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五、人斬りにあらず
この時代、人斬りと呼ばれている男達がいた。
薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵、肥後の河上彦斎の三人が有名である。人によっては薩摩の
中村半次郎を加える事もある。最も本人達がそう呼ばれるのを、承知していたかどうかは不明では
あるが。
さて三人の中では河上彦斎を除き、早い段階で非業の最期をとげている。それぞれに逸話が数多く
あるのだが、今回は彼らの敵である新選組の中で、人斬りと呼ばれた男の物語である。
大石鍬次郎。
新選組を扱った色々な書物のなかで、この男を誉めて書いてあるのをあまりみない。
同じ人斬りでも田中新兵衛などは、大概男らしく描かれている。薩摩隼人(私はあまり好きではないが
)ということもあるだろうし、最後が何も語らずに自刃したと言う潔さと言う事もあるのだろう。
さて鍬次郎、新選組初期の頃から参加して、最後は函館戦争まで土方らと行動を供にしている。
池田屋事件を始め、三条制札事件、油小路事件、花屋町天満屋事件と新選組が関係した事件には
ほとんどかかわっている。但しそれは永倉や原田、斎藤といった他の隊士達にもいえることであって
鍬次郎に限ったことではない。鍬次郎を人斬りと呼ぶなら新選組全員が、人斬りの集団といえるの
ではないか。
それに新選組の掟である局中御法度による、隊士の切腹時の介錯などにもあまり立ち会っていない。
どちらかというと、役目である浪士取調役による、不貞の浪士たちの捕縛、検挙などの方で活躍していた
と言う節がある。まあ当時の警察機動隊としては当然のことではあるが。
鍬之助の名前が始めにでてくるのは、土佐藩士を相手にした三条制札事件の頃からと思われる。
鍬之助はこの時は目付けとしてたちあっている。戦闘には参加していない。
伊東甲子太郎ら十五名がいわゆる御陵衛士として、隊を離れたのは慶応三年三月十日であった。
そのあとすぐに幕府より新選組隊士全員、正式に天下の直参としてのお達しが下った・
そのことを不服として会津守護職へ申したてた者達があった。斎藤一が伊東達に対する間者であった
のに反して、新選組に残った者たち。
佐野七五三之助、茨木司、中村五郎、富永十郎の四人である。その他に彼らに同調して行動を
供にした高野良右衛門、松本俊蔵、小幡勝之進、松本主税、町田克巳、中村三弥の六人の若侍たち。 彼らが大挙して京都守護職屋敷に向かったのは、慶応三年六月十四日のことであった。
その知らせを会津の公用人の、小野権之丞からうけた土方は沖田総司、原田左之助、大石の三人
を従え屯所を出た。
このあと、別室に通されていた代表の佐野たち四人は、何事かを悟り自害して果てた。このときの
話として斬りこんだ大石が、佐野の死体に切りつけて辱めたとかいう事がよくでてくるが大石は
そこまで偏執狂であるはずがない。人を殺害する時は必ず参加したと言われるが、浪士調役ならば
これも当然の事。但しこのあとの十一月十八日の夜、木津屋橋の近くで伊東甲子太郎を斬り殺害
したのは、間違いなくこの男である。
五、人斬りにあらず、
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