イラク遺跡 激戦地に貴重な文化遺産
上原 和(成城大学名誉教授、古代美術史)
イラクに対する米英軍の侵攻が続いている。私は、82年と90年にこの国の古代遺跡を訪ねた際に使った中東の地図を朝晩広げ、息の詰まる思いで、南北の戦線、わけても世界最古の文字文化を生んだメソポタミア文明の発祥の地であり、激戦が繰り広げられている南部の地名を追っている。
テレピに映し出される紅蓮の炎は夜空を染め、爆発音とともに閃光が走る。脳裏を45年3月10日の東京大空襲の際の夜空の光景がよぎる。私は、学徒出陣で入隊していた茨城県の土浦海軍航空隊の防空壕から、真っ赤に染まった東京の空を遠望した。広島、長崎に原爆が落とされたのはその5ヵ月後だつた。無辜の非戦闘員の人命とともに、数々の貴重な文化遺産が灰燼に帰したのである。そしてまた、遠く離れた地で同じ悲劇が繰り返されている。
クウェートに待機していた米英の地上軍が国境を越え、イうク第2の都市バスラを包囲した。戦車を連ねて西方に進撃した。ユーフうテス川沿いの要衝ナーシリヤで激戦となり、砂嵐で膠着状態が続いた−−。この間、日々報じられる戦況を絶望的な思いで見守っきた。というのも、この一帯こそ、紀元前3千年近くにまでさかのぽるシュメール王朝の諸遺跡が点在している地にほかならないからである。
南岸にあるかつての海港都市ウルもそのひとつだ。91年の湾岸戦争の際に被弾したとはいえ、3層の壮大なジツグラト(聖塔)をはじめ、王宮や王墓の遺跡がなお残されている。川を渡った北岸には、古代オリエント最古にして最大の叙事詩『キルガメシュ』の舞台となった、ウルクの都城跡の墳丘も見られる。
この川の南岸を迂回して北上した米英地上軍が、中部のカルバラを占拠したとの知らせも届いた。カルバラの手前、ユーフラテス川の東には、栄華を誇ったバピロンの遺跡がある。
90年の再訪時には、修復された遺跡の一隅にフセイン大統領の宮殿が建っていた。大統領自身が標的の戦争だと聞くと、一帯がどうなっているのか案じられてならない。イラク国内にある遺跡の数は優にー万を超えるとのことだが、その安否については、米英、イラクどちら側の情報もない。
イラクでは、北部にある隊商都市ハトラ遺跡だけがクレコ・口ーマン風の石造神殿の遺構を持っているという理由で、唯一、世界遺産に登録されている。しかし、南部の遺跡も、クルド人の多く住む北部のアツシリアの諸遺跡も、超一流の世界遺産ではないのか。土に返る煉瓦積みの遺跡こそ、母なるチグリス、ユーフラテスのたまものといえよう。
首都バグダッドのイラク博物館が損傷をうけない保証もどこにもない。開戦前に伝え聞いたところでは、館内の遺物の疎開が始まったとのことだが、湾岸戦争時には4千点もの遺物がそのまま流出してしまったという話もある。
私の目には、イラク博物館で見たメソポタミア文明の数々の遺物、わけてもシュメール王朝のコーナーに展示されていたウル出土のシュブ・アド王妃の金色の葉形をめぐらせた髪飾り(ダイアデム)など、感性にあふれた宝飾品がありありと浮かび上がってくる。
そのウルで私は、旧約聖書に書かれた「ノアの方舟」の大洪水が実際にあったことを示す地層も見た。イスラエルの民の祖アブラハムはウルの出身である。クルナが舞台とされる「エデンの園」の伝承といい、バビロンの「バベルの塔」といい、イラクこそ旧約聖書の原郷であることを、米英のキリスト教徒は知っているのであろうか。
(2003/4/5)
自衛隊は何を考えているのか!
宮崎日日新聞ニュースによると、
<引用開始>
防衛庁は17日、ボール状の子爆弾が広範囲に飛散する「クラスター爆弾」について、1987年度から16年間かけて数千発、計148億円分を購入し、航空自衛隊の各基地に配備したことを明らかにした。
また陸上自衛隊が同じような子爆弾を収納するミサイルなどを保有していることも分かった。
クラスター爆弾は米軍がイラク戦争で使用。不発弾が民間人を殺傷するとされ、赤十字国際委員会が、非人道的兵器として規制を求めている。防衛庁幹部は「あくまで専守防衛のための兵器。海外のケースと違い、不発弾が民間人を傷つけることは考えにくい」としている。
防衛庁によると、クラスター爆弾は米国で開発され、現在50数カ国が保有。防衛庁が購入したのは、日本でライセンス生産された「CBU87」と呼ばれるタイプで、戦闘機へ搭載する。上陸した敵部隊への攻撃に効果があるとして導入を決めた。(2003/4/17)
<引用終わり>
ラオスの二の舞だ<米英軍さん、クラスター爆弾を使わないで>
S
<米海軍は25日、イラク空爆のためペルシャ湾に展開中の空母キティホークの艦載機が同日、対戦車用の「クラスター爆弾」を使用したことを明らかにした(朝日新聞2003/03/26)>。同爆弾は非人道的兵器として対人地雷同様、規制を求める動きがある。
ベトナム戦争当時、北爆に向かった米軍機が対空砲火を受け、ラオス方面に回避した。米軍機は、積んでいた爆弾を中立国のラオスに投下して帰った。クラスター爆弾が、大量に投下されたラオスでは、現在でも子どもたちが被害に遭っている。
<このクラスター爆弾は重さ約550ポンド(250キロ)、長さ約2メートル。投下後、空中で上下にふたが開き、中から長さ20センチほどの小型爆弾約250個が広範囲に飛び出る仕組み>。不発弾が多く、この小型爆弾は、野球ボールに似ており、子どもが地面に投げつけて遊んだり、キャッチボールをしたりしているうちに爆発する。野球ボールのなかにはボールベアリングが入っており爆発すると四方に飛び散る。そのベアリングが人間を傷つける。コソボ紛争でも兵士を殺傷するためでなく、NATO軍兵士を安全に逃がすために使われた。
もう一つは、今回のイラク戦争でも艦載機が積んでいる爆弾を行きがけの駄賃で目標以外の場所に落としてくるのではないかが心配だ、
「WORLD PEACE NOW 3・8」、4万人参加
S
イラク攻撃に反対する集会とデモ行進が東京で行われた。「WORLD PEACE NOW 3・8」は、全国32の都道府県で行われ、東京の集会は、47の市民団体が呼びかけた集会だ。
3月8日、14:00過ぎに日比谷野外大音楽堂に行くと、人数が多すぎて音楽堂は入場制限していて、回りを群衆が取り巻いていた。
14:00からピースラリーが行われていて、「喜納昌吉」さんのトークと演奏、「ザ・ニュースペーパー」が小泉首相に扮しての漫談、「イーデス・ハンソン」さん(アムネスティ)・「吉岡忍」さん(ノンフィクションライター)のトーク、イラクの報告を「チョウ・ミス」さん(ピースボート)、「小林一朗」さん(サイエンスライター)が行い、「辛淑玉」さん(人材育成コンサルタント)、「オーストリアからの留学生」が次々にトークをおこないました。その後、各人がイラク攻撃反対の要請を首相に行うという行動が提起されました。その後、「パンタ with SKI(制服向上委員会)」&エイプの音楽演奏があり、いよいよパレードだ。
15:30からパレード出発だったが、人数が多すぎて日比谷野音からなかなか出れなかった。野音の中に入ってなかったグループも出口に出てきたため出口が大混雑していた。しかし、バンドとかエイサーのグループとか鳴り物や見せ物があったので混雑していたが混乱はなかった。主催者が工夫していた。さまざまな年齢、グループがいました。楽団が演奏しながら歩いていたりレースクイーンの服装?で「NO WAR」の横断幕を持っていたり雑多だった。
銀座界隈ではパレードしている人とパレードを終わって戻ってくる通行人が入り交じって、歩道でもデモしているような状態だった。私は、グリーンピースの新聞広告を着色したプラカードを持っていったのだが、同じものを持っている人が多かった。今までの集会やデモと違って家族連れや学生など多彩な顔ぶれが集った。イラク攻撃反対の声が、市民の中に広がり、何とかしなければという動きにつながってきたのだろう。4万人のパレードで盛り上った、長い半日だった。
イラン攻撃反対のデモは、若い人が多いのが特徴だ。
日比谷野外大音楽堂
寒くないの?お疲れさま。
兵器廃棄させ、なお攻撃とは、まるでワナだ
ベルギーのミシェル外相が、4日付の仏リベラシオン紙のインタビューに応じて「イラクに兵器の廃棄を要求して、なおかつ攻撃をしかけるのは、わなにかけるようなものではないか」、「イラクには『査察を求める国連決議を順守したら、攻撃されない』と明確に知らせるべきだ。なのに、フセイン大統領にプレッシャーをかけたいがために、兵器を廃棄したらどういう利点があるかを誰も言おうとしない」と国際社会の対応を批判した。また、「ある国は、イラクが武装解除しようがしまいが、体制を変えたいと思っている。国連決議の精神に反する二枚舌だ」と米国に対する不信感をあらわにした。(朝日新聞2003/3/6)
「アメリカは、イラクを丸裸にして攻撃しようとしている」というベルギーのミシェル外相の指摘はもっともだと思った。武器を廃棄して攻撃されたら国連はアメリカの手先だな。なかなか、アメリカはずるいな〜。イスラエルは核兵器の保有が確実視されている。イスラエルの大量破壊兵器も廃棄を要求すべきだ。
暗雲たれこめる東アジア
田中 宇の国際ニュース解説(http://tanakanews.com/)の「暗雲たれこめる東アジア」の記事を読んでいると次のような箇所があった。全文(暗雲たれこめる東アジア)
<以下一部引用>
<前略>
在韓米軍撤退が持つ2つの意味
そんななか韓国では、北朝鮮と宥和政策をとり、アメリカとは距離を置こうとする盧武鉉政権がスタートする。米タカ派のラムズフェルド国防長官は、韓国からの米軍の一部撤退をほのめかしている。
在韓米軍の縮小は、以前から取りざたされていたものだが、中道派的な縮小と、タカ派的な縮小は、言葉は同じでも中身が180度違う。中道派による在韓米軍縮小は、北朝鮮に対する宥和策と抱き合わせで少しずつ行うもので、北朝鮮の警戒を解き、朝鮮半島を安定させるためのものだ。
タカ派による在韓米軍縮小は、北朝鮮を煽りつつ、韓国側が対立を煽る米タカ派に文句をつけてきたところで一気に米軍を韓国から引き揚げ、北朝鮮をさらに煽って「第2朝鮮戦争」の瀬戸際まで東アジアを持っていこうとする戦略だ。
日本人にとっては、南北朝鮮が統一して強力な国家になり、中国と意気投合して日本を威圧するシーンを想像すると危機感があるかもしれない。南北朝鮮が再び戦場になれば、1回目の朝鮮戦争と同様、日本に「戦争景気」をもたらすかもしれない。日本人を拉致した金正日が自滅するのはざまあみろだ、という人もいるかもしれない。
しかし、朝鮮半島の人々が大国の都合で何回も戦争に巻き込まれるのは、人間として正視に耐えないことである。これではあまりに正義がない。まだイラク侵攻も始まったわけではないし、南北朝鮮の指導者たちも、アメリカの戦略に引っかかるほど間抜けではないとも思えるから、ここに書いたことは杞憂かもしれない。今後も情勢ウォッチを続けたい。
(田中 宇 2003年2月24日)
<引用終わり>
北朝鮮の脅威は、米軍のプレゼンスがないと防げない。アメリカは同盟国だ。アメリカとともに経済発展するのだ。だから、イラク攻撃に日本が協力すべきだと考えている人がいる。しかし、この論理は、自己の利益ばかりを追求し、罪もないイラクの市民が死傷するのを容認することになる。また、北朝鮮とは韓国・中国・ロシアと協力し平和的な対話で脅威を取り除く方法がある。
日本人は何をなすべきか。人間としての正義とはなにか。映画の「End of All Wars」(泰緬鉄道建設に従事させられたイギリス人捕虜の話)を見て、戦時でもいつでも正義はあると思った。そして、正義は、人間が幸せな社会を築くための基本的な徳である。同じことを、田中さんのこの文章を読んで思った。(あ)
楽観できぬ体制の変化<神谷不二>慶応大名誉教授(国際政治学)
北朝鮮に拉致された日本人8人が死亡していたというニュースはショックだった。
朝鮮学校では、金日成・金正日の写真が教室の正面に飾られているという話を聞いて、「御真影」だと思った。それ以来、北朝鮮という国は、戦前の大日本帝国にとても良く似ていると思っていた。戦前の日本は、「万世一系の天皇」と称するドグマと、「神聖な天子様」の独裁権力とカリスマ、そして家父長支配に忠実な儒教的伝統という、特異な三位一体を基礎として築かれてきた。
そう思っていたところ、朝日新聞に神谷さんが同じことを書かれていたので一部引用する。<S>
<引用開始>
小泉訪朝で明らかになったことの意味について、数点に絞って少し掘り下げてみたい。
小泉純一郎首相は、筋書き通り日朝正常化交渉の再開を決断した。それはいい。だが問題は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がとても「普通の国」とはいえないという事実が、今回確認されたことだ。
「ならずもの国家」とか、「悪の枢軸」といった形容が過大ではない実態が、この国の最高指導者の告白によって初めて白日の下に曝された、その意味はあまりにも重い。
金正日・国防委員長は、かかる非道は二度としない、と詫びた。小泉首相は、平壌から「誠意ある対応が得られる感触を得た」と記者会見で語った。しかし、われわれ善意で無力な第三者は、具体的な根拠なしに北朝鮮の約束を信じることはできない。この国が普通の国になれるという保証は、まだ何一つない。
平壌宣言で北朝鮮は、ミサイル発射のモラトリアムを2003年以降も延長すると言った。だが、独裁国家の権力者が、自らの一存でいつでも前言を反古にすることができるのは、世界の常識でしかなかろう。ミサイルの発射台や対外工作船をいつまでにいくつ廃棄する、といった具体的行動の積み重ねによってしか、われわれはこの国の普通の国への脱皮転換を認めることができないのである。
あえて言えば、最終的には、この国が朝鮮戦争の開戦責任を、間接的な方法によってでもよいから、何らかの形で認めるところまでいかない限り、誠実な歴史家として、私は北朝鮮を普通の国として受け入れないかもしれぬ。
北朝鮮が普通の国たりえない根本原因は、私の見るところ、建国以来この国が培ってきた特異な体制とイデオロギーにある。過去半世紀一貫して、この国の体制は、主体(チュチェ)と称する原理主義的ドグマと、「偉大なる首領様」の独裁権力とカリスマ、そして家父長支配に忠実な儒教的伝統という、特異な三位一体を基礎として築かれてきた。この体制的、イデオロギー的構造が、独裁者への極端な個人崇拝や鎖国的な国際孤立とセットになっている。この体制は、今後果たして変わることができるだろうか。私は楽観的になれない。
独裁政治の存続する条件を考えてみよう。あらゆる独裁者、とりわけ長期独裁政権の担当者は、わが体制とそれを支えるイデオロギーの永遠ならんことを望む。しかし、歴史は、それが常に見果てぬ夢であることを教えている。
スターリンの後に「非スターリン化」が起き、毛沢東の後に「非毛化」が行われたのは、歴史の厳粛な法則に他ならない。新しい時代の要請に対応して、前代の体制は否定される。それが国家と政権の存続を可能にする。だとすれば、北朝鮮においても、金日成後に「非金日成化」が行われるのは、政権存続のためには避けられないことではないか。
この国では、しかし、金正日は「非金日成化」どころか、金日成の「遺訓政治」をひたすら強調したまま今日に至っている。もし「非金日成化」が行われるとすれば、彼の死後まもない時期がそのチャンスだっただろう。だが、後継者はその機会を捉えることができなかった。
北朝鮮の経済が窮迫したのは、金正日時代になってからではない。金日成時代からすでに悪かった。遠い昔、1966年に、人民経済七カ年計画が3年延期に遣い込まれたころからだ。にもかかわらず、金正日が「非金日成化」の旗を掲げられなかったのはなぜか。いまでこそ威張っているものの、94年に父親が死んだころ、彼はまださっばり自信がなかったのである。
<後略>
<引用終わり>
(朝日新聞2002/9/21)
アメリカの軍隊(自衛隊とは何か)?
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旧日本軍と自衛隊との一貫性
戦後アメリカ(GHQ)へ協力した参謀
1945年8月15日日本はポツダム宣言を受諾し降伏した。戦争を指導し敗戦に導いた陸軍省・参謀本部、海軍省・軍令部の参謀(役人)はどうしたのであろうか。自決した将軍、本庄繁大将、篠塚義男中将ら以外に陸軍22名海軍5名。自決した将軍・提督のなかには敗戦の責任をとるというより、戦争犯罪人として追求されることをきらって自決した人が多かった。
一方、陸軍の川辺虎四郎、有末精三両中将、服部卓四郎大佐、海軍の中村勝平少将、大前敏一大佐はマッカーサーの協力者となった。GHQに協力したのは、陸軍有末機関15人、海軍中村機関10人と呼ばれる人達である。彼らは追放されるどころか、マッカーサーに保護され、自決した参謀達に比べ身の処し方がうまかったといえる。
その他に、陸軍省・海軍省が、第1復員省・第2復員省に改称した。1954年海外からの復員が進行し機構が縮小され厚生省の内局となった。そのとき内局外局合わせて定員1、622人の大部分が旧陸海軍軍人であった。この間1950年警察予備隊設置、52年講和条約・日米安全保障条約が発効、公職追放令は廃止され、多数の軍人が警察予備隊に入った。
日本軍と自衛隊との一貫性
このように、戦後GHQに協力し自衛隊の幹部になったものは、参謀本部一課員浦茂中佐(のち自衛隊空将)、軍務課員中村雅郎中佐(のち空将)、杉田一次統幕会議議長、曲寿郎陸上幕僚長ら多くの陸将空将が輩出している。彼らは、自分たちの戦争責任をどう考えているのであろうか。敗北した将校がアメリカ軍に協力し、自衛隊を運営した。彼らは経験としてアメリカ軍には絶対逆らわない。それが、現在の自衛隊である。
(この項は、「昭和の歴史3天皇の軍隊」大江志乃夫、小学館p53〜61を参考にした)
使命終えた。艦艇引き揚げを
毎日新聞に次のような記事が載った。
<引用開始>
テロ掃討作戦支援のために、テロ対策支援法の基本計画に基づいて、インド洋の米軍に給油などをしてきた自衛隊の派遣期間が、19日に切れる。戦況は半年で一変した。派遣延長には大きな問題がある。
派遣当時の状況を振り返ろう。中谷元防衛庁長官が派遣を命令したのは昨年11月20日。既に空爆開始から1カ月以上過ぎ、アフガニスタンの首都カブールは北部同盟の側に落ちていた。タリバン政権は崩壊したが、テロ組織・アルカイダが拠点のカンダハルで激しく抵抗して、米軍は地上部隊をまだ投入できなかった。海上自衛隊がインド洋、ペルシャ湾の米艦船などの補給と護衛に果たす役割はあった。これまでに補給した燃料は米軍68回、英軍3回、計11万9000キロリットルで約40億円にのぼる。
中谷長官は3月末、情勢認識について「各地にアルカイダ、タリバンの兵士が残っており、依然として危険な存在。米軍も追跡、掃討を進めている」と述べている。しかし、半年を経てなお続ける不可欠の情勢なのかどうか、テロ対策支援法の目的に立ち戻って妥当性を判断すべきである。
<中略>
米軍は空母1隻を帰投させ、海兵隊も減らす方向だ。北大西洋条約機構(NATO)も空中警戒管制機を引き揚げる。ところが、米国は日本に派遣延長を求め、ウルフォウィツツ国防副長宮は4月末、与党3幹事長にイージス艦と対潜哨戒機の派遣による支援強化を促した。支援法は、9・11事件に自衛権を行使した米国を、国際社会が支援する協調行動の中で作られた。このまま延長すれば、米国の軍事行動の肩代わりと、イラク攻撃に向けた協力に変質する。
艦船は19日をもって、日本に引き揚げるべきである。憲法論議まで発展した法律でありながら、政府は活動内容を詳しくは明らかにしていない。軍事上の理由をあげるが、憲法の枠内の行動かどうか、判断する客観的材料がない。国会も派遣後はシビリアンコントロール(文民統制)の責務を怠ってきた。にもかかわらず、政府が延長に踏み切るなら、基本計画の一方的な国会報告では済まされない。国会承認にかけるのが最低限の務めである。(毎日新聞社説2002/5/6)
<引用終わり>
この後、政府か自衛隊かは知らないが派遣を延長した。先頃在日米軍の司令官は、日本の給油実績が約40%(54億円)にのぼった。大変感謝している。というスピーチを行った。
戦後自衛隊が米軍の下請けになったことを良く物語っている。
制服組にも発言権
さらに、最近自衛隊の指揮権を制服組に委ねるような発言もある。
2002年7月10日朝日新聞「私の視点」阿川尚之(慶應大学教授、アメリカ憲法)である。
阿川は、「海上幕僚監部の幹部が米海軍と独自に協議し、イージス艦のインド洋派遣を米側から要請してほしいと働きかけ、海自艦艇が米海軍の『戦術指揮統制』下に入ることについて同意した。」ことに対し、「海上自衛隊と米海軍が制服同士率直に話し合うのは、本来望ましいことである。海自艦艇が米海軍の指揮下に入らないことが、実はおかしい。」と述べ「集団的自衛権自体が違憲なわけではない。海自が米海軍の指揮下に入るとすれば、対テロ作戦支援という国会で決定された合憲な目的実現のため必要な最小限度の手段を用いるということである。集団的自衛権の不行使原則は、まずこうした形の日米協力に関して改めるべきだ。」と制服組の政治活動を容認し、集団的自衛権は憲法違反ではないという主張をしている。
「米国では、制服組が直接政治家に接触すると文民統制の原則が崩れるという主張はない。しかし、日本では制服組が直接政治家に接触することを嫌う」といっている。
首相から制服組に統帥権を移し、制服組が政治的行為をし、また暴走するのだろうか。アメリカに統帥権を委ねようというのだろうか。
「統合運用」への転換
また、朝日新聞2002/7/13に「統合運用」への転換を骨子とする中間報告発表、防衛庁という記事があった。
<以下引用>
中谷元・防衛庁長官は12日の記者会見で、現在、陸海空3自衛隊で独立している部隊運用の命令執行権限を統合幕僚会議議長のもとに一本化する、いわゆる「統合運用」への転換を骨子とする、部内研究の中間報告を発表した。実現すれば、統幕議長が名実ともに制服組のトップに立つことになる。年末までに最終報告をまとめ、統幕内に新たな組織を設けることを含め、必要な制度改正や自衛隊法改正など法整備の検討に入るという。
中谷長官が今年4月、統幕議長と各幕僚長に研究を指示していた。長官は阪神大震災、不審船事件、東ティモールでの国連平和維持活動(PKO)などの例をあげ、「二つ以上の自衛隊が(一緒に)活動することが増えた」と指摘、「長官への迅速、適正な助言を行いうる補佐態勢」を作るためには統合運用の確立が必要だと説明した。
中間報告は「自衛隊の任務を迅速かつ効率的に遂行するため、統合運用を基本とするとともに、自衛隊の態勢を整備する」と提唱。具体的には、(1)統幕議長が3自衛隊を代表して長官を補佐する(2)長官の自衛隊の運用に関する指揮は統幕議長を通じて行う――など新たな枠組みが示されている。人材の育成・管理や統合訓練・演習の態勢なども検討するとした。
現行制度では、3自衛隊は通常、各幕僚長が長官の命令を受けて部隊運用にあたることになっており、統幕の役割はあくまで各自衛隊の運用調整にとどまっている。
ただし、防衛出動や治安出動で各自衛隊をまたぐ統合部隊が編成された場合に限り統幕議長が部隊運用できることになっている。98年の自衛隊法改正で、海上警備行動や災害派遣でも長官が必要と認めれば統合運用が可能になったが、これまで実績はない。
統幕への権限集中が実現すると、文民統制がしにくくなるとの懸念が出ることも予想される。
<引用終わり>
太平洋戦争の反省もなく、統合運用をしていなかったことも驚きだが、今頃このようなことを出してくるのは、自衛隊が一体となってアメリカ軍に協力する情勢になったことを意味している。
有事法制
有事の際、自衛隊を動きやすくするとは、アメリカ軍の下請けとしての責任があるからで、このままでは、戦前、統帥権の独立という金科玉条を掲げて暴走した軍隊と変わらなくなる。自衛隊が守るべきものは、「国民」であり、国家体制でもアメリカ軍でもない。有事法制は誰が考えても必要ないのもである。
「海の平和、制服組にも発言権を与えよ」への反論
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2002年7月10日朝日新聞「私の視点」阿川尚之(慶應大学教授、アメリカ憲法)を読んだ。
阿川は、「海上幕僚監部の幹部が米海軍と独自に協議し、イージス艦のインド洋派遣を米側から要請してほしいと働きかけ、海自艦艇が米海軍の『戦術指揮統制』下に入ることについて同意した。」ことに対し、「海上自衛隊と米海軍が制服同士率直に話し合うのは、本来望ましいことである。海自艦艇が米海軍の指揮下に入らないことが、実はおかしい。」と述べ「集団的自衛権自体が違憲なわけではない。海自が米海軍の指揮下に入るとすれば、対テロ作戦支援という国会で決定された合憲な目的実現のため必要な最小限度の手段を用いるということである。集団的自衛権の不行使原則は、まずこうした形の日米協力に関して改めるべきだ。」と制服組の政治活動を容認し、集団的自衛権は憲法違反ではないという主張をしている。
「米国では、制服組が直接政治家に接触すると文民統制の原則が崩れるという主張はない。しかし、日本では制服組が直接政治家に接触することを嫌う」といっているが、阿川も日本の特殊な状況を知っているはずである。太平洋戦争の歴史を知らないはずがない。陸海軍という硬直した官僚機構、いや兵隊ごっごが日本の敗戦の原因であり、制服組の政治活動や謀略が軍隊を暴走させたことである。アメリカと同じようにというのは100年早い。少なくとも日本で221万人、東アジア全体で1800万人近い死者を出した責任を忘れて欲しくないものだ。
自衛隊が米軍の指揮下に入って演習に参加しているのは事実である。しかし、日本国憲法9条は、個別的自衛権はみとめても集団的自衛権は認めていない。その制約の下で自衛隊を運用するのが憲法に合致する。もし不満なら、憲法を改正するしかない。それが現実だ。阿川の太平洋戦争に対する考え方を聞いてみたいものだ。
帰らぬ遺骨の戦友を返せ!
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近現代史を研究していると、日本国の執行部(内閣や軍)は、国民のことは全然考えていない。当時は、国家とは天皇・皇族・貴族・官僚など支配者のものであり、宮廷政治である。国民という概念はない。あくまで、支配者に貢ぐ存在でしかない。虫けらである。
太平洋戦争の個々の戦闘の敗北、例えばノモンハン・ガダルカナルなどがあるが、根本的な敗北の原因あるいは開戦に至る原因は、市民社会の未成熟、つまり、軍隊は市民を基礎に成立していないことだった。満蒙開拓団を見捨て逃亡するという醜態もその辺りからでてきているのだろう。
英米法では、軍隊は武装した市民の組織であり、軍隊の規律より市民の義務の方が優位に立つ。上官の命令への服従義務は適法な命令の場合に限られる。しかし、日本は、臣民の兵である。「天皇の軍隊であり、上官の命令は天皇の命令である。上級者の権限のみが過大で、それに伴う責任は下級者にしわ寄せされるという天皇の軍隊の法理が、下級者に捕虜や住民に対する不法な残虐行為を強制した結果として、多くのBC級戦犯の悲劇が起こったのである。」(日本の歴史31小学館P227)。A級戦犯は、判決を受けた25名中絞首刑が7名でそれ以外は31年に全て釈放、また、A級戦争犯罪人容疑者の19名が東条らの処刑の翌日釈放されたのに対し、BC級戦犯は死刑947名終身刑358名無期刑1046名と苛酷である。
政府は有事法制を提案したが、近現代史を研究していると、あの戦争の経験は何だったんだろうかと思う。
そのあたりを実際に兵士として闘ったMYさんが、朝日新聞に書いておられるので引用する。
MYさん(和歌山県海南市82歳)
今年も7月13日、大阪市北御堂で豹兵団(第30師団)及び協力部隊の戦没者慰霊法要が行われる。58回忌になる。その連絡のため、私たち捜索30連隊の兵士の遺族のうち、日帰り参拝のできる約50人にはがきを出した。
連隊が平壌を出発した時は473人だったが、フィリピン・ミンダナオ島で286人が戦没している。いままでに遺族が判明し、連絡できたのは約150人にすぎない。なお、連隊では遺骨は一人も帰っていない。私が埋めた3人も、場所は分かっているのに、いまだ帰っていない。速射砲分隊では隊員13人中、7人が戦没、5人が戦後に病没。生き残りは、私一人となった。
小泉首相は「備えあれば憂いなし」と有事法制をお題目のように唱えるが、小泉さん、戦争の実態を知ってますか。マラリアで高熱を出して動けぬ病兵を自決と称して銃殺する戦友の気持ち、分かりますか。生きて虜囚の辱めを受けずと、幾人が死んだことか。
沖縄、靖国神社問題など、前の大東亜戦争の後始末をまだできなくて、有事法制なんて、よく言うよ。密林の中、遺骨となり、南十字星を眺め、寂しく日本を思っている戦友を返してくれ。
朝日新聞オピニオン(2002/7/2)
何が歴史の転換点か−文明間の対話尊ぶ流れこそこそが分岐点<入江昭>
朝日新聞夕刊2002/6/3の入江昭(ハーバード大学教授)さんの文章に感銘したので引用します。
<引用開始>
歴史の分岐点とか転換期とかは、長い時間がたたないとはっきりと見えてこないものである。たとえば1914年、欧州大戦の勃発した年は、現代史の大きな曲がり角だった、というのが一般の常識であるが、世界史の流れでいえば、むしろ1870年前後のほうが、転換期と呼ばれるのにふさわしい、という見方が歴史家のあいだで影響力を増している。ヨーロッパを中心に考えた場合と、世界のそれ以外の土地も考慮に入れた場合との違いでもある。
世界全般を見据えながら歴史の動きをたどるのは、至難の業ではあるが、一国中心、あるいは一地域中心の歴史から解放されるためには、どうしてもそのような視野が必要となる。なぜ一国中心の歴史から解放されるべきなのか、それは根本的には、人類全体の歴史はすべての人たちに共有されるべきものだからである。人間社会の動きをたどるのが歴史であるとすれば、それはすべての人間にとって意味のあるものでなければならない。
しかし問題は、世界史の流れをとらえ、歴史の分岐点を認識するという作業を、だれが行うのか、ということである。歴史そのものは共有されていたとしても、その解釈までも共有することは非常に難しい。そのためもあって、各国、各国民がそれぞれ別個に歴史の動きをとらえていく、ということになりやすい。しかも世界歴史の流れを間違ってとらえ、あるいは故意に曲解して、世の中を自分たちに都合の良い方向に持っていこうとすることもしばしばある。
1930年代のナチス・ドイツ、あるいは日本における軍国主義などは、歴史の流れを故意に読みかえて、その流れに沿うような国内改革を実行した勢力が、結果的に世界的規模の悲劇を招いてしまった好例である。20年代の、比較的平和で相互依存的な国際秩序が、30年代から40年代にかけて、戦争やジェノサイド(人種抹殺)へと変わっていったのは、決して歴史が必然的にそのように動いていたからではなく、「旧秩序」はもはや機能し得ないのだという認識を、ドイツや日本の全体主義者、軍国主義者が一般市民にも普及させていったことと無関係ではない。当時日本でよくいわれた、国内改革や大陸進出の「世界史的意義」というレトリックは、あたかも世界が転換期に差し掛かっているかのような印象を与えたが、実際には、現状を打破しようとする勢力がそのレトリックを利用したにすぎない。
同じようなことは、現在の世界についてもいえる。昨年9月の、一部のイスラム教徒によるテロ行為を、あたかも世界が一大危機に瀕している証拠であるかのようにとらえ、この危機に対する処置として、外国人を締め出したり、国内治安法を強化したりしようとする動きが、多くの国で見られる。それは一つの時代が終わったという認識にもとづいて、次の時代へと社会を転換させようとするものであるが、この認識そのものが誤っていたり、あるいは人為的なものに過ぎないとすれば、それにもとづいて国の政策を立てていくことは、きわめて危険である。
日本政府が次々と試みてきた、自衛隊法の改正を含む、いわわゆる有事法制とか、あるいは憲法改正への動きとかは、現代世界が曲がり角にある、という認識のもとに、この状態に適宜対処しようとするものであろうが、はたして実際に歴史は転換期にさしかかっているのだろうか。今日米国でも日本でも、あるいはヨーロッパの一部でもしばしばいわれるのは、経済のみならず政治の面でも,グローバル化が進んだ20世紀末期とは対照的に、21世紀になって国の主権とか国益とかが復権している、ということであるが、はたしてそうだろうか。それが世界の新しい流れだと信じて、国政をその方向とあわせようとするのは、あまりにも性急にすぎるのではないか。
私は、2001年のできごとで最も重要な意味をもっていたのは、この年が国連によって「文明間の対話の1年」と名づけられたことだった、と思っている。同時多発テロ事件やアフガン戦争の陰に隠れて、ほとんど忘れられているとはいえ、文明の対語のための努力は、テロ事件以降も地道に継続されたのである。そして国連事務総長に委嘱された委員会が、年末には『対立点を越えて』という報告書を公にしている。この報告書を作成したのは、20カ国の代表的知識人で、世界中が同時多発テロ事件で動転している時に、実際の世界はもっと別の次元で動いていることを説いている。20世紀の末期から21世紀の始まりにかけ、ほんとうの意味で世界史、グローバル・ヒストリーの時代になった、ということを強調している。グローバリゼーションは間違いなく進行している一方で、ヒストリー、すなわち世界各地の国家、社会、文化など、それぞれの伝統を持つ人間集団が、自分たちのアイデンティティーを主張している。この二つの流れを相反するものとしてではなく、一つの世界の二つの面だととらえることが、文明間の対語の出発点であり、「相互関連的な地球村」を形成する道でもある、というとらえ方である。私もその見方に賛成である。相互関連、インターコネクトという表現は、80年代ごろから、国際関係の重要なキーワードになっている。世界を対立や抗争の舞台ではなく、お互いにかかわりあう、インターコネクトした共同体としてとらえようとする動きは、1870年代にも、そして1930年代にすら存在していたが、その傾向が顕著になったのは、20世紀末になってからである。この流れは、同時多発テロ事件などによっても、変えることはできない。
有事法制とか憲法改正とかは、そのような流れを無視するものであろう。これから国際関係がどうなるかわからないから、有事法制が必要なのだとする無定見も、「備えあれば憂いなし」という、古代ローマ時代のスローガンを後生大事にするのも、インターコネクトしつつある世界についての無知を反映している。今最も望まれるのは、そのような次元で国の将来を決めようとすることではなく、文明間の対話を促進し、世界中のできるだけ多くの人たちとのコネクションを作り上げていくことであろう。
<引用終わり>
(2002/6/3朝日新聞)
食糧統制、有事法制民間人に罰則
取扱物資の保管命令違反は、6か月以下の懲役または30万円以下の罰金です。(自衛隊法改正案第125条)
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太平洋戦争中食糧が統制され、日本人はとてもひもじい思いをしました。体の弱いものは死ぬしかありませんでした。しかし、その体験を忘れ、また軍隊が食糧をかすめとるという軍事物資の保管統制を行おうとしています。違反者は、罰せられますので、戦前のように軍事物資の徴発がおきることが考えられます。やはり、有事法制には反対しなければ行けません。少し前の文章ですが、「戦時下の国民生活」という中村隆英さんの文章を引用します。このようになると「超法規にならないように自衛隊の活動範囲を決める」という政府の説明は信用できませんね。
<引用開始>
「ほしがりません勝つまでは」。戦争中有名だったこの標語は、やりきれないまでに切りつめられた耐乏生活を思いださせいまも、中年以上の日本人の記憶に焼きついている。国民生活がもっともみじめになったのは、おもな都会はほとんど焼野原になり、異常な凶作にみまわれた敗戦の昭和二〇年秋から翌二一年にかけてであったが、そうなるまえから、日本人の生活は窮迫していたのである。
戦争中ずっと東京に住んでいた私には哀しい思い出がある。旧制高女四年だった妹は一八年の秋肺結核にかかった。牛乳も鶏卵も、もうこの時期には月に二、三度しか手にはいらなくなっていた。発病後約半年、一九年五月まで病床にあったが、白米のかゆと干物くらいの食事をあたえることが精いっぱいであった。治療の法もなく、栄養物さえあたえることもできない。妹は母に、どうせ助からないのなら、飛行機で敵陣に突っ込んでしまいたいと語ったそうである。今も思いだすごとに心が痛む。葬儀の時、区役所に届けるとニシンの「特配」があった。当時の日常生活でたまに手にはいる魚は臭いのついたホッケやスケソウダラくらいだったのである。
当時、政府も国民生活の窮状について深刻な見通しを立てざるをえなくなっていた。昭和一九年八月一九日の最高戦争指導会議に提出された資料「国民生活」は、およそ次のように述べていた。昭和一八年度において、主要食料中の栄養の量は、昭和一二年度を一〇〇として、蛋白質八一・八、脂肪質七七・〇、澱粉質八六・六。昭和一九米穀年度(一八年一一月〜一九年一〇月)において、主食中の麦、いも、雑穀の混食率は二二%だったが、次年度はさらに増大の見込。青果物の生産状況は「極めて不良」で、大都市における本年上半期の配給は前半に比し「四割ないし五割減の見込」。魚類の配給は「各般の措置を講ずるも昨年度の五割程度を確保するは容易ならず」。牛豚肉の−般家庭用配給は「昨年の四割減程度」。鶏卵については供給はへったが「軍需増大」し病人妊産婦むけに「優先配給」すると「供給極めて僅少となる見込」。昧嗜・しょうゆは上半期は前年なみの配給ができたが、下半期は七割五分程度。豆、もやし、納豆、とうふは前年度の三割六分程度の見込(以上、参謀本部所蔵『敗戦の記録』)。
人間一人が生きてゆくために摂取すべき栄養量は、およそきまっている。それを平均二割も切り下げることは不可能で、もしそんなことをすれぱ栄養失調におちいるであろうところが右の数字はすでに大きく低下していた国民の食糧配給を破局的に切り下げることを平然と宣言していたのであった。
敗戦後アメリカ軍に提出された数字によれば、日本人の一人あたり摂取カロリー量は昭和五〜九年平均の一六%減である。これにたいし、アメリカとドイツではむしろ若干の増加だし、海上封鎖に苦しんだイギリスできえ二%程度の減少にすぎない(コーヘン著、大内兵衛訳『戦時戦後の日本経済』下)。日本の数字は生産の過少申告やヤミ取引の結果がなり低めにあらわれていることはたしかであろうが、それにしても、英米独にくらぺての異常な低落もまた否定できない事実であった。
なぜ日本人だけが、これほどみじめな生活に耐えねぱならなかったのだろうか。それはこの時代の日本の経済が軍需中心に組みたてられ、戦争が長びき戦局が不利になるとともに、それが極限にまでおしつめられたからである。人手も、輸入された原料資材も、生産されるモノも優先的に軍需に割り当てられ、民需の比率は圧縮される。
ただ一つ米の例だけをとってみよう。農民の数は昭和一五年から一九年までに五〇万人減少し、男子は一一〇万人減り、女子が六〇万人ふえている。減少したのは軍隊と工場にひきぬかれた働き盛りの男子だから実質の減り方はもっと大きかったにちがいない。したがって米の作付面積はこの間に六%減少し、かなりの水田が荒廃した。化学肥料、ことに硫安の消費高は、ほぼ半減、石灰窒素も六割減である。米の生産が、この間に数%の減少にとどまったのは、農民の努力のたまものといわねばならない。しかもこの減少した米の約五%が軍隊のためにひきぬかれてしまったのである。
日本人はこのような極限状態に追いつめられたのにくらぺれぱ、アメリカはもちろんナチス=ドイツにおいてさえ、国民生活の圧縮は極力さけられた。それは経済力の余裕があったからできたにはちがいないが、同時に国民の厭戦気分をおそれたためでもある。ドイツが国民生活の低下をかえりみずに全経済力を軍需に集中するようになったのは、スターリングラードの敗戦の年、昭和一八年以後である。あらゆる面で貧弱な国力しかかたなかった日本が、あの長い戦争を遂行し、本土決戦までを企図しえた秘密は、飢えに迫られながら、なお忠誠心をゆるがさなかった庶民の生活水準を、際限もなく切り下げえた点にあった。二十余年ののち、ある女性は書いている。「まだ幼かった私は、三個の小さいカタパンを、コップ一杯の水でとかしてもらい、妹と奪いあいながらチピリチピリ飲んだ。まだカタパンが溶けないうちに飲もうとしては母から叱られた。とにかく飢えていた。」(『暮しの手帖』九六「戦争沖の暮しの記録」)。
<引用終わり>
(2002/5/31)
有事法制は住民を守るか?
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日本軍は住民を守ったか
戦前の軍隊の暴走(人権侵害)は良く知られている。沖縄戦の場合、住民は米軍の艦砲射撃で多数死傷した。一方、日本軍による住民被害も多数起こった。また、満州において、満蒙開拓の住民を置き去りにして逃亡したのは日本軍であり、そのため、ソビエト軍などにより暴行、殺傷などの人権侵害を招いた。有事法制が2002年4月17日国会に上程された。このような観点から有事法制が誰を守るのかについて考えてみる。
審議されている有事法制
現在審議されている有事法制(武力攻撃事態法を中心とする有事関連3法案)は、憲法との関係で問題がないのか。また、自衛隊の暴走や権利侵害のおそれはないのだろうか。
1.憲法との関係では、周辺事態と武力攻撃事態の線引きが曖昧で、集団的自衛権の行使に繋がるおそれがある。
2.自衛隊法改正案は物資保管命令に違反して隠したり捨てたりした人や、保管状況等を事前調査する立ち入り検査を拒んだり虚偽報告をした人への罰則規定を盛り込んだ。一方、医療機関や土木業者、輸送業者に業務の協力を命じることもできる。この業務命令には罰則が付いていない。
3.自衛隊法改正案では、防衛出動前に自衛隊が陣地を構築する段階から、土地の収用や立木等の移転・処分ができる。防衛出動時には、自衛隊の行動地域に建っている家屋などの形状を変更できる。こうした土地収容などは、原則として事前に公用令書の交付が必要だが自衛隊法改正案は土地や家屋の所在が不明な場合は事後交付でいいとした。
4.指定公共機関に対して、武力攻撃事態法案は「武力攻撃事態への対処に関し、その業務について、必要な措置を実施する責務を有する」と明記した。首相は指定公共機関にも指示や代執行の強い権限を持つ。武力攻撃が予想される段階から、指定公共機関にさまざまな指示を出すことができる。
5.有事の際の自治体協力について首相の指示が盛り込まれた。災害対策基本法も自治体への「指示」規定はあるが、代執行まで踏み込んでいない。
6.自衛隊法改正案は、防衛出動時や陣地構築時の自衛隊について、部隊の移動、輸送、陣地構築等の土地利用、防御施設などの建築物建造、野戦病院など衛生医療、戦死者の取り扱い−など5分野20の法律で特例や適用除外を設けた。
7.武力攻撃事態の自衛隊の行動に関する国会の関与。シビリアンコントロールについて。武力攻撃事態に至った場合、首相は安全保障会議を開き、@事態の認定A事態の対処に関する全般的方針B対処措置に関する重要事項−を盛り込んだ対処基本方針を諮問、その上で基本方針を閣議決定する。基本方針は、閣議決定後、直ちに国会の承認を求めなければならない。しかし、防衛出動待機命令、つまり防衛出動の一歩手前なら基本方針は国会の事後承認でOKだ。防衛出動の場合は現行の自衛隊法と同様に、国会の事前承認がいるが、特に、緊急の必要があると政府が判断した場合は事後承認でいける。
(この項は毎日新聞、「有事法制−ここが知りたい」より作成)
有事法制は必要か
日本国憲法第9条は国民の7割が支持している。これまで築いてきた平和主義、平和教育の成果は、平和的な国家としてアジアの国の認知を受けている。日本国憲法第9条は戦力の保持を禁止しており自衛力を越える武力により住民を守ることはできない。日常の平和的な活動により我が国の平和と住民の安全を守ることになる。
今回の有事法制は、冷戦期のソビエト軍の侵入のような大部隊の侵攻を考えて、米国軍隊と自衛隊の共同作戦を想定しているようだが、日本の安全を米軍にゆだねているので、結局は、自衛隊は米軍の下請け的存在となっている。そこで、日米安保体制を変更しない限り、有事法制は特に必要とは思えない。冷戦構造が崩壊した今有事法制がどういう理由で必要なのだろうか。
日米安保条約も現在の米国との平和的友好関係をもっと深める中で、対等なパートナーシップ(友人関係)に変えることができるのではないか。憲法9条に合致したものに変えていく努力が必要である。
最高裁判所の怠慢
憲法9条と自衛隊については、憲法判断を回避した最高裁判所の態度も非難される。有事法制への道は最高裁判所が切り開いたものである。もし、自衛隊法改正が行われ具体的に国民への権利侵害があった場合、最高裁判所は、また統治行為論を主張するのだろうか。
それでは、どうして住民は自分の身を守ることができるか。
林茂夫さんは、「体制側の推進している国防論議に対し、平和愛好者の側は、核時代には軍事力で安全は守れないから、戦争にならないようにするのが先決だと主張しています。だが、にもかかわらず”戦争になってしまったらどうするのか、相手は敵国民を守ってくれないぞ”といわれると、この主張は説得力を失い、多くの国民の納得をえられなくなっています。そして政府・防衛庁の自衛隊増強・戦時体制づくりに、多くの国民が組みこまれていく状況をくいとめにくくしています」と述べている。この文章は19年前の1983年に書かれた。今、有事法制が必要という人が、憲法9条は非現実的という論理をいうが、現在の有事法制論議とあまり変わっていない。
ジュネーブ条約第1追加議定書の第5章に、「特別の保護を受ける地域及び地帯」という章がある。その第59条に無防備地域という規定がある。自分たちの属する地域に戦闘員や兵器がないことなどの条件が満たされておれば、地方自治体は「無防備地域の宣言」ができ、国際法上は「どこの国」も「その市町村」を攻撃できなくなるというルールである。そこで、このジュネーブ条約第1追加議定書の「無防備地域の運動」を進めていくことが、米軍・自衛隊に頼らず「あなたと私の命を守る」ことに繋がる一つの道である。
(2002/5/13)
使命終えた。艦艇引き揚げを
テロ掃討作戦支援のために、テロ対策支援法の基本計画に基づいて、インド洋の米軍に給油などをしてきた自衛隊の派遣期間が、19日に切れる。戦況は半年で一変した。派遣延長には大きな問題がある。
派遣当時の状況を振り返ろう。中谷元防衛庁長官が派遣を命令したのは昨年11月20日。既に空爆開始から1カ月以上過ぎ、アフガニスタンの首都カブールは北部同盟の側に落ちていた。タリバン政権は崩壊したが、テロ組織・アルカイダが拠点のカンダハルで激しく抵抗して、米軍は地上部隊をまだ投入できなかった。海上自衛隊がインド洋、ペルシャ湾の米艦船などの補給と護衛に果たす役割はあった。これまでに補給した燃料は米軍68回、英軍3回、計11万9000キロリットルで約40億円にのぼる。
中谷長官は3月末、情勢認識について「各地にアルカイダ、タリバンの兵士が残っており、依然として危険な存在。米軍も追跡、掃討を進めている」と述べている。しかし、半年を経てなお続ける不可欠の情勢なのかどうか、テロ対策支援法の目的に立ち戻って妥当性を判断すべきである。
まず、ウサマ・ビンラディン氏とオマル師の行方だ。米軍があと一歩で取り逃がした、第三国に脱出し再び挑戦的な声明を出した……など生存説の一方で、死亡説もある。パキスタンのムシャラフ大統領は4月上旬、「恐らく死亡したと思う」と述べた。消息は不明だが、以前のように、ビデオで公然とメッセージを発せられる状況にないことは確かである。
また、アフガニスタンは、暫定政権が昨年12月に発足し、ザヒル・シャー元国王が帰国した。アルカイダらの兵士が完全に駆逐されたわけではないし、軍閥間の抗争による戦闘や要人の暗殺も企てられている。しかし、6月には緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)も開かれ、平和で民主的な国づくりは着実に進む。テロリストがかくまわれる温床は失われた。
米軍は空母1隻を帰投させ、海兵隊も減らす方向だ。北大西洋条約機構(NATO)も空中警戒管制機を引き揚げる。ところが、米国は日本に派遣延長を求め、ウルフォウィツツ国防副長宮は4月末、与党3幹事長にイージス艦と対潜哨戒機の派遣による支援強化を促した。支援法は、9・11事件に自衛権を行使した米国を、国際社会が支援する協調行動の中で作られた。このまま延長すれば、米国の軍事行動の肩代わりと、イラク攻撃に向けた協力に変質する。
艦船は19日をもって、日本に引き揚げるべきである。憲法論議まで発展した法律でありながら、政府は活動内容を詳しくは明らかにしていない。軍事上の理由をあげるが、憲法の枠内の行動かどうか、判断する客観的材料がない。国会も派遣後はシビリアンコントロール(文民統制)の責務を怠ってきた。にもかかわらず、政府が延長に踏み切るなら、基本計画の一方的な国会報告では済まされない。国会承認にかけるのが最低限の務めである。
(毎日新聞社説2002/5/6)
国家管理強める狙い<中坊公平>
メディア規制法と有事法制に関する中坊さんの文章を毎日新聞から抜粋します。
個人の生活を外部からみだりに見られないというプライバシーの権利は、すでに判例で法的な保護を受けるものとして認められ、定着している。名誉棄損の場合は民法の損害賠償、感情を害された場合は刑法の侮辱罪など救済措置もあり、既に法体系として確立されている。メディアを対象に、さらに法をつくる必要は全くない。
個人情報保護法案と人権擁護法案は「個人情報の保護」「人権の擁護」との美名の下、別の意図をもって生まれたと考えるべきだ。国家が個人の情報を管理しよう、国民から情報を遠ざけようとすることに本当の狙いがある。メディアは「報道の自由」の観点から反対を訴えているが、メディア規制よりも、もっと根深いものがある点への言及が足りない。
なぜ、今そうした法案がでてくるのか。
21世紀がどうなるのかを考える時、私は「リメンバー(思い起こせ)20世紀」と言っている。
20世紀が始まってから1945年8月15日までの「戦前」と、それ以降の「戦後」は非常に似通っているのだ。
1904年から始まった日露戦争で日本は当時の大国・ロシアに勝ち、世界の列強に仲間入りしたが、29年のニューヨークの金融大恐慌で不況になり、その後、内閣も次々と代わる混迷と閉塞感の時期に入った。人々は誰もが景気の回復だけを求めた。治安維持法が作られ、戦争への道をひた走り、第二次世界大戦に突入した。軍部が悪いという人がいるが、一番悪いのは国民だ。不景気さえ脱することができれば、と国民が心の底から望んだ結果だ。
「戦後」はどうか。原子爆弾も落とされ、日本は滅んだも同然だったが、奇跡的に急成長し、国内総生産(GDP)でも世界第2位になり、経済大国になった。それがバブル崩壊後、再び景気が悪くなって、今また社会には閉塞感が充満している。
有事法制と個人情報保護法案などが車の両輪としてでてきたのは、国が戦争を準備するためのものに他ならない。滅国への道を歩むかどうかの岐路にあり、国家のあり方が問われているという認識が今、国民にあるのだろうか。
日本は国土の7割が森林に覆われ、自然を味方とする「森林文化」だ。その最大の欠陥は、見通す力が弱いことにある。木々をかき分けていくため、手先は器用で、目先のことには対応できるが、歴史の文脈でモノを考え、判断する力がない。一人一人が自立できず、観客民主主義に陥る。道徳観もなく、手段が目的化してしまう。
戦争当時を知っている人が減って「戦前」の記憶が薄れているのかもしれない。歴史は間違いなく繰り返す。半世紀前に同じ歴史があったことを忘れてはならない。
(毎日新聞2002/5/4)