その19、別冊・光ある未来
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あれから何年たったのだろうか。
私は、今日65歳で定年退職を迎える。
自分でも良くやったと思っている。世間でよく言う、こんな自分を誉めてやりたいってやつか。
最後の1日の、仕事が終わり職場の皆からささやかではあるが心のこもった、お別れ会をひらい
てもらった。
ビールをコップで2杯ほどしか飲んでいないのだが、少しいい気分になっている。
そして会社を後にした。これが最後だと思うと少し寂しい。家では妻が待っているのだが、この
まま帰る気にはなれない。
足は自然と、昔少し通った事のあるあの居酒屋に向いていた。最後に行ってから10年はたっ
ているかもしれない。いま思い出してみると不思議な店であった様に思える。目つきの鋭い男達。
何か秘密の匂いを持ったサラリーマン、そして何よりもやさしかった美人ママ。
そうだあの声をもう一度、聞きたい。駅を上がって商店街を歩き出した。
(確かこの角を左に曲がって4,5件目だったはずだが)
あった。まだ無くなっていなかった。(すみませんと神の声)
ほっとした気持ちと同時に、ママはまだいるだろうかとの思いも少し心の隅の方に浮かんでい
た。暖簾をくぐり扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
男の声が帰ってきた。
カウンター内には男が1人、2人の客を相手にしゃべっていたが私の方に向き頭をさげた。
やはり、ママはいなかったか。そうかあれから何年も立つのだ、世の中も移ろうだろう。
「ビールをください」
「はい、少しおまちください」
なぜかその男は裏口の方を見やりながら、一寸困った顔をして又、客の方に視線を戻した。
(どこかで見たことがあるような男だな)
前に座っている2人も見覚えがある。1人は色が真っ黒で髯が目立たないほどだ。もう1人は
髪の毛が・・・
その時、裏口があいて手に袋を持って1人の女性が入ってきた。
「ごめんね。七陸さん、留守番たのんじゃって」
「なんのなんの。そうや1人、お客さんがきはったで」
といいながらその男は2人の客の横に戻った。
入ってきた女性、ママは私の方を見ながら手にもった玉子を見せ
「ちょうど玉子がきれたものだから」
そうして再び私の方を振り向き、前と変わらないやさしい声で
「いらっしゃいませ」
と笑顔でビールを抜いてくれた。
ああ、何一つ変わってはいない。変わりはしない。
その19、終わり
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