人現金5000円を配ったり、総額30万円の屋形船ディナークルージングもある。こうした内容に外務省職員からも批判の声があがっている。
<中略>
 在日米軍研修(97年)の主な内容
(1)午前 午後 夜
(2)1日目 政治・経済講習(90分) 生け花見学 屋形船ディナークルーズ
(3)2日目 安全保障講習(90分)/文化・歴史講習(同) 松下電器シアター見学 自由行動/1人5000円支給
(4)3日目 築地魚市場見学後、バスで日光へ 日光観光 自由行動/温泉宿泊
(5)4日目 日光からバスで東京へ 昼食会後解散
<引用終わり>

 外務省はもう少し真面目に仕事をして下さい。少女暴行事件の再発防止なら現地沖縄で、米軍と日本の共催で強制研修を行うべきだろう。日本の理解ということで接待するだけではダメだ。米軍にもバカにされるだけだ。来年度、在日米軍駐留経費負担(思いやり予算)が2、460億円だそうだ。日本の財政が破綻しそうだというのにのんきなことだ。思いやりもいい加減にして貰いたい。


<狂牛病>詐欺の業者名をなぜ発表しないの?

補助対象外の肉申請、26社公表せず 買い取りで農水省
 牛海綿状脳症(BSE)対策事業のひとつの在庫牛肉買い取り制度で、助成の対象にならない肉を申請していた食肉業者の社名を公表するかどうかを審査していた農水省は6日、これまでに判明した26社すべてを公表しない、と発表した。
 審査をしたのは、これまでに検査をした肉約6500トンのうち、品質保持期限切れや骨付きなど助成の対象外の肉計約23トンを出していた26社。この中には、日本ハムグループをめぐる偽装牛肉事件で日本ハムと一緒に買い取り事業の申請契約を業界団体を通じて一方的に解除した8社のほか、申請した全量すべてが対象外だった業者もいた。
(以下略)<朝日新聞2002/12/6>
 税金をだまし取った、あるいは、だまし取ろうとした食肉業者をどうして農水省はかばうのか。私たちが詐欺をした場合、氏名は公表される。確か、辻本清美前議員や田中真紀子前議員も秘書の給与を詐欺したとしてお辞めになったんですよね


銀行は公的存在のはずだったのでは?公的資金を返納してね!

朝日新聞2002/11/30によると
<以下引用>
自民に4400万円地銀24行が献金、昨年1年間、農水相に750万円
 地方銀行24行が昨年1年間に、自民党の少なくとも31選挙区支部と4県連に対して総額4400万円を献金していたことが分かった。このうち7行は、01年度決算で当期赤字を計上している。ただ経営環境の悪化や社会の厳しい視線を受け、今年度は縮小や中止をしたところもあるようだ。(以下略)
<引用終わり>
 ここのところ、銀行に公的資金を投入する。日銀がメガバンクの保有株を買ってやる、銀行の不良債権を減らす為、RCC以外の保有機構を作り不良債権を簿価購入する。など、銀行を国民の税金で支援してきた。その理由は公的な存在ということだったのでは。自民党に献金するということは、公的存在ではないですね。ただちに、銀行支援を止めましょう。検察庁は、一度詐欺罪で調べてください。それと、赤字行でも献金できるということは、銀行には外形標準課税の法人事業税への導入はできますよね。


貧乏人から税金をとらないで!

 日経新聞2002/11/29朝刊によると
<以下引用>
 自民党税制調査会(相沢英之会長)は二十八日、所得税のかかる最低年収である課税最低限を引き下げる方向でほぼ一致した。高齢化の進展などによる財政負担増を踏まえ、課税範囲の拡大はやむを得ないとの判断に傾いた、中小事業者の消費税納付を免除する売上高(免税点)も引き下げを主張する意見が大勢。連結納税制度を採用した企業に法人税を二%上乗せする連結付加税は継続の一方向となった。
 課税最低限は税額を計算する際に所得から差し引ける各種控除を積み上げた水準で、夫婦子二人の給与所得者の場合、現在約三百八十四万円。自民税調では主に専業主婦世帯の税負担を軽減する配偶者特別控除(最高三十八万円)の縮小や、高校生や大学生の子を持つ親の負担に配慮した特定扶養控除(一人あたり六十三万円)の縮小・廃止論が出ている。
 基礎控除(三十八万円)や給与所得控除を引き下げるべきだとの声もあり、具体策を幅広く協議する
。(以下略)
<引用終わり>
 いよいよ貧乏人が暮らせない社会が来つつある。貧乏人は、潰れてしまうだろう。金持ち減税と貧乏人の増税をセットにした税制はたちが悪い。自民党の皆さんやその支持者はいいが、この先貧乏人はどうすればいいのだろう。野党にがんばって貰うしかないが・・・。
 消費税を1%づつ上げていき将来16%にしてはと、日本経団連奥田会長や保守党野田党首がのたまっていたが、偉い人の考えは理解できませんな。高齢化社会で社会保険などのお金が要るのならどうして相続税や贈与税を減税するのだろうか。
 一方、
消費税の免税点を下げるのは賛成だ。私たちが納めた5%の税金が業者の収入となっていると思うと腹が立つ。「益税」を認めるということは、国家的な詐欺ではないだろうか。誰か詐欺罪で告訴してくれないかな。欧米はインボイス(伝票)で消費税を払っているので誤魔化せない、フェアだ。



今度は土地減税だ!(持てる者はますます豊に、持たざる者はますます貧乏に)

 日経新聞2002/11/27夕刊によると、「自民党税制調査会(相沢英之会長)は27日、税負担を軽減して個人が保有する土地の流動化を促すため、個人が五年を超えて長期保有した土地を手放す際の譲渡益課税を現行の二六%(地方税を含む)から二〇%に引き下げる方向で調整に入った。
 長期保有の土地譲渡益課税はバブル経済期の地価高騰を受け、一時は三九%まで引き上げたが、一九九九年度の改正で譲渡額にかかわりなく二六%に下げた。
 しかし、土地の流動化を進め地価下落に歯止めをかけるため、与党内から譲渡益課税の一段の引き下げを求める声が出ていることに加え、来年一月に上場株式にかかる株式譲渡益課税の税率が二六%(地方税を含む)から二〇%に下がることから、自民税調内では土地譲渡益も二〇%に下げるべきだとの意見がある。実現すれば国税・地方税で計千八百億円前後の減税となるとみられる。
 土地税制ではこのほか個人が不動産を購入して登記するた際にかかる登録免許税に関して、税率を土地、建物にかかわらず原則一律にするとともに、税負担を大幅に引き下げる案を検討する。特別土地保有税の廃止、不動産取得税や固定資産税の軽減も議論する。」
とでている。
 資産課税については、もともと不徹底であり、この上大幅な減税を実施すれば不公平税制が増すことになる。一方、政府・自民党は、増税項目として、所得税の「配偶者特別控除の廃止、特定扶養者控除の廃止など」を目論んでいるようだ。
 企業について、毎日新聞2001/11/27によると、「自民税調は、赤字企業にも税負担を求める外形標準課税の法人事業税への導入は景気情勢に配慮して事実上、先送りする方向が固まった。」としている。やっぱりね
 持てる者はますます豊に、持たざる者はますます貧乏になる社会が到来しつつある
<2002/11/27>

香典はあるのだろうか?そして、誰が貰うのだろうか

高円宮葬儀費決定
 日経新聞によると、21日に急逝した高円宮の葬儀関連費用を今年度予算の予備費から支出することが26日の閣議で決まったようだ。本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」の費用など一億二千万円。一連の儀式は宮家の行事として行われるが、「皇族の公的地位に照らし国家的弔意の対象になる」(宮内庁)ため国費で充当する。墓の建設費など約六千七百万円は来年度当初予算に盛り込まれる見通しらしい。
 葬儀費用を国に出して貰うということは、もし香典があるならば国に入るんですよね!困っている国民が多い中、高額の葬儀関連費用は困ります。宮家で出すべきでしょう。
(2002/11/26)


医師会などに高額補助神戸市は協力金だ!(なぜ医師会の人件費を税金で出すの)

 高齢者や重度障害者、乳幼児などを対象にした自治体独自の医療費助成制度に協力してもらう−近畿地方の1府3県が、そんな理由で地元の医師会など医療関連機関に多額の補助金を払い続けている。昨年度の支給額は計約11億2千万円。「制度の円滑運営」が支出の趣旨だが、受け取った医師会側は職員の給与や役員報酬、出張旅費など趣旨とは直接かかわりのないものに使っているケースもあった。和歌山県では飲食費にも使っていた。
 米田正昭・大阪府医師会事務局長の話。「助成制度を円滑に運営していくためには、老人や障害者に対する医療の研究など、幅広い事業が必要になる。人件費はこれらの事業を実施するために必要なもので、結果的に人件費の2分の1になっただけだ。」
 三木荘吉・和歌山県医師会事務局長の話。「医療を円滑に進める上で役立つ会議に使っている。会員は仕事を休んで会議に出席しており、慰労的な意味から飲食費などへの支出があってもいいと思う。」<2002/11/21、朝日新聞一部引用>
 神戸市が市医師会と市歯科医師会に、使途報告義務のない「協力金」を30年にわたって払い続けている。今年度は医師会に約1億7千万円、歯科医師会に約7千万円。これまでの総額では47億円余になる。補助金の形はとっておらず、算出方法も不明。医師会側は会館の建設費や震災で被災した会員の復興資金などにあてていた。市財務課は「極めて異例の支出」と話している。
 長谷川修・神戸市医師会会計理事の話。「<前略>震災時の被災会員への支援は、当時、インフルエンザが大流行し、医療機関をいち早く再建しなければ市民の生命にかかわる事態だった。支出は妥当だ」<2002/11/23、朝日新聞一部引用>
 インフルエンザの治療はただでしてあげたのでしょうか。やっぱり治療は有料ですよね。

 笹山和俊前神戸市長の退職金は3期合計で約1億6千万円。12政令指定都市の市長退職金のトップは神戸市だそうだ。神戸市は00度借金体質の度合いを示す起債制限比率が全国最悪の23・4%を記録した。一方、笹山市長には条例通り退職金を支給したそうだ。<2002/11/23、朝日新聞>
 給与や協力金を大盤振る舞い。お金持ちの医師会に補助金や協力金は要りませんよね

 日本医師会(業界団体)の代議員会へのグリーン車での出張旅費も税金で出る。1人2万円の飲食費も税金で出る。医師会の人件費の1/2は税金だ。医師会だけで特別扱いはいけません。労働組合や宗教団体などの人件費や出張旅費も出して下さいね。


相続税・贈与税の見直しは減税なの?

 小泉首相は、「先行減税のうち、研究開発促進税制、投資促進税制、相続税・贈与税の見直しについては次期通常国会で関連法案を成立させ、来年1月1日にさかのぼって適用することを明確にした。」と2002年11月22日の日経新聞夕刊に出ていました。たしか、相続税は貧乏人の基礎控除を引き下げ、金持ちの税をまけてあげるのではなかったのですか。日経新聞は間違っています、貧乏人には、増税ですよね
<2002/11/22>


わあ!日本は封建社会だ!(相続税・贈与税を引き下げてどうするの?)

 2002年11月19日政府税制調査会(首相の諮問機関、石弘光会長)は、03年税制改正について、小泉首相に答申した。
 「相続税の最高税率は個人所得課税(50%)と差が大きく、現行の70%から下げるのが適当だ。」と述べ、一方、「広い範囲に適切な負担を求めるため基礎控除の引き下げを図る。」としている。金持ちの税をまけてやり、貧乏人からちゃっかり取るという。政府税調というのはどんな組織だろう。きっとお金持ちばかりで構成されているのだろう。
 平等な民主社会だった日本は、これから階級社会・封建社会になっていく。あるいは、戦前の貴族社会になっていくのだろう。封建社会は、武士の子は武士、百姓の子は百姓だった。どんなに努力しても町人の子は武士になれなかった。今後は、金持ちの子は金持ち。貧乏人はどんなに優秀でも金持ちにはなれない。本当にそれでいいのですか。
<2002/11/20>


相続税引き下げに反対

 相続税の最高税率を50%程度にしようという動きがあるようだ。医師の優遇税制を持ち出すまでもなく、サラリーマン以外は所得税などで優遇されている。唯一、相続税で均衡を保ってきたのではなかったのか。
 最近、所得税の最高税率が地方税を含めて50%に下がった。「努力した人が報われる社会」という論理である。しかし、相続税の優遇は階級社会に繋がる金持ち社会の成立だ。相続税の最高税率を引き下げる理由を、欧米主要国より高いことに求めるならば、クロヨン・トゴーサンピンなど優遇税制を止め公平な税制を実現してからのたまうべきであろう。
 最近の日本は、リストラ、所得税の課税最低限の引き下げ、医療費の自己負担の増加、失業保険の自己負担分の増加など貧乏人をつぶす政策をとっている。金持ちが生き残る社会、階級社会の完成を目指すものがいるのだろう。
 私だけが相続税の最高税率の引き下げに反対なのかなと思ったら朝日新聞の「窓」というコラムに同じような考えが載っていた。
<引用開始>
 相続税の支払いで、最高税率70%を適用される人は、何人ぐらいいるのだろう。
 各種の特例や控除がからんで分かりにくいが、基本は控除後の相続財産が800万円までは10%、それを越えて1600万円までの部分は15%といった累進課税だ。
 70%になるのは20億円を超える部分で、一説によると年に10人前後らしい。
 「配偶者と子供3人の場合、全員に70%が適用される財産額は120億円」といった目安は示されており、相当に裕福な人たちしか縁がないことは確かだ。
 その最高税率を、50%程度に下げようという動きが強まっている。欧米主要国より高いことが主な理由である。
 ちょと待ってほしい。構造改革を掲げる小泉内閣は「努力した人が報われる社会」をうたう。「結果平等」社会がさらに変わっていくなら、少なくとも「機会均等」でなければ筋が通らない。(中略)
 「がんばって財産を作ったのに、税金で持っていかれてはたまらない」のなら、寄付税制を充実させて、望む団体や社会事業に資産を回しやすくすればいい。
 子孫に美田を残すばかりが能ではあるまい、といいたくなるのは、普通のサラリーマン家庭に生まれた者のひがみだろうか。
<引用終わり>
(2002/11/15朝日新聞一部引用)



住基ネットは子孫に残せるか<園田寿、関西大学教授>

 住基ネットは怖い!横浜市に転居したい。と思っていたところに、この文章。園田さんの文章を引用させていただきます。(S)

<引用開始>
システム稼働3か月
 住基ネット(住民基本台帳ネットワーク)がスタートして3ヵ月。多くの自治体が懐疑的な中、ネットそのものから離脱した東京都杉並区や福島県矢祭町、参加を住民個々人の選択制とした横浜市などが出てきた。住基ネットに強制的に組み込まれた国民とそうでない400万人強が混在するという、法が予想しなかった変則的な事態が生じている。番号通知をめぐるトラブルも多発し、個人情報保護法案のゆくえも不透明で、プライバシー侵害の恐怖が解消されないまま、前代未聞の個人情報巨大データベースシステムが動いているのだ。

「民主国家になぜ必要か」
 国民総背番号制が定着している韓国では、全国民に番号がつけられている。これは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のスパイを選別するという軍事目的が大きい。昨年、調査にでかけたのだが、日本の総務省に当たる行政自治部の幹部から「民主主義国家の日本でなぜこのような制度が必要なのか……」と、逆に聞かれる始末だった。
 そもそも、全国民に11ケタの固有番号を振り当て、氏名・生年月日・住所などの6情報をデータベース化する住基ネットは、政府が進める電子政府・電子自治体構想の基盤システムだ。電子化された行政資料をネットワークで共有し、官民の接点をオンライン化し、申請事務も行う。社会全体が情報化に向かうなかで、この流れは必然だ。
 ところが、ネットでは印鑑や筆跡での本人確認ができないから、確認のシステムが不可欠で、住基ネットは、そのようなものとして機能する。しかし、使用の度に番号が変わる暗号化やデジタル署名など、プライバシーに配慮したシステムも当然,考えられたはずだ。
 この制度を導入した改正住基法は、3年前の国会で、通信傍受法、国旗国歌法、日米防衛協力カイドライン関連法、省庁改革・地方分権法などの重要法案の陰に隠れ、国民的な議論がほとんどないままに成立してしまった。このような制度を本当に将来の日本に残してもよいものなのか。来年夏の本格稼働までに考え直す時間はまだある。

情報のデータベース化拡大
 確かに、行政がサービスを公平かつ効率的に行うには、個人情報を適切に収集・管理し、それに基づいて政策を立案、実施する必要がある。しかし、そのために全国民に共通番号を振る必要性はない。行政がすでに持っている運転免許証や社会保険などの番号を、安全に、結合することなく、目的に応じて活用すればよいからだ。
 来年夏には、住基ICカードの配布もされる予定だが、その利用を推進させるためデータベース化される個人情報は確実に拡大される。納税者番号への拡大や病歴を含めた健康情報のデータベース化の計画など、その兆しはすでにある。
 多くの個人情報が集められたとき、11ケタの固有番号は個人を検索するマスターキーとなる。デジタル情報は劣化しないから、良い情報も悪い情報も永久に記録され、個人の経験は他者によって無限に反復される。
 個人情報流出の危険性も飛躍的に高まった。ネット内の情報は、「浸入」と「漏洩」によって侵害される。「侵入」は技術の問題だから、不断にセキュリティーを高めることが基本対策だ。でも絶対に安全だと言い切れる人はいない。
 「漏洩」は、内部犯行で、人の問題だから、情報倫理や法的規制などの問題となる。住基法は、漏洩に対して「二年以下の懲役または百万円以下の罰金」という刑罰を予定しているが、抑制効果を過信するのは危険だ。自治体の住民票データが流出し、職員によって悪用される事件も珍しくない。巨大個人情報データベースが形成されてしまった今、個人情報大量流出の危険性は考えただけでも鳥肌が立つ。

ぬぐえぬ国民選別への恐れ
 住其ネットによって、行政は保有情報量の点で肥大化し、立法や司法は原則的にそれにアクセスできないから、権力分立のバうシスも危うくなる。政府は、60年代から行政のスリム化・効率的な行政の実現を目指してきたが、国民を共通番号で管理する電子政府は、「小さな政府」どころか、国民を支配できる強大な力をもつ。民主主義や国家の機能、権力構造に根本的な変化が生まれるだろう。
 国民の個人情報を掌握した為政者は、住基ネットを必ず国民の選別に使うにちがいない。ナチスが、当時では先進的なパンチカードによる人口統計・登録システムをユダヤ人の選別に使った語が知られている。
 住基ネットは、50年、100年後の「日本のかたち」を根本的に変えてしまう。これを将来に残すわれわれは、子孫から恨まれることはあっても感謝されることはないだろう。共通番号制を直ちに廃止するか、せめて横浜市のように、個人の希望選択制に変更すべきではないか。
<引用終わり>
<朝日新聞2002/11/5>


外務省を解体しよう!

外務省解体大賛成
 機密費の使い込み、口利きによる収賄など、外務省のみならず、自分よがりの私腹を肥やすことで、国会議員も責務をすっかり忘れている。それに加え毎月のように衛星放送で報じられる日本企業の不正、隠匿、ぱれなけれぱ良い、臭い物には蓋をして封じ込める。いったいどうなっているのか。日本人は正直で勤勉で世界的に信頼されている国民ではなかったのか。
 日本を離れ二十年。日本の島国根性が嫌いで外国に出て、外からの日本の良さも随分見直した。ところが今はどうだろう。日本人であるという事すら恥ずかしい思いだ。外国に住むと多かれ少なかれ政府機関外務省と関わりを持つ。私の住む土地の前任者の総領事は、ほとんど毎週有名人や友人など自分の好みで招待して国費を私物化していたと聞く。
 得意気にローカル紙に自分の自慢話を長々と綴ったり、帰任前には自分の功績を称えろとばかりにローカル紙見開きニページに書かれた文面は、うんざりするもので、そこには自慢はあっても国家公務員としての当然の責務を果たしたという謙虚さは微塵も感じられない。また、外交旅券を乱用して不正な運搬をしたり、不祥事に反省の色はない。さらに年一回の日本フェスティバルにキャッチフレーズりのお揃いジャンパーを作って無駄金使い。
 日本の政治の鍵を握る議員たちの意識向上がない限り、被選挙権のない在外選挙への期待も無に終わろう。テロ以来、総領事館も緊急体制を取っているように見せかけ、連絡網を作ったり予行演習もしてみたがそれっきり。二十四時間つながるはずの携帯電話もすぐにつながった試しが無い。本当に国民の為に働いているのか、不信感は募るばかりだ。
(オーストラリア在住匿名希望52)
<噂の真相11月号>

初公開!これが傲慢外交官たちの[バカ高給料]手当全リストだ
 SAPIO11/13号では、「初公開!これが傲慢外交官たちの『バカ高給料』手当全リストだ」という特集があった。これによると、大使級で基本給の他70万ぐらい在勤基本手当がある。大使は公邸及びメイドなどが付き生活費がほとんどかからない。大使以外は「住居手当」がこれまた在勤基本手当ぐらい出るので結局給料の3倍ぐらいの収入となる。
 田中アジア太平洋局長はサンフランシスコ総領事となった翌年目黒区に豪邸を新築した。「『大使を3年やれば家が建つ』というのは本当だった。これでは拉致家族の心情など理解できるはずがない。」
 この他に機密費のキックバックもあるようだ。まさに至れり尽くせりだ。
<SAPIO11/13号>

外務省裏金、公表の倍、3億4000万円、会計検査院の検査で判明
 外務省がホテル代を水増しするなどしてプールしていた裏金の総額は約三億四千万円と、これまでの同省の公表額の二倍以上になることが六日までの会計検査院の検査で分かった。同省は昨年十一月、職員の懇親会費などに使った裏金の総額は,昨年までの約七年間で約一億六千万円だったと公表していた。
 検査院が改めて帳簿類を調べた結果判明したもので、部署や日付がはっきりしない六千万円を除く二億八千万円について、近く同省に返還を求める方針。外務省によると、公表済みの約一億六千万円については、今年三月に既に返還している。
 外務省の裏金問題をめぐっては、課長補佐二人が詐欺罪に問われ有罪判決を受けたほか、総領事館の領事二人が懲戒免職、野上義二前事務次官ら三百二十八人の職員が処分された。
 外務省総務課の話 検査院から正式な検査報告を受けていないので、現時点ではコメントを差し控える。
<日経新聞2002/11/5>

ODA
 日本のODAは、ここ10年間世界の国のなかでトップだ。DAC(先進国)主要国の表を見て分かるとおりダントツだ。このお金を、給料を減らされ、リストラにあい路頭に迷っているサラリーマンの諸兄にどうして使えないのだろうか。また、外務省の利権にまわっていると思うと許せない。下図は、1995年の数値である。



 日本の外交はアメリカの後をついていけばいいのだし、ODAの利権や外交官の優遇など百害あって一理なし。外務省を解体すれば、税金の無駄がなくなるし、国家(国民全体)の利益になるのは明らかだ。
 また、これだけ高給をもらいながら、まだ裏金を作っていたとは驚きだ。さらに、外務省の総務課のコメントが権力的で生意気だ。
ODAは半分以下に減らすべきだ。

(S)
(2002/11/3)


「市民として社会をどうみるか」ー社会の貧困、市民の成熟ー


 以下は、2000年9月30日、神戸、六甲学生青年センターで行われた野田正彰氏(京都女子大教授)の講演会の一部をまとめたものです。
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<脳の障害と精神の間>
 私は、ちょっと変わった仕事、英語圏で言うとトランスカルチャーサイエンスという仕事をしています。私がこの仕事をするようになったいきさつというのをお話したいと思います。
 私は、60年安保の後から、医学連の再編ということをしておりました。青年医師連合を作って安田講堂の第1次封鎖をしたりして中央執行委員をしていた。私たちは医学部における改革が、挫折していく中で各科に散ってもしょうがないから固めていこうということで、3つぐらいの科を選びました。私のように、精神科の患者さんが非常に悲惨な状況にあるのでこれを少しでも変えようということで、どちらかというと人間の精神そのものに関心があるというより、精神科の医療そのものを変えたいという思いでいったグループですね。内科系では、小児科に多くの友人たちがいきました。未熟児網膜症をやったグループはかつての青医連のグループです。外科では、整形外科で、大腿四頭筋の問題をやったのは青医連のグループでした。まあ、精神科医療の中で、変わった動機で精神科医になった特殊な世代だろうと思います。
 その後、「人の精神について勉強して」という人たちが精神科にいったわけです。人間関係がとれない人が勉強して精神科医になろうとするわけです。患者さんとまず接触し始める、うまくいかないわけです。うまくいかなくなるとだいたい一年ぐらいですけれど、何考えるかというと、結局人の考えることなんて脳の変化だろうと、脳の障害説に立って、脳の生理学的研究とかしたら人間のことなんか全部分かるんだという、福島さんのような精神科医がいるわけです。彼は盛んに犯罪を犯した子供は、脳に障害があるんだときつく言い出しています。
 ちょっとだけ反論しておきますと、国立コンクリート殺人事件、91年か2年に高校生を拉致して1か月以上4人の少年が強姦していたぶって衰弱していくのを楽しんで最終的には汚くなったと殺してコンクリートに詰めた事件がありました。非常に残酷な事件であります。私は、神戸の首を切った事件よりも実際の人間性の歪みはもっとひどい感じがします。あの事件なんか福島さんの精神鑑定書は、やはりマイクロブレインダメージシンドロームがあるんだという風なことが書いてある。マスコミもそれを公表します。
 マイクロブレインダメージシンドロームは、英語で微少の障害症候群です。これは、出産時とかそういうときに、大脳に目に見えない微細な傷が付いて、そのために社会適応ができない状態になるという仮説で、この仮説は、60年代に出されますけどすぐ否定されました。そういうものの考え方はおかしいと学会で否定されたんですけれども、福島さんは死語になっている言葉をまた言っているわけです。脳波に異常があったとか、CT・MRIとか萎縮度がでたとかそういうことを根拠にして、凶悪事件を犯す少年はこうこうだとか鑑定資料に書いてます。とんでもないことですね。 人間の脳の検査技術が発達していますけれども、ちょっとした異常と症状との間に橋を架けるのは非常に遠いことであります。私たちの頭を血管造影して撮影しますとだいたい20%位の人が異常が見つかります。お年寄りことにお酒好きの人を撮影しますと、前頭葉がみごとに萎縮しています。ビジネスをやったり意思決定をやっており、この人の前頭葉は萎縮しているからだめだとか責任能力がないとか社会は言いません。 脳の血管の奇形なんかいっぱいあります。脳ドックにいって、撮影して脳動脈の奇形があるとか、脳動脈が破裂したら死んでしまいますよとだまされて、手術して脳動脈の破裂と手術の成功率が大体同じくらいだと言われております。元気な人が「手術室に行って来るよ」で、病気じゃないですから家族もにこにこしているわけです。1時間たっても帰ってこない、2時間3時間たってストレッチャーで運ばれ、最悪の場合は亡くなっていたり、血管が破れて半身不随になってしまいます。
 撮影して脳に障害があるからということと人間の精神の間に橋を架けることは非常に遠いです。

<新しい文化と精神的葛藤>
 そういう中で、私は、総合病院の赤十字で非常に大きな精神科の仕事が主でした。滋賀県で、120床のベットをもって仕事をしておりました。6・7年たって、若気の傲慢さもありますが、だいたい人間のタイプは頭の中に入っていますし、人間の苦しみの整理は一応できていますから、まあ、人の苦しみもそんなに個別性がないんだなということになります。
 そんな時に私はこんなことを考えました。私たちは、個々の喜びとかは、その文化の中で達成されていく。自分だけがこんなに苦しんでいるとか、自分は生きていけないといっている。人間の悲しみも苦しみも文化が一つの型を呈示しているのかな。もし違う文化の中ならこの人はこんな風に死にたいとか思わなく済むのになと思います。文化は喜びにしても悲しみにしても苦悩にしても一つの型を小さいときから呈示して(私たちは大概忘れていますが)、その型に基づいて悩み苦しんでいると思いました。私の仕事は、ここから大きな文化の変容の中にある人たちが、旧来の文化と新しい文化の接触でどんな風に精神的葛藤を持つかと言う研究を始めたわけです。
 方法論的には、年齢や性の差の中で新しい文化の変容にどう対応するかという研究を始めていったわけです。ニューギニアで最初の仕事をしました。ニューギニアの高地の人たちは、1930年代に現代文明と接触しました。もっとも遅い文明との接触で、新石器時代を生きて農耕社会ですがそういう人たちがヨーロッパ文明、キリスト教文明と物質文明と接触して、どのような精神的葛藤を持つかという研究を始めた。それから、ずっといくつかの地域で文化の変容の中での人間の生き方の研究、とりわけソ連、ロシアの社会に関心がありましたけれども、ペレストロイカでちょっと入れるようになってから、ロシアへよく行きました。大きな社会変動の中で、いろいろな民族いろいろな年齢の人達が変化の中でどう生きているかということをしてきたわけです。

<戦争を支えた文化>
 情報社会に転換した80年代以降の日本の社会がどう見えるかということをお話ししたいと思います。
 まず、一方で、信じ切っているわけですけれども、戦前の社会は敗戦という状況で戦後民主主義の中で大きく変わったということになっている。それは、政治体制が変わっただけでなく社会全体、人間の生活全体が変わったということに私たちが思うことになっています。しかし、一つの社会がそう簡単に変わるものではありません。変わるためには一生懸命努力をしないといけないわけですけれども。私たちの社会は変わるための努力をあまりしてこなかったわけです。これは、外から敗戦という状況の中でしぶしぶ変えさせられたわけですから、本心は変わりたくはなかったわけです。敗戦を遅らせて、国体という天皇制を維持しようとしてきた社会であります。進駐軍が入ってきてもいろいろな形で抵抗したことが様々な記録で残っております。 私が、「戦争と罪責」(岩波書店)で書いたことも、私たちの社会に戦争がどういう意味をもっているかを定義するといった研究でした。戦争ということを勝ったか負けた式にいうと、敗戦でそれはおしまいと言うことですけれども、戦争を支えた文化は、連綿と続いていると思います。私たちが社会的にどんなに歪んでいたかを自覚しないまま来ている、
 1949年に、文部省が直接作った民主主義の教科書がでている。大変立派な教科書で、小径書房から復刻版が出ている。「民主主義は制度ではない、私たちが日々人間関係、社会関係の中で政治のシステムを作っていくのが民主主義なんだ」と格調の高い文章だが、戦争について何の記述もありません。「ベルリンの塹壕中でヒトラーを殺せという叫び声があった。しかし、民主主義は、暗がりから独裁者を殺せと叫ぶというのでは民主主義は来ませんよ」ということが書いてある。戦争について全く人ごとで、日本の社会は何をしてきたのか、中国やアジアで何をしてきたのか、書いた人は知らなかったかもしれない。
 「日本は資源を失った。多い人口×勉強・勤勉=繁栄」と書いてある。「今や資源は人間しかいない」とあり、これは戦後の社会を呈示した文章になっている。私たちの社会が歪んで、人間性を抑圧して傷つくことすらも許さない社会であったかを見直す視点はゼロであった。

<社会を評価する軸>
 ここで社会を見る4つの軸を提示したい。
 経済の軸、政治の軸、文化・芸術の軸、人間関係の軸の4つ。この軸でこの社会がどのような形で発展していくかを判断する。
 経済の軸。失業率が少なくて、多くの人が生産に携わることができて、自分なりに価値観を持った消費ができる社会。経済だけを活性化させれば社会矛盾をいっぱい起こしてもいいということが排除されている社会をいかに作っていくか。現在は、外部不経済、お金は動くけれども結果として社会が疲弊していく経済になっていく。神戸沖空港も全くその発想だろう。私たちの生活の質が低下しようとも経済が動くことが善なんだという考え方が強い。
 政治の軸。自分たちの生活に影響する政治に対し、参加の距離が近い社会を作っているかどうか。権力は、肥大化しないように分立した権力構造を作っているかが問われる。この基準から見ても我々の社会がいかに怠惰であったかといえる。ここの私たちと国政レベルの外交などの意思決定など非常に遠い、自分の意志がほとんど反映しない。こういった国はほとんど世界から見たら例外ですけれども、当たり前のことと思っている。全てが間接化されている。
 一方では、日本の文化は、制度が硬直していく。制度の奴隷となる。選挙の後援会のシステムの中でがんじがらめになって動かなくなっていく。外から敗戦とか力がかからない限り制度そのものを変えていく力が弱い。法のレベルでもこれでも法治国家かと思うくらい法解釈が恣意的におこなわれている。
 文化・芸術の軸。人類が作ってきた文化とか芸術を日常生活の中で享楽している。バブルの時、「大阪府とあろうものが府立の美術館がないのは恥ずかしい」とその程度の発想でした。芸術の判断力のない経営者が200年前の印象派の絵を高く買い会長室に飾る、それくらい愚かとしか言いようがない。むしろ江戸時代の日本人の方が大津絵や浮世絵を買って家に貼るという芸術を享楽する生活のレベルに近かったかもしれません。
 対人関係の軸では、私たちは、夫婦恋人親子で一緒に生きることを楽しめるような人生を築いてこなかった。日本の近代の嘘として、日本人は見合い婚をしてきたという嘘話を信じ込まされている。日本人は決して見合い婚なんかしてきたわけではありません。普通の社会ですから恋愛婚をしてきたのです。
 明治の初期になって薩長の下級武士、武士階級は少数の収奪階級ですから、盛んに日本文化は武士道とかなんとかいいますが、圧倒的多数は農民であり職人商人であったわけであります。そういった人たちは、近隣の農村では、秋祭りを通したりして、近くの若者同士が好きになって、それを親が追認していく、もし追認しなかったら実力行使におよばれるという関係であったのは、どこの社会でもあまり変わっていない。しかし、薩長の支配階級は自分の家を維持しなければならない。家は少数しかありません。農民を収奪して米をもらっているから数を増やすわけにいきません。限定された階級であります。そのために、彼らは見合い婚をしていたわけでして、それが近代になって、結婚とか子供を作るとかは、国家のために作れと言うことになっていきます。富国強兵ですね。国家のために子供を作るんだというイデオロギーを下ろしていく。その中で見合い婚が奨励されていく。
 日本の近代の中で「日本人とは」とか言われますが、ほとんど嘘話が多いですね。例えば、神前の結婚式。あれは、昔からあったもの、日本の伝統だということを信じている。実際は明治初期に、日本の支配階級、貴族といった制度を作った人が、アメリカに行ってキリスト教の結婚式をかっこいいなと思って帰ってきて作ったのが、神前結婚式です。当時の最初の結婚式の記録を読むと、祭壇の前に午後2時から5時頃まで、新郎新婦がいるからおいで下さい。そのくらいだったのが、三三九度でもどんどん形式が整ってくる。旧来の日本的な式の形も残しているが、多くはキリスト教のまねごとで作られている。
 結婚も見合い婚という形で奨励されていく。戦争に入っていって、最終的には写真一つで、写真も見ないで結婚する。子供を作るためのビジネスになっていったからそうなったのです。
 戦後は見合い婚に対する反動として恋愛が盛んに言われました。しかし、農村から高度成長期に臨海工業地帯に出ていった若者たちが恋人の一人もできないと、「かいしょがない」と思いこんで恋愛したつもりですけど、5メートル婚という言葉があるように、ちょっと傍らにいた人がきれいに見えたとか、かっこよくみえたとか好きだということで一緒になる。そこには、子供の時から違う異性とのつきあいを通しながら、ものの考え方を一緒に楽しみその中で、何度か恋愛をしていく。人間らしい近代的な恋愛の文化を形成してきたわけではありません。
 こうして恋愛は4割ぐらいに増えていく。見合い婚はかっこ悪いから私は見合い恋愛よ、そういう形で家庭を作り、お母さんは、子供が産まれると夫との関係はもともとたいしてありませんから、育児に専念してお父さんのようになるなと思ってか、お父さんのようになれと思ってか、とにかく子供の尻をたたいて学校教育に専念していく。ここには、4番目の軸として人間関係を豊にしていくという軸で見ると、私たちはほとんど怠惰であったと思います。育児ビジネスと経済単位の家庭を維持することにきゅうきゅうとして現在に生きている。
      
<生活の歴史としての感情>
 子どもたちの犯罪やその他を通して、彼らもまた私たちの作った社会の中で感情が希薄であります。自分の感情を伝えることがほとんどできない。あるいは、自分の感情を感じ取る、認知する力がないといえると私は思います。感情というのは、多くは日本語の場合否定的に使われる言葉です。あの人は感情的な人だ、感情的になってはいけない。しかし、私が使っているのは、非常に肯定的に使っています。
 感情と良く混同される言葉に、感覚・気分・情動という言葉がある。その瞬間における生理的な快不快の感情を、感覚といいます。英語で、感覚は、フィーリィング、気分は、ムードで、感覚が持続したものが気分です。朝の気分だとか湯上がりの気分。持続したのが気分。情動、英語でエモーション、激しい感情の変化が生理学的に表現されたもの。怒りがこみ上げてくると身体がぶるぶる震えて喉が渇いてかっとなってくる。これが情動であります。あるいは突然、家族の死を知って喉がからからになって、体が重くなって精神の力が抜けた。これもエモーションであります。
 感情というのはそれらを総称する言葉でもありますが、私は、感情は生活の歴史をもって一つずつ豊かにしていくものだと思います。感情というのは、今感じていることを自分の過去の感情の歴史の中で位置づけなおして、そして自分の過去の感情から今感じているものをきちっと同定して感じ取り、できれば言葉に表すことができるのが感情であります
 例えば、悲しみの体験一つとってみても、その人がこれまでの生活の中で成長の過程で、十分悲しみを悲しみ得たかという体験の歴史がなければ本当に深い悲しみにはなりませんし、喜びもそうです。そういう意味では、現代の子どもたちは自分の感情をきちっと感じ取って人に伝えるということをほとんどしてきていません。多くの子供と深く話ができると、「何か気持ちを伝えるとそのことは何時か自分に対する攻撃の材料になる、自分がこう感じると言うことを人に知られると弱みになる」と言います。そうして、自分の感情を人に伝えないまま育って、自分の感情そのものを分化して豊かになるということができないわけです。
 だから、現在の子どもたちは感情表現することが非常に貧しい。いいことはだいたい全部「かわいい」でなりたつようですね。おじいちゃんもかわいいし、ぬいぐるみもかわいいし、髪型が良くてもかわいい、すべてかわいいでだいたい表現できる。「頭に来る」「むかつく」「傷つく」そして最後には「きれる」それぐらいでほとんど表現できてしまう。感情を同定することは貧しくなってきている。

<失業率と自殺者数>
 今言った4つの軸から見て、私たちの社会が世界の文明に対してどのように寄与できる社会を作ってきたのか。極端な社会をつくってきて、経済成長だけで突き進んで総合的な社会を作らなかった。そういったことが現代のこわばった社会の背景にあると思います。 私たちの社会は60年代から70年代の高度成長の時に非常に多くの心身症者を出しました。心身症者、胃潰瘍と十二指腸潰瘍ですね。戦時中の兵士に現れた戦時栄養失調症と同じで、消化器系統に現れた。自分の葛藤の表現であります。
 オイルショックの後86年の円高と合理化不況の時もそうでした。確実に、循環器系の障害ですね、心筋梗塞の死亡者、脳血管系の出血死亡者とか非常に中年の男性で増えてます。自分の苦しさを表現、感情を築いてそれを言語的に表現することがない私たちの文化の現れであります。過労死という形で表現されましたし、現代は、過労自殺といわれます。抑圧される労働者の側だけでなく経営者も結構たくさん死んでいる。彼らも同じ文化に生きている。自分の人間として耐え難い状況をきちっと感情として認める力がありません。それが、疲弊しきったという形で突然死を選ぶ、そういうことが横行している。
 98年は日本の自殺率は、突然なんと35%増でありました。日本は戦前から自殺がトップクラスに多い国でした。しかし、戦後しだいしだいに減っていきます。10万人あたり、22〜3人まできましたが、急速に60年代になって落ちまして、10万あたり17人までおちていきます。80年ぐらいに大蔵省がぐるになってサラ金地獄を作りました。サラ金での自殺者はものすごく増え、急にピーと上がります。それが3〜4年続いて、少し下がって、しかし、不況の中で徐々に増加の傾向で何と98年には一気に35%増と世界の自殺統計上一度もなかった増加を現しています。現在年間の自殺者は3万2千人を越えました。去年ももっと増えています。それと、35%といいますけれども、それは、全国平均でして、都市部では東京の場合50%増です。死因40代の男性の死亡ではトップです。そんな状況です。私たちの社会がいかに歪んでいるか。私は、新聞で書きましたけれど、「失業率と並べて毎月の自殺者数を出せ」。
 森内閣になって、例年自殺統計を6月には出していた。今年は8月末まで遅らせた。何でそんなに遅らすのかと思っていたら案の定増えています。こういった社会であります。常に、自分の感情とか人間関係を豊かにするということを抑圧して、目的のために生きろ、国家主義的な方向に駆り立てます。

<社会に生まれてきた人の可能性> 
 私たちは、北欧の社会、スウェーデンとかデンマークなどを、たんに福祉国家として紹介されている。例えば、私の感心するアイスランドという国があります。28万から30万ぐらいしか人口がありません。北海道ぐらいの島で、メキシコ暖流が流れていて比較的暖かいんですけど北極圏にあります。そこでは、総合大学もありますし、多くの芸術家もいますし、作家も沢山います。蔵書率も各家庭では国連統計では世界一であります。翻訳も沢山されていますし、新聞も3紙か4紙出てます。10万人近くは、レイキャビックに住んでいますが、第2の都市アンクレーという町が1万5千ぐらい、そこに行くとプロの劇団があります。
 アイスランドと言わなくても北欧の社会を見ていると、福祉国家というレベルだけでものを見るべきでない。あそこの社会教育を発展させてきた社会観は、人間が一生同じことをしたらハッピーだなんていうことを乗り越えてきている。一人の人が一生の中で自分の可能性をいくつか咲かせることができたらそれがハッピーだ。社会というのは、そういった個々の人間の可能性をいろいろな形で引き出すようなサービスを作るのが社会という風に変わってきている。そういった意味では、あそこのいろいろな社会を見ていると国会議員をやっていた人が40過ぎで辞めて陶芸家になって、そのためのサービスをちゃんと作る。学校教育のレベルでも均一の教育をするのではなくて、このことに関心があればそのことをやる。また、その学年で一般におこなわれていることに関心を取り戻したら何時でもその教育を受けられるサービスが作られてきた。
 ここでは、国家とかその社会の役割は、この社会に生まれた人の可能性をできるだけ引き出すことができるそういうサービスを作っていくことにある。
 私たちの社会は相変わらず国家主義です。国家が上です。国家のためにいかにして人が貢献するか、有効に生きるかという発想がいつも横行しています。そのためには、情報社会の中で日本は、アメリカに負けないという発想があります。そうではなくて、情報社会を私たちは作れるのだから、どういう情報社会が人間にとって幸せな社会なのかを議論していく視点が必要です。もしそうなれば私たちは地域に住んでいる人たちに対し新しい情報社会のイメージをディスカッションしていくことができますが、私たちは相変わらず産業の視点だけです。負けないためにはどうするかという発想が横行しているわけです。まず国家ありきです。 教育も豊かになったはといえ、相変わらずいかにして教育資源を有効に活用して有意な人間を作るかという発想から基本的に変わっていない。この世に生まれてきた人たちができるだけ自分の可能性を開いていく、そういうサービスを作っていくのが社会であり、市民というのは、自分の可能性をいろんな形で開かせてくれた社会に対しどういう貢献ができるかと思う関係が大切だろうと思いますけども、そういう意味での市民というのが私たちの社会では成り立たない状況に来ていると思います。
 私たちは、そういう社会をどう変えていくのかということに直面しながらいるんだろうと思います。私の仕事もそうですけど、「何時も自分の社会を見る目がまだシャープでないから世の中が変わらないんだろうと思っています」。それから、いろんな問題に気づいたら、私たちは、人生の中でそれに取り組むチャンスを持っているわけですから、そういう意味で生きていることは必ず面白いことだと思います。私たちは、いろいろ矛盾のある社会に生きていることの面白さというものがあると思うんで、それに一つずつ参加していくと言うことが大事じゃないかと思います。

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 私がもっとも感銘を受けたのは、「感情」を生活の中で同定し人間性を豊にするということと、北欧社会は福祉国家と考えられているが、「一生の中で自分のいくつかの可能性を咲かせる」社会という点だった。
 社会は、その人の可能性を実現させるサービスを提供する。その人は、そのようなサービスを提供してくれた社会にお返しをする。このような社会は、どこかの国のように「奉仕活動の義務化」のやらしさがない。
 お薦めの本−「戦争と罪責」(岩波書店)野田正彰







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