教員免許更新制で日本の教育は死ぬ?

 教員免許に更新制を導入する「教員免許法改正案」が衆議院を通過し、参議院に送られた。もし、この法案が成立すると、日本の教育はどうなるのか?それにより、日本の国はどうなるのか?本当に深刻な問題である。

 まず、教員免許更新制について、佐久間 亜紀(上越教育大学助教授)さんの「なぜ、いま教員免許更新制なのか〜教育ポピュリズムにさらされる教職員たち〜」という文章を引用したい。教員免許更新制の問題点と、その結果が的確に簡潔にまとめられている。

<以下引用>

        なぜ、いま教員免許更新制なのか〜教育ポピュリズムにさらされる教職員たち〜
                              佐久間 亜紀(上越教育大学助教授)

 教員免許更新制度(以下、更新制)を導入する教育職員免許法改正案が国会で審議されている。
 教員免許に更新制が導入されれば、これは免許制度をもつ諸職種のなかで、極めて異例のことになる。たとえば建築士免許制度については、2006年の耐震強度偽装事件を糾弾する世論の高まりのなかで、いったんは更新制の導入が検討されたが、後述するように「現行の日本の免許制度の理念と整合性が保たれない」として導入は見送られた。理論的に考えれば必然的な結論である。

 しかし、教員免許更新制に関しては、まず導入ありきで議論が続いている。
 一般のイメージとは裏腹に、教員免許更新制は「問題のある先生」を排除する手だてにも、「よい先生」の質を上げる手だてとしてもふさわしくない。むしろ長期的にみれば、今まで学校教員の質を維持していた基盤そのものを、崩壊させる可能性が高い。免許制度とは何かという基本を無視し、教育界における長年の議論や取り組みを覆してまで、いったいなぜ、いま教員免許更新制なのか。

1 教員免許更新制度とは

 文部科学大臣の諮問機関である中央教育審議会(中教審)は、2006年7月に「今後の教員養成・免許制度の在り方について」をまとめ、教員免許更新制の導入を答申した。今の教員免許状は、一度取得すれば生涯有効だが、今後は免許に有効期限をつけるという。期限が切れる前に30時間の講習を受講し修了すれば、新たに10年間有効の免許が授与されるしくみになっており、いったん失効しても、同様の講習を受け直せば、再授与の申請は可能とされている(表1)。

      表1 導入が検討されている免許更新制度案

有効期限 10年
更新条件 直近2年間で30時間の講習を修了すること
講習実施 国が認めた大学、または都道府県教育委員会等
更新の判断 修了認定(講習の成績)
複数免許 −つ更新すれば、他もあわせて更新
対   象 すべての免許(現職教員にも適用)

つまり中教審は、審議の末、更新制自体は「いわゆる不適格教員」の排除にふさわしい方法でないと結論し、導入目的を「教員の資質向上」(つまりは10年ごとに新たな研修を課すこと)におくと宣言したのである。答申は、教員として日常の職務を支障なくこなしている着であれば、「通常は更新されることが期待される」と明言する。

2 更新制で「ダメ教員」は排除できない

 内閣府はこの答申に苛立ちを隠さない。首相就任演説で教員免許更新制の導入をうたっていた安倍首相は、06年12月の衆議院特別委員会でも再度「不適格教員の排除のために」更新制を導入すると明言した。問題のある教員をなんとかしてほしいという市民の素朴な思いは、政策課題として真筆に受け止められるべきである。しかし、「不適格教員」を排除するために、教員免許を更新制にするというのは、目的と手段をはき違えた対応としかいいようがない。

 第1に、中教審が指摘するとおり、教員免許状とは、個人が何を学んだかを公証する「免許」制度であり、問題教員への対処は「任用」制度によって対応すべき問題である。たとえばもし、誰がどうみても「不適格」と判断される教員がいたとすれば、10年も更新期限を待つまでもなく迅速に対応すべきであろう。

 第2に、すでに「問題教員」を教壇から追い出す制度は、多種多様に創設され、現に多くの教員が処分されてきた(次頁表2)。いま求められているのは、既存の処分制度をいかに公正に適切に運用するかという改善であって、新たな制度の創設ではない。制度の問題と運用の問題を、混同してはならない。

     表2 問題教員に対する既存の諸制度

懲 戒 制 度 犯罪を犯すなどの法令違反、職務怠慢や義務違反などの場合、
戒告や減給、停職や免職になる制度
分 限 制 度 勤務実績力てよくない場合には、本人の意に反して降任、免職、
休職、降給になる制度
配置転換制度 子どもへの指導力て不適切な場合などは、教員を免職して、都道
府県の教員以外の職に配置転換になる制度
条件付採用制度 1年間、職務を良好な成績で遂行して初めて正式採用となる制
度(一般公務員の6カ月に比べ、教員の制度は厳しい)

 第3に、最大の問題は教員の「適格性」を判断する客観的指標がないことにある。今回の中教審答申が設定した更新基準は「@使命感や責任感、教育的愛情」「A社会性や対人関係能力」などきわめて抽象的な項目であり、更新には評価者の悉意的な判断を避けられない。既存の制度下で処分された数百名の教員が、もうすでに判断の妥当性をめぐって裁判で係争中であることにも明らかである。いったん更新制が導入されれば、将来的に国や行政当局によって、更新が恣意的に運用される危険がある。

 第4に、公務員制度と整合しない。更新制の運用を厳しくすれば、公務員一般は終身雇用であるのに、教員だけ実質的に任期制になる。

 第5に、他の資格制度とも整合しない。現在の日本で、有効期限がある専門資格は、・運転免許、狩猟免許、競輪選手など、主に「加齢」による技能低下で安全が損なわれる資格に限られる。万が一、教員の技能を判断する客観的指標が作れたとしても、その「技能」がベテラン教員になればなるほど衰えて、安全が損なわれることが明らかでなければ、免許に有効期限をつける合理的根拠や、他資格との整合性はうまれない。そもそも更新制は、「技能」の有無を客観的に測定する制度であり、「資質」を判断する制度ではない。

 以上の問題点は、中教審には充分に認識されていた。中教審は、すでに01年から「不適格教員排除」のための制度設計と「教員の資質向上」のための制度設計と、二つの角度から導入を検討していたが、いずれにせよ問題がありすぎるとして、02年にはいったん更新制導入を見送る見識を示したのである。

3 更新制は教員の資質向上にもつながらない

 しかし、04年の中山成彬大臣(当時)の諮問内容には更新制導入が復活し、今回は始めから導入ありきで審議が進んだ。それゆえ今回の答申は、導入目的を、教員の資質能力を「時代の変化に対応した資質能力」に「刷新(リニューアル)」すること、という論理を展開している。

 では更新制を導入すれば、中教審がうたうように教員の「資質能力」を「刷新」することが可能か。答えは否である。

 第1に、一人一人の教員のニーズにあった免許更新講習など不可能だ。更新講習は、全国一律に公正性を確保するため、画一的にならざるをえない。

 第2に、「その時々で必要な資質」を保障するのが目的なら、やはり10年も待っては意味がない。校内研修で迅速に、そして各学校の実態に即して柔軟に対応するほうが有効だ。

 第3に、更新講習の質は、どう考えても劣悪なものにならざるをえない。現職教員だけで110万人もいる上、非常勤教員等や失効した免許を回復して教職につきたい人を含めると、免許更新講習・免許回復講習の対象者は膨大な数に上る。たとえば、あくまで参考に更新期限を10年として試算しただけで、毎年約10万人ほどの対象者に30時間の講習を準備しなければならないことが予測される。更新講習を行いうる大学教員の数も、教育委員会職員の数も限られており、基本的には、講習は大人数を対象とした講義形式での実施にならざるをえないだろう。現行の学校における教員研修の方がよほど効果的である。

 第4に、更新講習費用を負担できる自治体はどこにもなく、更新費用は教員の自己負担となるだろう。多くの教員は、費用が安くて楽に修了できる更新講習に、流れていくことが予想される。安上がりでいい加減な講習をする大学ほど、更新講習で収入増という皮肉な現象が目に見えている。

4 米国の更新制との対比

 教員免許の更新制は国際的には極めて珍しく、先進国では米国にしかない。多くの国では、教員数を確保するために、教員の身分の安定は重要な政策課題であり、採用時に終身在職権を与えている。にもかかわらず、米国で免許更新制が成立したのには、独自の事情がある。

 米国では、教育行政の権限が分割され国が教育に直接関与することは憲法で制限され、州政府が直接関与できる範囲も限定されている。教員に関しては、養成は大学、免許授与は州、採用は校長、研修は「学校区」と呼ばれる地域ごとの組織が、権限を持っている。ところが、19世紀末以降、財政状況の厳しい地域では研修が行われず、地域ごとの教員の質の格差が問題になった。それゆえ州政府が、自ら権限を持つ免許制度を利用し、更新の条件として研修を課すことで、教員研修の普及と保障を図ってきたのである。不適格教員の排除は目的とされておらず、一定の研修を受ければ免許は更新される。更新制によって免許が失効するかもしれないという不安を抱く教員は、皆無といってよい。この背景には、日本では信じがたいほどの学校間格差がある。公立学校では教員のなり手が少なく、1980年代以降は特に、深刻な教員不足状態が続いている。貧しい地域の公立学校では、教員の数を確保するのさえ難しい。

 日本はどうか。すでに全国に教員研修制度が整備され、公立校教員には特に研修が徹底されている。先進諸国のなかでも、日本ほど徹底した研修制度を整備した国はない。したがって、日本は米国のように免許制度を介して研修の保障をはかる必要はまったくなく、事務量と費用も膨大で、費用対効果を考えても気の遠くなるような無駄としかいいようがない。日本の課題は、既存の研修制度をいかに有効に運用するかの方にあるのである。

5 引き起こされる悪影響

 デメリットはもっと大きい。当面の間、ほとんどの免許が更新されるような運用になれば、すぐさま目に見える変化は生じないだろう。しかし長期的にみれば、更新制導入は以下6点の理由から、今まで日本の学校教員の質を維持していた基盤そのものを崩壊させる可能性が高い。

(1)教員を萎縮させる

 第1に、更新制は心ある多くの教員を、萎縮させる。塾や予備校は「成績」や「合格率」をあげれば確実に高い評価を得られるが、学校教育に対する市民の期待は、あまりにも多様で多岐に富む。教員たちは、多様化しつづける保護者の期待に、「学級の保護者の6割から支持を得られれば上出来」と感じている。 どう評価されるかわからないという不安のなかで、されに失職の可能性が数年ごとに生じれば、多くの教員は身を守らざるをえない。新しい挑戦への意欲も徐々に失われる。失敗すれば職を失うなら無難なほうがよい。金八先生のように少々の摩擦も恐れず、子どもの利益を最優先に考えて行動してくれる教員は、少しずつだが確実に減少してゆくだろう。

(2)バランスの喪失

 第2に、世界的水準に照らしても、教員への行政による統制が強くなりすぎる。日本では、教員の免許授与から、採用試験の実施、教員配置や定期人事異動に至るまで、多くの権限が都道府県教育委員会に一極集中している。この現状は、世界でも類例をみず、各種の国際比較調査は、日本は主要国で最も教員統制が強いと分析している(たとえば、米国ETS社調査、2003年)。この現状に加え、ほとんどの主要国で採用時から与えられている終身在職権さえ剥奪されれば、日本の教員の自律性は、世界的にみてかなり低くなる。

 子どもに不利益をもたらす可能性があるのは、問題教員だけではない。児童虐待のように、保護者自身が子どもを苦しめる場合もあれば、過去の歴史や多くの裁判事例が示すとおり、行政が子どもに不利益をもたらす場合もある。重要なのは、三者が抑制と均衡(check and balance)を保ちながら、個々の状況に応じて、子どもにとっての最善を議論できる環境を担保することである。行政権力の必要以上の増大は、教員や保護者の自由な発言を封じこめる点からも、子どもにとって安全な状況とはいえない。

(3)恣意的に運営される恐れがある

 第3に、いったん更新制が導入されれば、更新するかどうかの判断が、悪意的に行われる危険性が生じる。今回の中教審答申は、「教員として日常の職務を支障なくこなし、自己研鎮に努めている者であれば、通常は更新されることが期待される(中略)前向きな制度」とうたう。しかし、客観的な指標を設定することが困難な以上、長期的にみれば、窓意的に運用される危険が大きいと考えるほうが自然だろう。国や地方自治体が定める「使命感や責任感」や「愛国心」が強要され、一方的な判断で教壇を追われる教員が、多数出現する危険性が高まる。しかも、教育基本法が改正された今、判断の公正性をめぐって教員が係争するための最大の拠り所が失われている。

(4)教員のなり手がなくなる

 第4に、教員の人材確保が難しくなる可能性が高い。自分の実績がどう評価されるかわからないという、上述の教職特有の状況下で、数年ごとに失職の可能性が生じることになれば、そもそも教職を志望する人が減少してゆくだろう。実際のところ、すでにもう学生の教職離れは進行している。数年前まで教員採用は氷河期を迎えており、河合塾などの予備校は、「就職先を失った教員養成系大学・学部は、学生から見離された」と評価していた。採用が増加に転じた今は、こんどは「どうせ取得するなら、期限付になる可能性の高い教員免許よりも、生涯有効な資格を取得したほうが有利だ」という学生の声が聞かれる。現職教師達の希望退職率も、予想を上回る高さで進行している。

 更新制を議論するなら、現職教員がどれほど巨大な労働人口を必要とする専門的職種であるか、充分認識する必要がある。(図1)。


 その上、教職の需要は子どもの出生数や転入出という地域の人口動態によって大きく増減するのに、専門的・技術的職業であるから、安易に供給はできない。養成には時間がかかるし、誰でも採用すればよいというわけにはいかないのである。

 世界を見渡せば、深刻な教員不足に悩む国のほうが多く、教員志望者が需要を上回っている日本の現状は、高く評価されてよい。さらに、過疎地や離島も含め、日本の全域で教員免許保持率がほぼ100%というのは、きわめて高い数字である。この現状は、かつて教員不足で苦しんだ日本が、人材確保法等の施策によってようやく創出してきた長年の努力の成果であり、世界各国の羨望の的とされている。日本は、なぜいまわざわざ自らこの基盤を崩そうとしているのか、理解に苦しむ。

(5)教職の女性化

 第5に、10年ごとに失職する危険が生じれば、男性教員の減少に拍車がかかる可能性が高い。筆者らの学生調査によれば、教職志望者の中でも特に男性は、教職を志望する理由の−つに「安定した身分」を挙げている。

 実は日本は、初等中等教育に携わる男性教員の割合が諸外国に比べ格段に高い。幼稚園教員に占める女性の割合が、OECD加盟国平均より高い一方で、中学校教員の半数以上を男性が占める。先進国では数少ない国の一つである(図2)。

(6)個人主義の促進

 第6に、教員の個人主義が助長されるだろう。自分の免許が無事更新されることが、何より大切になるのは自然な流れだ。自分の更新講習が忙しければ、若手教員へのアドバイス等二の次になってしまう。

 しかし多くの調査や研究は、行政による研修よりも、教員同士の学びあいのほうが教員自身にとって有意義であることを明らかにしてきた。特に日本の各学校では、ベテラン教員が新米教員をあたたかく見守り、日々の実践のなかで、それぞれの教員の性格や実態に見合った具体的なアドバイスをする慣習が継承されてきた。また、放課後や休日には、教員同士が自発的に学びあう自主研修会も全国各地で開催され、多くの心ある教員は、休みを返上して身銭を切って勉強会に参加し自己研鋒に励んできた。この現状は、近年になって世界的に注目され、コロンビア大学のティーチヤーズ・カレッジなど、日本の才受業研究に学ぶ研究拠点が、数多く設立されている。

 そもそも今でさえ、団塊世代の大量退職など多くの理由によって、教員同士の学びあいの伝統は衰退しつつある。世界の評価とは逆に、更新制導入は日本の教員のその衰退を加速するだろう。


6 教員の質は「低下」したか

 以上のように、教員免許更新制は、むしろ教員の意欲と質を低下させ、いままで日本の教育を支えてきた基盤そのものを破壊していく可能性が高い。

 「更新制が不毛なら、では低下した教員の質をどう向上するのか」と読者は問うだろう。確かに、教育に完成はなく、教員の資質向上はいつの時代にあっても重要な課題である。具体的な教員の資質向上策については他稿に譲るが、ここで確認したいのは更新制導入の議論が、「昔」と比べて日本の学校教員の質が「低下した」という認識に立脚している点である。

 しかし各種の実証的データは、日本の学校教育が世界的にはかなり高い水準の成果をあげていることを示している。公立学校教員の質も、圧倒的に高水準なのである。

 OECDの国際比較調査(『図表でみる教育OECDインディケータ2005』明石書店)によれば、教育機関に対する支出の対GDP比は、7%を超える米国や韓国に比べ、日本は5%以下であり、先進諸国では最低水準である。子ども1,000人あたりの教職員数も、米国123.5人、フランス120.1人に対し、日本は82.0人にすぎない。さらに、中等教育の平均学級規模をみると、米国22.6人、フランス24.3人に対し、日本は34.3人であり、OECDでも最大規模である(図3)。

 にもかかわらず、地域ごとの学校間格差は世界最小水準であり、子どもの各種国際学力調査でも、上位に入り続けてきた。少なくとも今までは、日本の教員たちは、先進諸国中最低の条件下で、最高水準の成果を挙げてきたといってよい。



 国内の経年変化をみても、NHK放送文化研究所の02年の調査によれば、中高生の9割以上は「学校を楽しい」と答え、20年前に比べて「学校が楽しい」という中高生は増えている。一方、暴力の欲求を持つ中高生は減少しており、少なくともこの調査によれば、中高生は全体として穏やかになってきたことが示されている。全体が穏やかになったため、逸脱行動が目立ちやすくなり、「キレる子」が注目されるようになったという解釈である(NHK放送文化研究所編『中学生・高校生の生活と意識調査』2003年)。

 もちろん、この種の調査の実施方法や解釈については論争されてよい。ここで指摘したいのは、この調査のように子どもや学校の状況が、「上出来」だったり、「向上」されたという情報が、全くといってよいほどマス・メディアで流通せず、一般市民の耳に届かないことの方である。

7 なぜ、いま免許更新制なのか−教育ポピュリズムの台頭

 再度問おう。冷静に考えればまったく不合理な制度であるのに、なぜ、いま免許更新制なのか。
 私には、「免許更新制は、なんとなくダメ教員を排除してくれそうだから」という印象論に基づく社会的雰囲気と、「世論の評価を得るために、とにかく何かわかりやすいことをしたいから」という政治的思惑の相互作用の帰結としか思えない。

 教育を「問題視」し、教員を一方的に批判して溜飲を下げる社会的雰囲気は、商業主義が拡大したマス・メディアによって増幅されている。学校の日常や、心ある多くの教員の努力はあたり前のものとして報道されず、突出した教育事件だけがセンセーショナルに報道される。そして人々が教員に向けるまなざしが批判的になり、その結果さらに教員が批判されるという悪循環が生じている。

 つまり、政治における大衆迎合主義と、マス・メディアにおける大衆迎合主義が、相互に補完しあいながら、人々の教育に対する漠然とした不安や不満をあおり、果てしない学校批判・教員批判を増幅させている。免許更新制はその帰結であり、教育の領域にも大衆迎合主義が浸透したことを象徴しているのである。教育の領域に台頭する大衆迎合主義を教育ポピュリズムとして指摘しよう。

  今、学校を危機に追いやっているのは、教員ではなく、子どもや教員をみつめる「まなざし」のほうであり、本当に「再生」しなければならないのは、子どもや教育を語る「語り方」の方である。教員不信のまなざしが、免許更新制を通して、いま本当に教員を「ダメ」にしようとしている。(2007/05/09 教育関連三法案緊急集会 ミニ学習会)

<引用終わり>

 これを読んで本当に日本の教育、日本という国が心配になった。多くの人に、教員免許法の「改悪」の実態と行方を知ってもらって、「改悪」を阻止しなければいけないと思う。

 姉葉建築士の事件に見られるように、耐震基準のごまかしは人の命に関わることである。また、医師の仕事も命に関わる仕事である。これらの免許書を国民の命の重さから更新制にするというのならまだ理解することも出来る。しかし、建築士の免許は、他の免許書との整合性がとれないと言うことでをの更新制を止め、医師の免許書については、論議もしていない。

  国民の生命より、お上に逆らう教員の方が重大ということだろうか。教員の人権を軽視してはならない。ある職種を軽視するということは、回り回ってあらゆる職も軽視されるということを忘れてはならない。

 また、その結果は、児童・生徒、国民に還っていくのである。

(2007/05/24)