「模擬葬式で命考えた」伊川谷高校3年現場で体験実習

 本物の葬儀場で葬祭にまつわる体験をする一風変わった授業が十九日、西区森友の和坂大和会館で行われた。伊川谷高校の三年生ら約二十人が参加し、棺の製作現場などを見学。模擬葬儀を行い”死”の現場と向き合った。
 同校の選択科目「接遇授業」の一環。授業を担当する非常勤講師の中尾ます子さんが初めて企画した。
 葬儀の意味や焼香の作法などの解説に続いて、設営が済んだ葬儀会場や生花の準備、棺の製作を見学、供え物の意味や宗派によって違う祭壇などの説明も受けた。実際に白装束を着て桶に入ってみる生徒もいた。
 その後、実際に葬儀が行われる会場で、葬儀を再現。生徒は喪主、親族、一般参列者などの分担を決め、読経のテープが流れる中、告別式を”体験”した。
(以下略)
(神戸新聞2001/11/20より一部抜粋)
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 選択科目「接遇授業」で「白装束に身を包み、棺の中へ入る体験もした葬儀場の授業」ということで、意味のある体験授業であったと思う。しかし、小・中学校などでは、難しいのではないだろうか。葬式ごっこを連想してしまう。AS

小中学生の職場学習で、自衛隊体験450校

 小中学校の「総合的学習の時間」の一環として昨春から始まった「職場体験」授業で、自衛隊基地(駐屯地)を選んだ学校が昨年度、約450校にのぼった。身近な「職場」として生徒たちが自主的に選ぶケースが多く、今年度も同じ傾向が続いている。しかし、中には泊まりがけで隊員と一緒の訓練に参加したり、今年に入ってからは戦車に乗って機関銃にさわっていたりした例もあった。各地の教職員組合などからは、「体験」の内容に慎重さを求める声も出ている。
 陸上自衛隊の方面総監部や海上自衛隊の地方総監部、航空自衛隊の方面隊司令部が置かれた基地などが把握している件数を集計した。この結果、昨年度、陸自の基地・駐屯地を小学校20校、中学校399校が体験学習で訪れていたことがわかった。栃木県(60校)や、北海道(41校)の学校が目立つ。海自には中学校2校、空自には中学校28校の生徒が訪れていた。
 海自舞鶴教育隊(京都府舞鶴市)では昨年10月、同市立中学校の2年生22人が停泊中の護衛艦の内部を見学し、手旗信号の訓練などを受けた。今年10月にも同様の体験学習を予定していたが、米国の同時多発テロで中止した。「自衛隊も、商店や工場などと同じ『事業所』の一つ。あえて除外する理由はないので」と学校側。基地の街では、自衛隊は最も身近な「職場」のひとつだ。
 だが、やり方によっては疑問の声があがりかねない。陸自山口駐屯地(山口市)には昨年10月、地元の村立中学校の男子生徒2人が宿泊した。1泊2日で隊員と寝食を共にし、サーキットトレーニングや靴磨きなどをしたという。山口県教組などは「まるで体験入隊」と、県教委に中止を求める申入書を提出した。
 今年5月には、陸自真駒内駐屯地(札幌市)で、札幌市立中学校の男子生徒13人が隊員の案内で戦車に乗った。操縦席に座ったり、搭載されている機関銃にさわったりしたという。地元の民主党札幌は「子どもたちにカッコイイとか、あこがれといった誤った価値観を抱かせかねない。配慮を欠いている」と批判。武器見学などの中止を市教委に申し入れている。
 防衛庁広報課は「学校側の要望を聞き、その後、現場の基地や駐屯地などの判断で、適切なメニューを考えてもらっている。受け入れに関して、統一的な取り決めをつくる予定などは今のところない」と話している。
 小中学生の職場体験は、来年度から始まる新学習指導要領の中で、「総合的学習」の一つに位置づけられている。昨年4月から、一部の学校が試験的に授業に採り入れている。
(以下略)
(朝日新聞2001/11/17より一部抜粋)
 この記事を読んで、自衛隊を体験学習の場に選ぶ学校がずいぶん多いのでおどろいた。「総合的学習の時間」は、なんでもありなのでしょうか。AS

公教育に明日はあるか

 論座11月号「公教育に明日はあるか」という特集があり気になるところがあったので、「論座」の井上修さんと苅谷剛彦さんの論文を一部引用して公教育についての考えを述べてみたい。


新教育課程で公教育は破壊する
 「親の所得や教育意識の違いによる階層化が今後さらに進み、2010年頃には、上位の階層は子どもを私学に通わせ、下位の階層は子どもを学校へやらなくなる――。来春実施される新学習指導要領をめぐっては、学習内容や授業時間が大幅に減らされて、子どもたちの学力が低下するのではないか、ということで議論されていますが、私は、それどころか、新学習指導要領の実施によって、数年後には公教育システム全体が崩壊してしまうのではないかと考えています。」(井上修、論座11月号)

総合的な学習の時間
 同じく井上は、「教育格差でもう一つ気がかりなのは、新学習指導要領で新たに導入される『総合的な学習の時間』の問題です。新カリキュラムでは、この『総合の時間』に多くの時間を割いています。その学習内容は決まっておらず各学校の判断に任せられているので、教育熱が高い地域の学校とそうでない学校では、この時間に対する姿勢が違ってくるでしょう。『総合の時間』は、ある程度、内容のある授業を組み立てようと思えば、事前の準備が不可欠ですし、教師の高い指導能力や、場合によっては父母の協力も必要になってきます。ですから、地域的に『教育困難校』といわれているような学校では、『総合の時間』が成り立たなくなる可能性もあります。」と述べている。

教育改革
 2001年度の通常国会で教育三法が成立した。教育三法は、教育改革国民会議の最終報告に基づき文部科学省が策定した「二一世紀教育プラン」の第一段階の教育改革である。第二の改革は2年以内に行うことになっており、私立小中学校の設置推進、学校評価制度の導入、小中高の学習到達度試験の実施、中高一貫校の設置推進、道徳教育の充実、優秀な教員に対する表彰制度と特別昇給の導入、以上六つの課題がある。
 また現在、満18歳後の青年の奉仕活動、教員免許更新制度、教育基本法の見直しが中教審で検討されており、答申を受けて行われる改革は第三段階の改革といえる。
 以上の改革は、80年代の臨教審答申に基づく教育改革路線の延長上のものであり、戦後教育の総見直しである。(大塚和弘、ECAネットメディア20号)

スーパー・サイエンス・ハイスクール
 文部科学省は科学技術、理科教育の総合的な振興策に乗り出すことを決め、構造改革関連として来年度約90億円の予算を要求した。計画では、まず全国の小中高校1、500校を理科教育推進校に指定し、実験や観察設備を重点に整備する。第二に体験的な教育を行うとともに教材や指導方法を検討する。また施設設備を地域内の拠点として活用する。第三に、国公私立の高校20校を「スーパー・サイエンス・ハイスクール」に指定し、学習指導要領を超えた高度な科学教育を行う。また大学教官など第一線の研究者を講師に用い、科学系のクラブ活動などの振興をはかる。そのため、一校当たり3、000万円を助成する。第四に、以上のほか先導的な科学技術教育を研究する。そのため、大学や研究機関などと連携し、講師を学校に派遣して教材や指導法を研究する。また、国立科学博物館の資料、情報活用など、総合的な科学技術、理科教育の振興をめざす。以上の施策をとおして、文科科学省は子どもの「科学技術・理科離れ」をくい止め、全体的な底上げをはかるとともに、将来的な科学技術や新産業の担い手の育成をはかろうとしている。(大塚和弘、ECAネットメディア20号)

スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール
 文部科学省は、「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」を設置する方針を決め、来年度は二桁台の学校を指定することにした。既存の高校を、学習指導要領に縛られずに自由なカリキュラムを組める「研究開発学校」に指定するとしているが、効果が上がれば、授業方法を一般にも広め、国民的英語力の向上に役立てるとしている。「英語漬け教育」のほか、英語の授業時数の引き上げをはかるつもりである。文科科学省が行った「未来の技術予測」によると、2013年には英語が国内のほとんどの国際企業の標準語になるという予測を立てており、それが文科科学省が英語力重視の背景にある。「日常会話に不自由しないレベルをめざし」「現科学を中心に今後高度な英語力の要求に対応したい」というのが文科省の考えである。「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」では英語に加え数学や物理、科学など海外から派遣される外国人指導助手の協力を得るほか、科学や理科の教師の英語力を高めるため集中研修に参加させたり、海外の大学で教えた経験のある研究者や芸術家に指導してもらうことを考えている。(大塚和弘、ECAネットメディア20号)

高大連携と飛び入学
 ボランティアや大学での聴講などの校外活動を単位に認定する高校が増えている実態が、文科省の調査で明らかになった。大学での講座履修を単位に認定した高校が、前年度の倍以上の49校に上った。うち公立は20校で、提携先の大学も私立大学から国立大学に拡大。また単位には数えないが、公開講座を聴講したり、大学教員が高校に出向して講義したりして、大学と交流を持った高校は1、054校に上った。高校が大学聴講やボランティアを単位として認定することができる制度導入が行われたのは1998年である。今回の17歳からの「飛び入学」の分野限定(現行では物理、数学に限定)廃止や学力要件の適用除外によって、高校と大学との連携は大きく進むであろう。(大塚和弘、ECAネットメディア20号)

「できる子」を前提にした具体策
 文科科学省は、理解の早い子どもに発展的な内容の特別指導をするよう小中学校を促す方針を決定し、来年度11億円の予算を要求した。具体的には、全国1、000校をモデル校に指定して、教員を増員、補助教材や指導法の研究を行うことになる。従って教育事務所ごとに2〜3校の小中学校を指定し、各校には教員を1人程度増やす。また習熟度に応じた少人数授業を行う。文科科学省がこのように「できる子」を前提にした具体策をすすめるのは初めてのことである。文科科学省は、学習塾に通い、学校の授業を先取りして勉強する子どもが増えたことをその背景としてあげ、理解の早い子にとっては「学力低下を招く」「退屈する」との批判に応えようとするものである。新学習指導要領の2002年度施行を前にして、学校での「ゆとり」とは逆に家庭での学習塾通いが過熱し、「先回り」を競って、低年齢化してきている。中学校高学年から習熟度別クラス編成が学年を超えて行われることになり、それを見越しての学習の「先回り」が競われているからである。(大塚和弘、ECAネットメディア20号)

カリフォルニアの「失敗」の教訓(苅谷剛彦「論座11月号」)
 来年実施される新学習指導要領では、米国で根強く支持されてきた「子ども中心主義」教育の考え方を大きく取り入れている。しかし、米カリフォルニア州では、この考え方に基づいた教育改革の後、子どもたちの学力が大きく落ち込む「失敗」を経験した。
 日本の「新しい学力観」の導入とほぼ同じ時期に、しかも州全体を覆う新しいカリキュラム、革新的な教授法として、ホールランゲージ、ホールマスと呼ばれる「子ども中心主義」の改革が断行された。しかし、その顛末は、以上に見た通りである。こうした結果を、保守派によるイデオロギー攻撃によって、子ども中心主義の教育が政治的に抹殺された、とする見方が、アメリカにはある。ちょうど日本での学力低下の問題提起を、イデオロギー的な「反動」と見なす議論と同じである。だが、イデオロギーの対立、振り子の振幅と見るかぎり、私たちは歴史から多くを学ぶことはできない。
 カリフォルニアの〈実験〉から私たちが学べることは何か。もちろん、日本とカリフォルニアとの間にはさまざまな違いもある。だが、それを差し引いたとしても、私たちは多くのことをこの壮大な〈実験〉から学ぶことができる。
 第一に、州全体、あるいは国全体で、カリキュラムや教授法についての考え方を一挙にトラスティックに変更することの危険性である。失敗した場合には、その影響はあまりに大きい。カリフォルニアでも、この間教育を受けた子どもたち、とりわけ、経済的・文化的に恵まれないマイノリティーの子どもたちがこの壮大な〈実験〉によってもっとも不利益をこうむったのである。子ども中心主義の考え方自体に問題があったというよりも、その責任は、ラブレスの指摘通り、明確な成功の保証も研究の裏付けもないままトラスティックな変更を一斉に導入した行政の側に求められるべきである。
 第二に、とりわけ、改革が目指す改善の方法が明確に定義されなかったり、よほどの経験と専門性と関心を有する教師でなければ期待通りの成果を上げられないような教授法においては、広範な〈実験〉が失敗する可能性が高い。有能な教師が周到な準備のもとに行えば、大きな成果も期待できよう。しかし、少数の先進的な事例でうまくいった実践が、他の条件のもとではうまくいかないことがしばしばある。しかも、カリフォルニアは全米でもっとも一学級あたりの生徒数が多い。条件整備も不十分だったのだ。また、学年によってどのような課題設定をすればよいのかが不明確なままなら、改革の成功はいっそうおぼつかなくなる。これらの問題は、四十人学級のもとで学校や教師の「創意工夫」にゆだねられ、小学校から高校まで一斉に実施される「総合的な学習の時間」にそのまま当てはまる警告といえる。
 第三に、不利な社会経済的環境にある階層やマイノリティーの子どもたちにとって、子ども中心主義の教育が有効に働くのかどうかという問題である。この問題は、カリフォルニアでも議論されたし、アメリカの教育史を見ても、たびたび指摘されてきた。そもそも子ども中心主義の教育が実験的に行われ、成功した事例の多くは、富裕層の白人たちが通う小規模な私立や大学の付属学校である。それゆえ、先に引用した教員養成用の教科書においても、子ども中心主義の教育実践が、大都市部の貧困地区の公立校でうまくいくのかどうか、わざわざ章を立てて検討している。いや、日本でも、労働者階級が多く、「しんどい」地区と呼ばれる学区の公立中学校で詳細な観察を行った志水宏吉の研究(『よみがえれ公立中学』」が、次のような教師の言葉を記録している。「むずかしいんやなあ。今ね、ちょっと切り替えな仕方がないなあと思って、まあ、ごく簡単に言えば、考える社会科から覚える社会科に。なんでかと言うと、ある程度のこと覚えたうえで、いろんな考え方とかやるわけやね。そんなたくさんでなくても、ええんやけどね。今までの学校ではね、だいたいクリアしとったわけよ。それが、全然クリアできないね。まず、教科書が読まれへん。インドってどの辺りにあるかぐらい、なんとなくわかってると思うやん。全然わかってない。考えさせる社会科ちゅうのやっとったら、底抜けたままで。難儀やねえ」
 子どもが主人公という割には、日本での子ども中心主義の教育は、こうした子どもたちの家庭的な背景の影響について、ほとんど問題にしない。学ぶ側の主体性が強調されるにしても、諏訪哲二が鋭く指摘したように、学ぼうとしない子どもたちの主体性には言及されないのである(『なぜ授業は壊れ、学力は低下するのか』)。ここには、私がたびたび指摘してきた日本の教育論議における階層的視点の欠如という問題が露呈している。
 第四に、先に述べた、構成主義と関連する問題がある。子ども中心主義の教育を批判してきたハーシュによれば、体験学習の有効性を根拠づけるはずの構成主義は、他の学習スタイルにも普遍的に妥当するという。「言語の有意味性を含んだ学習は、いかなるものといえども、あきらかに構成された学習なのである。(中略)講義を聴いて学ぶという学習の過程においてさえ、その有意味性は、学習者によってアクティブに構成されていなければならない。(講義を)聴くという行為でさえ、読みと同様に、受動的な、純粋に受け入れるだけの行為とはほど遠いものである」(ハーシユ)
 この主張が正しいとすれば、学習者にとって学ぶことの意味をわがらせる方法は、体験学習や調べ学習といったスタイルの授業だけに求められるわけではない。知識の理解を目指したわかりやすい授業とは、学ぶ事柄と既知の知識と、の関係がとらえやすい授業である教師たちがなじんできた教授法においても、構成主義の考え方は当てはまる。その点で工夫された授業ができれば、獲得した知識をもとに、さらに有意味な学習を展開できる。しかもハーシュによれば、それは、体系性を欠いた体験学習よりも問題解決能力などを高める基盤にもなることを示す研究があるというのだ。
 明確な体系と有意味性をもった授業は、マイノリティーや貧困層の多い学校においても有効な教授法であることが、アメリカの教育研究者たちによって指摘されている。しかも驚くべきことに、こうしたアメリカの研究者の中には、「新しい学力観」導入以前の日本の小学校では、バランスのとれた、目標の明確な、組織的な〈子ども中心主義〉の教育が行われていたと見る者もいる。アメリカと日本の小学校の授業を比較したいくつかの研究が、日本の学校では、子どもたちの授業への積極的な参加を上手につかった、有意味性をもった授業を展開していたことを称賛とともに紹介している。
 日本の小学校の教育を「教師が一方的に子どもたちに教え込む指導」と見なし、よりいっそうの子ども中心主義を求めた教育改革は、それまでの適切なバランスを崩す方向に授業を変えてしまったのかもしれない。やみくもに子ども中心主義の教育を推し進めることは、こうした危険性と隣り合わせである。だからこそ、教師をはじめ教育関係者は、その成果を不断にチェックすることが求められる。新しい能力の育成を目指すのならなおさらのこと、その能力の評価法を開発した上で、改革に取り組むべきである。過去の事実、現状の判断を怠ったまま改革を一斉に推し進め、流行やムードに流された実践に終始すれば、公立学校の空洞化が進むだけだ。
 もちろん、いかにバランスを回復するかという具体的な課題は残る。その点で、教授法やカリキュラム論を専門とする教育研究者の果たす役割は大きい。バランスの回復が、総合的な学習の時間とは別枠で、たんにドリルや宿題を増やせば。いいといった安直な基礎・基本の重視に終わるならば、公立学校の教育力はますます弱まっていく。「古い学力」と「新しい学力」との二分法が、相互に関係をもたないまま、そのまま学校に持ち込まれることが、教育力を弱めていくのである。
 小学校では子ども中心主義に立っ「総合的な学習」が大幅に取り入れられ、中学や高校ではほとんど変化がないといった状態もまた、アンバランスを助長するだけだ。そうなれば、公立学校体系全体への信頼がゆらぎ、ますます「ブライト・フライト(成績優秀者の公立校からの逃亡)」が進むだろう。小学校から大学までを通じた「バランスの回復」こそが日本の公立学校再生の鍵である。

府立高校でリーダー養成
 大阪府教委は、将来のリーダー層を育成する重点策として、府立高校十数校を指定する方針を固めた。カリキュラム編成や教員配置について校長の裁量権を拡大するほか、予算面での優遇策などを検討している。早ければ来年度から指定に踏み切る。府教委によると、意欲のある子どもをさらに伸ばし、次世代をリードする骨太の人材づくりを目指すという。卒業生が大学などを経て社会人となったとき、積極的に社会貢献を意識するように「ノーブレス・オプリージュ」(高い地位に伴う義務)の精神も教育する。「受験エリート育成」の批判を避けるため、受験に直結しない幅広い教養教育や、クラブ活動にも力を入れる。指定校は、65分授業や,夏休み中の自習セミナーなどを採り入れ、学力向上に力を入れている約20校から選ぶ方針。府教委の承認が必要なカリキュラム編成を大幅に自由化し、指導力に富んだ教員を優先配置するという。(朝日新聞10/4)

公私定員弾力化に
 公私定員弾力的に大阪府は、現行7対3になっている府内の公立高校と私立高校の生徒受け入れ比率を05年度から弾力化する方針を決めた。志望校の選択の余地を広げて学校の活性化を図るのが狙い。太田房江知事が3日午後、府議会で表明した。大阪府では現在、公私を合わせた入学定員が、公立中学校の卒業生数に高校進学率をかけた数字を上回らないように公立7割、私立3割で調整。生徒急増期の78年に、「公私立高校連絡協議会」を設置し、公私の受け入れ比率を話し合っており「護送船団方式」とも呼ばれていた。しかし、生徒減少期に入って比率設定の意味合いが薄れてきており、比率の弾力化で、子どもの自由な選択のもとに公、私立高が競い合い、良質な教育サービスの提供を図ることにした。(朝日新聞10/4)

日本の社会はどうなるか
 以上の点から、従来の日本の公教育は崩壊するのではないか。文部科学省も、公教育を「できる子」と「できない子」の2本立てにしようとしている。もっと細かく言うと、さらに良く「できる子」は私学に、次の「できる子」は公立のスーパー高校などに、「できない子は」単なる公立高校へという複線型の教育体系を考えているのではないだろうか。
 このように新学習指導要領により、日本の社会はさらに階層差がはっきりとした社会となるのでは・・・。
(2001/10/18)


「日の丸・君が代という暴力」
<させられる教育、途絶する教師>@「日の丸・君が代に傷つく教師たち」野田正彰(2001年世界11月号)を読んで
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 「世界11月号」で<させられる教育、途絶する教師>@「日の丸・君が代に傷つく教師たち」という野田正彰さんの文章を読んで、深刻な思いをしたので紹介をしたい。
 教員になった人は、野田氏が言うように「人はいつ、何を想って学校の先生(教師)になろうとするのだろうか。子供のころ、やさしく溌剌とした先生に教えてもらった。子供が好き。素朴に問いかけ、月日とともに成長していく子供が好き。そんな子供たちの成長に役立つ一生を送れたら、幸せ。いくつかの選択動機があるだろうが、子供とともに生きたい、と思わなかった人はいないであろう。消去法で教員を選んだと思っている人も、動機の底に子供をともに生きるのは悪くないと肯定したのであろう。」
 しかし、自分の教育信条を無理矢理曲げさせ、強制する管理強化のなかで、野田氏の言う「良心への暴力は、教育者に何をもたらすか。無理やりさせられたという思いは、教育への意欲を低下させる。そこに人間不信が忍びこみ、本音で話しあうことがなくなる。働く意欲を低下させた自分を隠し、表面的な会話しかしなくなる。生徒に対しても、『人生とはこんなもの』という言い訳を暗黙のうちに伝えるようになる。強制に耐えられず辞めていく人、体をいためる人がいることはまだしも救いである。このままでは、やがて精神を傷める人もいなくなるだろう。」
 近年、ほとんど「日の丸・君が代」についての議論はない。少し前は、活発に論議されたのだが、徐々に教育現場は管理が強化され、組合員の数も減少した。そして、現場の官僚主義化は深刻である。それをもたらしたものは、次のものだ。文部省・教育委員会による教員管理の強化、学校内における相互管理、教育委員会を上−学校を下とする構造、教育委員会事務局の指導主事が教頭・校長になるという人事交流、教育とは無縁の立身出世の上昇志向の助長、職員会議の補助機関化、校長権限の強化だ。
 その結果、どうせ言っても同じ。発言して睨まれるくらいなら黙っておこう。おかしいと思うことがあっても口に出さず黙々と自分の授業や部活・学級運営をおこなう。他人と深く交わることを避け、授業やクラス運営などの相互交流や批判をしない。今、必要なことは、学術的な雰囲気、新しい教材を開発しようとする意欲、人間として生徒の悩みを深く聞きともに解決をはかろうとする態度、お互いの授業の情報交換だ。教育改革に求められているものは、硬直した官僚主義を廃し、このように教育現場を再構築することではないか。
 教育改革国民会議の報告の「準管理職、教頭複数制」は、職場をますます管理的にするだけである。また、「校長の裁量権を拡大し、若手を登用し任期を長期化する」も、現行のままの体制では、管理だけが強化される。教員の自由な雰囲気や創意工夫が学校運営に反映される制度がなければ、感性豊かな子どもを育む教育はできない。今、ルールを守るという基本的なことが社会全体で希薄になり、モラルハザードが叫ばれている。長いものに巻かれない、気概をもった生徒を育てるためには、官僚的な組織を改善する必要がある。
 このような学校の病理が深刻なのは、野田氏が紹介していたS校長の「教師自身に夢が持てないのに子供たちに夢をもとうとどうして言えるか。」ということであろう。
 是非、「世界」のこの連載を読んでもらいたい。
                    (2001/10/16)


「CD−R(PDF)による「課題研究」論文集の発刊」
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 従来は、紙で論文集を発行していたが、記憶媒体のCD−ROMが安価になり(1枚100円以内)、CD−ROMで論集をだすことにした。紙の論文集は製本に時間がかかるので、生徒にCD−ROMで論文集を出そうというと賛成してくれた。アドビ・アクロバットを使ってPDFで制作した。PDFのメリットは、記憶容量が少なくなることと一端書いたものに加工できないことである。PDFは、本や新聞、公文書などの固定するものに向いている。論文集にも最適である。ワードで15人の論文を編集して、それをAdobe Acrobat4.0という変換ソフトでPDFに変換し、論文集を作った。ワードで4MぐらいあったものがPDFでは2Mぐらいになった。それを、CD/RWを使ってCD−Rに焼き付けた。CD/RWは、4倍速のパナソニックのKXL−RW10ANというのを25、000円で買った。論文集の検索は、目次のページで、テーマをクリックするとその文章へ飛ぶように設定した。ワードの「挿入」の「検索と目次」でテーマのところに「見出し」を埋め込むと、テーマ一覧が作成できるのでそれで制作した。PDFに変換すると取消線みたいなものが現れたが、機能には、支障がなかった。もう少し大がかりな論文集では、「PDFエクスプローラー For CD−ROM」といったデーターベースを使った検索ソフトがあるようだ。その後、CD−Rラベラーセット(4、000円まで)を使ってラベルを作った。印刷は、ゼミの生徒が印刷した。とてもきれいなCD−ROMの論文集ができた。CD−ROMは、640Mあるので、3年生全員275名でも制作できるなと思った(ただ、CD−ROMを焼くのに大変な時間がかかる)。
 CD/RW、CD−R、ラベラーなど少し出費だったがいいものができたので満足している。2月26日に生徒に配るととても喜んでいた。
(2001/2)

「ピーター・フランクル」さんの教育論


 2001年1月14日、ハービス・ホールにおいて、〜10代が生きる「いま」〜と題するシンポジュウムがあり参加した。
 村上龍さんの講演と、江川紹子さん、ピーター・フランクルさんらのパネルディスカッションがあった。
 3人の話は、ある程度共通していた。それは、日本の社会が「村社会」ではなくなったこと。かつては、国家はみんなに夢を提示することができたが、現在はそうでなくなっている。今は、個々人がそれぞれの夢をそれぞれ実現できればいいという時代になっている。共通の夢はない。また、コミュニケーションがないのは昔も今も違ってない、同じ。昔も世代間のコミュニケーションはなかった。昔は、貧しかったので、学校で問題があってもすき焼きやバナナなどを食べると忘れることができた。若者の考え方は変わっていない。取り巻く環境が変わった。携帯電話やインターネットなどコミュニケーションの手段が多様化しているのはいいことだ。よくなった面からも評価すべきだ。子供が変わったのではなく大人が変わったのだというものだった。
 その中でも、ピーター・フランクルさんの話に一番感銘を受けた。ピーター・フランクルさんは、数学者で大道芸人だ。現在NHKの「マティマティカ」という番組に出演されている。昨年、討論会を含めて全国で150回講演されその内60回は、高校・中学・小学校で講演された。私の学校にも是非来ていただいて、生徒に話をしてもらいたいと思った。それで、教育に関係する部分に表題を付け、その一部分の要旨を紹介する。

〈学級崩壊〉
 今、学級崩壊が問題になっているが、何を学級崩壊というのか。子供がちゃんと座るか座らないとかいうとても固い視点から見た学級崩壊が起こっているのか。それとも勉強するのかしないのか、他の人のじゃまをするのかしないのかという視点から見たら、だいぶん違ってくる。
 親しくしているドイツ人の英語の先生がいて、15年前その人が教えている学校に行った。僕が持っていたドイツのイメージは、赤信号絶対渡らないとか頭の固いところがあるから、それを期待したら大はずれだった。学生は足をテーブルの上に載せるとか、刺繍をするとか、ニッティングをするとか他の本を読むとかという感じだった。ところが、先生が英語で質問するときちんと答える。髪の毛をモヒカンの形にした学生も中にいたが、ちゃんと授業を聞いて答えた。だから、日本を変えなければならない、教育を変えなければならないのは確かにある。

〈知的水準の低下〉

 初めて日本に来たのは18年前だ。二つの変化を感じるが、一つは、18年前日本人は上を向いて歩いていたような気がする。21世紀は日本の世紀だ。そういう考え方が主流で、中にいるのが楽しくて、僕もこの中で頑張ろうと決めた。けれどもそれも変わった。もう一つは、日本人はみんな知的だと感じた。それは、私の知らない漢字を知っているということもあったが、日本人は天才だった。でも、その頃に比べて、私も漢字を読めるようになったが、日本人の知性は落ちてきた。知的好奇心はどこへいったんだろうと思えるほどだ。

〈親の責任〉
 私は、ヨーロッパのハンガリーという当時共産主義の国家に生まれ育って、一番思ったのは、教育の一番の責任者は文部省でも学校でもないということだ、「親」だ。子供がどうであれ、それは子供の責任でない。子供は親の鏡だ。親がどういうふうに子供にいろんなことを教えたのかしつけたのかそれによって子供は変わる。そういう面では、私は非常に恵まれた。僕はユダヤ人だ。それを理由に第2次大戦中に父の両親も母の両親も4人とも強制収容所に入れられて殺された。父も持っているもの全て失って、大学を卒業して助手になったけれども1年後にヒトラーの登場によって職を失った。大変な経験をたくさんした。そんな経験をして父親が出した結論は、人間が持っているものは身一つ。その中でも大切なものは「頭」と「心」なんだということだ。あなたの財産は頭と心だけだそう考えなさいとそう育ててきた。それが一番私を勉強好きにした。日本の社会がそういう方向に変わればいいなと考えている。

〈ポスト工業社会の夢〉
 日本は、成熟したポスト工業社会になっている。だから、過大な消費を夢見るのはふさわしくない時代だ。昔の滅私奉公から「滅公活私」の方に変わっている。それは、決して悪くない。今日本の国は、個々人に希望・期待・夢を用意することができない、社会は多様化されてみんなに同じような夢を与えることができない。少し前の日本の人たちはどんな夢を持ったか。それは、自分の私生活の夢よりも自分の働いている企業での夢のために一生懸命頑張って、場合によっては自分の人生を犠牲にするまでやった。しかし、これからそうあるべきではない。これから日本の国がどう動くか見えない状態だ。日本の企業もこれから高度成長時代にはいることはとても考えられない。だからこんな時代には僕はいつも父の言った言葉を思い出す。人間はどんな時代に生まれてくるのかそれは自分で選ぶことができない。だからといって10年前に生まれてくればよかった50年後に生まれてくればよかったとか、ばっかりいってもどうにもならない。せっかくの人生一回キリの人生だから、どんな状況になってもどうにか前向きに積極的にやるべきだ。だから今の日本の若者にとっては大きな可能性のある時代だ。今までと違って今度こそ自分の人生に夢を持たなければならない。

〈奉仕活動の義務化に反対〉
 僕が一つだけ信じることがある。どんな人間でもその人にしかできない可能性・才能・素質がある。若者の一番の責任は、決して社会に貢献することではない。若者の一番大きな責任は自分にはどんな可能性があるか、自分には何ができるのか、自分は何をやるべきなのかそれを一生懸命考えて、自分を成長させて、成長してから社会に貢献すれば、より明るい、より楽しい、いい社会になると思う。だから、僕が今一番反対しているのは、奉仕活動を義務づけるということだ。それで子供がいい方向に変わるとは決して思えない。逆に子供に成長する可能性を与えて自ら成熟してから社会全体に貢献すればもっといい日本・国になると思う。

〈コミュニケーション能力〉
 僕は、「以心伝心」の時代は終わったと思っている。以心伝心は、村社会の時代だった。みんなが全く同じ環境の中に住んでいて、家の中もほとんど同じで、見ているのものもほとんど同じで。その中には、言葉一つ発することなくコミュニケーションが可能な状況になるということができたが、今は、大学でも様々な地域から出てきた人達、帰国子女も中にいたり、洋服も違っていたり、やっぱり違う人が集まるときには、ものをいわない人の意見が他の人に通用するとは思えない。いくら日本人であっても無理になった。日本人にとっては自分の意見が言えるためには何が必要なのか。ディベートは大切だ。僕の尊敬するアメリカの友人が、初めて中学生の時ディベートをやったがどんなテーマだったか。学校で選んだテーマは、火星人は足が3本あるのか4本あるのか。これに対しディベートする。クラスを2つに分けて片方は3本足論をもう一方は4本足論を展開している。なぜ3本でなければいけないのか4本でなければいけないのか。どうして皆でするのか脳の訓練だ。ケンカではない。ディベートしてよく話して後で握手してお酒を飲むとか散歩するとかそういう環境にしなければならない。これこそ教育の役割だ。

〈英語教育は日本語教育〉
 よく、日本人は自分は英語が下手だと言う。僕はいつも思っているのは日本語は世界一難しい言語だということだ。いままで30カ国語以上勉強した。その中で群を抜いて日本語が難しい。これほど難しい日本語をほぼ完璧に操る日本人は、英語みたいに易しい言語なんてお茶の子さいさいと思うができない。やはり、日本語でディベートができない、日本語で自分の意見を言えないということが一番の大きな原因だと思う。つまり、自分の母国語で言えない人が英語が上手に話せるわけがない。急がば回れという言葉があるが、英語が上手に話せるようになるにはまず日本語できちんと自分の意見をまとめなければならない。人にまず言わなくていい、自分の頭の中を整理しなければならない。頭の中には引き出しとかファイルを作って、その中にはきちっとこういう風な意見を入れなければならない。毎朝新聞とか読んで、さらっと読むんではなくて、その記事について考えて、自分の頭の中で賛成できるいや違うんじゃないか。それを通して意見をまとめるそういう準備をしなければならない。

〈自分の時間の大切さ〉
 日本と外国で一番違うと思っているもの。日本にないもの。それは、自分の時間のあるかなしかだ。自分の時間を持とうとしないことは教育のせいだ。私がはっきり覚えているのは、小学校3年生の担任の先生が、放課後もタイムテーブルを作りなさい。一週間一週間ごとに何をやりたいのか自分で計画を立てなさいといった。それを通して、時間の尊さ。時間を管理しなければならないという大切な考えを教わったような気がする。日本人にも勧めたいと思う。
 コミュニケーションの道具が発達して、現代では、携帯電話でいつでも友だちや親と連絡がとれる、インターネットでいろんなものを見ることができる。しかし、人間にとってとても大切なのは、一人での時間、自分一人の時間だ。自分一人でじっくり考える、自分のこれからとかやりたいことなど一人での時間の大切さ、それを日本教育は、どこでも教えていない。一緒にいるのは素晴らしい。みんなと一緒に物事をやるのはそれが一番と、そればっかりやっていて、実際は、学校とか会社の中で大切ないい人物になるためには一人でいろんな備えをしなければならない。それの大切さをこれからの教育の中で教えてもらいたい。

〈教育改革への危惧〉
 日本のアメリカ化ということで、文部省の方向に危惧を持っている。日本の学校教育のアメリカ化、娯楽施設化は問題だ。義務教育は基礎・基本をちゃんと教えることでいい。アメリカと日本は違う。アメリカは、面積が日本の23倍、資源、軍事力など違う。日本の特質は基礎学力にある。ネジをちゃんと巻くなど日本の工業製品の信頼はそこから来ている。基礎学力の高さが日本の特質だ、それを保ちながら人間性を高める。それが大切ではないか。
  〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 教育改革国民会議の最終報告が12月22日出された。奉仕活動の義務化についてはトーンダウンしたが、教育基本法の見直しや道徳教育の教科化、不適格教員・問題児童の学校からの排除等、社会が変化していく中で、問題を国家主義的な方法、村社会の解決方法で乗り切ろうとするものだ。この話を聞いてそう思った。
 お薦めの本−村上龍「希望の国のエクソダス」(文芸春秋1517円)、ピーター・フランクル「ピーター流らくらく学習術」岩波ジュニア新書。
(2001/1)

「中国における国旗・国歌と教育」

AS
 先日、歴史学会で「中国における国旗・国歌と教育」というテーマの講演を聴きました。中国における「国旗」・「国歌」の歌詞内容・教育内容・その変遷・法制化などについて、中国に交換教師として赴任した講演者が、研究されたものである。
 講師は、中国国歌は抗日戦争から歌い継がれてきたものであるが、1978年から82年頃毛沢東を褒める歌詞に変わり、現在は元の歌詞に変わっている、国歌といえども変わるものであると述べました。
 また、国旗法の制定・国旗の昇降儀式を厳格に教育現場で行うように求めた通達が出されたのは、1990年である。中国では、1989年に天安門事件があり、共産党政府は危機感を強めた。中国において「国旗」の法制化は、そのような政治的影響によるものと思われると語りました。
 日本の状況を考えると、1999年5月24日「周辺事態法・改正自衛隊法・改定日米物品役務相互提供協定」、いわゆる「新ガイドライン関連法案」が制定されました。1999年8月10日、自自公政権の下で「日の丸」・「君が代」が法制化。2000年1月には「憲法調査会」が第147国会で設置。また、2000年5月、神道政治連盟国会議員懇談会において森首相は「日本の国は天皇を中心とする神の国であるということを国民にしっかり承知していただく」と発言しました。このような流れを見ると、「国旗」・「国歌」の法制化は、極めて政治的な意図が感じられます。
 昨今の微妙な情勢の下で、「国旗」・「国歌」の強制が持つ意味を、極めて簡潔に示した講演でした。
(2000/5/26)


「西尾幹二『国民の歴史』をどう批判するか」

AS
  2000年2月26日、尼崎市立労働福祉会館でおこなわれた、大阪哲学学校が主催する上記シンポジュウムに参加した。当日は、季節はずれの雪が激しく降って、阪神尼から歩こうかバスで行こうか迷い、結局歩いた。藤田友治氏の「魏志倭人伝は歴史資料に値しないか」という講演と、上杉聰氏の「自画像を隠した『国民の歴史』」の講演の後、質疑応答・意見表明があった。
 藤田は、定時制高校の教師であり、日本古代史の研究家である。好太王碑文の改竄はなかったという研究や三角縁神獣鏡の研究、天皇陵の発掘促進の活動をしている。西尾の『国民の歴史』の「7魏志倭人伝は歴史資料に値しない」について、歴史家の立場から杜撰な記述を克明に批判した。私は、日本史について、専門的なことはよくわからないが、要するに西尾の文章は、思い込みによって書かれたものであり、歴史書、ましてや歴史教科書のパイロット版とは到底いえないものであるらしい。藤田は、陳寿の撰した「三国志」は、中国の24史の中でも著述は優れており、良書といわれ評価が高い。陳寿も権力者におもねることのない人物であり、西尾の陣寿批判は根拠がない。また、「魏志倭人伝」は、日本について好意的にかかれていると語った。
 関西大学の上杉は、『国民の歴史』について、「1.「歴史・書」として未成立(a)「書」としての体をなさず(b)あまりにも幼稚な主張。2.他文明への尊敬の欠如。3.西尾氏が企図した歴史の構想。4.『国民の歴史』が隠した天皇制の秘密。5.正面から表明しないだけの『アジア蔑視』。6.言い訳の『アジア開放論』。7.国際法への無知と懐疑」 について講演した。結局、西尾は、歴史書をかけなかった感想文である。特に、後半暗くなる。なぜ、こんなに日本について自信がないのか。ナショナリストとして立場がない。読み進むうちに笑いころげ、最後は時間を浪費し後悔したと述べた。
 西尾の『国民の歴史』は、新日本ナショナリズム運動の仲間の藤岡信勝や秦などからも見放されている。あまりにも稚拙な失敗作であり、彼らの運動にマイナスであるようだ。
 この集会には、40数名が参加していたが、年配の方が非常に多かった。若い人はほんの一握であった。もっと、若い人に参加してほしいテーマであった。
 大阪哲学学校のホームページ、
http://www3.justnet.ne.jp/~tetugaku-gakkou/WELCOME.HTM
(2000/2/26)



「高校教育改革」

T.文部省の考える高校教育改革

 
 中央教育審議会は、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第1次答申を96年7月に、第2次答申を97年6月におこなった。第1次答申と第2次答申では、スタンスが異なる。前者が総論的であるのに対し、後者は各論である。どちらかというと第1次答申の方が、格調が高い。また、第1次答申は、「高校教育の多様化」という言葉を1度しか使用していないのに対し、2次答申では、「中等教育全体の多様化・複線化、あるいは多線化」という言葉を多用している。本章では、第2次答申に沿って文部省の考える高校教育改革について考察する。
 
1.高校教育の複線化
 
 第2次答申は、教育の目標を「個性的な人材や創造的な人材を育成することは、我が国が活力ある社会として発展していく上で不可欠である」と述べている。グローバル経済社会において有為な人材を、あらゆるチャンネルを通じて養成するという考えである。さらに、「優れた才能を持った子どもたちの学習を豊かなものとしていくことを考えるときには、同時に、学習の進度の遅い子どもたちや、様々な試行錯誤をしたり回り道をしながらじっくりと学んでいくことを志向する子どもたちについて、個に応じた指導を行うなど、十分な配慮をしていくことが求められる」と述べている。 これを、文部省の寺脇研は、「十四期の改革提言は、専ら、偏差値輪切りの結果、低いランクづけをされた、高校へ行かされている生徒達に配慮したものでした。いわゆる『エリート』とは言われない子供達のための改革だったのです。」(『21世紀へ教育は変わる』)と言っている。また、「そして今回の第十五期中教審では、『公立の中高一貫教育』や『数学と物理の分野に限定した大学への飛び級』が打ち出されました。今回だけを見ると『エリートを優遇する事ばかり言っている』と批判されますが、十四期中教審以来今まで十年近く『受験学力でいえば真ん中よりしたの層をどうするか』を一生懸命やってきたのです。それが軌道に乗りつつある今、個性重視のひとつとして『飛び級』があってもいいのでは、ということなのです」(同)と述べている。基本的には、「普通科単位制高校」・「公立中高一貫校」や「飛び級」を通じ、日本の経済社会に有為な能力・個性を持った人材の早期発見、育成を構想し、「できない子」用に大半の普通科を3年制の総合学科に改組する方針である(コンプリヘンシブ化)。もちろん総合学科も、優れた才能をもった生徒の発見・育成をおこなうから、そのような生徒の大学進学は、以下に述べるように可能である。
 
※寺脇研氏 … 現生涯学習振興課長。職業教育課長当時、総合学科を中心になり推進した。  
※第2次答申は、「公立の中高一貫校」について、(a)普通科タイプ(b)総合学科タイプ(c)専門学科タイプの3タイプを上げているが、基本的には、普通科タイプを考えているようである。
※「飛び入学」に関して、日本数学会が、「早期の大学入学より大切なのは人間としての知識・教養のバランスのとれた成長である。むしろ高校で大学の研究者と接触できる制度を整え、進学先を選択できるようにすべきだ。」と反対表明したが、同感である。
 
 個性重視・才能重視の考え方は、「経済構造が変化し、社会の価値観が多様化するなど、我が国社会が先行き不透明な変化の激しい時代を迎えるということを考えると、18歳の時点での試験の合否は、もはやかつての程の大きな意味を持たないようになり、その後の人生においていかに学び、真の実力を身に付けていくかが重要になってくるということを強調した上で、以下、具体的な提言を行う」として、大学入学者選抜の改善を述べている。特に、アドミッション・オフィス(A・O)の整備を提唱している。
 進学率の上昇と生涯学習需要の高まりに伴い、大学の役割は、「より幅広い層の国民に対し、それぞれの関心や意欲に応じてその能力を十分伸ばしていくための多様かつ充実した教育機会の提供」(大学審答申)が一層重要となっていくのである。しかし、「企業内の能力主義が徹底し、社会にも能力を重視する意識が浸透する」(第2次答申)社会では、個性・能力を中心とした競争は一層激しくなっていく。
 80年代半ばの重厚長大型産業のリストラは、大量の失業者を生み出した。最近の第三次産業のリストラも大量の失業者を生んでいる。これによる、社会の変化は、貧富の差の拡大による、犯罪の増加である。個人の変化は、勤勉、まじめに働けば良い暮らしができるという労働観の崩壊である。また、年功序列型賃金や終身雇用制の動揺もそれに拍車をかけている。そこでは、労働の移動が、必然的に起こるから、新しい労働観が、必要となってくる。つまり、自分の置かれたその位置で、自分の生きがいを見いだしていくという価値観である。
 そして、教育の目標を、労働の移動(職場、仕事の移動)をスムーズに行うことに置く。つまり、現状の中で、自分の生き方を見出す人間を育てることを目標にし始めた。これに対応する言葉(高校教育改革に関する答申類に使用されている言葉)は、「個性の尊重」、「多様な価値観」、「違いを認める」などである。寺脇は、「自分ができること、自分にしかできないことというのがあって、それで生きていく、自分なりに世の中の役に立てばいい、という発想がもてる教育をしていけばいいと思うのです」。そして、「将来、全体の六割が総合学科、二割が普通科、残り二割が専門科になる」(同)と述べている。
 
現行の教育制度

 国私立
  中
  高
  一
  貫
  校
(パブリック
  ・スクール)

 
 

3年制高校
普通科進学校(グラマー・スクール)

 

3年制高校
その他普通科
(モダン・スクール)

 

3年制高校
職業科
(テクニカル・スクール)

 


       3年制中学校


 
 
[太枠はエリート校、( )は、相当するイギリスの学校名称]
 
文部省の考える教育改革

国私立
 中
 高
 一
 貫
 校
(パブ
リック
・スクール)

 



 

 公立
  中
  高
  一
  貫
  校

普通科タイプ
総合学科タイプ
専門学科タイプ
 
 

3年制高校
普通科
進学校
(グラマー
・スクール)
 

普通科
単位制
高校



 

3年制高校
普通科
その他
(モダン
・スクール)
 

3年制高校
総合学科
(コンプリ
ヘンシブ
・スクール)
 

3年制高校
専門学科
(テクニカル
・スクール)

 


         3年制中学校




 
 
[太枠の中高一貫校と普通科進学校・普通科単位制高校は、エリート化。細枠の普通科と総合学科は、従来の普通科高校]

U.高校教育改革
 
1.総合学科
 
 偏差値教育の打破やいじめなど、今の学校教育の問題を解決するための教育改革は、早急に必要である。総合学科は、有効な一つの方法である。しかし、中高一貫校や普通科単位制高校などエリート校を残したままでは、解決しないであろう。原因の根本は、経済成長(経済のグローバル化)であり、それが持つ拝金主義である。「何でも金」という社会を変えなければ、総合学科が謳う偏差値教育の打破やいじめ・不登校・少年犯罪は解決しない。そのためには、健全な地域経済社会の復活しかない。それは、イギリスにおけるサッチャー政権の改革の失敗が、物語っている。
 
※映画「ブラス(Brassed Off)」(1996年、イギリス)は、サッチャー政権の実施した経済政策により、地域社会が崩壊したことを鋭く描いている。サッチャーは、「世の中には、ガバメント(政府)・ファミリー(家族)とインディビジュアル(個人)しかない」とソーシャル(地域社会)を否定し、強力な中央集権国家を築くことを目指した。
 
2.学級崩壊
 
 現代の教育病理の原因は、偏差値教育であり、受験競争の激化である。夜遅くまで有名進学塾に通う小学生。小学校高学年になれば、塾に行かない子は遊び相手がいなくなる。また、受験競争による過度のストレスはいじめに発展する。最近、小学校高学年において「学級破壊」という現象が起きている。『臨床教育学の小窓から』(まつざき あおい『まなざし』)によると、「授業のレベルが低いといってクラスの仲間を引き連れて教室を出ていき、『俺が教えたる』といって校庭で授業をしたり…、…授業中ウォークマンを聞く、ハイパーヨーヨーで遊ぶ、おやつを食べる、ゲームをすると何でもありのクラスの核になったのは、いづれも大手進学塾での学業優秀児である。神戸だけの現象かと思ったら、東京でも中学受験を控えた『学業優秀児』が荒れてクラスをかきまわすケースが増えているようだ。…いじめている子は大抵、大手進学塾の優等生であり、いじめられているのは塾にいっていない学力の低い子どもだという。私学受験をして、それぞれが希望の学校に入れるのならまだしも、半数以上が落ちるという現実があるのだ。この『落ち組』が中学に行ってさらに悪質ないじめをしている」と述べている。
 
3.初等・中等教育改革への批判
 
 学校教育・教育社会の現状を考えるなら、いまなんらかの改革が必要であるということは言うまでもない。しかし、問題はなにをどのように改革するかである。『教育改革』(岩波新書)で藤田英典は、「企業活動・経済活動にベンチャー性や創造性が問われているとしたら、それに対応する責任と必要性はむしろ企業や政財界の側にある。学校教育が、そういった個性・能力を伸ばすのではなくて、企業自らが、労働者の持つ潜在的な適応力・創造力を生かし、あるいは、引き出すことができるように自己改革することにある。早い段階から専門化したり、先端的な知識・技能の教育を重視することは、“能力の浪費”を招きかねないだけでなく、基礎学力、基礎教養の低下を招く恐れがある。さらに、…それは、政策担当者が行う社会的選択としては、きわめて無責任で危険なものと言わざるをえない、なぜか。それは、これまでの考察からも示唆されるように、初等・中等教育が生活道路のような社会的インフラだということを見落としているとしか考えられないからである。たとえていえば、現在進められている改革は住宅街やオフィス街の真ん中に高速道路をつくるようなものである。しかも、その高速道路は高架式ではない。というのも、高架式にすることには、初等・中等教育の場合、構造上無理があるからである」と教育改革を批判している。
 
4.教育改革はリージョナリズム
 
 受験競争・偏差値教育の弊害は、誰もが認めるところであり、「学歴社会から学習歴社会への転換」というスローガンは受け入れられやすい。しかし、この変化は、知識量を競争することから、個人の生まれながらに持つ能力や個性を伸ばし、それをグローバル企業がどう評価するか競うという変化であり、より深刻な競争になる虞がある。
 アメリカ政府は、ペリー以来日本政府に市場開放を要求しているが、ここ数年は、規制緩和(特に金融・証券・保険の自由化、大店法の改正など)を要求している。これらは、アメリカの多国籍企業の要求ではあるが、日本の多国籍企業も国民経済を解体してグローバル市場を確立するという目的は同じであるため積極的に応援している。例えば、銀行や証券系のシンクタンクの専門家をマスコミ(商業新聞や商業放送)に登場させ、これらの規制緩和が如何に国民経済にメリットがあるかを、繰り返し繰り返し述べさせいる。しかし、大規模店舗法についてアメリカの例を見ると、規制緩和は、地域社会を破壊し、雇用を奪い、消費者価格も思ったほど下がらず、メリットよりデメリットの方が多そうである。
 教育も然りである。教育における規制緩和が及ぼす影響を考えて、教育改革を行わなければならない。「21世紀を展望した我が国の教育の在り方」を考えると、グローバル経済化の要請による教育改革は、現在の社会を大きく変化させる可能性がある。今までの日本の教育制度は、単線型であり、それが戦後民主主義のベースとなった。第15期中教審は、「形式的な平等の重視から個性の尊重への転換」を打ち出した。それは、現行の教育制度の柔軟化・弾力化とともに、複線化構造を指向している。つまり、総合学科、普通科単位制高校・中高一貫校や飛び級制といった教育制度の複線化は、形式的な平等を阻害する可能性がある。当局は、高校教育改革の中で総合学科、普通科単位制高校をどう位置付けどの程度設置しようとしているのか、同じく、公立の中高一貫校と飛び級をどう位置づけ実施するのか。これを見極めることで当局の意図が、判明すると思う。
 大切なのは、高校教育改革は、社会改革であり、その点から考えるということである。私たちが目指す教育改革は、グローバリズムに対抗するリージョナルな視点を持った共生社会を目指すものでなければならない。
 
V.民主的学校作りと教育改革
 
 新しく、総合学科などを導入する学校に於いて、ほとんど教員の声を無視した形で導入の決定が強行された例がある。そのような学校では、強引なやり方で決定されたことに対する反発が強く、多くの教員が投げやりな気持ちになっている。このような状況を、教育改革というのだろうか。トップダウン方式の改革は、混乱を招くだけであり、結果的にいいものができない可能性がある。教職員の意思を尊重し、現場から改革を作り出すことが大切である。
 この度、98年9月の「今後の地方教育行政の在り方について」(中教審答申)は、「小中学校、高校などの職員会議を校長の補助機関と位置づけ、校長を補佐するスタッフの拡充のため、主任制を抜本的に見直す」という内容の答申を行った。本県においては、これを、先取りするかたちで、83年に「職員会議に関する規程の整備について」という通知が、出された。県教育長は、「職員会議の規程のない学校や内容の不適切な学校が見受けられる」として、「1.職員会議の性格は校長の職務遂行上の補助機関であるということが明確にされていること。2.校務運営に関する校長の決定権が明示されていること」を指示した。その結果、全県的に職員会議規定の改悪が行われ、校長が独善ですべてを決済できる体制となった。その後、90年度に「高塚高校校門圧死事件」・「県農業高校入試改竄事件」などが起こったことは、記憶に新しい。現在、高校現場では、組合の組織率が低下し管理職に異を唱える者が少なくなり、黙々と働く教員が増えている。このような学校で、生徒の権利・自由は、守られるのだろうか。教員が孤立化し、自分のいいたいことをいえなくなるということは、教育、ひいては市民社会の危機でもある。
(1998,11)

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