憲法第9条と有事法制

 2002年4月20日、皇太子夫妻が、兵庫県入りした。その時の話だが、車を道路に面した駐車場に頭から入れていたところ、警備の警察官が来て、車を前後入れ替えてくれという。理由は、(道路を皇太子が通るので)皇太子に(車の)尻を見せるのは失礼だからということである。有事法が作られ、自衛隊が出動すれば、きっとこのようなことや人権侵害が頻繁に起こることだろう。有事において、外国軍隊の侵入による人権侵害もあるだろうが、自衛隊及び米軍の人権侵害も心配だ。

 憲法第9条は、「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認」を規定しており、自衛隊及び在日米軍の存在そのものが憲法違反の可能性がある。
 また、憲法第3章【国民の権利及び義務】で財産権(第29条)を保障しており、「1.財産権は、これを侵してはならない。2.財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律(民法第一編)でこれを定める。3.私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」としている。自衛隊及び在日米軍の存在が「公共の福祉」に適合するのだろうか。
 私権の制限についても、憲法第35条【住居侵入・捜索・押収に対する保障】では、「1.何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、33条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。2.捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。」と規定している。このような点から、政府が武力攻撃事態において私権の制限か可能なものだろうか。
 憲法18条【奴隷的拘束及び苦役からの自由】「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」と定めている。戦争協力は苦役でないのだろうか。
(2002/04/25)

辺見庸氏有事法制を語る

 <へんみ・よう 共同通信社北京特派員、ハノイ支局長、外信部次長、編集委員などを経て退社。特派員時代は数々のスクープを放ち日本新聞協会賞を受賞。「自動起床装置」で芥川賞。著書に「もの食う人びと」(講談社ノンフィクション賞)、「眼の探索」「異境風景列車」など多数。最近では、坂本龍一氏との対談「反定義−新たな想像力へ」。57歳。>

<前略>

 辺見氏は坂本龍一氏(音楽家)などとの対談でも、一連の流れについて繰り返し注意を促している。有事法制でどうなるのだろうか。

 「これで憲法壊滅状態に陥った。無憲法状態と言ってもいい。周辺事態法などガイドライン関連法が成立した(一九)九九年通常国会以降の戦時体制づくりがいよいよ本格化したということです。冷戦時代ですら実現しなかったのに、なぜ今つくられたのかをチェックした方がいい。やはり大きかったのは9・11。反テロ戦争に悪乗りする形でテロ対策特措法もできたし、その中で憲法の絶対平和主義がかなぐり捨てられた」

 有事法制やメディアの規制を狙った三法案など、ここ数カ月間の動きは急だ。

 「僕は国に大きな戦略はないと思う。現行憲法はある意味ユニークで反国家的側面がある。それを一気に国家主義的なものにする。自民党の全体ではないが、若手も含めた一部の意見、国家主義的な動きが突出した結果です」

 辺見氏は新保守主義という若い人たちに広がる乾いた国家論と、古い情念的な国家論の「野合」が急速に進んでいると警戒する。

 「小泉(純一郎)首相はいわばクリーンなファシスト。戦略的に何かをするのではなく、むしろ情念的です。だから分かりやすい。9・11プラス去年暮れの不審船で一気に流れが加速した。九九年の通常国会以降、民主主義の堤防は決壊し、日本は濁流にのみ込まれていった。その後に来るのは憲法改定でしょう

 一連の鈴木宗男、田中真紀子、辻元清美各氏の“騒動”にも疑義を唱える。

 「あきれるのは公設秘書問題の扱い方。有事法制の論議と時期を同じくしていた。明らかに事の軽重から言って、有事法制に論議を集中しなければならない。三六年ごろでしたか、日独防共協定の時もマスメディアは阿部定事件に騒いでいた。大衆社会もそれを喜んでいた。明らかに本末転倒、わなにはまったとしか言いようがない。有事法制に異議を唱えている人たちがやられた。そうじゃない人もいるからややこしいんですが。ムネオごときがこの国の元凶であるような報道は笑止千万ですね。しかし、その方が商品価値が高い、分かりやすいんですね。その中で日本の将来を左右するような重大事が完全に後景に押しやられてしまった。日本的なヌエのような全体主義の結果です」

 自ら通信社にいた経験もあり、マスメディアに対する見方は厳しい。

 「権力がメディア化する一方で、メディアも権力化しこん然一体、境がなくなってしまった」とした上で、有事法制への賛成、反対という「両論併記」的報道についても批判する。

 「有事法制というのは、準徴兵態勢につながっていくものでしょう。指定公共機関にはNHKが含まれる。民放も、流れとして新聞社にも拡大されるかもしれない。有事法制はいわばメディア規制三法案の土台となる部分です。一番危機的な状況の時に、両論併記というのはいわば判断放棄です。これを個条を追って検討していくことはできるだろうが、それは政府権力が仕掛けた『解釈論争』のわなにはまってしまうことです。大きな流れをつかもうとしない。戦後五十数年間、否定してきた有事法制をなぜ立ち上げたのか。それに対するメディアの問題意識が感じられません」

 そして、作業仮説として三〇年代に自分がいると想定してほしいと提案する。

 「あのころだって戦時下と意識していた人は少ないんですね。中国で廬溝橋事件が起きても、日常というのはそういうものを覆い隠してしまう。新しい世紀のファシズムだって、黒いシャツを着て、広場を行進するなんてことはないわけですよ。きれいな目をして、エコロジストだったりするんです。メディアは、そういう優しいファシズムを見抜く目がなければ駄目だと思う」

 有事関連法案について、法の下克上が起きているとも指摘する。

 「憲法には、国家緊急権は明文化されていません。つまり下位法が最高法規を否定している、法の無規範状況が起きている。最高法規を為政者が嫌がっている国なんてないでしょう。戦争放棄、国家緊急権を否定することで、周辺国と平和的な関係をつくっていこうという決意がなければならない」

 こうした中、辺見氏が“異常な風景”として指摘するのが、メディアも含めて反対の声が少ないという点だ。「9・11以降、アメリカから反戦、報復反対の声がなくなったのとまったく同質です。今の国際政治の危険な流れと通底しています」

 辺見氏は三月、米国の世界的な言語学者ノーム・チョムスキー氏にインタビューした。

 「彼は今、世界でもっとも厳しいアメリカへの批判者です。僕は同調してもらえると思った。しかし、けんもほろろでした。『おまえはブッシュ政権を批判するが自国の問題はどうなっているんだ。日本のメディアと知識人は何もしていない、人の犯罪はあげつらいやすいが、日本は戦後どういうことをやってきたのか、鏡に映してみたらいい』と言われた。正直、ギャフンでした。さらに、アメリカの言論弾圧を憂慮していると話したら、笑われてしまった。言論というのは闘ってしか守れない、と」

 辺見氏は有事法制により逆に、周辺諸国に対日警戒と緊張が生じるとみる。北京特派員などとして各国の駐在武官とも付き合いが深かった辺見氏は「日本を本気で軍事侵略しようとしている国など、もともと周辺にはない」と言い切る。「有事」という概念がフィクションの上に成り立っていると指摘する。

 「備えあれば憂いなしなんてくだらんことを言っているが、小泉政権は平和的努力をまったく怠っています。世界第三位の軍事費を持つ国が、有事法制をつくることで引き起こすのは、不必要なトラブルだけです。日本にはすでに、米ミサイル防衛計画への全面的な協力計画があります。これだけでも緊張のもとになっている。平和的な努力をいかにするか。そのためにある外交は死に絶えている。どうしようもない」

<後略>
(東京新聞02・4・21より抜粋)

国際刑事裁判所(ICC)設立条約が、7月1日に発効

 集団殺害(ジェノサイド)や戦争犯罪などに対する個人の責任を裁く史上初めての常設国際法廷となる国際刑事裁判所(ICC)を設立する条約が、7月1日に発効する見通しになった。発効の条件だった60カ国による批准書の寄託が、今月中に実現する。
 国家間の係争を扱う既存の国際司法裁(ICJ)と並ぶ、国際法の重要な「柱」となるICCが、今秋に開かれる締約国会議を経て、早ければ年末から来年初めにも活動を始めることになる。ただし、米国は、海外で活動する米兵が政治的に訴追される恐れがあることなどを理由にICC設立に強硬に反対しており、実効性を問う声もある。また、日本はこの条約の前提となる戦争捕虜の扱いなどを定めたジュネーブ条約を受けた関連国内法が未整備なことなどを公式の理由として、00年末の期限までに署名せず、批准の見通しも立っていない。
 国連の発表によると、3月21日にパナマが批准書を寄託し、この時点で批准国数は56になった。各国の非政府組織(NGO)が集まって作った「ICCを求めるNGO連合」のウィリアム・ぺース議長によると、国連事務局の条約課が、国連本部での合同批准書寄託式典を今月11日に設定。カンボジア、アイルランド、ヨルダン、ルーマニアの4カ国がすでに参加の意向を表明している。ICC条約(ローマ規程)は、批准書を寄託した国が60カ国に達した時点から、移行期間として60日間を定め、それが経過した「次の月の1日」に発効すると決められている。このため、7月1日の発効が確実な情勢になつた。
 国際刑事裁判所(ICC)@特定の民族・集団へ危害を加える集団殺害(ジェノサイド)A紛争下での虐殺やレイプといった「人道に対する罪」B戦争法規違反の3分野の犯罪について、個人の責任を裁く。旧ユーゴ紛争などをきっかけに設置の動きが強まり、98年7月にローマで開かれた外交会議で設置条約(ローマ規程)が、日本を合む120カ国の賛成で採択された。オランダ・ハーグに置かれることが決まっている。
(2002/04朝日新聞)

これは「戦争」ではない〜カブールで考えたこと〜<辺見庸>(朝日新聞2002/01/08)
 私の好きな作家の一人である辺見庸さんが、朝日の「私の視点」に書いておられた文章を一部転載します。S

 この身で風景に分け入り、ありとある感官を総動員して紡ぐ言葉と、書斎で想像をたくましくしてつづる文書の「誤差」が、どうにも気になってしかたがなかった。だから、私はカブールに行ってみた。果たして、誤差はどうだったのか。ほんの短期間の取材だったけれども、米軍によるアフガニスタン報復攻撃につよく反対する私の考え方には、毫も変化がなかった。この点、修正の要はない。いや、アフガン取材後、非道な報復攻撃への憤りは、かえっていやましにつのった、といっておこう。ただ、もともとの想定をあらためざるをえない点、そして、風景の細部なのだけれど私にとっては大きな発見が、いくつかあった。
<中略>

武力制圧者の「正義」
 だが、そんな遠近法は、実際には、荒ぶる風景にたちまちにして壊されてしまう。国連機でカブールのバグラム空港に降り立ったそのときから、怒り、悲嘆、疑問が、胸底でたぎりはじめるのだ。空港で私の荷物チェックをしたのは、アフガンの係官ではなく、米海兵隊員とその軍用犬であった。いかなる手続きをへて米国がそうした権限を得るにいたったか問うても、まともな答えは返ってこないであろう。武力で制圧した者が、ここでは「正義」なのである。
 遠目にしていようという心の声を振りきって、私の眼はたくさんの人の眼に吸い寄せられていった。たとえば、米軍による誤爆現場で生き残った幼児のまなざし。ものすごい爆裂音で鼓膜も破れてしまったその手は、精神に変調をきたし、たえず全身を痙攣させながら声を立てて笑っていた。他のショック死した多くの赤ん坊や老人にくらべれば、その子はラッキーだったといえるだろうか。眼が、しかし、笑ってはいないのだ。血も凍るような光景を瞳に残したまま、これ以上はない恐怖のまなざしで、頬と声だけがへらへらと笑っているのである。ジョージ・W・ブッシュ氏のいう「文明対野蛮」の戦争の、まぎれもない実相がここにある。全体、だれが野蛮なのか。
 カブールが「解放」され、女性たちがブルカを脱ぎはじめているというテレビ報道があった。しかし、この遠近法には狂いがある。ほとんどの女性はブルカを脱いてはいない。やはりもっと近づいて見たほうがいいのだ。あるとき、私は煮しめたような色のブルカを着た物ごいの女性に近づいてみた。凍てついた路上に痩せこけた半裸の赤ん坊を転がして、同情を買おうとしていた。顔面中央を覆うメツシュごしに、彼女の眼光がきらめいた。案外に若い女性であった。これほどつよい眼の光を私は見たことがない。その光は、哀願だけでない、譴責、糾弾、絶望の色をこもごも帯びて、私をぶすりと刺した。ブルカは脱くも脱がないもない、しばしば、生きんがための屈辱を隠してもいるのだと知った。

一方的「襲撃」だった
 夜の帳につつまれると、カブールではひどくたくさんの犬が遠吠えをする。何を訴えたいのか、ただ飢えているだけなのか、長い戦乱の果ての果ての廃墟で、まだタリバーン兵の死体が多数埋まっているという瓦礫の上で、犬たちが臓腑を絞るような深い声で鳴きつづける。じっと聞いていると気がふれそうになるから、ときどき両手で耳を覆いつつ、私は考えた。戦争の定義が、武力による国家間の闘争であるなら、これは断じて「戦争」ではない、と。だれに訊ねても、激しい交戦などほとんどなかったというのだ。それでは、米英両軍によってなされたこととは、いったいなんだったのだろう。それは、国際法も人倫の根源もすべて無視した、計画的かつ一方的「襲撃」だったのではないか。
 クラスター爆弾の不発弾が無数に散乱するカブール郊外の麦畑で、私はひとしきり想像した。まったく同じ条件下にあるならば、米軍はアフガンに対して行ったような理不尽きわまりない空爆を、ボンやリヨンやメルボルンに対し、やれるものであろろか、と。クラスター爆弾だけでない、戦術核なみの威力のある犬型爆弾(ディジーカッター)を、アフガンより数百倍も生活の豊かなそれらの現代都市に投下することができるか。おそらく、やれはしないであろう。そこにも、アフガンヘの報復攻撃の隠された犯罪性があるのではないか。このたびの報復攻撃の裏には、冷徹な国家の論理だけではない、だれもが公言をはばかる人種差別がある、と私は思う。それにあえて触れない報道や言説に、いったいどれほどの有効性があるのか−私は怪しむ。

本当の国家再建遠く
 それにしても、米国の支援でタリバーン政権を倒した北部同盟軍の規律のなさはどうだろう。まるで清末の腐敗した軍閥である。幹部が昼日中から街のレストランに居座り、飢えた民衆を尻目に盛大に食事をしている。子細に見ると、それら幹部は、いまのところ形勢有利なタジク系のスンニ派であり、かつてタリバーンを形成していたパシュトゥン人らは肩を落とし、小さくなっている。だが、北部同盟軍の将兵らには何カ月も給料が支払われていないという。彼らは、かつてタリバーン兵がいた兵営で、なにするでもなく暮らしており、一部は夜盗化しているともいわれる。勝利の分け前を主張する北部同盟各派の内訌は必至であり、本当の和平と国家再建には、なおいまだしの感がある。
 ある日、米軍特殊部隊や北部同盟兵士らが、空爆で殺した兵士らの遺体から、指を切り取って集めているという噂話を耳にした。米側がDNA鑑定をして、オサマ・ビンラディンやその側近のものか、確かめるためだという。山岳部を中心に猛爆撃を加えては、死体の指を切り落とし収集するという、およそ文明とも文化ともいえない作業を想像して、私は身震いしたことだ。
 この冬、飢え死にしかかっている何万ものアフガン民衆のことなどまったく眼中にない、ひたすら不気昧な報復の論理だけが、ここには、まかりとおっている。
 私はカブール滞在中に、日本でのいわゆる「不審船」騒動を知った。冷静な分析を欠いた過剰かつ居丈高な反応が相次いだ。そのとき脳裏をかすめたことがある。不審船の出所とみられる国への、有無をいわせぬ「米国方式」の軍事攻撃である。杞憂であろうか。いや、アフガンにおける米軍の傍若無人のふるまいを見るならば、この暴力方式の他地域への適用は、現実的といわなくてはならない。いまからつよい反対の声を上げておくにしくはないのだ。


空爆の実態の調査を

 1996年国連の小委員会で、非人道的兵器として、核兵器はもちろん「燃料気化爆弾、クラスター爆弾、劣化ウラン弾など」の使用禁止決議がなされた。決議の賛成は15カ国、反対は米国のみである。これらの爆弾は大量の無差別な破壊と死を戦闘員や一般市民にもたらし、長期間にわたり環境と市民生活や健康に障害の発生と苦難がもたらされるため、その生産を抑止する国際的政策が求められていた。しかし、米国はアフガン空爆でこれらを当初から使用している。
 燃料気化爆弾は、現在核兵器に次ぐ破壊力を持つと言われ、周囲一体は火災地獄となり、酸素欠乏により地上の人々は窒息死や内臓が破裂する。クラスター爆弾は、缶ビールほどの子爆弾が広範囲に飛び散り、不発弾は対人地雷となる。実際99年のコソボ紛争で空爆終了後、赤十字の報告ではこのために100名以上の死傷者がでている。劣化ウラン弾は91年の湾岸戦争や99年のコソボ紛争で大量に使用され、その結果、重大な健康被害や環境汚染が引き起こされ、現地住民や「地上」での戦闘員に大きな犠牲が出ている。
 これらの兵器がどう使用され、何をアフガンにもたらしたか、正確な情報提供が求められる。(11月18日)

今求められるテロ反対とは

 11月2日のインデペンダント紙は「爆撃が予防接種計画を危機にさらす」と伝え、冬を迎え、今予防接種をしなければ、最悪の場合、アフガンで5万人近くの子ども達がはしかなどの感染症で死亡する危険があると指摘した。ワクチンは既に国境に到着し、ユニセフは「せめて3日間の空爆停止」を米軍に頼んでいるが、応答がないとのことだ。
 無関係な人々に危害を加え時には死をもたらすテロが非難されている。空爆はこのアフガンの子供達や家族にとって、テロそのものだ。アナン国連総長は10月30日に「米英軍の軍事行動の早期中止」を求めた。今、「テロに反対する行動」は、「空爆中止」を求めることだ。 (11月11日)


戦争は格好いい…とんでもない<織田裕二>(朝日新聞2001/11/23)
 織田裕二さんの文章がとても良かったので一部抜粋します。S
 <映画「きけ、わだつみの声」主演。おだ・ゆうじ。67年、神奈川県生まれ。俳優として「東京ラブストーリー」や「踊る大捜査線」など数々の映画、テレビドラマに主演し、歌手としても活躍する。映画「ホワイトアウト」(00年でブルーリボン賞最優秀主演男優賞。>

 フィリピンの最前線に送られ、ジャングルで米軍に追いつめられる学徒兵を演じました。役作りのため、旧日本軍の兵隊だった人から話を聞き、敬礼やほふく前進などの「軍事教練」を受けました。
 武器は刀。銃も持っていますが、弾は2発だけです。それで、米軍のマシンガンや戦車を相手に戦えと言われる。
 ジャングルをさまよい歩くうちに、どんどん食べ物が無くなって、あばら骨が浮き出て、餓死寸前になる。その結果、人間の肉を食べてしまう兵もいる悲惨な状況も描かれています。
<中略>
 あの戦争は、どう考えても勝ち目はなかった。学徒兵は学識がありますから、そのことに感づいていたでしょう。負けると分かっていて、好き好んで戦場に行く人はいません。それでも行ったのはなぜか。
 行くと決めたのは、自分の意思だけじゃなかったと思う。国に行きなさいと言われて赤紙(召集令状)を渡されたら、行かざるをえない状況があった。逃げたら、家族や親せきは「非国民」と言われ、石を投げられたり、村八分にされたりする時代だったんです。
 逃げたくても逃げられない。「おれ一人が死ねば、家族は守られるんだ。行かなくちゃならない」という心境の人もいたと思います。「お国のために」という勇ましい言葉の裏に、いろんな気持ちを隠していたはずです。
 戦地は悲惨を極め、逃げたら近所から責められる。国全体が一種の狂気の世界だったんじゃないかな
 そう考えると、現代に生きる我々もしっかりした政治家を選ばないと、ひどい目に遭う。戦争に巻き込まれる前に、止めなきゃいけない。そのために戦争への流れを止められる政治家を普段から選んでおかないと…。今の日本は、本当に怖いなあと思います。
 
9月に米国で同時多発テロが起きたとき、日本は自ら手を挙げて、「うちは中立です。やられたらやり返すけど、絶対に手を出しません」と言ってもよかったんじゃないのかな。ケンカにわざわざ参加しにいく必要はない。こういう判断が次の戦争につながることだってあり得ますから。
 「わだつみの声」のような作品をこれからも作るべきだと思います。特に若い人に見てもらいたい。戦争に勝った国の視点でつくった映画を見て、「戦争は格好いいぜ」なんて思われたら、とんでもない話ですから。
 もう一度戦争映画を撮るなら、主人公たちの精神構造をもっと多様にしたいですね。明るいスポーツマンでだれにも好かれる人が、戦争から帰ってきたらとんでもない人になるとか。そのくらい恐ろしいし、狂気なのだということも描きたい。戦争は絶対に美化しちゃだめです。
 戦争と平和のどっちがいいと言われたら、平和がいいに決まっている。でも、自分の身に降りかかってから考え出しても遅いんです。


「複雑怪奇」<加藤周一>(朝日新聞2001/11/22)

 風が吹けば桶屋がもうかるというのは、風が吹くと死人が出るからと思っていました。S

<前略>
 どこの国の政府も秘密を好む。その内容は何か重要な(と政府自ら主張する)情報であると同時に、情報の不在でもあるらしい。
 たとえば九月十一日の反米テロリズムについて、米国政府が何を知っていて何を知らないのか、われわれにはほとんど全くわからない、確かにわかっていることは、(十一月十九日)米国がアフガニスタンを爆撃していることと、米国の軍事行動を日本政府が何が何でも支援しようとしていることぐらいである。
 そこで人情の趣くところ、またおそらく参戦国市民の当然の権利としても、この「複雑怪奇」な情況について、少なくともいくつかの疑問を誌しておきたいと思う。
 まず第一に、「戦争」―と米国の大統領が称ぶところの軍事行動―の目的は何か。
 九月十一日の報復、つまり敵討と、テロリズムの再発防止、―前者はいきなり数千人の市民を殺された米国民の感情的反応として理解できるし、後者は世界の大多数の人々が支持してきた目的であろう。しかし両者の関係については、何らの説得的な説明が、今までのところない。軍事的報復は、将来のテロリズムを抑止するかもしれないし、かえってそれを誘発するかもしれない。それは時と場合による。具体的な情況に即しての両者の関係が明らかでなければ「戦争」の目的も明らかであるとはいえないだろう。
 もし敵討を除外してテロリズムの防止を日的と考えれば、そこで初めて「戦争」という手段の目的合理性が問題になる。しかしその問いに答えるためには、あらかじめテロリズムの原因を知らなければならない。
 医者は病因のわからない病に対して確実で根本的な治療を行うことはできない。まず病因を知り、しかる後それを除くためにどういう療法が有効で副作用が少ないかを考える。
 テロリズムの原因は何だろうか。
 九月十一日の場合、実行犯は死んで、その背景が「アル・カイダ」という組織であり、組織の中心人物はオサマ・ビン・ラディン氏、彼をかくまって来たのがタリパン政府という。しかし実行犯、アル・カイダ、ビン・ラディン氏、タリバンの間にどういう具体的な関係があるのか(たとえは相互独立性の程度)、どこに事件の主な責任があるのか、またたとえばビン・ラディン氏が首謀者であるという判断はどういう根拠があるのか、そういうことのすぺては一般の市民にはわからない。情報が公開されていないか、そもそも情報が不十分だからである。
 しかもある事件の原因を求めて因果論の連鎖を過去へさかのぼればきりがないということがある(事件の結果を測るために連鎖を未来へ向かって延長しても同じ)。
 風が吹けば桶屋がもうかる。桶屋のもうけの原因は、桶の需用の増大であり、需用の増大はねずみがふえたからで、ねずみの増加は…という具合に強風まで辿ることができる。もし望めばもっと先までさかのぼることも可能だろう。
 強風の原因は、風神が怒ったからで、風神が怒った理由は供物の不足、不足の原因は予算の縮小、予算縮小の理由は不景気というところで遡及を止めれば、不景気になれば桶屋がもらかる、という意見が成り立つ。同じ因果論的連鎖があたえられた場合でも、桶屋のもらけの原因を、したがって責任者を強風とするか不景気とするかは、連鎖をどこまでさかのぼるかによる。
 テロリズムの原因についても同じ。米国の新聞にあらわれた意見の中にさえ、すでに世界的な南北格差の拡大、経済の「地球化」、パレスティナ問題、そのすべてに係わって米国の対外政策を、重要な背景として指摘するものがある。
 なぜ世界中にかくも広く、さまさまの形で、反米感情が拡がつてきたのか。
 もちろんテロリズムはそれだけではおこらないだろう。しかし、反米感情がなければ命がけの反米テロリズムもおこらないはずである。それは十分条件ではないが、必要条件だろう。この必要条件を抑えこむために、軍事力は最適の手段ではあるまい。これほど「複雑」な情況の理解は、単純明快な概念的装置、つまりわかり易い言葉を必要とする。言葉があまりに複雑であれば、そもそも現実が複雑なのか、言葉が複雑なのか、区別がつかなくなるからだ。
 インドの女性作家、アルンダティ・ロイ氏は「戦争は平和である」という論文の中で(インドの週刊誌、OUTLOOK,29th Oct.2001掲載)、アフガニスタン爆撃を発表した時にブッシュ大統領の言った「われわれは平和な国民である」という言葉と、「人気高いアメリカの大使で、英国の首相も兼ねる」プレア氏の「われわれは平和な人民である」という言葉を引用している。彼女はその後につづけて、「これでよく解った。豚は馬である、少女は少年である、戦争は平和である」と書いた。
 その一節を読みながら、誰が「マクベス」冒頭の魔女の科白を思いださないだろうか。Fair is foul,and foul is fair.坪内逍遙訳では、「きれいはきたない、きたなははきれい」である。
 日本政府の公式の訳はいかがなものか、興味をお持ちの方は政府にきいてみて下さい。


文明の遺産破壊を憂う〜アフガン解決への度量期待〜<樋口 隆康>(朝日新聞2001/11/09)
樋口さんの文章を一部抜粋します。S

 今春、愛着深いバーミヤンの大仏が破壊されたときは、本当に憤りを感じた。だがそれはイスラム原理主義のタリバーンが、偶像否定の行為としてやったのだという認識だけはできた。ところが今回、アメリカで同時多発テロ事件が起きた。アメリカはテロに対する世界の非難を味方にして、正義により悪を征伐するとして、アフガニスタン在住のオサマ・ピンラディン氏を犯人と見なし、かれを匿っているタリバーンをも撃滅すると息巻いて、アフガニスタンの各地を爆撃している。空爆がテロリストだけを壊滅することは不可能で、一般庶民の生命も奮い、生活を破壊しているのが事実である。
 テロとは一体どういうことなのか。無差別に一般人を殺すことをテロというのなら、現在アメリカが行っている爆撃もテロ行為ということになる。しかし、生命・財産は別として、私が空爆に対して最も恐れるのは、文化財の破壊である。私が見慣れた遺跡地帯への爆撃も数カ所、テレビに映し出された。
 アフガニスタンはシルクロードの交易路の中心に当たる。このため、文化財の宝庫であり、世界の各地からいろいろの文物がこの国に持ち込まれ、至る所に古代の文化遺産が埋蔵されている。その半面、ここは周辺諸国の収奪・闘争の場でもあった。
<中略>
 私が長年調査にあたったバーミヤンは仏教の石窟寺院としてよく知られている。有名な2大仏立像の石窟を始め、千に近い石窟があり、その中の50余窟には壁画が残っていた。ほかにシャララバード付近のフイール・ハナやバサーワル、ハイバックのハザール・スムなどにも石窟寺院があり、いずれも、仏教東漸の重要な足跡が印されているのである。
 しかし、これらの石窟は戦闘部隊の格好の避難所であり、武器・弾薬庫となりやすい。また、アイ・ハヌーンやベグラムなどの都城趾は陣地として最適であり、実際にタリバーンや北都同盟部隊が使っているようである。
 いまのアメリカの首脳には、先の大戦で京都を爆撃しなかったような文化財保存の意識が感じられない。今回の攻撃では、遺跡・遺物が永らえてきた地下に潜ってから、あるいは洞窟に入って中で爆発する特殊なミサイルも使われているという。破壊力は格段に大きい。いったんそれらを破壊すれば、人類の貴重な文化遺産が永久に失われることになる。
 アフガンには多くの異民族がいる。彼らは外国で迫害されて、ここを最後の避難所として、流れ込んだ人たちが多い。人口の半数を占めるパシュトゥン族を始め、タジーク族、ウズベク族、ハサラ族などだ。しかも、今でも外から、ロシア、イギリスなどが圧力をかけて、民族間の争いを増長している。であるから、タリバーンを滅ぼしても同族のパシュトゥン族はパキスタンに60万人いるから、また復讐を繰り返すであろう。
 ビンラデイン氏をうてばテロが終わると思ったら、大間違い。「復警には復讐を」といらのが彼らの主義である。テロにはテロでなく、話し合いによる解決の素晴らしさを、テロリストに教えてやるくらいの度量をアメリカに期待したい。

ゲルニカを忘れないで <加藤尚武(鳥取環境大学学長、日本哲学会委員長)>

 テロリズム攻撃のもっとも憎むべき点は、それが無差別殺人であるということである。そのビルで働く市民、その飛行機に乗り合わせた市民がすべて無差別に殺害されたということである。 テロリストが拷問をしたときテロリストに拷問をする、テロリストが生物兵器を用いたときテロリストに生物兵器を用いることは、加害者に被害者と同じ苦しみを与えるのであるから、これは報復である。報復であるが正義ではない。「拷問は不正である」、「生物兵器の使用は不正である」という加害者と被害者に共通して適用される原則が守られていないからである。

 テロリストが無差別殺人をしたとき、空爆によって、テロリストを客人として扱うタリバンの支配下にあるアフガニスタン国民を無差別殺人に処することは、報復でもないし正義でもない。「報復」でないのは、アフガニスタン国民は加害者ではないからである。「正義」でないのは、「無差別殺人は不正である」という共通の原則が守られていないからである。

 1、スペインの町ゲルニカGuernicaにフランコ将軍の側にたったドイツ飛行機 による無差別爆撃が行われたとき(1937)、世界中が憤激し、ピカソは大作ゲルニカを発表した。アメリカ大統領フーバーは「非戦闘員の殺傷が不正であること」を再確認する書簡を発表した。

 2、しかし、アメリカが第二次世界大戦に参戦(1941)し、日本対する空爆が有効な手段と見なされる段階になると「非戦闘員の殺傷が不正であること」という原則は事実上無視された。しかし「現存する戦闘行為を停止させる不可欠の手段」として正当化された。原爆の投下、ベトナムでの空爆、湾岸戦争での空爆、 ユースラビヤ内戦での空爆は、いずれも「現存する戦闘行為を停止させる不可欠の手段」として正当化された。

 3、もしもテロリスト攻撃への報復という理由でアフガニスタンで空爆がなされるとしたら、もはや「現存する戦闘行為を停止させる不可欠の手段」という意味を持つことはない。「テロリストの次の攻撃に先手をうつ先制攻撃」として空爆が行われることになる。湾岸戦争での空爆、ユースラビヤ内戦での空爆が、たとえ正当化されたとしても、同じ理由で正当化することのできない、空爆の新しい適用事例となる。

  テロリズムの無差別殺人を憎むものが、空爆という先制攻撃をアフガニスタン国民に行うならば、無差別殺人という同じ罪を犯すことになる。世界はゲルニカの時代に逆流するのだろうか。ピカソの作品が訴えていたものが「非戦闘員の殺傷が不正であること」であったことを世界中が忘れようとしている。

9月19日 加藤尚武(鳥取環境大学学長、日本哲学会委員長)
勤務先:689-1111鳥取市若葉台北1丁目1番地鳥取環境大学
メイルアドレス:kato@kankyo-u.ac.jp


濫用される「自衛権」概念、破壊か軍縮か二つの未来<藤田 久一>(朝日新聞2001/10/20)

 「戦争の世紀」を経て、人類がたどり着いた「ジュネーブ条約追加議定書」と「国際刑事裁判所条約」・「軍縮」などは、今回の事件でどうなるのか。藤田教授の朝日新聞2001/10/20夕刊の記事を一部引用して考えてみたい。(A)

<前略>
揺らぐ戦争禁止の基礎
 国連はテロに対処し撲滅するさまざまの方法を検討し、そのための条約もある。テロを含む国際犯罪を裁く臨時の国際裁判所もつくられた。民族浄化などによる人道に対する罪のかどで、ユーゴのミロシュビツチ元大統領はハーグの旧ユーゴ国際裁判所へ引き渡された。今回の堆件を契機に国連決議でも各国の措置でも、テロ撲滅のいっそうの所作がとられる方向にある。これは現在の国際秩序をさらに発展させる努力の現れである。
 ところが、今回のテロ事件に対する「報復」爆撃こそ、皮肉にも、20世紀のほぼ全期間をかけて国際社会が築きあげてきた戦争禁止を基礎におく国際秩序を根底から揺さぶるものである。その理由はこうである。
 戦争禁止の20世紀秩序は、2度の世界大戦の悲劇を前にして、従来の国家による戦争を行う権利を否定し、戦争によってではなく平和的手段−交渉、仲介、調停、裁判などによる紛争解決を求めてきた。しかしなお各国が軍備を保有するため、万一違法な侵略戦争を企てる国に対して、ほとんどの国を糾合した国連のもとで集団的に軍事的・非軍事的強制措置をとる。
 しかし、このような集団安全保障システムは長い冷戦時代には十分に機能しなかった。そのため、相手からの武力攻撃が発生した場合に、緊急にかつ国連の措置を待つ暫定的に認められる自衛権が現実には錦の御旗の役割を果たしてきた。もっとも、武力行使は戦争禁止の大原則を脅かすことになるから、自衛権にはきわめて厳しい条件が付されている。
 アフガン軍事行動は、テロ組織撲滅を目的としつつ、領域を破壊、住民を巻き添えにし、他方で、食糧などの救援物資を投下するという「新しい戦争」である。ブッシュ米大統領は唯一の正当化事由であるこの自衛権を援用し、アナン国連事務総長や安保理議長の声明でもテロ撲滅という国際利益のために自衛権の脈絡で説明された。
 しかし、これは自衛権の濫用か、逆に自衛権が変質したというべきだろう。「新戦争」という「新酒」を自衛権という「古い革袋」に盛るのはよくない。「新しい革袋」は、対テロ「戦争の権利」でなければならないはずである。

市民の声が促す軍縮
 これを踏まえて、「新しい戦争」とその帰趨から、開幕したばかりの21世紀国際秩序のあり方を占ってみよう。一方では、テロ撲滅を希求する国際社会を代表して一超大国が自らレッテルを貼った国際犯罪者「ならずもの」国家のみならずテロ組織のような非国家主体に対して、変質した自衛権概念を梃子に懲罰という名の破壊を行う構図が読み取れる。これは米国を「自衛」するのみならず、国際社会の「自衛」だと説明できる。同時に、このことは、一米国流の価値観(とくに人権)の国際化、グローバリゼーションを前提としている。
 しかし、この出口の見えない「新しい戦争」の遂行はもっぱら軍事力と経済力といった力に依拠している以上、将来別の価値観をもつ超大国が出現すれば、それまでではある。かかる世界秩序の志向は、結局20世紀以前の西欧文明下の「戦争の権利」や「人道的干渉」の復活につながるだろう。
 他方では、軍事力やその行使がテロ組織のような領域を有しない多様な非国家主体に対しては意味を失いつつあることが明らかになった。軍備とくに核・生物・化学兵器といった大量破壊兵器は、テロリストの手によってかえって世界中の市民を危険に晒す。逆に、軍縮こそ、市民の「自衛」つまり命を守る方法である。これは、世界の軍縮とくに大量破壊兵器の軍縮を促す機運をもたらそう。つまり、自衛権行使よりは国連集団安全保障、さらに軍縮による国際秩序のあり方が改めて求められよう。そこでの軍縮促進の担い手は、なお領土防衛のための軍備にこだわる国家より、その潜在的犠牲者である市民の声、国際世論である。国連はそれを結集させる場となりうる。<後略>


「釈迦に学び、憎悪の連鎖断て」<梅原 猛>(朝日新聞2001/10/7、私の視点)

 梅原氏の「世界」の論文「教育基本法を変えてはならない」が、とても良かった。面白いなと思っていたところ、朝日新聞の「私の視点」で感じるところがあったので、一部引用させていただきます。(A)

 <前略> この兄弟文明は長い近親憎悪の歴史をもつ。200年も続いた十字軍の戦いは双方に深い憎悪を植えつけた。そして強い兵器と豊かな商品を生み出す科学技術文明を生んだ西洋は、早速その文明の力によってイスラム諸国を植民地にした。
 この二重の憎悪に油を注いだのはイスラエルの建国であった。たとえ十字軍のときにその例があるにせよ、2500年前にここにいたという民族が突然やって来て、先住民を追い出すのは暴挙としか言いようがない。イスラエルの建国と、何度かの戦争によるその領地の拡大がなかったならば、アメリカ僧しで固まったイスラム原理主義運動も出現しなかったであろう。
 私は、アメリカ人の怒りはもっともであるが、1人のテロ首謀者を捕らえるために大規模な軍事作戦をとることはアメリカにとっても好ましいことではないと思う。この「戦争」に勝ってもアメリカは苦しい立場に立たざるを得ない。
 なぜなら、アメリカの強い軍,事力によってタリバーンがアフガニスタンの人民とともに大量虐殺されるのをテレビで見せることは、イスラム諸国のアメリカに対する反感をいっそう強め、必ず第2、第3のビンラディンやタリバーンが出て、核兵滞や生物兵指を便う大規模テロがアメリカやアメリカを支援した国々に起こることは火を見るより明らかであるからである。<後略>


◆テロ「12人の怒れる男」思い出す<東 陽一>(朝日新聞2001/10/6、私の視点)

 私の好きな映画「12人の怒れる男」とバーバラ・リー下院議員を絡めた論評を東監督がされていたので一部紹介します。(A)

 ブッシュ米大統領に武力行使を認める米議会の決議で、バーバラ・リー下院議員がたった一人で反対票を投じたという報道は、57年に作られた米映画「12人の怒れる男」(監督シドニー・ルメット)を思い出させる。全員一致の結論が出そうな場面で、一人だけ反対票を投じるという行為は、人間の思慮深さと勇気について深く考えさせる。
 …<中略>…
 この映画の全体の成り行きは、米国の民主主義のもっとも理想的な姿を表している。リー議員の行動もそれに近い。彼女の反対投票に対して、「英雄的」「裏切り者」などさまざまな意見が出ているというが、実はそのような議論の発生こそが、彼女の望んだことではなかったろうか。
 米国もさまざまな不正や矛盾をかかえた国だが、「12人の怒れる男」のような映画を生み、リー議員の行動を生み、それをめぐって意見が飛び交うようになるこの国の民主主義の懐の深さについても、心にとめておいて無駄ではない。
 日本では、リー議員に似た立場から武力報復に反対する人々に対して、一部の週刊誌などが「平和ボケだ」と汚い言葉を浴びせている。しかしその悪罵は、一度当のジャーナリズムが自分自身に向けてみるべきものだ。世界各地で、報復に次ぐ性急な報復がどんな悲惨な結果を生んでいるか知らないはずがないのに、<平和>に慣れて想像力を失い、本来の仕事の意味を見失ったジャーナリズムの<ボケ>がそこに表れている。日本人は、せめて「12人の怒れる男」やリー議員の行動、大衆の活発な議論から、「時間をかけて冷静に議論することの重要さ」くらいは学ぶべきだと思う。


「正義は国際裁判で実現せよ」(朝日新聞9月30日)
小池政行
日本赤十字看護大学教授(国際人道法)
                           
 国際社会には、犯罪を行った個人を裁く常設の国際裁判所は現在、存在しない。市民に対し無差別攻撃というテロを行った者を捕らえるのに、米国は「新たな戦争だ」として、軍事力の行使を表明している。これまで、国際社会は、交戦国が敵を降伏させ、戦争犯罪人などを捕らえた場合でなければ、個人を国際裁判にかけることはできなかつた。
 しかし、1997年に160カ国が参加した外交会議において採択された「国際刑事裁判所を設立する条約」は、集団殺害、人道に対する罪、戦争犯罪などを犯した個人を、常設の国際裁判所で裁くことを可能とした。戦争や武力紛争において、無数の戦争犯罪、テロ行為などの人道に対する犯罪が行われたが、それら違反行為を命じ、または実行した人々が、敗戦などの特別な場合を除き、放置されてきた。このことを深刻にとらえて、国際正義を法の裁きにより実現するためにつくられた条約である。この条約には現在139ヶ国が署名し、欧州諸国を含め37ヶ国が批准している。60ヶ国の批准によりこの条約は発効するが、4年間に37ヶ国が批准したことからして、遠からず発効するものと見られる。
 ブッシュ米政権は、海外に駐留する米兵が駐留国から国際刑事裁判所に訴追される恐れがあることなどを理由として、批准しない、としている。日本も、関連国内法の未整備などを理由として、同条約には署名さえしていない。
 最近の米国議会は、米兵を国際刑事裁判所から逃れさせるための米要員確保法を採択させ、同条約を批准した非NATO(北大西洋条約機構)国に対して軍事援助をカットすることや、国連PKOに参加しないこと、さらには訴追された米兵を解放するため、軍事力の行使も可能とする方向に進んでいた。
 これは国際刑事裁判所条約の「補完性の原則」をよく理解していないものである。たとえ米国が同条約の受諾国となって、米兵などが他の受諾国から訴追されても、まず米国の国内裁判所が管轄権を有するのである。米国内で公平な裁判が行われない場合に限って、国際刑事裁判所が管轄権を有するのが、この「補完性の原則」である。
 集団殺害やテロの計画・実行は、国際的な広がりをもつ一方、集団ないしは特定の国家の支持を受けた個人が首謀者となっている。主権国家併存を基礎とする国際社会が裁くことができなかった、このような個人犯罪に対しても、国際刑事裁判所は裁きを司能としている。テロの犯人に対しては、「人道法や人権の重大な侵害行為の責任者の免責は、許されない」という、ナチ犯罪人が当時のドイツ刑法上時効となることを防止するため68年の国運総会で採択された「時効不適用の原則」が貫徹されるべきであり、決して犯人を逃してはならない。
 しかし、だからと言って、一般住民が巻き添えになり、無辜の人々が命を落とすことになる軍事力の他国への行使を、絶対の正義と見なすことには反対である。テロは無差別の暴力である。しかし、他国への軍事力の行使も、命を落とす一般住民にとっては、暴力なのである。
 21世紀の国際正義は、米国の軍事力によってでなく、公平な国際刑事裁判所条約へ米国や日本が加入し、法に照らして実現することの必要性を強く訴えたい。


「連続テロに対する報復戦争の国際法的な正当性は成り立たない」(2001/9/19)

 加藤尚武さん(鳥取環境大学学長、日本哲学会委員長)のアピール。転載可。
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(以下終わりまで転載)
私は国際法の専門家ではないので、多くの方に私の判断についての意見をうかがいたいと思います。現在のジャーナリズムはあまりにも一面的な判断だけを流しているのは不当だと思ったので、新聞社の友人たちにも知らせました。是非多くの人から意見を聞きたいと思います。公表はもちろん結構です。
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  「連続テロに対する報復戦争の国際法的な正当性は成り立たない」
 
1、国際法上の「戦争」とは、単に軍事行動が行われたという時点では成立せず、主権国家もしくはゲリラ団体が戦争の意思表示をすることで成立します。ゆえに、今回の連続テロは犯罪であって、戦争ではありません。犯罪として対処すべきです。
 
2、国際法では、いかなる紛争にたいしてもまず平和的な解決の努力を義務づけています。ブッシュ大統領が、連続テロの今後の連続的な発生の可能性に対して、平和的な解決の努力を示しているとは言えないので、新たな軍事行動を起こすことは正当化されません。
 
3、国際法は、報復のために戦争を起こすことを認めていません。したがって、たとえ連続テロが戦争の開始を意味したとしても、現在テロリストが攻撃を継続しているのでないかぎり、報復は認められません。
 
4、連続テロに対する報復戦争が正当防衛権の行使として認められるためには、現前する明白な違法行為に対しておこなわれなくてはなりません。予防的な正当防衛は、国際法でも国内法でも認められていません連続テロに対する報復戦争を正当防衛権の行使として認めることはできません
 
5、国家間の犯人引き渡し条約が締結されていないかぎり、犯人引き渡しの義務は発生しないというのが、国際法の原則です。「犯人を引き渡さなければ武力を行使する」というアメリカ大統領の主張は、それ自体が、国際法違反です
 
以上の理由によって、私は連続テロに対する報復戦争は正当化できないと判断します。
 
   9月19日 加藤尚武(鳥取環境大学学長、日本哲学会委員長)
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「暴力と報復の連鎖を断ちきろう」〜法に則った解決を〜(2001/9/20)

テロ事件を考える市民と国会議員の集いで採択された声明(参議院議員会館第一会議室で開催)。
日本語と英語です。いろいろなところに広めてもらえれば幸いです。
(参加者 約400名、国会議員関係者 約120名(自民、民主、社民、共産、無所属))

福島瑞穂事務所
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暴力と報復の連鎖を断ちきろう
〜法に則った解決を〜
声 明

9月11日、米国において、民間航空機をハイジャックして、世界貿易センタービルや国防総省などに飛行機を激突させた同時多発テロ事件が発生しました。いかなる理由があろうと、こうした残忍な無差別テロは断じて許されるものではなく、毅然とした態度でのぞまなければなりません。テロリストを厳しく非難するとともに、被害を受けられた方々、御遺族の方々に対し、心から哀悼の意を表します。

これに対して、容疑者及び容疑者をかくまっていると思われる組織に対する軍事的な報復が、米国より主張されています。しかし、「暴力」と「報復」の連鎖は、更なるテロを生み、果てしない武力の応酬になりかねません。
国連憲章と国際法上の根拠を持たない軍事力による報復は、テロ根絶の努力の大義を失わせてしまう可能性があります。
市民社会を脅かす行為に関しては、国連を中心とした、法に基づく厳正な裁きと責任の明確化こそ、もっとも有効な対応だと確信します。

今回の無差別テロのような卑劣な犯罪行為を根絶するために、法に則った、冷静かつ理性的な解決が行なわれることを、心より望みます。

アメリカ同時多発テロを考える市民と超党派国会議員の集い 参加者一同
2001.9.20.

−−−−−−−−−− 以下、英訳文 −−−−−−−−−−

Statement
Break the Cycle of Violence and Revenge:
An Appeal for Response Based on Legal Principles

September 20th, 2001

On September 11, there were terrorist attacks on World Trade Center and Pentagon by the apparently hijacked aircrafts. These inhumane acts of indiscriminate terrorism are never to be tolerated, and we need to confront it with a resolute attitude.

We strongly condemn the perpetrators, and would like to express our most heartfelt sympathies and condolences to the victims and their families.

The United States has called upon military retaliation on the organizations that are alleged to have protected the terrorists. However, the cycle of violence and revenge will nurture more terrorism, leading to endless retaliatory acts. Any military retaliation not based on the principles of international law may defeat the cause to end the terrorism.

We believe that to stand against the threats to our civil societies, it is most effective if strict justice is brought and the responsibilities are clarified, based on the legal principles such as the ones defined in the UN system.

We sincerely hope that there will be a sober and rational response based on the principles of law, in order to end despicable indiscriminate terrorism in the future.

Coalition of Citizens and Suprapartisan Members of the Congress Reflecting on Terrorist Attacks in the U.S.


「バーバラ・リー議員の報復戦争反対の議会演説」(2001/9/14) (英文付き 長文)

 9月14日、アメリカ連邦議会はブッシュ大統領に報復戦争の
「必要で適切なあら ゆる軍事力」を行使する権限を与える決議を
採択しました。上院は全会一致でしたが、下院は420対1でした。
唯一の反対票を投じたのがバーバラ・リー議員です。
当初は「殺してやる」といった脅迫を受けましたが、カリフォルニア
のバークレー、 オ−クランド選出の民主党下院議員であるこの55歳
の黒人女性の勇気ある行動は世論の支持を徐々に広げつつあります。
 テロ事件からわずか3日後、情報操作も政治的圧力もおそらく日本
では想像もできないくらい厳しいものだったと思いますが、本当に勇気
ある行動です。そして、民主主義における「少数意見の尊重」とは
手続きを民主的に行うと言うだけではなく、最初は少数意見であっても
客観的に正しい側が多数派に転化する可能性を保証する物で
なければならない以上、アメリカの、日本の、世界の平和勢力が
報復戦争を許さない多数派に転化する闘いを進めていきたいと思います。
 とりあえずバーバラ・リー議員の下院での発言を翻訳しましたが、
この格調高い演説をどれだけうまく翻訳できたか自信はありません。
あまり意訳しないで直訳調で も、リー議員の意図が伝われば、と思います。
転載は大歓迎ですのでどうぞご自由に。(全交事務局スタッフ・森文洋)

<アメリカ下院議会におけるバーバラ・リー下院議員の発言>
2001年9月14日

 議長、私は今日、ニューヨーク、バージニア、ペンシルベニアで
殺され傷つけられた家族と愛する人々への悲しみでいっぱいに
なりながら、耐えがたい気持ちで演説に立っています。
 アメリカ国民と全世界の何百万もの人々をとらえた悲しみを
理解しないのは最も愚かな者か最も無神経な者だけでしょう。
 アメリカ合衆国に対するこの筆舌に尽くしがたい攻撃のために、
私は向かうべき方向を求めて自らの道徳指針と良心 と神に
頼らざるをえませんでした。

 9月11日は世界を変えました。最も深い恐怖が今や私たち
の心に付きまとってます。しかしながら、私は軍事行動は
アメリカ合衆国に対する国際的なテロリズムのこれ以上の
行動を防がないと確信しています。
 私は、大統領はこの決議がなくても戦争を行なうことができる
ことを私たち全員が分かっているにもかかわらずこの武力行使
決議が通過するのだということを知っています。
 この[反対]投票がどんなに困難なものであろうとも、私たちの
何人かが自制を行使するように説得しければなりません。

 しばらく距離を置いてみて今日の私たちの行動のもつ意味を
通して考えよう、その結果をもっと十分に理解しよう、と言う何人
かが私たちの中にいなければなりません。
 私たちは従来型の戦争を扱っているのではありません。
私たちは従来型のやり方の対応はできないのです。
 私はこの悪循環が制御不能になるのを見たくありません。
今回の危機には国家の安全や外交政策や社会安全や情報収集
や経済や殺人といった諸 問題が入っているのです。
 私たちの対応はそれと同様に多面的でなければなりませ ん。
 私たちはあわてて判定を下してはなりません。
 あまりにも多すぎる罪のない人たちが既に亡くなりました。
 
 アメリカ合衆国は喪に服しています。もしも私たちがあわてて
反撃を開始すれば、女性や子どもやその他の非戦闘員が十字
砲火を浴びるという大きすぎる危険な目に遭う恐れがあるのです。
 同様に私たちは、残忍な殺人者によるこの狂暴な行為に対する
正当な怒りがあるからと、あらゆるアラブ系のアメリカ人やイスラム
教徒や東南アジア出身者や他のどの人々に対しても人種や宗教や
民族を理由として偏見をあおることはできません。

 最後に、私たちは退場の戦略も焦点を合わせた標的もなしに
無制限の戦争を開始しないように注意を払わなければなりません。
 私たちは過去の過ちを繰り返すことはできません。
 1964年に連邦議会はリンドン・ジョンソン大統領に攻撃を撃退し
さらなる侵略行為を防ぐために「あらゆる必要な手段をとる」権力を
与えました。その決定をした時に、本議会は憲法上の責任を放棄し、
長年にわたるベトナムでの宣戦布告なき戦争へとアメリカ合衆国を
送り出したのです。
 当時、トンキン湾決議にただ二人反対票を投じたうちの一人である
ワイン・モース上院議員は言明しました。
 「歴史は我々がアメリカ合衆国憲法をくつがえし台無しにするという
重大な過ちを犯したのだということを記録するであろうと私は信じ る。
……次の世紀のうちに、将来の世代の人々はこのような歴史的な
過ちを現に犯そうとしている連邦議会を落胆と大いなる失望をもって
見ることになるだろうと私は信じる。」
 モース上院議員は正しかったのです。私は今日、同じ過ちを
私たちが犯しているの ではないかと恐れています。
 そして私はその結果を恐れています。私はこの投票をするのに
思い悩んできました。
 しかし私は今日、ナショナル・カテドラルでのとてもつらいが美しい
追悼会の中でこの投票に正面から取り組むことにしたのです。
 牧師の一人がとても感銘深く「私たちは行動する際には、
自らが深く悔いる害悪にならないようにしましょう。」と語ったのです。

<Statement of Rep. Barbara Lee on the floor of the House of Representatives>
Sept. 14, 2001.


Mr. Speaker, I rise today with a heavy heart, one that is filled with
sorrow
for the families and loved ones who were killed and injured in New York,
Virginia, and Pennsylvania. Only the most foolish or the most callous
would
not understand the grief that has gripped the American people and
millions
across the world. This unspeakable attack on the United States has forced
me
to rely on my moral compass, my conscience, and my God for direction.


September 11 changed the world. Our deepest fears now haunt us. Yet I am
convinced that military action will not prevent further acts of
international terrorism against the United States. I know that this
use-of-force resolution will pass although we all know that the President
can wage a war even without this resolution. However difficult this vote
may
be, some of us must urge the use of restraint.


There must be some of us who say, let's step back for a moment and think
through the implications of our actions today--let us more fully
understand
its consequences. We are not dealing with a conventional war. We cannot
respond in a conventional manner. I do not want to see this spiral out of
control. This crisis involves issues of national security, foreign
policy,
public safety, intelligence gathering, economics, and murder. Our
response
must be equally multi-faceted.
We must not rush to judgment. Far too many innocent people have already
died. Our country is in mourning. If we rush to launch a counter-attack,
we
run too great a risk that women, children, and other non- combatants will
be
caught in the crossfire. Nor can we let our justified anger over these
outrageous acts by vicious murderers inflame prejudice against all Arab
Americans, Muslims, Southeast Asians, or any other people because of
their
race, religion, or ethnicity.


Finally, we must be careful not to embark on an open- ended war with
neither
an exit strategy nor a focused target. We cannot repeat past mistakes. In
1964, Congress gave President Lyndon Johnson the power to ``take all
necessary measures'' to repel attacks and prevent further aggression. In
so
doing, this House abandoned its own constitutional responsibilities and
launched our country into years of undeclared war in Vietnam.


At that time, Senator Wayne Morse, one of two lonely votes against the
Tonkin Gulf Resolution, declared, ``I believe that history will record
that

we have made a grave mistake in subverting and circumventing the
Constitution of the United States.........I believe that within the next
century, future generations will look with dismay and great
disappointment
upon a Congress which is now about to make such a historic mistake.''


Senator Morse was correct, and I fear we make the same mistake today.
And I fear the consequences. I have agonized over this vote. But I came to
grips
with it in the very painful yet beautiful memorial service today at the
National Cathedral. As a member of the clergy so eloquently said, ``As we
act, let us not become the evil that we deplore.''

<「衆議院憲法調査会神戸地方公聴会」傍聴記>
D
 衆議院憲法調査会神戸地方公聴会が、6月4日(月)ホテルオークラ神戸で開かれ参加した。

 意見陳述人として、兵庫県知事貝原俊民、川西市長柴生進、神戸市長笹山幸俊、学校法人大前学園理事長大前繁雄、神戸大学副学長浦部法穂、弁護士中北龍太郎、兵庫県医師会長橋本章男、兵庫県北淡町長小久保正雄、会社経営塚本英樹、大阪工業大学助教授中田作成の各氏が意見を述べた。

 地方公聴会が、神戸で行われた意味は、災害時の自衛隊派遣が本格化するきっかけとなった当地(阪神大震災の発生地神戸)で自衛隊の憲法上の位置づけの強化という目的をもった公聴会であったと思われる。

 会議のキーパーソンは、貝原知事であった。貝原知事は、「武力に変わる平和の維持発展の技術を日本が提案すべきだ。また、国民の70%以上が9条に賛成している」と述べ9条賛成の意見を述べた。また、意見陳述人への質疑において「自衛隊に1次的な活動を期待すべきではないと思う。近畿で数千人ぐらいだ。警察なら兵庫県でも1万人ぐらいいる。むしろ、広域防災支援機構を作って欲しい」と述べ、災害派遣に絡めた9条「改正」論を打ち砕いた。自民党推薦の陳述人がこのような意見を述べるとは思わなかったので意外だった。その他、民主党推薦の柴生、共産党推薦の浦部、社民党推薦の中北、一般公募の中田の各陳述人が、「9条は、21世紀は平和・人権の世紀という世界的な潮流に合致しているなど」と堅持の意見を述べた。

 一方、自由党推薦の大前、21世紀クラブ推薦の小久保、一般公募の塚本の各陳述人が「日本の伝統文化」に関する部分を憲法に入れる。天皇の元首化。「権利と義務」のうち義務の条文を増加せよ。自衛のための交戦権を認める。自衛隊を陸海軍と明記など9条の「改正」の意見を述べた。特に、びっくりしたのは、自由党の塩田晋が、天皇の元首化を主張する中で「国体護持」という言葉を使ったことである。国民を護持するならよくわかるが。

 公聴会の最後に、中山会長が、5人の傍聴人の意見を聞いた。憲法を擁護する意見の傍聴人が2人で、憲法「改正」賛成の意見を述べる傍聴人が2人いた。憲法「改正」賛成派がかなりの人数を動員していたようだ。公聴会の終了間際、9条「改正」反対派の女性2名が幕を掲げたところ、憲法「改正」賛成派の青年がその幕をむしり取るという出来事があり、会場は騒然となった。

 このようなハプニングもあったが、神戸の地方公聴会では、9条に関する限り、貝原知事を初めとする上記陳述人の信念を持った陳述・応答によって現行9条の堅持、「改正」反対が会の基調となった。

報告:憲法調査会を傍聴して(2001/6)<詳細レポート>



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