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四、最後の隊士
東京都日野市にある、高幡山金剛寺不動堂に今も、自然石で出来た碑がたっている。
そこには「殉節両雄之碑」と刻まれている。近藤勇と土方歳三の招魂のために、二人にゆかりの
ある人たちによって立てられた。筝額は元会津藩主・京都守護職の松平容保、書は松本良順、撰は
大槻清崇と伝えられている
昭和になってすぐぐらいのある冬の日、その招魂碑の前で佇んでいる一人の老人がいた。
男の名は井上泰助。新選組最後の一人である。
六番隊隊長の井上源三郎の甥で、近藤勇の小姓を勤めていた。入隊した時は十一歳の幼さで
あった。
明治元年の一月の、鳥羽・伏見の戦いでは幼いながらも戦いに参加した。
三日の昼に本陣となった奉行所の集会所で、沖田、永倉、原田達が一団となって酒を酌み交わし
ていた。その頃、薩・長軍の方では御香宮という、杜のある山の上に陣をはり薩摩の部隊が、大砲を
引き上げ攻撃の準備をしていた。
夜になってその大砲群がうなりだした。新撰組の方も唯一の大砲で応戦したが、位置関係もあり
全然相手にならない。そのうち土方の命令で、永倉率いる二番隊が切り込むことになった。
永倉は島田魁、伊東鉄五郎らとともに、薩軍の陣に向かって攻撃を開始した。始めのうちは新選組の
勢いに押されて、薩軍もたじたじとなったが、そのうちに薩軍の銃の、一斉射撃のものすごさに、
永倉達は次第に押されだし、退却をはじめた。
このときのエピソードとして、永倉の武装が重くて土塀を登れなかったのだが、伍長の島田が塀の
うえから、銃を差し伸べて永倉をもちあげたといって、その腕力のすごさにその場にいた、全員が
驚いたという話がある。
新選組は、林権助率いる会津兵。佐々木只三郎率いる見回組、幕府の歩兵隊とともに薩摩、長州
連合軍と激しく戦ったが、人数は幕軍の方がが五倍の、一万五千と圧倒的に多かったのにも
関わらず、薩・長連合軍の大砲と銃の性能と数の差で段々と押されだし、結局は大敗し大坂城に
向かって引き上げた。
その最中に山崎蒸、青柳牧太夫、伊東鉄五郎、池田小太郎ら、壱拾数名が命を失った。
近藤、土方、沖田と同門であった、井上源三郎が鉄砲に撃たれ倒れたのもこのときであった。
井上は腕のほうは沖田達よりは劣ったが、朴訥な性格で近藤の弟子という立場をとり続け、組内
にあっては六番隊の組長を務めていた。
この日は永倉と供に、隊士二十名が最後の突撃をおこなった。
「井上さん、敵の射撃が激しくなってきゃがった。」
永倉は塹壕の影に身を伏せながら大声でさけんだ。
「うん、これが最後の突撃となるだろう。」
井上はいつも通りの、落ち着いた調子で返事をかえした。
近藤はこの少し前に、伊東甲子太郎の残党である篠原達に襲撃され、傷を負い大坂城で静養中
であり、沖田も持病によりすでに戦いに、参加できる体ではなかった。
井上は後ろをふりかえり、甥である泰助に
「なるべく、わしから離れるなよ。」
と念をおした。本当は戦場には連れてきたくはなかったのだが、泰助がどうしてもというので
仕方なしに連れてきた。近藤の小姓役で合った泰助にとっては始めての実戦であった。
無言でうなずく泰助を見ながら、いまさらのように後悔する井上源三郎。
「いくぞ。」
永倉の掛け声で全員がとびだした。弾の間をかいくぐり、長州兵に向かって刀を振りかざし、
切り込んだ。
その凄まじい切り込みに、長州兵は算をみだしくずれはじめた。泰助も必死で刀をふりまわし、
一人の長州兵を切り倒していた。もうこの辺がそろそろ限界かと、井上源三郎は永倉に声をかけよう
と目で永倉を探した。そのとき井上の目に、泰助を銃で狙っている長州兵の一人が入った。
「・・・・。」
声にならない叫びをあげながら、井上は泰助の前に飛び出した。
「ズダ−ン!」
銃声がひびき井上源之助がたおれた。
「先生、せ・・・おじさま!」
泰助が駆け寄った時はすでに、井上は即死状態であった。
永倉がその長州兵を切り捨てた時、凄まじい長州兵の一斉射撃がはじまった。
「全員、ひきあげだ。」
永倉は生き残った隊士に声をかけ、泣き叫んでいる泰助に
「泰助、井上さんの首を落としてもってかえるのだ。敵にとられるな。」
と言った。
泰助は井上源三郎の首を落とし、腰にぶらさげ引き上げようとしたが、途中でその重さに耐えかね
無念の思いで田の中に埋めた。
この戦いの後、故郷の多摩に帰り、天然理心流の修行に励み昭和二年二月十日、日野の実家で
生涯を終えた。
(激録・新撰組 原康史・参考)
最後の隊士、おわり
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